All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 341 - Chapter 350

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家族編 第53話 結衣という名前

 予定日を一週間後に控えた夜、眠れずにリビングへ降りた。壁掛け時計の秒針が、昼間より大きく聞こえる。街灯の光がソファの背を斜めに照らし、床には窓枠の影が長く伸びていた。  座ってしばらくすると、廊下で足音がした。征也は私を見ると何も言わず引き返し、寝室からブランケットを持ってきた。 「起こしちゃった?」 「隣が空いていれば分かる」  膝へ掛けられた布には、まだ寝床の温もりが残っていた。彼の重みでソファが沈む。私は身体を横へずらし、その肩へ寄りかかった。 「二回目なら、もう少し平気だと思ってた」  思っていたより小さな声になった。征也は私のお腹へ目を落としたまま、腕を背中へ回す。 「俺もだ」  時計が鳴っている。陽向の時には、怖いことを一つ口にすれば、十の手配が返ってきた。今は背中の掌が温かい。私は目を閉じ、もう少しだけここにいたいと思った。 「結衣、あなたに似たら大変ね」 「陽向と二人でお前を取り合うのか。それは困る」  疲れたような真顔だったので、笑ってしまった。征也がこちらを向き、何か言おうとした。その時、お腹の奥がきゅっと締まった。  彼のシャツを掴む。息を吐こうとしても、うまく出ない。 「莉子?」  私の顔を見て、征也が立ち上がった。病院、と言いかけた声を、私は袖を引いて止める。 「少し待って。今の、どのくらいだった?」  征也は時計を見た。スマートフォンを取る手がソファの隙間を探し、膝へ落としてから握り直す。数十秒すると痛みは引き、私はようやく身体を起こせた。 「前駆陣痛かも」  彼は座り直したが、もう背中を預けなかった。時刻を入力する指の横で、画面の光が手首の骨を白く照らしている。 「会社より細かいね」 「会社は代わりがいる」  短く返した後も、指は止まらない。からかうつもりだったのに、喉の奥が詰まった。私はブランケットの下から手を伸ばし、その手首へ触れた。  次の痛みを待っている間、征也は一度も席を離れなかった。窓の外を車が通り過ぎ、冷蔵庫の低い音が止む。痛みは戻らず、先に眠気がやって来た。 「今は大丈夫。ベッドへ戻ろう」  彼は顔を上げたが、すぐには頷かなかった。私は画面に並んだ時刻を見てから、彼の肩に頬を寄せる。 「また痛くなったら、起こすから。隣にいて」  征也はスマートフォンをしまった。差し出
last updateLast Updated : 2026-04-10
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家族編 第54話 四人家族の夜

 本格的な陣痛が始まったのは、その二日後の明け方だった。カーテンはまだ暗く、寝返りを打とうとすると、お腹の奥から腰へ痛みが回った。息を詰めた私のそばで、征也が時計を見ていた。 「さっきから、七分くらいだ」  いつから起きていたのだろう。聞こうとしたところで、また痛みが来た。彼は私の背を支え、空いた手で病院へ電話をかけた。  支度をする間、廊下から三田村に話す声が聞こえた。陽向を頼む、と繰り返している。玄関へ向かう途中で子供部屋の扉を見ると、征也が私の肩へ上着を掛けた。 「大丈夫だ。三田村が来る」  頷いたつもりだったが、次の波に顔を伏せてしまった。上着の前を合わせる指が止まり、代わりに彼の腕が差し出された。  病院へ着く頃には、声を出して息を吐かずにはいられなかった。白い廊下を歩く靴音がやけに遠い。私は征也の袖を掴み、立ち止まるたび、その腕へ身体を預けた。  陣痛室に入ってから、時間の長さが分からなくなった。時計の針は進んでいるのに、痛みの間隔だけが世界の端になったようだった。 「もっと右……そこ。押して」  征也の掌が腰へ回る。強すぎると声を上げると、すぐに力が緩んだ。次の波では言う前に同じところへ手が来て、私はその重みに息を吐いた。 「離さないで。今、そこにいて」 「ああ」  額に張りついた髪を払う指と、腰を押す掌。顔を見る余裕はなかったが、彼がどこにいるかは分かった。  痛みが引いた隙に、陽向の音声メッセージを聞かせてもらった。『ママ、がんばって。パパ、ママのいうこときいてね』。眠そうな声の最後だけが、妙にはっきりしていた。 「……言われたな」  征也が呟いた。笑った途端にまたお腹が張り、私はその腕へ爪を立てる。彼は何も言わず、飲み物を置いて身を寄せた。  やがて、分娩室へ移ると告げられた。陽向を産んだ時のことが、不意に身体へ戻ってきた。もう一度あの痛みを通るのだと思うと、足元が冷えた。 「征也くん」  声が震えた。彼がすぐに顔を近づける。 「手、離さないで」  握り返してきた指にも力が入っていた。いつもより固い頬を見て、彼も怖いのだと分かった。私は何も言えず、その手だけを引いた。  廊下の照明が一つずつ頭上を過ぎる。分娩室へ入る前に、征也がスマートフォンの画面をこちらへ向けた。三田村から届いた、陽向の絵だった。丸が四
last updateLast Updated : 2026-04-10
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家族編 第55話 四人家族の夜

