All Chapters of 明日、私は誰かの妻になる: Chapter 341 - Chapter 350

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第341話

「あなたはこの流れが懐かしくないの?あの告白動画を公開した時とまったく同じ。私の出自を晒して、邪魔になった私を社長に押しつけようとした、あの時と。もし依華さんが手塚さんのような名家のお嬢様だったら、どうしていたの?あるいは、私が今でも西園寺家のお嬢様で、手塚さんがウォーカーヒルのただの従業員だったとしたら——付き合っている間に、彼女と堂々と付き合いたいという図々しい要求に応えたかな?」茜は容赦なく諒助のメッキを剥がした。答えは言わずもがなだ。応えるはずがない。諒助は読飼市の柏原家の次男として、誰もが傅く男だ。和久がいなければ、この街の頂点に立つ男だったはずだ。そんな彼が、家柄もない女を正妻に迎えるなどあり得ない。「茜……」諒助の震える声がした。「もういいです。これ以上絡まないでください。記理子おば様も困らせることになりますし。記憶を失ったままでいてください、私たちは始めから何もなかったことで」茜は、諒助と付き合っていたこと自体が恥ずかしいのだと、ほとんど面と向かって告げているようなものだった。諒助の目が充血して赤く染まった。「なかったことにする?なんでだ?あぁ、兄さんにバレるのが怖いのか?あいつが本当にお前を好きだとでも思っているのか?」「諒助さん、私に泥を塗る必要はありません。そもそも私を和久お兄様に近づけようとしたのはあなたでしょう。殺人犯の娘と彼をくっつけたかったのは、あなたではないんですか?」「でも茜、あれは全部計算だったはずだ。兄さんと一緒にいるのも、俺を怒らせたかったからじゃないのか?」「違います。彼はあなたとは全く違うんです!」茜は咄嗟に口走ってしまい、しまったと後悔した。諒助を押しのけてその場を去ろうとした。しかし諒助が腕を掴もうとした瞬間、茜は体を沈めて膝を蹴り込んだ。以前の一件以来、護身術を調べておいたのだ。鍛えている諒助でも、不意打ちにわずかに体勢を崩した。茜はその隙に走り出した。更衣室に入り、まだ動悸が収まらないまま素早く着替え、駐車場へ向かった。廊下を急いでいると、通路の奥から和久の名前が聞こえてきた。「さっきのって柏原社長だよね?」「あんなイケメン、社長で間違いないわ。しかし、なんでこんなところにいるんだろ」茜は足を速めた。感応式の照明が一つず
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第342話

和久はしばらく黙っていた。「諒助とよく遊んでいたからな」「あの時、私……まだ子供でしたし」子供が、感情を表に出さずに黙って一緒に遊んでくれる年上の人を選ぶはずがない。和久と並んで本でも読むのか——本は大嫌いだった。少し考えてから、茜は付け加えた。「でも今は大人になりました。もう違いますよ」和久は一瞬だけ茜を見て、口元をわずかに動かした。「……帰ろう」「はい」茜は笑い、和久と話しながら車へと向かった。従業員通路のその奥で、感応式の照明がひとつ灯った。明かりの下に、人影があった。諒助だ。二人の遠ざかる後ろ姿を見つめながら、その顔にはかつてない暗い影が落ちていた。茜の心からの笑顔が、頭から離れなかった。長い間、あんな屈託のない表情を見ていなかった。一緒にいた頃でさえ、茜はいつの間にか笑わなくなっていた。仕事が忙しいからだと思って、ウォーカーヒルを辞めて自分についてくればいいと言い続けていた。今になって思えば、それはただの独りよがりな思い上がりだったのかもしれない。……スイートルーム。上の階で起きた顛末を、絵美里は聡史の口からようやく聞き出した。馬鹿ではない。経緯をたどれば、ひとつの恐ろしい結論に行き着く。諒助はもう、自分を愛していないのかもしれない。依華がいなければ、この場で一番都合のいい身代わりは自分だったはずだ。和久に解雇されたという事実もある。そして——ある考えが浮かんだ瞬間、絵美里は聡史をじっと見た。「まさか、諒助さんは何か知ったんじゃないの?」「とにかく、早めに話した方がいいと思いますよ」聡史が冷淡に言った。絵美里は唇を噛み、聡史の腕に縋るようにしがみついた。「綾辻さん、助けて。諒助さんに会わせてくれれば、必ず思いとどまらせてみせるから」「手塚さん、本当は誰にも気づかれないはずだったのに、あなたが焦りすぎたせいです。私まで巻き込まれてしまって、これ以上事を大きくしたくなければ、現実を受け入れるしかないと思います」現実?手塚家に諒助の庇護がなくなれば、完全に終わりだ。読飼市で誰もが羨む立場にいたはずなのに、これからどうやって生きていけばいいのか、想像することさえ恐ろしかった。絵美里は哀れっぽい目で聡史を見た。「お願い……もう一度だけ、助けてくれな
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第343話

