All Chapters of 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く: Chapter 91 - Chapter 100

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91:数字の違和感

 深夜2時。黒崎家の書斎は静まり返っていた。ただの静けさではない、緊張感が漂っている。重厚なデスクの上には、膨大な書類の山が築かれていた。  隼人は万年筆を指の間で回しながら、眉間に深いしわを刻んでいた。「……数字が合わない」 彼の手元にあるのは、先日買収したばかりのホテルチェーン『グラン・ホテルズ』の月次決算書だ。  稼働率は悪くない。客単価も上昇傾向にある。だというのに利益率が異常に低い。まるで底の抜けたバケツに水を注いでいるようだ。(現場の怠慢だ。従業員が無駄な動きをしているに違いない) 隼人は冷ややかな目で、手元の「人件費削減計画書」に視線を落とした。(リストラだな) リストラ、それは最も即効性のある劇薬だ。全従業員の3割をカットすれば、数字上の黒字は確保できる。痛みは伴うが、腐った組織を再生するには外科手術が必要だ。  彼は赤いインクのペン先を、リストラ候補者リストの上に滑らせようとした。 その時、音もなくドアが開いた。ノックの音さえ聞こえなかった。「失礼いたします、旦那様」 小夜子だった。彼女は湯気の立つトレイを持ち、静かにカーペットの上を歩いてくる。  夜食の出汁茶漬けと濃いめの緑茶がトレイに載せられて、湯気を上げていた。。夜遅くまで働く主人のための配慮だった。「……まだ起きていたのか」「明日の準備をしておりましたので」 小夜子は書類の山を崩さないよう、デスクの僅かな隙間にトレイを置いた。  出汁の優しい香りが、殺伐とした書斎の空気を和らげる。 隼人はペンを置いて茶碗に手を伸ばした。  小夜子は一礼して下がろうとする。だが、その足が止まった。彼女の視線が、隼人がチェックを入れていた「経費明細書」の一点に釘付けになっている。「あの、旦那様」「なんだ。俺は今、忙しい」 隼人は茶漬けを口にしながら、不機嫌に応じた。「大変失礼ですが、その数字……見間違いではありませんか?」「何?」「そちらの『リネ
last updateLast Updated : 2026-01-06
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「シーツ一枚のクリーニング単価が80円……? あり得ません。いくら高級ホテル仕様とはいえ、これほどの大口契約なら55円、高くても60円が相場です」「……は?」 隼人は箸を止めた。「20円の差だぞ。誤差の範囲だ」「20円を甘く見てはいけません」 小夜子は真顔で反論した。「ホテル全体の客室数は300室。稼働率80パーセントとして、毎日シーツを交換すれば……年間で数千万円の『誤差』になります。それを誤差と呼ぶのは、あまりに大雑把(おおざっぱ)すぎます」「数千万」 隼人は瞬きをした。確かに、塵(ちり)も積もれば山となる金額だ。だが、なぜ彼女がそんな細かい相場を知っているのか。「なぜ分かる」「実家では、私が業者と直接交渉しておりましたから」 小夜子は遠い目をした。「実家の予算は火の車でしたので、1円でも削らなければ夕食のおかずが減らされました。……私は業者に泣きついて、48円まで下げさせました」「48円……」「48円は仕事を頼める下限の価格です。業者は苦笑いしていました」 隼人は呆気に取られた。この女は、ホテル王である自分よりもシビアな金銭感覚を持っているらしい。  彼は茶碗を置き、電卓と資料を小夜子の前に押し出した。「計算してみろ。他にもおかしな点があるか?」「拝見します」 小夜子は水を得た魚のように、明細書の列を目で追い始めた。その瞳は獲物を探す狩人のように鋭い。「……やはり、変です」 数分後、小夜子が顔を上げた。「洗剤の発注サイクルが早すぎます。この量の洗剤を消費するには、毎日、客室の全てのタオルを3回洗濯しなければなりません」「なんだと?」「それに、この『客室消耗品費』の納入業者……『株式会社・緑風』」 小夜子は記憶のデータベースを検索した。彼女の脳内には、隼人の仕事を手伝うために読み込んだ膨大な企業情報がストックされている。「聞いたことがありません。住所を調