 長い時間の後、部屋に新しい泣き声が響いた。生まれたばかりの結衣は、ミルクとも石鹸とも違う、温かく湿ったような匂いがした。赤い指も、爪の先も、触れるのが怖いほど薄くて小さい。  甲高く、細く、それでも驚くほど力強い声。 「女の子ですよ」  助産師の言葉と同時に、全身の力が抜けた。  胸元へ小さな身体が乗せられる。温かい。赤くて、しわだらけで、両手を固く握りしめている。 「……結衣」  名前を呼ぶと、泣き声が少しだけ途切れた気がした。  征也は私の横に立ったまま固まっている。 「抱いてあげて」  声をかけても、征也はすぐには動かなかった。私の胸元にいる結衣と私の顔を、何度も見比べる。助産師が腕の形を教えると、息を吸い直し、自分から両腕を差し出した。 「……これでいいですか」 「はい。頭を支えて」  小さな結衣が、征也の胸へ収まる。  彼は娘を受け取ったまま息を止めていた。助産師に肩の力を抜くよう言われ、ぎこちなく肘を下げる。 「……こんなに軽かったか」  陽向を抱いた最初の日にも、同じように驚いていた。けれど今日は、小さな頭が腕の中へ落ち着くまで、自分で位置を直している。  結衣が小さく顔をしかめ、また泣き始める。征也は慌てず、低い声で話しかけた。 「結衣。初めまして。……俺が父親だ」  泣き声は止まらない。 「いきなり自己紹介しても分からないわよ」 「これから長い付き合いになる。挨拶くらいさせろ」  笑ったつもりだったのに、頬を涙が伝った。征也が慌ててこちらを見たので首を振る。娘は相変わらず泣いていて、その声を聞くたび、さっきまで硬かったお腹が空になったことを思い出した。  彼の袖が、結衣の頬に触れていた。私がついさっきまで握りしめていた、皺だらけの袖だった。征也は気づいていない。小さな頭を支え、娘の顔を飽きずに覗き込んでいる。  助産師が「慣れていらっしゃいますね」と言うと、征也は一瞬だけ得意そうな顔をした。 「二人目ですから」  私はベッドから笑う。「一人目の時は二時間固まってましたけど」 「莉子」  助産師まで笑った。  結衣を計測のために預けると、征也は空になった腕を下ろし、私のそばへ戻った。 「莉子、どこか痛むか」 「……今は、疲れた」  言い終わるより先に目が閉じかけた。彼がベッドの脇へ膝をつ
last updateLast Updated : 2026-04-11
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家族編 第56話 四人家族の夜

 午後、陽向が病室へやって来た。カーテン越しの柔らかな光が透明なコットの縁を白く光らせる中、三田村に手を引かれていた陽向の足音が、扉の前でぴたりと止まった。 「入らないの?」 「……あかちゃん、いる?」 「いるわよ」  おそるおそる入ってきた息子は、私のベッドの横に置かれた透明なコットを見て目を丸くした。 「ちっちゃい」 「陽向も同じくらいだったのよ」 「うそ」  征也が横から言う。「もっと小さく見えた」 「あなたが怖がりすぎてたからよ」  陽向はコットへ近づき、両手を背中へ回した。触りたい。でも触るのが怖い。そんな顔だ。 「指だけなら、そっとね」  私が言うと、人差し指を一本差し出す。結衣の手が偶然そこへ触れ、小さな指が陽向の指を握った。  陽向が固まった。 「……ぼく、つかまった」  征也が笑った。「もう逃げられないな」 「パパも?」 「とっくに捕まっている」  陽向はしばらく妹の手を見ていた。それから真剣な顔で言う。「結衣ちゃん、ぼく、おにいちゃん。消防車かすね」  約束を覚えていたらしい。  帰る前、陽向は私のベッドへよじ登り、少しだけ甘えた。「ママも、ぼくの?」  胸が締め付けられる。 「もちろん」  私は片腕で息子を抱き、反対側にはコットの結衣がいる。  征也が二人を見下ろし、「俺の場所がない」と不満そうに言った。  陽向が笑って、父へ手を伸ばす。 「パパ、そこ」  示されたのはベッド脇の椅子だった。 「扱いが雑だな」  そう言いながら、征也は素直に座った。  陽向が私の腕の中で身体をずらすと、征也は椅子をもう少し近づけた。息子の踵が膝へ当たっても何も言わず、コットの中へ目をやる。結衣が眠るたび、今度は陽向が何か話したくなるらしい。私は返事をしながら、その髪を撫で続けた。  夕方、三田村から写真が届いた。自宅の床に赤い消防車を置き、その横へ『ゆいちゃん』と書いた紙を貼った陽向が写っている。  征也はしばらく画面を見たまま動かなかった。 「送って」と言うと、彼は珍しく素直に私のスマートフォンへ転送した。 「家族写真のフォルダにも入れた」 「仕事早いね」 「当然だ」  日が傾くと、カーテンが薄い橙色に染まった。征也は写真の画面を暗くし、私の枕元へスマートフォンを置く。 「消防車、消毒
last updateLast Updated : 2026-04-11
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家族編 第57話 四人家族の夜

