深夜2時。黒崎家の書斎は静まり返っていた。ただの静けさではない、緊張感が漂っている。重厚なデスクの上には、膨大な書類の山が築かれていた。 隼人は万年筆を指の間で回しながら、眉間に深いしわを刻んでいた。「……数字が合わない」 彼の手元にあるのは、先日買収したばかりのホテルチェーン『グラン・ホテルズ』の月次決算書だ。 稼働率は悪くない。客単価も上昇傾向にある。だというのに利益率が異常に低い。まるで底の抜けたバケツに水を注いでいるようだ。(現場の怠慢だ。従業員が無駄な動きをしているに違いない) 隼人は冷ややかな目で、手元の「人件費削減計画書」に視線を落とした。(リストラだな) リストラ、それは最も即効性のある劇薬だ。全従業員の3割をカットすれば、数字上の黒字は確保できる。痛みは伴うが、腐った組織を再生するには外科手術が必要だ。 彼は赤いインクのペン先を、リストラ候補者リストの上に滑らせようとした。 その時、音もなくドアが開いた。ノックの音さえ聞こえなかった。「失礼いたします、旦那様」 小夜子だった。彼女は湯気の立つトレイを持ち、静かにカーペットの上を歩いてくる。 夜食の出汁茶漬けと濃いめの緑茶がトレイに載せられて、湯気を上げていた。。夜遅くまで働く主人のための配慮だった。「……まだ起きていたのか」「明日の準備をしておりましたので」 小夜子は書類の山を崩さないよう、デスクの僅かな隙間にトレイを置いた。 出汁の優しい香りが、殺伐とした書斎の空気を和らげる。 隼人はペンを置いて茶碗に手を伸ばした。 小夜子は一礼して下がろうとする。だが、その足が止まった。彼女の視線が、隼人がチェックを入れていた「経費明細書」の一点に釘付けになっている。「あの、旦那様」「なんだ。俺は今、忙しい」 隼人は茶漬けを口にしながら、不機嫌に応じた。「大変失礼ですが、その数字……見間違いではありませんか?」「何?」「そちらの『リネ
Last Updated : 2026-01-06 Read more