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第8話

作者: ピッタリさん
若葉はさらに2日間入院した。会社からはひっきりなしにお見舞いの人が来たけど、あの日病室を出ていった翼だけは、全く顔を見せなかった。

連日お見舞いに来てくれた静香は、翼が来ないことに腹を立てていた。

「若葉さん、あんな連中のせいで顔にひどい怪我までしたのに、どうして嘆願書になんてサインしたの?」

それを言われ、若葉は力がぬけたように笑いながら、翼に返してもらった懐中時計を撫でた。

「山田さん、もうそんなことはどうでもいいんです」

静香は一瞬きょとんとしたが、すぐに若葉の言いたいことを察したようだ。

「そうね。どうせ、もうすぐここを発つんだものね」

その時、ドアの外から翼の声が聞こえた。その声は、なぜかひどく慌てていた。

「発つ?どこへ行くんだ?

若葉、出張でもあるのか?」

静香は、翼が何も知らないことに驚いて、思わず彼の方を見た。

でも若葉と目が合うと、すぐに彼女の考えを理解した。

「ええ、そうなの。彼女は、もうすぐ出張に行くことになってるのよ」

それを聞いて翼はほっと息をついた。彼が何かを言いかける前に、車椅子を押していた薫が口を挟んだ。

「若葉さん、嘆願書のこと、ありがとう。

私、とっても怖かったの。だから翼さんが慰めるために、K市に海を見に連れて行ってくれるって。綺麗な貝殻、お土産に持ってくるね!」

彼女は無邪気で明るい口調で、それが自慢だと気が付いていないようなふりして言った。

翼は軽く咳払いをすると、まだベッドに横になっている若葉に目を向けた。

「若葉、君も体が良くなったら、海へ連れて行ってあげるよ。

安心して。旅行は3日間だけだから。帰ってきたら、結婚の準備をしよう」

静香は呆れて、何か言おうとしたが、若葉に腕を引かれて口をつぐんだ。

「行ってらっしゃい。楽しんできてね」

若葉の言葉を聞いて、翼もずいぶん気が楽になったようだった。

「若葉、なんだか前より物分かりが良くなったな」

若葉はただ微笑むだけで、何も言わなかった。

物分かりがいい?

泣きも喚きもせず、翼に八つ当たりすることもなく、彼と薫のすることに無関心になったのは、ただ愛が冷めてしまったからだ。

これから赤の他人になる男のために、自分の感情をすり減らす必要なんてないから。

それに、自分だって、もうすぐここを離れるのだ。

翼は事故の後ずっと自分の家に住んでいた。彼がもう少し気を配っていれば、自分がすべての荷物をまとめ終えていることに気づいたはずだ。

そして、あの家もすでに静香に頼んで、売却の手続きを進めてもらっている。

旅立ちの日、若葉は朝早くに退院手続きを済ませた。

運命のいたずらのように、翼と薫がK市へ出発するのも、ちょうどその日だった。

薫は新調したワンピースを着て、翼から贈られたアクセサリーを身につけていた。かつての田舎くさい雰囲気はもうどこにもなかった。

彼女は玄関に立つ若葉を、勝ち誇ったような目で見下ろして言った。

「あなたじゃ私には勝てないわ。

翼さんは私が好きなのよ。立場をわきまえて、自分から身を引いたらどう?

さもないと、あなたを死ぬほど辛い目にあわせる方法なんて、いくらでもあるんだから!」

薫の脅し文句を聞いても、若葉は馬鹿馬鹿しいとしか思えなかった。

「相手に婚約者がいるって分かってて、割り込んでくることがそんなに得意気なの?」

それを聞いて薫は悔しそうに足を踏み鳴らした。「でたらめ言わないで!割り込んだりしてないわ。私と翼さんこそが、本当の愛で結ばれてるの!

知らないでしょ?翼さんはとっくに言ってたわよ。あなたのあの生気のない顔を見てると、気分が悪くなるって!」

だが、若葉はもう、そんな心ない言葉で傷つくことはなかった。

確かに自分は内向的だけど、それは今に始まったことじゃない。

昔はそんな自分を好きだと言っていたのに、今は嫌いだなんて。それはただ、翼が心変わりしただけだし、彼がクズなだけで、自分の性格とは何の関係もないはず。

それに、嘘をついてでものし上がろうとする見栄ぱっりな薫と、心変わりを認めようともしない恩を仇で返すような翼はまさにお似合いのカップルじゃないか。

若葉が悲しむ様子を見られなくて、薫はなんだかすっきりしない気分だった。

彼女がまだ何か言いたそうにしていると、翼が急かしてきた。

「薫、荷物の準備はできたかい?忘れ物はないようにね」

薫はもう一度若葉を睨みつけると、不満そうに口をつぐんだ。

車椅子で出てきた翼は、ドアのそばに寄りかかる若葉を見て、突然優しく言った。

「若葉、病院で安静にしてなくていいのか?わざわざ俺たちを見送るために退院してきたのか?」

若葉が答える前に、彼は自分勝手に話を続けた。「そうか。それなら、君が俺に折れたってことだな。

若葉、家でおとなしく待ってるんだぞ。薫の気晴らしに付き合ったら、すぐに帰ってきて君と結婚するから。

そうすれば君は俺の妻だ。養子を二人もらって、幸せに暮らそう」

翼の口調は、未来への希望に満ちていた。

しかし若葉は、これまでのことを思い出し、ただただ不愉快な気分になった。

二人の後ろ姿を見送ると、彼女も部屋に戻り、とっくに準備してあった荷物を取り出した。

翼が帰ってきて結婚するのを待つ?養子を二人もらうのを待つ?

もう、そんなのはごめんだ。

男なんて他にいくらでもいるし、自分だって子供産めるんだから。

若葉はすべての真相を知った瞬間から、彼と別れて互いが別々の道を進むことを決めてたのだ。

ほどなくして、駅のホームで、南へ向かう電車と北へ向かう電車が、ゆっくりと離れていった。

そして自分もまた、翼から遠く離れ、二度と会うことはない運命になるだろ。
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