All Chapters of 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く: Chapter 71 - Chapter 80

120 Chapters

71

「なんだと?」 小夜子は淡々と、頭の中のノートを読み上げるように語り始めた。「1965年の冬。ローズベリー家の別邸で、大規模な火災がありました」「火災……?」「はい。原因は、異常乾燥による暖炉の不始末です。……その火事で、当時5歳だった伯爵は、お母様を目の前で亡くされています」 小夜子の声が痛ましさを帯びた。「お母様は、その夜、深紅のお洋服を着ておられたそうです。燃え盛る炎の赤と、ドレスの赤。そして……崩れたがれきの下で流れた、血の赤」 隼人が息を呑んだ。全てが繋がった。乾燥した空気は火事を連想させ、赤い花は、母の死の光景をフラッシュバックさせるトリガーだったのだ。 ただの偏屈なわがままではない。半世紀経っても癒えないトラウマだったのだ。「……なぜだ」 隼人は呆然と呟いた。「なぜ、そんな重大なことがデータにない? 興信所のレポートにも載っていなかったぞ」「伯爵家にとって最大の悲劇であり、タブーだからです。公式記録からは削除させ、関係者には箝口令(かんこうれい)を敷いています」「じゃあ、なぜお前が知っている?」 隼人の問いに、小夜子は懐かしむように少しだけ口元を緩めた。「実家の執事・藤堂が……食事を抜かれ、叩かれた私に、生きるすべとして叩き込んでくれたのです。『表の歴史ではなく、裏の痛みを学べ』と」 それは単なる知識自慢ではない。小夜子自身が厳しい環境の中で身につけた、生きるための知恵だった。「乾燥した空気、もしくは赤色1つだけであれば、ここまで激怒はされなかったかもしれませんね。2つの事柄がお心を刺激してしまったのでしょう」 その時、執務室のドアが乱暴に開かれた。部下が顔面蒼白で飛び込んでくる。「社長! た、大変です! レストランから連絡が……」「今度はなんだ!」「伯爵
last updateLast Updated : 2025-12-27
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72

「……これなら」 タブレットを操っていた小夜子の指が止まった。「これなら、あの方の心を救えるかもしれません」 彼女が指差したのは、リストの末席に載っている、有名銘柄の影に隠れた安価でマイナーなワインだった。  隼人が眉をしかめる。「おい、正気か? それはハウスワイン並みの安物だぞ」「値段ではありません。これは、あの方の故郷における『思い出』の年のワインです」 小夜子は顔を上げた。その瞳には強い決意が宿っていた。「私が行きます。給仕をさせてください」 隼人は不可解そうな顔をした。「お前が? ……気持ちはありがたいが、接客には英語が必須だ。話せるのか?」 中卒同然の学歴しかない彼女に、VIP対応ができるとは思えなかった。  だが小夜子は静かに頷いた。「はい。通信制高校での勉強に加え、藤堂からビジネス英語も叩き込まれましたので、問題ありません」 隼人は目を見開いた。(家事や毛筆の教養だけでなく、語学まで? 中卒だと思っていたのに、どこまでできるというんだ) この女の底知れなさに驚きと恐ろしさを感じる。  しかし小夜子は続けた。「ですが、今回は英語は使いません」「何?」「あの方は今、心を閉ざしています。英語は彼にとって『ビジネスの言葉』です。……心を開くには、彼が愛してやまないフランス文化の言葉……フランス語が必要です」「フランス語だと? それも話せるのか?」 隼人の声がやや裏返った。英語ならまだしも、フランス語まで。  小夜子は寂しげに微笑んだ。「独学ですが。基礎は藤堂さんが教えてくださいました。それに……寂しい夜に、ラジオ講座の言葉だけが友達でしたから。屋根裏にあった古い辞書を片手に、見知らぬ国の言葉を覚える時だけが、自由でした」 隼人は絶句した。この女は孤独な環境の中で、ただ泣いていたわけではない。誰も見ていない暗闇の中で、いつか役に立つかもわからない刃を、たった一人で研ぎ続けていたのだ。  その刃が今、自分を救おうとしている。 隼人はデスクに手をつき、深く頭を下げた。  プライドも、社長としての威厳もかなぐり捨てて。「……頼む」 彼は言った。声の震えを抑えきれていない。「俺たちの失敗を取り戻してくれ。……力を貸してくれ、小夜子」 それは初めて、隼人が小夜子に対して「命令」ではなく「懇願」をした瞬間だった