絵美里は息を潜めて聞き続けた。「大奥様、斎藤美香があわや口を割るところでした。あの時すぐに手を打っていなければ、何を言い出すかわかりませんでしたわ」成美が心配そうに言った。「何、私を脅しているつもり?」小百合が不快そうに言い放った。「滅相もございません。ただ、西園寺茜の父親が精神科の病院に移されたと聞きまして。あちらの警備は厳重で、私どもには手が届きません。先日また発作を起こした時にそのまま死んでくれればよかったのに、あの男も娘と同じで、悪運が強くて」「ふん、何を案じているの?精神病の患者と身寄りのない娘に、何ができるというの?しかもそう長くはかからないわ。死人は口を割らないもの、斎藤美香と同じようにね」小百合が冷ややかに言った。晴子がすかさず同調した。「お母さん、心配しすぎよ。大奥様はちゃんと段取りを考えていらっしゃるから」「そう、それで縁組の件は……」成美が恐る恐る聞いた。しばらく静寂が続いてから、小百合の足音がゆっくりと動き始めた。「縁組は必ず成功させなければならない。国外からも和久に話を持ち込もうとする動きがある。もし先に外の女を選ばれたら、こちらではどうにも手が出せなくなる。だから先手を打つしかない」「はい、はい、すべてお任せしますわ」「よろしい。ではあの件はあなたたち二人に頼みましょう」「大奥様、どのような……」「それは……」仕切りを挟んで聞いていた絵美里には、そこからの声は途切れ途切れにしか届かなかった。それでも最後に、ひとつの恐るべき事実が浮かび上がってきた。絵美里は思わず口を覆い、これ以上ここにいてはいけないと悟って、そっとその場を離れた。渡りに船と言うべきか、廊下で退勤しようとしている依華と星羅に出くわした。依華はまだ今日の一件を引きずっているらしく、星羅と俯き加減で話しながら歩いていて、絵美里には気づかなかった。やり過ごそうとしたその時、依華の言葉が耳に飛び込んできた。「諒助さんが、私の子供の頃のことをどうしてあんなに詳しく聞きたがったんだろう」諒助さん——例の拉致について探っているに違いない。絵美里は息を殺してそっと後をつけた。星羅も気になったのか、聞いた。「他にどんなことを聞かれたの?」「そんなに色々は。いつ怪我をしたか、どういう状況だったかを聞かれたく
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第344話

