All Chapters of 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く: Chapter 101 - Chapter 110

120 Chapters

101

(痛い……!) 臭い、ではない。痛いのだ。目に見えない無数の針が、鼻腔の奥を突き刺してくる感覚。 生ゴミの腐敗臭でも排水溝のドブ臭さでもない。もっと人工的で無機質な刺激。小夜子は目を細めて、部屋の中を見渡した。 シングルベッド、デスク、壁掛けのテレビ。真新しい調度品が整然と並んでいる。 窓からは午後の日差しが差し込み、明るく清潔に見える。「どうだ」 隼人が部屋の中央で両手を広げた。「何も感じないぞ。空気清浄機のモニターを見ろ。PM2.5もハウスダストも、数値は『きれい』を示している」 彼は勝利を確信したように鼻を鳴らした。「やはり客の思い込みだ。西村、すぐに公式SNSで『安全宣言』を出せ。俺が今夜ここに泊まり安全の証明を……」「お待ちください」 小夜子の声はハンカチ越しでくぐもっていたが、鋭かった。彼女は入り口から一歩も動けずにいた。「旦那様。……何も感じないのですか?」「何? 何のことだ」「この部屋は……悲鳴を上げています」 隼人は怪訝な顔をした。「悲鳴だと? お前までオカルトか?」「いいえ。……ニオイです」 小夜子はハンカチを押さえたまま、部屋の奥を眺めやった。「鼻の奥が痺れるような、この刺激。……数値には出ないかもしれませんが、確かに『敵』がいます」「敵?」 小夜子は息を止めたまま、部屋の中へ進んだ。 ベッドサイドへ。デスクの下へ。そして窓際へ。探偵が現場の痕跡を探すように、彼女は視線を走らせる。(どこ? この臭いの発生源はどこなの) クン、と鼻を鳴らす。普通の人間なら「新築の匂い」で片付けてしまうレベルの微臭だろう。 だが小夜子は優れた嗅覚を持っていた。家政婦としてあらゆる家事の技能を磨き上げてきた結果、匂いに
last updateLast Updated : 2026-01-11
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102:見えない敵

「待て、小夜子。お祓いなどする必要はない。そんな非科学的なことよりも、これを見ろ」 隼人は勝ち誇ったように、携帯型の空気質測定器を小夜子の目の前に突きつけた。液晶画面には緑色のランプが点灯し、全ての数値は安全圏を示している。「見ろ。総揮発性有機化合物もホルムアルデヒドも、基準値を大幅に下回っている。PM2.5に至ってはゼロに近い。測定できるあらゆる数値が、ここを安全だと示している」 彼は測定器を振ってみせた。「お前の言う『敵』など、どこにもいない。まして幽靈など存在するはずがない。鼻が過敏になっているだけじゃないのか?」 小夜子はその数値を全く相手にしなかった。 隼人に測定機を突きつけられても、軽く首を振るだけである。(機械は嘘をつかない。けれど、機械は設計された『基準』の中でしか答えを出さない) 人間の感覚はもっと複雑で、繊細だ。 小夜子は無言のまま、部屋の四隅へと歩み寄った。空気は循環して重い成分は下に溜まる。そして風の流れによって、部屋の隅へと吹き寄せられる。 彼女は膝をつき、カーペットの隅を指先でそっとなぞった。(……やはり) 指の腹に、わずかにねっとりとした感触が残る。ただのホコリではない。何かの成分が濃縮され、膜を張っているような不快な粘り気だ。 次に、窓際に掛かる真新しい遮光カーテンの裾を持ち上げた。生地に鼻を近づけて、短く息を吸い込む。 ツン、と鼻の奥を刺す刺激。 新品のカーテン特有の糊(のり)の匂いに混じって、甘ったるい何かが潜んでいる。「何をしている。お前がそこまでする必要はないだろうに」 隼人が呆れた声を出すが、小夜子は止まらない。 彼女はデスクの椅子を引き寄せると、軽やかにその上に立った。視線の先にあるのはエアコンだ。 隼人が慌てて支えようとするが、小夜子は手で制した。「おい! 危ないぞ」「失礼いたします」 小夜子はスマートフォンのライトを点灯させて、エアコンの吹き出し口の奥を照らした。背伸
last updateLast Updated : 2026-01-11
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103