last updateLast Updated : 2025-12-28
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73:思い出の香り

 午後6時、ホテル『サンクチュアリ』のメインダイニング『Nocturne(ノクターン)』。 夜景を一望できるVIP用の個室は、重苦しい沈黙に包まれていた。 テーブルには手つかずのオードブルが並んでいる。 ローズベリー伯爵は、ソムリエが恭しく差し出した『シャトー・マルゴー』のグラスを指差し、吐き捨てるように言った。「下げろ」「は……? しかし閣下、こちらは当ホテルが誇る最高級のヴィンテージで……」「ラベルを見ただけでわかる。それは、石油(オイル)の味がする」 ソムリエが凍りついた。「せ、石油……でございますか?」「そうだ。金、権力、効率……資本主義の臭い脂の味だ。私の乾いた喉を潤すものではない」 理不尽な難癖である。だがその言葉の裏には、悲痛な響きがあった。 ソムリエはそれに気づかない。 ローズベリー伯爵はホテルの神と呼ばれる成功者だ。 しかし彼の心の奥底には、いつも虚しさがあった。 5歳の頃、火事で目の前で母親を亡くした。 普段であればその悲しみを表に出すことはない。 しかし今日は最悪のタイミングが重なっていた。(日本の冬が、これほど乾いているとは思わなかった) 火事の原因は空気の乾燥。彼は今でも覚えている、あの火事の夜の空気がひどく乾いていたことを。 そして歓迎の証にと差し出された赤いバラの花束が、心の奥に封じ込めているトラウマを刺激した。 今の彼はもう何十年も前のあの夜に囚われている。目の前に赤い炎がちらついているのを感じる。 どれほど高級なワインを差し出されても、豪華な料理を供されても、幼い日の恐怖と悲しみは癒えない。 むしろ最高級のワインであればあるほど、金で解決しようとする浅ましさが鼻につき、心が拒絶してしまう。 隼人は部屋の隅で、奥歯を噛み締めていた。万策尽きた。これ以上のワインなど、この日本には存在しない。
last updateLast Updated : 2025-12-28
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 小夜子の手にあったのは、きらびやかな特級酒ではなかった。ラベルは黄ばんで端が破れかけ、瓶の肩にはホコリすら被っているような、無名の古酒。 小夜子は美しい所作で一礼し、再びフランス語で語りかけた。「Bonsoir,Monsieur.(今晩は、ムッシュ)……今宵は、貴方のための『失われた時』をお持ちしました」 伯爵が目を見開いた。 小夜子のフランス語は完璧だった。母国語の心地よい響きが耳に流れ込んでくる。「……フランス語か」 小夜子は微笑み、ボトルを提示した。「ヴィンテージは1960年。……貴方がこの世に生を受けた年です」「私の、生まれ年……?」「はい。有名な格付けワインではありません。貴方の生家のすぐ裏手にあった、小さな農家の畑で造られたものです」 伯爵が息を呑んだ。「……なぜ、それを」 小夜子は静かに語り続けた。「この年は雨が多く、大手のシャトーは苦戦しました。しかしこの小さな農家だけは、家族総出でぬかるんだ畑を守り、泥だらけになってブドウを収穫したそうですね。……そう、貴方のお母様が、幼い貴方を慈しみ守り抜いたように」 それは藤堂から教わった知識とラジオ講座で覚えた言葉、そして小夜子自身の感性が織りなす「物語」だった。 伯爵の目が、ボトルに釘付けになる。 小夜子は続けた。「このボトルには、石油の味はしません。……火事で失われる前の、優しかった故郷の土の香りがするはずです」 小夜子は慣れた手つきでコルクを抜いた。グラスに注がれる液体は、伯爵が忌み嫌う「鮮血の赤」ではない。 60年という長い熟成を経て、色素が抜け透き通るようなレンガ色――温かな琥珀色に変化している。「どうぞ。……遠い日の香りです」 伯爵は、震える手でグラスを手に取