last updateLast Updated : 2026-01-06
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 隼人は舌打ちをし、リストラ計画書をぐしゃりと握り潰した。ゴミ箱へと投げ捨てる。「……見誤っていた」 彼は呻くように言った。「俺は数字のプロだと思っていた。だが現場の数字が見えていなかった。誤った判断で、従業員の首を切るところだったぞ」「お役に立てたのなら光栄です」 小夜子は淡々と答えた。彼女にしてみれば、不正を暴いたというだいそれた気持ちはない。ただ家政婦として「無駄な出費」が生理的に許せなかっただけだ。80円のシーツなど、ぼったくりもいいところだ。「……お前がいなくなったら、俺は困るな」 隼人は椅子に深く座り直し、小夜子をまっすぐに見つめた。その瞳には、初めて見る種類の熱が宿っていた。庇護欲でも、所有欲でもない。対等なビジネスパートナーに向ける、信頼の眼差し。「明日、役員会議に来い」「はい?」「お前の口から、奴らに引導を渡してやってくれ。……俺の『影の補佐官』としてな」 小夜子は驚きに目を瞬かせたが、すぐに深く一礼した。「承知いたしました。……徹底的に、無駄を削ぎ落として差し上げます」 その微笑みは美しい。儚げな小夜子の姿だったが、同時に固い決意も見えた。『無駄は許さない』と。  不正を働く役員たちにとって、明日の会議は処刑台となるだろう。 ◇  深夜の書斎。青白いモニターの光が、隼人の苦渋に満ちた表情を照らし出していた。「……典型的なペーパーカンパニーだ」 隼人は吐き捨てるように言った。  画面には、先ほど小夜子が指摘した『株式会社・緑風』の登記簿情報が表示されている。代表者名は田中由美子。ありふれた名前だ。設立日はわずか半年前。資本金は最低限の1円。実体のない幽霊会社だった。  誰かがこの空っぽの器を通して、『グラン・ホテルズ』の利益を吸い上げているのだ。「俺の目が届かないとでも思ったか」 隼人の拳が、デスクの上で固く握られた。怒りではない。これは屈辱だ。買収した企業の膿(
last updateLast Updated : 2026-01-07
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「いいえ、調査の必要はありません」「なに?」「この電話番号……見覚えがあります」 小夜子は目を閉じて記憶の引き出しを開けた。  そこには黒崎家に嫁いでから彼女が管理してきた、膨大なデータのファイルが整理されている。お中元、お歳暮、昇進祝い、礼状の宛先。数千件に及ぶ「贈答品リスト」のデータベース。  小夜子は実家にいた頃と同じように、夫の人脈をしっかりと記憶していた。「以前、旦那様が『この男は話が分かる』と仰って、昇進祝いの胡蝶蘭を贈られた方がいらっしゃいましたね」 小夜子が目を開けた。「購買担当常務、大塚様です」「……大塚だと?」 隼人の目が驚きに見開かれた。「はい。その際、ご自宅ではなく『姪のマンションに送ってくれ』と指定された電話番号と、この緑風の連絡先が一致します」「姪のマンション……」 隼人は鼻で笑った。姪というのは名目だろう。実際は愛人の住居か、あるいは彼自身の隠し資産を管理するアジトに違いない。  ――大塚。買収時、旧経営陣の中で唯一、隼人に恭順の意を示した男だ。 「御社の合理的な経営方針に感銘を受けました」。そう言って、隼人の提示した厳しいリストラ案にも率先して協力した。だからこそ、隼人は彼を「使える男」と評価し、常務のポストに残したのだ。「とんだ食わせ者だ」 隼人はモニターを睨みつけた。大塚は隼人に尻尾を振るふりをして、裏では会社を食い物にしていたのだ。(俺が「優秀だ」と思って残したエリートが寄生虫で、俺が「道具だ」と思って買った妻が、その罪を暴いている。なんという皮肉だろう)「旦那様、こちらもご覧ください」 小夜子は感傷に浸る間もなく、次の資料を差し出した。大塚が承認した経費精算の履歴だ。「この『会議費』も不自然です。毎週金曜日の夜、高級料亭『松風』で四名……。一人単価が五万円を超えています」「接待だろう。それくらいは許容範囲だ」「いいえ。実家の父もあそこをひいきにしていましたが、あのお店は『お土産』の折