絵美里は、足元ががらがらと崩れ落ちていくような恐怖に襲われた。茜を見るたびに、どうしても生理的嫌悪を感じていた。ずっと彼女の顔が綺麗すぎるせいだとばかり思っていた。しかし今となっては、あれは女の勘が警告を発していたのだと思う。もし諒助にこの事実が知れれば、自分がどうなるか、想像するだけで身の毛がよだった。幸い、聡史も依華が救命の恩人だと思っている。絵美里は乱れた頭のままウォーカーヒルのロビーの隅に座り込んだ。そして情報を整理していくうちに気づく——斎藤美香の死には成美が絡んでいる。そして小百合も。この情報を、何かに使えるかもしれない。そう思い至った瞬間、絵美里は立ち上がり、足早にウォーカーヒルを後にした。家に帰り着く前に、諒助から短いメッセージが届いた。【別れよう。別荘の荷物を取りに来てくれ。見苦しいことはしないでほしいから、部屋から出ていく猶予はくれてやる】冷たい文面を見て、絵美里は乾いた笑いを漏らしたが、すぐに一筋の涙が伝った。これだけの年月を共にして、情が湧かないはずがない。特に諒助が熱心に追いかけてきてくれていた頃は、自分が世界で一番幸せな女だと思っていた。一緒に生きていこうと、本当に思っていたのだ。それなのに、別れの言葉すらこんなに手短で冷酷だ。愛していると言ったのも彼で、愛していないと切り捨てるのも彼だ。いや。彼が愛しているのは、いつだって自分自身だけ。茜がああも迷いなく立ち去れたのは、とっくにその本性を見限っていたからなのかもしれない。絵美里は深く息を吸い込んで涙を乱暴に拭き、運転手に告げた。「諒助さんの別荘へ」……別荘。諒助が帰るなり、使用人を呼んだ。「手塚絵美里の荷物を全部まとめて地下室に入れろ。茜の荷物は元の場所に戻しておいてくれ」中井は一瞬戸惑った。「諒助様、手塚さんとお喧嘩でもございましたか?」「お前には関係ないだろう」諒助は眉間や目尻をつまんで揉んで、不機嫌に言い放った。中井はそれ以上聞けなかったが、困り顔で続けた。「……以前西園寺さんと別れた時、西園寺さんが荷物を取りに見えて、残りはすべて処分するようにとのご指示がありまして」「…………」諒助が不快そうに眉をひそめた。「諒助様がお許しになったことですので」と中井が申し訳なさそ
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第345話

ならば、これはただの取引だ。諒助の心の隙を突くしかない。「諒助さん、なぜこれだけの年月、私を疑わなかったの?調べようと思えばいくらでもできたのに、なぜ私の言葉だけで信じてくれたの?」「お前を信頼していたからじゃないか!」諒助が怒鳴った。絵美里は冷ややかに笑った。「信頼?女は皆、茜さんみたいにお人好しだとでも思っているの?甘い言葉を二言三言言われたら、本気で信じてしまうとでも?諒助さん、本当のことを言うわ。あなたは最初から、あの女の子が私であってほしかったの。そうでなければ、武井依華が恩人かもしれないと思った時、なぜ私の時と同じように丁重に扱わなかった?あの子じゃ自分に釣り合わないと思ったからでしょう。あなたは私みたいに、家柄のある女が必要だった。私が国外で箔をつけて帰りたいと言った時、なぜあんなにすんなり頷いたの?私の実力をとっくに調べていたからでしょう。私の成績は同世代のお嬢様の中で突出しているわけでもなく、家の商売も大したことはない。でもあなたの理想の女性は完璧でなければならない。だから留学すると言った瞬間に、すぐ賛成した。学校のコネも、教授の選定も、全部あなたが裏で手を回してくれた。私がなぜあんなに必死に頑張ったか、わかる?全部あなたに見せるためよ。成績だって、人に代わりに受けさせたんだから。あなたが私を長い年月をかけて追いかけてきたように見えたけれど、実際は私がやっとあなたの求める基準を満たしたから、ちょうど用済みになった茜さんを切り捨てたんでしょう。茜さんはあなたを一途に愛してくれると思っていたのに、今はあんなに生き生きしていて、傍に男もいる。だから悔しいのよ。でも残念ながら……」諒助は羞恥と怒りで我を忘れ、絵美里の腕を乱暴に掴んで引き寄せた。「いい度胸だ、続けろ!言いたいことがあるなら全部言ってみろ!」「残念ながら、彼女はとっくにあなたの正体を見抜いている。もう戻ってこないわ」絵美里は諒助を真正面から見据えて、冷ややかに笑った。諒助はそう簡単に彼女を死なせてやるつもりなどなく、すぐに手を離した。「何が目当てだ?」「諒助さん、答える前に一つ聞かせて。茜さんを取り戻したとして、どうするつもり?彼女がそれでもあなたと一緒にいたいと言ったら?」絵美里の問いは、茜が投げかけた本質を突く問いとほ
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第346話