last updateLast Updated : 2025-12-28
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 伯爵の心の中で、トラウマによって封印されていた「幸せだった頃の記憶」が解凍されていく。炎と赤色の恐怖に塗りつぶされていた過去が、土と愛の温もりに上書きされていく。 伯爵は何度もグラスに口をつけ、涙を流しながら味を噛み締めた。乾ききっていた彼の心に、琥珀色の液体が染み込んでいくようだった。 しばらくして、伯爵はグラスを置いてハンカチで目元を拭った。激怒していた時とは別人のような、穏やかな顔つきになっていた。 彼は立ち上がり、小夜子の手を取った。「……Merci,Madame.(ありがとう、マダム)」 そして小夜子の手の甲に、うやうやしく口づけをした。騎士が貴婦人に行う、最上級の敬愛の証。「君は魔法使いだ。……君はこのホテルの宝石だ。君がいる限り、私はこのホテルのファンでいよう」 その光景を後ろで見ていた隼人は、深く安堵の息を吐いた。 救われた。首の皮一枚で繋がった。 これでアーク・リゾーツは、さらなる発展が望めるだろう。 だが次の瞬間。隼人は胸の奥で、ドス黒い感情が渦巻くのを自覚した。(……おい) 小夜子の白い手が老人の唇に触れている。 伯爵は熱っぽい瞳で小夜子を見つめている。 感謝なのはわかっている。相手は老人で、こちらはビジネスだということもわかっている。だというのに。(気安く触るな) 胃のあたりが焼けつくように熱い。駆け寄って、その手を引きはがしたいという衝動に駆られる。 それは強烈な独占欲と嫉妬だった。「俺の妻だ」と叫びたいような、幼くて激しい感情。 ホテルの危機は去った。けれど隼人の心の中には、今まで経験したことのない厄介な嵐が生まれようとしていた。 ◇  夜9時。ローズベリー伯爵を見送った後、2人は車に乗って帰路についていた。 運転するのは運転手。黒塗りの高級ドイツ車が、滑らかに東京の街並みを移動していく。
last updateLast Updated : 2025-12-29
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76:消毒の儀式

(気づかないところで失敗をしてしまったのかしら。そんな……) 高級車がタワーマンションの地下駐車場に滑り込む。エレベーターに乗っている間も、会話はなかった。 最上階に到着して玄関の扉が開く。靴を脱ぎ、小夜子が「お疲れ様でございました」と頭を下げようとした時のこと。 隼人の大きな手が小夜子の細い手首を掴んだ。「え……?」「来い」 有無を言わせぬ低い声だった。隼人はそのまま大股で歩き出し、小夜子を強引に引っ張っていく。連れて行かれたのは、広い洗面所。 隼人は小夜子の手を突き放すと、蛇口を乱暴にひねった。 ジャアアアアッ! 勢いよく水がほとばしる。「洗え」 鏡越しに、隼人の鋭い視線が突き刺さった。「……はい?」「その手だ。念入りに洗え」 隼人は眉間に深いしわを寄せ、吐き捨てるように言った。「他人の唾液がついているかと思うと、虫唾(むしず)が走る」 小夜子はハッとした。(ああ……そうか) この人はきっと、極度の潔癖症なのだ。小夜子は思った。(私があのご老人に手を握られて口づけされたことが、生理的に不快で不潔だと感じたのね。もっと気をつけるべきだった)「申し訳ありません。すぐに、きれいにいたします」 小夜子は慌ててポンプを押し、石けんの泡を手に取った。 白く細い指をこすり合わせる。手の甲、指の間、手首まで。冷たい水で泡を流し、再び洗う。伯爵の唇が触れた左手の甲は、特に念入りにこすった。「もう、結構でしょうか」 恐る恐る尋ねる。「まだだ」 隼人の声は冷たかった。「もっと洗え。匂いが染み付いている気がする」 彼の口調は罰を与える教師のような厳しさだった。小夜子は従うしかない。 冷水にさらされ続け、皮膚の感覚が麻痺してくる。指先が
last updateLast Updated : 2025-12-29