「このお部屋の清掃に使っている洗剤と、リニューアル工事の際に壁紙用に使った糊。残っていれば、今すぐお持ちいただけますか?」 支配人は目を白黒させた。「洗剤……ですか? 業務用の一般的なものですが……。糊、接着剤も、倉庫に少し残っているかと」「結構です。持ってきてください」 支配人が慌てて部屋を出て行こうとする中、隼人が声を荒げた。「おい、待て。それが何の関係があるんだ?」 未だ事態を掴めていない隼人は、不満そうに妻を睨んだ。「洗剤なら清潔の証だろう。糊だって乾けば無害だ。そんなものを見てどうする」「旦那様。料理と同じです」 小夜子はハンカチで指先を拭きながら答えた。「一つ一つの食材は安全でも、組み合わせによっては毒になることがあります。食い合わせ、というやつです」「食い合わせだと? 今は建築資材の話をしているんだが」「ええ。ですから『住み合わせ』の悪さを確認いたします」 それから数分後、支配人が息を切らせて戻ってきた。 手にはピンク色の液体が入った業務用ポリタンクと、使いかけの接着剤の缶が握られている。「お待たせしました。こちらが当ホテルで使用している洗剤と、壁紙を貼った際の接着剤でございます」「ありがとうございます」 小夜子はまず、洗剤のポリタンクの蓋を開けた。 瞬間、強烈な香りが部屋に広がる。『フォレスト・ブリーズ(森のそよ風)』――そんな名前がついているであろう、ひどく人工的な芳香剤の臭いだった。「うっ……!」 隼人が顔をしかめて後ずさった。「なんだこの臭いは。トイレの芳香剤か?」「いえ、客室用の万能洗剤です」 支配人が恐縮して答える。「以前の本部の指示でコスト削減のために、これに切り替えました。洗浄力が強くて香りも残るので、掃除の時短になると好評で……」「時
last updateLast Updated : 2026-01-12
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104

 工期を短縮し、安く仕上げるために選ばれた強力な化学物質たち。 小夜子の中で、思考のかけらがカチリとはまった。「旦那様。幽霊の正体がわかりました」 小夜子は隼人に向き直り、3つの証拠品を指差した。「犯人は3人います。単独犯ではありません」「犯人? 3人? どういうことだ」 すっかり探偵のような態度になった小夜子を見て、隼人は少し戸惑っている。「順にお話しいたします。まず1人目は、壁紙の接着剤から揮発し続けている微量な化学成分。次の2人目は、カーペットの奥深くに染み込んだ、この洗剤の残留成分と人工香料」 小夜子はエアコンを指差した。「そして3人目が、エアコン内部で結露した水分と微細なカビです」 隼人は眉を寄せる。「待て。測定器の数値は正常だったぞ。それらは基準値以下のはずだ」「ええ、一つ一つは微量でしょう。ですが、ここは密室です。リニューアルした際に断熱効果をアップさせましたね?」 小夜子は淡々と解説を続けた。「ああ、そうだ。エアコンの冷暖房効果を高めるため、壁に断熱材を仕込んだ。それがどうした?」「つまりこの部屋は高気密の密室。高気密の部屋の中でこれらが混ざり合い、3人の犯人が化学反応を起こしているのです。いわゆる『カクテル効果』です」「カクテル効果……」「接着剤の揮発成分と人工香料が結合し、さらにカビが触媒となって変質する。これらが混ざり合うことで、人間の生理的不快感を強烈に刺激する『見えない毒ガス』に変貌していたのです」 隼人はハッとして、部屋の空気をもう一度吸い込んだ。 注意深く感覚を研ぎ澄ます。 すると先ほどまでは「無臭」だと思っていた空気が、今は喉の奥にへばりつくような不気味な重さを持って感じられた。「頭痛や悪寒、なんとなく気持ち悪いという感覚。……それは幽靈のせいではありません。体が『ここは危険だ』と警報を鳴らしている拒絶反応です」 隼人の表情が変わった。得体
last updateLast Updated : 2026-01-12
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105