和久は静かに茜を見つめた。「一緒に行く理由が、お父さんを助けたからというだけなのか?」茜は、諒助の時は決してそんな理由ではなかったことを思い出した。茜は和久のぶっきらぼうな口調を真似て言った。「もちろん。いつもありがとうございます」和久は茜を見て、微かに口元を緩めた。「……ふ。いいだろう」……夜、マンションに戻った茜は、車の中での和久との会話を思い出して、思わず笑みがこぼれた。その時、スリープ状態のパソコンが不意に通知音を鳴らした。メールだ。きっと探偵から連絡が来たのだろう。茜はすぐにパソコンを開き、本文を読み始めた瞬間に目を輝かせた。【西園寺さん、斎藤夫人と関根夫人は以前、ご両親のプロジェクトに関わっていた形跡があります。ただしプロジェクトが破綻する前に何かを察知したのか、理由をつけて手を引いています。その後、海外へ出た時期と前後して、急激に自家の事業を拡大させています。斎藤夫人の死の直前、斎藤夫人と関根夫人が密かに会っている場面も撮影できました】素晴らしい。また一歩、真実に近づいた。しかし添付された写真を見た瞬間、茜の体が強張った。データをダウンロードし、画像ソフトに取り込む。以前、自力で少しでも手がかりを見つけるために専門の講座を受けて、写真の解析知識を身につけていたのだ。画像の解像度を調整し、木の陰に隠れた不審な人影を拡大した。その顔を見た瞬間、茜は我が目を疑った。——母が車で事故に遭った時、対向車の運転手として、その場で死亡が確認された男だ。死んだはずの人間が、なぜ生きているのだろう?その時、突然玄関のチャイムが鳴り、茜は弾かれたように顔を上げた。手に持っていたグラスが弾け飛び、床で派手な音を立てて砕けた。ガラスの破片を踏まないように気をつけながら、茜は慌てて玄関へ走った。ドアを開けると、和久が立っていた。咄嗟の安堵で思わずすがりつきそうになり、茜はぐっと拳を握って堪えた。「どうした?」和久は茜の顔色の変化を鋭く察知した。「な、何でもないです。ちょっと怖い動画を見てしまって、そこにちょうどチャイムが鳴ったので、驚いてグラスを落としてしまいました」茜は唇を引き結んだ。今はまだ、和久を巻き込むべきではない——そう思ったが、和久はすでに紙袋を提げて中に入ってき
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第347話

茜はそこでようやく、ある事実に気づいた。「していません。警察からは、運転手の遺体はひどく焼け焦げていたため、DNA鑑定で家族と照合して確認したと言われました。それ以上は間違えようがないと思っていて」「焼け焦げていたなら、照合できる部位として一番確実なのは歯だ。歯を一本抜いても、人は死にはしない」和久が静かに指摘した。茜は息を呑んだ。「それってつまり……」二人はしばらく黙り込んだ。和久は茜を見ながら、続きを待っているようだった。茜は正直に話した。「実は、私立探偵を雇っています。この写真もその人からもらいました。おそらく無意識に撮っていたものだと思います」「何のために雇った?」「当時の事件を調べるためです。特に、行方がわからなくなった父の助手の家族を探すために。でも被疑者の娘として表立って動くと、すぐに訴えられてしまいます。だから探偵に任せていたんですが、何年探しても手がかりがなかなか出てこなくて、やっと最近少し見えてきたところで」「なぜそこまで、その探偵を信頼していた?」和久が静かに核心を突いた。茜にはもう隠す理由もなかった。「業界では評判の良い探偵だと確認していましたので」その言葉を口にした瞬間、茜自身も微かな引っかかりを感じた。「確認した」という部分に。以前は気にしていなかったが、今となっては少し気になる。「探偵にも問題があると思いますか?」「茜、何でも簡単に人を信用しすぎるな」「では、あなたのことは?」茜はぱちぱちと瞬きをした。和久が一瞬止まった。胸の奥を軽く揺さぶられたような感覚がした。確かめようとした時、茜はすでに何事もなかったように視線をそらしていた。しかし耳だけがほんのりと赤くなっていた。和久は改めて言った。「信じてくれるなら、俺で構わない」茜はこほんと軽く咳払いし、気を取り直した。「とにかく、私はあの男だと確信しています。私立探偵に改めて調べてもらいましょうか?」「俺が調べる。探偵には当面黙っていろ」「なんでですか?」「この写真の、男の立ち位置を見てみろ」和久が写真を縮小し、男の位置を指した。木陰でタバコを吸っている、ごく平凡な通行人にしか見えない。それ以上の特徴はない。「どういう意味ですか?見た感じ、ただ少し老けただけで……でも肌だけは変ですね」
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第348話