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「……これで落ちたか」 隼人が低く呟いた。その声には怒りとは違う、どこか粘り気のある感情が混じっていた。 彼はタオルを放り投げたが、小夜子の手は離さなかった。「旦那様……?」 隼人は、小夜子の左手を自分の顔の高さまで持ち上げた。じっと見つめる視線の先にあるのは、伯爵が口づけをした「甲」の部分だ。「まだ、残っている気がする」 彼はそう言うと、ゆっくりと顔を寄せた。小夜子の心臓がドクリと大きく跳ねた。逃げようとする小夜子の手を、隼人が強く握り締めて固定する。「あ……」 熱い唇が、押し当てられた。 一度ではない。チュッ、という軽い音ではない。伯爵の唇が触れた場所を塗り潰すように、深く長く、吸い付くような口づけ。 まるで消えない印を押すような、重たくて熱い感触だった。「っ……!」 小夜子は息を呑み、足の力が抜けそうになった。これは敬愛のキスではない。所有のマーキングだ。隼人の吐息が敏感な皮膚にかかる。その熱さが、腕を伝って全身に電流のように駆け巡る。 長い、長すぎる数秒間だった。隼人がようやく顔を上げる。その瞳は濡れたように光り、小夜子の目を射抜いた。「これでいい」 かすれた声で、彼は告げた。「……上書きだ」 小夜子は顔を真っ赤にして、石像のように固まっていた。思考が停止して言葉が出てこない。 隼人は我に返ったように視線を逸らすと、乱暴に小夜子の手を離した。「勘違いするな」 彼は鏡の方を向き、早口で言った。「俺の商品に傷がつかないよう、メンテナンスしただけだ。……他人の痕跡が残っていると、気色が悪いからな」 典型的な強がりだった。鏡に映る彼の耳は、熟れた果実のように赤くなっている。 隼人は出口へと向かいながら、背中越しに命じた。「今後、俺の許
last updateLast Updated : 2025-12-30
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78:落ちぶれる実家

 都内屈指の高級住宅街にある白河家本邸。かつては近隣住民が足を止めるほど手入れが行き届いていた日本庭園は、見るも無残な姿に変わり果てていた。 毎朝、小夜子がほうきで掃き清め、整えていた枯山水の白砂は、風で吹き溜まった枯れ葉に埋もれて美しい波紋は跡形もなく消えている。剪定(せんてい)を忘れられた立派な黒松は、ボサボサと勝手気ままに枝を伸ばし、かつての威厳ある姿は見る影もなかった。 屋敷の中も同様だった。玄関ホールに飾られたカサブランカは枯れ果て、花瓶の水は濁って異臭を放っている。それなのに誰も水を変えようとしない。 磨き上げられていた廊下のフローリングはほこりで白く曇り、歩くたびにジャリジャリという不快な感触が足裏に伝わる。 居間では、この世の終わりのような悲鳴が響いていた。「いやあああっ!!」 義姉の麗華が、アイロン台の前で泣き叫んでいる。「焦げた! 私のヴィンテージのワンピースが!」 彼女の手元にあるシルクのドレスには、茶色いアイロンの跡がくっきりと焼き付いていた。「どうしてよ! 説明書通りにやったのに!」 これまで小夜子が完璧な温度調節で仕上げていたため、彼女はシルクが高温に弱いことすら知らなかったのだ。「うるさいわねえ!」 キッチンから、義母・緑の怒鳴り声が飛んでくる。「こっちはそれどころじゃないのよ! ……あちっ!」 ガシャーン。皿が割れる音がした。緑は指をやけどして、高級な伊万里焼の皿を床にぶちまけていた。「なんなのよ、この食洗機! 全然汚れが落ちてないじゃない! 予洗い? そんな面倒なこと、誰がやるのよ!」 シンクには、数日分の汚れた食器が山のように積み上げられ、油の腐った臭いが漂っている。 今日の夕食は高級デリバリーの冷え切ったピザだった。それを盛り付ける皿すら、まともなものが残っていない。 そこへ、当主の清次郎がよろめくように帰宅した。その顔色は土気色で、かつての偉そうな姿は見る影もない。「……おい
last updateLast Updated : 2025-12-30
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79:ハイエナの嗅覚