last updateLast Updated : 2026-01-07
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 証拠は揃った。  ペーパーカンパニーへの架空発注。横領。私的流用。被害総額は億単位に上るだろう。隼人は受話器に手を伸ばした。「警察に通報する。業務上横領で逮捕させてやる」「お待ちください」 小夜子が、その手を上から押さえた。ひやりとするほど冷たい手だった。「警察沙汰にすれば、ホテルの信用に関わります。スキャンダルになれば株価も下がりますわ。それでは旦那様の損になります」「……では、見逃せと言うのか?」「いいえ。もっと合理的で、残酷な方法がございます」 小夜子は薄く微笑んだ。その表情は聖女のように美しく、死神のように冷たかった。「社内処分で済ませる代わりに、彼自身に『辞任』と『全額弁済』、そして『退職金の放棄』を選ばせるのです。……社会的に抹殺するよりも、生かして搾り取る方が、アーク・リゾーツのためになります」 隼人は息を呑んだ。彼女の提案は、感情論を排した完璧な「経営判断」だった。「……ああ。お前の言う通りだ」 隼人は受話器を置いた。「合理的で、残酷な方法を選ぼう」 彼は小夜子に向き直り、命令を下した。「明日の役員会議、同席しろ。お前のその『家計簿の眼』で、古狸(ふるだぬき)たちを黙らせてやれ」「かしこまりました」 ◇  翌朝。玄関ホールで、小夜子は隼人のネクタイを結んでいた。  ネクタイはチャコールグレーのシルク。戦場へ赴く王者にふさわしい、重厚な色だ。ノットを締め上げ、襟を整える。その手つきは、鎧兜を着せる従者のように手際が良い。「怖くはないか?」 隼人が尋ねた。「相手は海千山千の古狸だぞ。俺ですら騙されていた相手だ」「いいえ」 小夜子は、ホコリ一つない隼人のスーツの肩を払った。「実家の義母様やお義姉様との『食費を巡る攻防戦』に比べれば、遥かに簡単ですわ」「……と言うと?」「あの家では、理屈も証拠も通用しませんでしたから。……今回は、数字
last updateLast Updated : 2026-01-08
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96:静かな断罪

 アーク・リゾーツ本社、大会議室にて。大きな円卓を囲む空気は、張り詰めて緊張していた。居並ぶ役員たちは皆、これからの議題を息を殺して見守っていた。  定例役員会議が行われている。だが今日議題に上っているのは、通常の業績報告ではない。「……ですから、現場の意識が低いのです」 沈黙を破ったのは、購買担当常務の大塚だった。彼はプロジェクターに映し出された赤字グラフを指し棒で叩き、声を張り上げた。「リネン類の消耗も激しい。洗剤の無駄遣いも目立つ。ここは心を鬼にして、パート従業員の3割を削減し、人件費を圧縮すべきかと存じます」 大塚は自信満々の表情で熱弁を振るっている。自分が裏で吸い上げている経費の穴埋めを、立場の弱い従業員の首を切ることで解決しようというのだ。  上座に座る隼人は頬杖をついたまま、冷めきった瞳で大塚を観察していた。(よくもまあ、ぬけぬけと……) 怒りを通り越して、いっそ感心すら覚えるほどの厚顔無恥ぶりだ。  隼人の斜め後ろには、書記用の席に小夜子が控えている。彼女は手元のノートにペンを走らせているだけで、人形のように静かだった。「社長、ご決断を。痛みを伴う改革こそが……」「リストラの話は後だ」 隼人は軽く手を挙げ、大塚の言葉をさえぎった。「その前に、この数字について説明してもらおう」 隼人が手元のタブレットを操作すると、モニターの画面が切り替わった。  表示されたのは『株式会社・緑風』への発注データと、高値で契約されたクリーニング単価の明細だった。単価は通常のものと比較がされており、ひと目で高すぎると分かる。「……!」 大塚の表情が凍りついた。「シーツ一枚80円。相場の約1.5倍だ。それに、この『緑風』という会社。登記簿を調べたが、実体のないペーパーカンパニーだったぞ」「あ、ああ……それは……」 大塚の額に脂汗がにじみ始めた。だが彼は古参の役員らしく、すぐに表情を取り繕った。「現場の判断ミスでしょう。担当者が、業者にいいように言いくるめられたのか