「原因が分かれば対処は可能だ。壁紙をはがすか? それともカーペットを全面張り替えか?」 彼は頭の中で電卓を叩き始めた。全室リフォームとなれば、数千万円の追加投資が必要になる。だが背に腹は代えられない。 顧客に健康被害が出たとなれば、数千万円以上の取り返しのつかない損害になるからだ。「支配人、業者に見積もりを取れ。最短で工事を……」「いいえ、旦那様」 小夜子は涼やかな声で、夫の言葉をさえぎった。「張り替える必要はありません。数千万円をドブに捨てるようなものですわ」「なんだと? じゃあどうする。この臭いは部屋に染み付いているんだろう」「ええ。ですから『化学』には『化学』で対抗します」 小夜子はエプロンのポケットから、ヘアゴムを取り出して髪を束ねた。その仕草は、戦場に向かう兵士のように凛々しい。「私のやり方なら、材料費数千円で解決できます」 彼女は不敵に微笑んだ。「ただし旦那様にも、一肌脱いでいただきますよ?」 小夜子の不敵さに、隼人は警戒したように身を引いた。「俺が? 何をする気だ」「科学実験、いえ、大掃除です」 小夜子は支配人に指示を飛ばした。「熱湯をバケツ3杯。それから薬局で重曹とクエン酸、無水エタノールを持ってきてください。大至急です」「は、はいっ!」 支配人が弾かれたように走り去る。残された隼人は、腕まくりをする妻を呆然と見ていた。「おい、まさか俺に雑巾がけをさせる気か? 俺は社長だぞ」「社長だからこそ、です」 小夜子は真顔で答えた。「ご自身のホテルがどのような『幽霊』に取り憑かれていたのか。その手で拭き取って、実感していただきます」 いつも控えめな小夜子とは思えない、反論を許さない迫力だった。彼女はこと家政婦の仕事の範囲となれば、驚くほどの頑固さと妥協しない姿勢を発揮するのだ。(やれやれ。こうなったこいつは、もう止まらんな)
last updateLast Updated : 2026-01-13
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106:家政婦の除霊術