ここまで来たら、隠す必要もない。茜は洗いざらい話した。「両親のプロジェクトのことです。関根成美さんも斎藤様も関わっていた。斎藤様は亡くなりましたが、彼女はずっと私に何かを伝えようとしていたような気がして。特に斎藤家の宴会の日、周囲の反対を押し切って、私を大勢の方に紹介してくださいました。感謝しているように見えたけれど、今考えてみれば、その中には先ほどの写真に写っていた人物が全員揃っていたんです」茜は引き出しから例の集合写真を取り出した。和久は以前にも見ていた。茜が宴会で誰に会ったかも、すでに把握していた。しかしそれを表に出さなかった。「それが斎藤美香が伝えたかったことなのかもしれない。当時、あの場にいた人たちが全員、この件に関わっていた可能性がある」「……聞きにくいことを聞いてもいいですか。父と母のプロジェクト、何かご存じですか?」茜はぎゅっと唇を結び、断られることを覚悟して聞いた。和久は茜を見てから、静かに言った。「詳しくはわからないが、父から聞いたことがある。一言だけな」「何ですか?」「君の母親はとても賢い女性だったと。君の父も大らかで温かみのある人間で、だからこそ父は深く信頼していた。そのプロジェクトにも投資するつもりだったと。しかし俺の父の病状が急速に悪化して、国内の事業にまで手が回らなくなった。その後は——君もわかっているだろう」その後、和久は秀一の急死と、家族内の醜い権力争いに向き合わなければならなかった。一方茜も、国内で帰る家を失うことになった。人生というのは本当に、誰にでも理不尽な冗談を仕掛けてくるものだと思う。しかし父と母のことをこれほど温かく語ってくれる人の言葉を聞いたのは、久しぶりだった。胸の奥が、静かに満たされていく。鼻の奥が、つんと熱くなった。十四歳以降、かつで親切に微笑んでいた人たちはことごとく顔を歪め、両親を悪し様に言い続けたのだから。茜が我に返ると、気づかないうちに一筋の涙がこぼれていた。慌てて拭おうとした瞬間、和久の温かな指の腹がそっと目元の涙をすくい取った。次の瞬間、彼の腕にそっと引き寄せられた。茜はしばらく呆然としていたが、やがて今まで感じたことのない深い安堵に包まれているのに気づいた。あの頃のことを思い出した——水晶のオルゴール。あの頃、ど
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第349話