last updateLast Updated : 2026-01-08
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「失礼ながら、常務」 凛とした声が、会議室の空気に響く。小夜子が静かに立ち上がっていた。「現場のミスではありません」「なんだあなたは?」 大塚が苛立ちをあらわにして振り返った。「社長夫人だからといって、経営会議に口を出さないでいただきたい。素人は引っ込んでいてください」「はい。私は素人ですので、経営の数字のことはわかりかねます」 小夜子は淡々と続けた。「ですが……『お花』のことは、よく存じております」「花だと?」「以前、常務が昇進なされた際、旦那様――社長からのお祝いとして胡蝶蘭を手配させていただきました」 小夜子は手元のタブレットを操作し、モニターに新たな画像を映し出す。当時の配送伝票の控えだった。「その際、常務は『自宅ではなく、姪御様のマンションに送ってほしい』と指定されましたね。……この電話番号です」 モニターに、ハイフンで区切られた数字が浮かび上がる。その横に『株式会社・緑風』の請求書に記載された電話番号が並べられた。  1桁の違いもなく、完全に一致していた。「……姪御様のお名前は確か、田中由美子様……でしたか?」 小夜子が小首を傾げる。会議室がざわめいた。田中由美子は、ペーパーカンパニーの代表者名だ。「まさか、ご親戚の住居が架空会社の事務所になっているとは。……偶然にしては、出来すぎていますね」 言い逃れようのない証拠だった。大塚の顔から血の気が引いていく。  個人的な「姪(あるいは愛人)」の住所と、不正な取引先が繋がってしまったのだ。「そ、それは……記憶違いだ! 私は知らん! 何かの間違いだ!」 大塚は椅子を蹴って立ち上がり、喚いた。「私は由緒ある『グラン・ホテルズ』に30年、先代社長の頃から尽くしてきたんだぞ! ぽっと出の買収者が、こんな小娘の戯言で私を疑うのか! 無礼だろう!」 往生際の悪い怒号が響く。  だが小夜子の眼差しに軽蔑の色はなかった。悪さをして嘘をつく子供を諭すような、静か
last updateLast Updated : 2026-01-09
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 30年のキャリア、その最後がこんな浅ましい嘘で終わるのか。大塚は口をパクパクと動かした後、椅子へ崩れ落ちるようにして座り込んだ。「……辞任して退職金を賠償に当てるか、横領の罪で逮捕か。選べ」 隼人が冷酷に告げる。大塚は震える手で顔を覆った。「……辞任させて、ください。退職金も……いりません」 ◇  会議終了後の社長室。一波乱が終わった静けさの中、隼人は革張りのソファに深く座り込んでいた。「終わったな」 彼は大きく息を吐き出した。「お前のおかげだ。……あの場で、あいつの首根っこを押さえられるのは、お前だけだった」 隼人は立ち上がり、窓の外に広がる東京の街並みを見下ろした。夕日がビルの谷間を赤く染めている。  窓から夕暮れ時の光が差し込んで、彼の美しい横顔を照らした。  そしてふと、普段は決して口にしないような本音を、独り言のように漏らした。「……お前がいなくなったら、俺は困る」 ほとんど無意識の本心だった。  背中で聞いていた小夜子が、顔を上げる気配がする。「ビジネスパートナーとして、それ以上として……」 言いかけて隼人はハッとした。振り返ると、小夜子がキョトンとして彼を見つめていた。「それ以上」とはどういう意味か、純粋に疑問に思っている顔だ。  隼人は慌てて咳払いをした。耳が熱い。「……いや、何でもない。とにかくお前は得難い存在だと言ったんだ」 誤魔化すように早口で言う隼人に、小夜子は嬉しそうに微笑んだ。(ビジネスとして……でも、お役に立てて嬉しいですわ) 彼女は胸の前で手を組んだ。「では、本日の夕食は奮発しましょう。大塚様が毎週召し上がっていた『1人5万円の料亭』のメニューを……私が原価2000円で再現してみせますね」「……2000円でか?」 隼人は思わず聞き返す。「ええ。今日はスーパーの特売日ですので。1人2000円も予算があれば、しっかりと買い物ができ