 しばらく後、支配人が息せき切って戻ってきた。両手には重曹とクエン酸の袋、無水エタノールのボトル、それから熱湯の入ったバケツを抱えている。「お、お待たせいたしました! 薬局と給湯室を往復してまいりまして……」「ありがとうございます。完璧です」 小夜子は手早く準備に取り掛かった。 バケツの熱湯に重曹をざらりと投入し、マドラー代わりの定規でかき混ぜる。白い湯気が立ち上った。「これが除霊のための『聖水』……いえ、重曹水です」 小夜子は真顔で説明すると、もう一つのバケツにクエン酸を溶かした。 新品の雑巾を重曹水に浸して、ゴム手袋をした手で固く絞る。熱さがゴム越しに伝わってくる。「旦那様」 小夜子は湯気の立つ雑巾を差し出した。「壁とデスク周りをお願いいたします。高いところは、背の高い旦那様の担当です」 隼人は目の前に突きつけられた雑巾と、小夜子の顔を交互に見た。 彼はイタリア製の高級スーツを着ている。袖口にはサファイアのカフスボタンが光っている。どう見ても掃除夫の格好ではない。「本気か? 壁紙など拭いて何になる。見た目は新品だぞ」「やってみれば分かります。……さあ」 小夜子の瞳には、有無を言わせぬ圧があった。それは長年、理不尽な実家の汚れと戦ってきたプロフェッショナルの目だ。 隼人は諦めて舌打ちをし、ジャケットを脱ぎ捨てた。「チッ……。もし無駄足だったら、支配人、お前の査定に響くからな」「ええ!? 私ですか!?」 とばっちりを受けた支配人が縮み上がる。 隼人はワイシャツの袖を乱暴にまくり上げ、雑巾をひったくった。「拭けばいいんだろう、拭けば!」 隼人は壁紙に雑巾を押し当て、乱暴にこすり始めた。 小夜子はその様子を確認してから、自分は床に膝をついた。 カーペットの「除霊」に取り掛かる。熱湯を含ませた厚手のタオルを
last updateLast Updated : 2026-01-13
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 真っ白だったはずの雑巾が、べっとりと茶色く変色している。まるで泥水を拭き取った後のようだ。「新品の壁紙のはずだぞ? なぜこんなに汚れている」「それが『幽霊』の正体の一部です」 小夜子はタオルを交換しながら、淡々と答えた。「接着剤の表面に浮き出た化学成分の膜と、空気中に漂っていたタバコのヤニです。前のリフォーム時の汚れが、換気扇のダクトから逆流して付着していたのでしょう」 小夜子は自分の足元のバケツを示した。どす黒く濁った水が溜まっている。カーペットから吸い出した洗剤の残留成分と、長年の汚れの結晶だ。「可視化されると、ぞっとしますでしょう?」 隼人は茶色い雑巾を見つめて、ごくりと喉を鳴らした。目に見えなかっただけで、この部屋は汚染されていたのだ。 自分は先ほどまで、この汚れに囲まれて「快適だ」などと言っていたのか。「……許せん」 隼人の瞳に、別の種類の炎が宿った。潔癖かつ完璧主義者である彼のプライドが、この汚れた部屋を許さないと叫んでいる。「支配人! 新しい雑巾を持ってこい! あと脚立だ!」「は、はいっ!」「徹底的にやるぞ。ここも、あそこもだ……!」 隼人は新しい雑巾を掴むと、今度は一心不乱に壁を拭き始めた。 先ほどまでの嫌々やっていた手つきとは違う。的確で、力強く、そして速い。 社長としての顔ではない。現場監督、あるいは職人の顔つきだ。 小夜子も負けじとカーペットを進む。シュッ、シュッ、と霧吹きでクエン酸水を吹きかけ、タオルで叩く。 隼人が高いところを拭き、小夜子が床を攻める。言葉は交わさない。 けれど2人の呼吸は奇妙なほど合っていた。ゴシゴシ、キュッキュッ。部屋には衣擦れの音と、汚れが落ちていく水音だけが響いた。 次第に部屋の空気が変わり始めた。 鼻を刺していたあの人工的な刺激臭が薄れ、代わりに雨上がりのような湿り気を帯びた無臭の空間が広がり始めたのだ。◇
last updateLast Updated : 2026-01-14
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 隼人は壁に手をつき、肩で息をしていた。ワイシャツは汗で背中に張り付き、髪も乱れている。 だがその表情は晴れやかだった。「……確かに違う」 隼人は深く深呼吸をした。肺の奥まで空気が入っていく。何の抵抗もない。「軽いな」 頭痛の種だった圧迫感が、嘘のように消え失せている。プラズマクラスターの数値は、最初と変わらないかもしれない。だが体感としての空気の「質」が劇的に変化していた。「これが、本来の空気か」 隼人は自分の手を見た。黒く汚れている。そして足元のバケツには、ヘドロのような汚水。「除霊完了です」 小夜子が微笑んだ。「幽霊は成仏いたしました」 隼人は汚れた手を見て、ニヤリと口角を上げた。「悪くない。数千万円の改装費が、バケツ一杯の水と重曹で浮いたわけか」 彼は満足げに頷くと、怯えて部屋の隅に立っていた支配人を振り返った。「支配人。この清掃手順をマニュアル化しろ。全客室で実施だ。香料入りの洗剤は即刻廃棄しろ」「か、かしこまりました!」◇ 翌朝。小夜子が社長室に出勤すると、隼人はすでにデスクに向かっていた。 昨夜は宣言通り、あの404号室に宿泊したはずだ。「おはようございます、旦那様。昨夜はいかがでしたか? やはり、何か出ましたか?」 小夜子がお茶を置きながら尋ねると、隼人はバツが悪そうに視線を逸らした。「……出なかった」「それは何よりです」「代わりに、問題が起きた」 隼人は眉間にしわを寄せた。「寝坊した」 小夜子は目を丸くした。ショートスリーパーで不眠症気味の彼が、目覚まし時計が鳴るまで気づかないほど熟睡したというのか。「一度も目が覚めなかった。……快適すぎてな」 それは、どんな言葉よりも確かな「除霊成功」の証だった。
last updateLast Updated : 2026-01-14
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109:朝の戦場

