小夜子の手にあったのは、きらびやかな特級酒ではなかった。ラベルは黄ばんで端が破れかけ、瓶の肩にはホコリすら被っているような、無名の古酒。 小夜子は美しい所作で一礼し、再びフランス語で語りかけた。「Bonsoir,Monsieur.(今晩は、ムッシュ)……今宵は、貴方のための『失われた時』をお持ちしました」 伯爵が目を見開いた。 小夜子のフランス語は完璧だった。母国語の心地よい響きが耳に流れ込んでくる。「……フランス語か」 小夜子は微笑み、ボトルを提示した。「ヴィンテージは1960年。……貴方がこの世に生を受けた年です」「私の、生まれ年……?」「はい。有名な格付けワインではありません。貴方の生家のすぐ裏手にあった、小さな農家の畑で造られたものです」 伯爵が息を呑んだ。「……なぜ、それを」 小夜子は静かに語り続けた。「この年は雨が多く、大手のシャトーは苦戦しました。しかしこの小さな農家だけは、家族総出でぬかるんだ畑を守り、泥だらけになってブドウを収穫したそうですね。……そう、貴方のお母様が、幼い貴方を慈しみ守り抜いたように」 それは藤堂から教わった知識とラジオ講座で覚えた言葉、そして小夜子自身の感性が織りなす「物語」だった。 伯爵の目が、ボトルに釘付けになる。 小夜子は続けた。「このボトルには、石油の味はしません。……火事で失われる前の、優しかった故郷の土の香りがするはずです」 小夜子は慣れた手つきでコルクを抜いた。グラスに注がれる液体は、伯爵が忌み嫌う「鮮血の赤」ではない。 60年という長い熟成を経て、色素が抜け透き通るようなレンガ色――温かな琥珀色に変化している。「どうぞ。……遠い日の香りです」 伯爵は、震える手でグラスを手に取
Last Updated : 2025-12-28 Read more