last updateLast Updated : 2026-01-09
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99:幽霊の出る部屋

 バンッ! 乾いた音が、アーク・リゾーツ社長室の空気に響いた。黒崎隼人がタブレット端末をデスクに叩きつけたのだ。「あり得ん」 彼は眉間に深いしわを刻み、低い声で唸った。「幽霊だと? 21世紀のこの時代に、そんな非科学的な理由で稼働率が30パーセントも落ちるなど……断じてあり得ん!」 隼人のタブレットには、傘下のビジネスホテル『アーク・イン品川』のクチコミ画面が映っている。 彼は怒りを隠そうともせず、タブレットを睨みつけた。『アーク・イン品川』は先日リニューアルオープンしたばかり。最新の設備を導入し、壁紙もベッドも新品に入れ替えた。 だというのに、ネット上の口コミは散々な有様だった。『404号室、マジで出る』『入った瞬間、寒気がした』『頭痛が止まらない。二度と泊まらない』 オカルトじみた書き込みが拡散され、キャンセルが相次いでいるのだ。「旦那様。コーヒーです」「……ああ」 小夜子は淹れたてのコーヒーをデスクに置く。湯気の向こうで苛立つ夫を観察した。(旦那様は、オカルトが大の苦手でいらっしゃる) 怖いのではない。非科学的で非効率的だから嫌いなのだ。 幽霊は宿泊料を払わないし、除霊に経費をかけるのは無駄だというのが彼の持論である。 本当は地鎮祭さえ無駄だと思っているが、人間の心の理不尽さだと思って割り切っている。「法的措置だ。風説の流布で開示請求を行う」「旦那様」 小夜子は控えめだがはっきりとした調子で声をかけた。「裁判も結構ですが、火のない所に煙は立ちません。お客様が『不快』と感じているのは事実なのですから」「不快? 全室に最新のプラズマクラスターを導入したんだぞ。空気は無菌室並みにきれいなはずだ」「機械の数値と、人の感覚は違います」 小夜子の言葉に、隼人はふんと鼻を鳴らした。「なら俺が証明してやる。現地へ行くぞ」
last updateLast Updated : 2026-01-10
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 小夜子は夫の様子に微笑んだ。「はい。もし悪霊がいるのなら……『お清め』が必要ですわね」 小夜子はエプロンのポケットに、いつも携帯している清潔なハンカチが入っていることを確認した。 女の勘ならぬ、家政婦の勘が告げている。これはただの噂話ではない。◇ 午後3時、『アーク・イン品川』のロビー。自動ドアが開くと、冷房の効いた涼しい風が吹き抜けた。 リニューアル直後なだけあって、館内はピカピカで清潔だった。床のタイルは鏡のように磨かれて、壁にはモダンなアートが飾られている。視覚的にはどこにも問題は見当たらない。 しかし最新設備のホテルの割に、客足は閑散としている。例の『幽靈騒ぎ』が悪影響を及ぼしているのだ。「い、いらっしゃいませ、社長……!」 支配人が額に脂汗を浮かべて飛んできた。彼の顔色はコピー用紙のように白い。「状況はどうだ」 隼人は歩みを止めず、支配人に問う。「は、はい。本日も……404号室の予約はキャンセルされました。『呪いの部屋』だと噂が広まっておりまして……」「馬鹿馬鹿しい」 隼人は一蹴した。「清掃は徹底しているな?」「もちろんです! 毎日、規定通りの清掃と換気を行っております。ゴミ一つ落ちておりません!」「それでいい」 隼人は満足げに頷き、ロビーを見回した。「見ろ、小夜子。完璧だ。埃ひとつない。この環境で『気持ち悪い』などと言う客は、単に神経質なだけだろう」 小夜子は答えなかった。彼女は鼻を小さく動かして、ロビーの空気を吸い込んだ。(……変ね) 確かに見た目は清潔だ。洗剤の匂いもしない。けれど何かが喉の奥に引っかかる。 空気の粒子が尖っているような、粘膜を逆なでされるようなごく微細な違和感がある。「参りましょう、旦那様。現場へ」
last updateLast Updated : 2026-01-10
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