 幽霊騒動から少しの時間が経過した。 しかし黒崎隼人のアーク・リゾーツ社では、次なる問題が起こっていたのである。 午前8時、アーク・リゾーツが誇る国内最高峰の旗艦ホテル、『グランド・アーク東京』。 このホテルの顔であるメインダイニング『オーロラ』の前には、優雅さとは程遠い光景が広がっていた。 朝食ビュッフェでの出来事だ。「いつまで待たせるんだ!」「15分も並んでるのよ? どうなってるの」「飛行機の時間に遅れちゃうわ」 怒声こそ飛んでいないものの、ロビーには客たちの苛立ちがあちこちでささやかれ、充満していた。 入り口から伸びた行列は優美な螺旋階段の下まで達している。 視察に訪れた隼人は、その光景を見て眉間に深いしわを刻んだ。「……なんだ、この有様は」 彼は腕時計を見た。ピークタイムとはいえこれは異常だ。出迎えた総料理長が、コックコートの襟を正しながら弁明する。「申し訳ございません、社長。春の観光シーズンで宿泊客が増え、キャパシティを超えておりまして……」「言い訳はいらん」 隼人は冷たく切り捨てた。「回転率が悪すぎる。中で客が何をしているのか知らんが、これでは高級ホテルの名が泣くぞ」 効率と合理化を至上とする隼人の目には、この行列がすべて「機会損失」という赤字に見えている。彼はあごに手を当て、即座に計算を始めた。「壁を壊せ。隣のラウンジまで拡張して座席数を100席増やす」「えっ? しかし、それでは工期が……」「ならばルール変更だ。朝食の滞在時間を60分から45分に短縮しろ。スタッフを増員して、食べ終わった皿を即座に下げさせろ。客を急かして追い出すんだ」「そ、そんな……」 総料理長が青ざめた。食事時間を制限して皿をひったくるように下げるなど、優雅な朝食を売りにする『グランド・アーク』にあってはならない暴挙だ。 
last updateLast Updated : 2026-01-15
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110

「旦那様」「なんだ」「壁を壊す前に、まずは、私たちも並んでみませんか?」 隼人は怪訝な顔をした。「並ぶだと? この朝食の列に、俺たちがか?」「はい。お客様が何に時間を取られているのか。外から見ているだけでは分かりませんから」 小夜子の瞳は真剣だった。(こいつがこういう顔をする時は、必ず何かある) 隼人は舌打ちしたいのをこらえて、しぶしぶ頷いた。「……いいだろう。原因を突き止めてやる」◇ 2人はビュッフェの最後尾に並んだ。そこはまさに戦場だった。 カチャカチャ、ガチャン。食器がぶつかる音が、耳障りな音となって響いている。 子供の泣き声、スタッフが駆け回る足音、客たちの話し声。本来なら優雅なクラシック音楽が流れているはずだが、騒がしさにかき消されて全く聞こえない。(……空気が熱い) 小夜子は肌で感じた。焼きたてのクロワッサンや挽きたてのコーヒーの良い香りよりも、人々の焦りと苛立ちの熱気が鼻につく。 誰もが時計を気にして眉を寄せ、目の前の料理を「獲得」することに必死になっている。 ようやく順番が来て、2人はトレイを手にした。だが、そこからが進まない。ビュッフェ台の前には黒山の人だかりができている。「おい、全然進まないぞ」 隼人が小声で毒づいた。 彼の目の前には、サラダバーで立ち往生している初老の婦人がいた。彼女は震える手で大きな銀のトングを握りしめている。 カチ、カチ。バネが硬いのだろう。レタスを掴もうとするが、うまくいかずにボウルの中に落としてしまう。「あらいやだ、ごめんなさいねぇ……」 婦人は恐縮し、焦れば焦るほど手元が狂う。後ろに並ぶビジネスマンが、あからさまに舌打ちをして時計を見た。婦人の背中がさらに小さくなる。(見ていられないわ) 小夜子の目がトングに釘付けになった。重厚で
last updateLast Updated : 2026-01-15
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