 ――左手の甲が、熱い。 アーク・リゾーツ本社、最上階の社長室。小夜子はいつものように、淹れたてのブラックコーヒーを革張りのデスクに置いた。 コーヒーを淹れるのは秘書の役割だったが、いつの間にか小夜子が社長室まで出社し、給仕をすることになっていた。 湯気越しに視界に入った自分の左手を見て、心臓が嫌な音を立てる。 昨夜、洗面所で隼人に押し付けられた唇の感触。それが火傷のように皮膚に残っていた。血管の奥で、ドクンドクンと脈打つ音が聞こえるような気がする。(……メンテナンス、とおっしゃっていたけれど) 上書き。俺の商品。彼の言葉は事務的だった。だが、あの時の濡れたような瞳と首筋にかかった荒い吐息は、とても「業務」とは思えなかった。 小夜子は、窓際で腕を組んでいる隼人の背中を盗み見た。彼は今朝から、極めて機嫌が悪い。「……コーヒーが濃い」 隼人は小夜子の方を見向きもせず、一口飲んでカップを置いた。「いつもと同じ豆、同じ湯量ですが」「なら俺の体調が悪いんだ。下げろ」 理不尽な言い草だった。まるで小夜子の顔を見るのさえ拒んでいるようだ。 小夜子は無言でカップを載せたトレイを胸に抱いた。隼人は昨夜の衝動的な行動を後悔しているのだろうか。それとも、やはり「他人の痕跡」がある女など、生理的に受け付けないということか。(私が……汚いから?) 胸の奥がチクリと痛む。 その時、重厚なドアがノックもなく開かれた。「社長、お待ちください! アポイントメントのない方は……!」 秘書の制止を振り切り、鋭い足音が部屋に侵入してくる。コツン、コツンと大理石の床を叩く、攻撃的なハイヒールの音。 現れたのは、真っ赤なルージュを引いたショートカットの女性だった。 銀縁の眼鏡の奥にある瞳は、獲物を狙う獣のようにギラついている。 経済誌『ビジネス・アイ』の敏腕記者、高橋マキ。「ハイエナ」の異名を持
last updateLast Updated : 2025-12-31
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 高橋は鞄から、古びた週刊誌のコピーを取り出した。そこには古びた安アパートの鉄扉の前で、膝を抱えてうずくまる少年の写真が掲載されている。「20年前、ある売れない俳優と一般女性の不倫騒動。覚えているかしら?」 隼人の背中が強張った。「俳優には妻子がいた。あなたの母親は幼い子供を家に放置して、何日もその男の元へ通っていたそうね。……マスコミがアパートに押し寄せた時、部屋には水と乾パンしかなかった」 高橋は歌うような口調でコピーを隼人の目の前に突きつけた。「『お母さんはいつ帰ってくるの?』『お腹空いてない?』……記者たちは同情するふりをして、置き去りにされた可哀想な子供をカメラに収めた。この少年は、あなたよね?」 室内の空気が凍りつく。 小夜子は息を呑んだ。 隼人の過去。実母にネグレクトされていたことは、それとなく聞いていた。でもまさか、そのような事件があったとは。 隼人は何も答えない。だがデスクに置かれた彼の手は、関節が白く浮き出るほど強く握りしめられていた。 隼人の脳裏に、あの日のフラッシュバックが蘇る。無遠慮なカメラのフラッシュと、土足で踏み荒らされた玄関。 いくつもの好奇の目が向けられる。母の愛を求め、「お金がない。貧乏は不幸だわ」という母の口癖を信じ、金さえあれば母は家にいてくれると耐えていた孤独な少年。彼を社会は見世物にしたのだ。「マスコミを極端に嫌う理由が分かったわ。……で、ここからが本題」 高橋の視線が、部屋の隅に控えていた小夜子に向けられる。じっとりと舐め回すような、粘着質な視線だった。「そのトラウマを持つあなたが、家庭では妻をどう扱っているのか。……そちらの奥様なら、よくご存知でしょう?」 小夜子の背筋に冷たいものが走った。「取引をしましょう。奥様への単独インタビューをセッティングしてちょうだい。『幸福な家庭』を演じられれば、この過去の古傷も、批判記事もボツにしてあげる」 演じられ
last updateLast Updated : 2025-12-31
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