「なぜ、患者のプライバシーに関わる情報を他の人に話したんですか!?」茜が問い詰めると、医師は冷ややかな声で答えた。「西園寺様、誤解があるようです。こちらから他の方に情報をお伝えしたことは一切ございません。ただ、以前入所されていた療養施設から退院後の状況確認の照会がございまして、そちらには回答する義務がございましたので」なるほど。諒助が、前に父を預けていた施設を通じて状況を探ったのだ。茜は自分の早とちりを詫びた後、念を押した。「今後、ご家族以外からいかなる問い合わせがあっても、一切お答えにならないようお願いします」「承知いたしました」電話を切り、茜は諒助へ短くメッセージを返信した。【結構です】これほど素っ気なく突き返されては、さすがにプライドの高い諒助も一度引き下がったらしい。あの手の人間は、同じ件で二度も自分から頭を下げるような男ではない。予想通り、その後は何の連絡も来なかった。……翌朝。茜は新しく仕立て直したスカートに着替えた。上質な生地が、以前よりしっくりと体にフィットしている。メイクを少しだけ、若き日の母の面影に寄せてみた。気持ちのせいか、鏡の中の自分は今日は妙に顔色が明るく、吹っ切れたように見えた。外に出ると、和久がすでに待っていた。いつもの隙のないスーツ姿ではなく、上質なコートとニットというシンプルな格好で、普段より少し柔らかく親しみやすい雰囲気を纏っていた。二人は目を合わせ、茜はどこか、デートにでも出かけるようなこそぐったい気分になった。和久が静かに口を開いた。「行こう」「はい」精神科病院に到着して、駐車場から少し歩いたところで、不意に背後から声がした。「茜」聞き覚えのある声に、茜は思わず足を止めた。振り返ると、信じられないという顔でこちらを見据えている男がいた。「諒助さん」諒助が大股で近づいてきた。茜の着ているスカートに気づいた瞬間、一瞬足を止め、ふっと優越感をにじませた笑みを浮かべた。「あの生地、見つかったんだな。サイズが合えば、お前に似合うと思っていた」以前と変わらない馴れ馴れしい口ぶりで、記憶を失っていた時間などそもそも存在しなかったかのように話しかけてくる。茜は答えず、本能的に隣の和久を見やった。頭の回転の速い諒助は、その視線の意味を
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第350話

「どういう意味だ?」諒助が詰め寄ろうとしたが、和久はかすかに口元を上げ、それ以上は取り合わなかった。入口で身分証の確認が求められ、ここで初めて誤算が発覚した——諒助の名前は、事前の面会届出リストに入っていなかったのだ。「茜、どういうつもりだ?」茜が振り返った。「申し訳ありません、事前にあなたのお名前を登録していなかったので」諒助は警備員に向き直り、高圧的に言った。「俺は柏原諒助だ。通してくれ」「申し訳ございません、厳格な規則がございまして」警備員は毅然として言った。その時、和久が前に出て、警備員に低く何かを言った。警備員が頷いた。「かしこまりました、お通りください」茜は和久の隣に並び、小声で聞いた。「お兄様、何を言ったんですか?」「そちらに俺があいつの名前届け出が出ているはずだから、再確認してほしいと伝えた」「本当に届け出ていたんですか?」「ああ。彼が必ず来ると思っていた。一度引き下がっても、簡単に諦める人間じゃない。来なければここで裏から手を回して、もっと面倒な事態を引き起こすと思った」「でも私は……」「ここで行かなければ、彼は諦めない。後でこっそり裏工作をされる方がよほど厄介だ」和久が続けた。「……わかりました」父の命を、あんな男の駆け引きの道具になどしたくはなかった。病室に入ると、茜がそっとドアをノックした。和久がその後に続く。「芙美!」雲海は茜を見た瞬間、顔をぱぁっと輝かせた。「芙美、なんでこんなに長い間来なかったんだ?」「忙しかったのよ、でも今日こうして来たじゃない」茜は父の手を優しく握った。自分を母と間違えている声を聞いて、胸の奥が切なく、そして温かくなった。「芙美、また茜ちゃんは来てないのか?」雲海が心配そうに言った。茜は深く息を吸い込んだ。どう答えていいかわからなかった。実のところ、父にこう問われたのは一度や二度のことではない。これまではいつだって、冷静に、淀みなく答えられていたはずだった。しかし今日は、色々なことが重なって少し疲れていた。このまま父に自分が茜だと打ち明けたい——現実を一緒に受け止めたい、そう思った。その時、和久が静かに前に出た。「おじさん、久しぶりです。和久です」「和久か?帰国したのか?君のお父さんは元気か?」雲海が安堵の
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