 退院の日、玄関を開けると、リビングの入り口に色紙の輪が渡されていた。端を留めたテープが光り、高さの揃わない輪がエアコンの風で揺れている。その下から陽向が顔を出し、私たちを待ちきれずに駆けてきた。 「おかえり!」  息子が走ってくる。  征也の腕には結衣がいた。玄関の段差では一度足元を確かめ、小さな頭を胸へ寄せてから上がってくる。私の靴を揃えようとした陽向が、その足を追い越した。 「パパ、じょうず?」  陽向が下から覗く。 「当然だ」 「でも、かた、かたいよ」  図星だったらしい。征也の眉間に皺が寄る。  私は笑いながらソファへ座った。  夕方、結衣が泣き、陽向も「ママ抱っこ」と言い出した。一人で二人は無理だ。  一瞬、空気が止まる。 「俺が結衣を見る」  征也がすぐ動いた。  私は陽向を膝へ乗せる。久しぶりに腕いっぱいで抱くと、息子は何も言わず胸へ顔を埋めた。  征也は泣く結衣を抱き、部屋をゆっくり歩いた。陽向はその背中を目で追いながら、私の服へ頬を擦りつける。 「ママ、結衣ちゃんのとこ、いく?」 「今はここにいるよ」  抱く腕に力を込めると、息子はようやく私の方を向いた。征也はソファの端で足を止め、娘の背を撫でながらこちらを見る。 「俺も座りたいんだが」  陽向は少し迷ってから膝をずらし、父の座る場所を空けた。それでも私の袖は離さなかった。四人で座ると、いつものソファがひどく狭い。征也の肘が私の腕へ触れ、そのすぐ先で結衣がまだ小さく泣いていた。  しばらくして、征也は結衣のおむつを替え始めた。陽向は私の膝から降り、その手元を覗き込む。 「パパ、それ逆」  陽向が指摘する。  征也が手を止める。「何が」 「テープ。こっち」  息子の方が詳しい。 「なぜ知っている」 「ママにおしえてもらった」  征也は黙って直した。  私は笑いをこらえながら陽向の髪を撫でる。 「パパも練習中だから、教えてあげて」 「うん。パパ、がんばって」  上から目線の励ましに、征也が何とも言えない顔をする。  寝る前、陽向は洗面所の踏み台へ乗り、自分で手を洗った。木の角は擦れ、洗面台の水が何度も乾いた跡が残っている。征也はその後ろに立ち、腕の中の結衣の頭を支え直した。 「パパ、もうできる」 「見れば分かる」  鏡の中で目
last updateLast Updated : 2026-04-12
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家族編 第58話 四人家族の夜

 四人で迎える最初の夜は、想像していたよりずっと騒がしかった。リビングへ戻るたび、洗った哺乳瓶や使い終わったガーゼの置き場がなくなっていく。さっきまで眠っていたはずの結衣が、私が腰を下ろすのを待っていたように泣き始めた。  結衣が泣く。陽向がその声で起きる。陽向を寝かせれば、今度は結衣のオムツ。征也と二人で時計を見ながら交代し、気づけば深夜三時だった。 「これが、二人か」  征也が疲れた声で言う。 「今さら?」 「数としては理解していた」 「育児は足し算じゃないのよ」  陽向が寝ぼけたまま廊下へ出てきた。「ママ……」  私は結衣へミルクを飲ませていて動けない。征也がしゃがむ。「どうした」 「ママがいい」  征也は傷ついた顔をしたが、無理に抱かなかった。「分かった。終わるまでここで待つか」  陽向は征也の膝へ座り、私の方を見る。  数分後、結衣をベッドへ戻し、陽向を抱きしめる。「お待たせ」 「うん」  すぐに目を閉じた。  朝方、ようやく二人とも眠った。  リビングのソファに並んで座り、征也と私は何も喋らなかった。窓の外が少しずつ白くなる。  征也は肘を膝へつき、しばらく顔を上げなかった。私も何も聞かず、隣で足を伸ばす。ローテーブルには哺乳瓶、ソファの背には陽向の毛布、床には片方だけの小さな靴下が落ちていた。  彼の手が座面を探り、私の指へ触れた。そのまま握り込まず、指先を引っかけるだけだったので、私の方から掌を重ねた。 「二人とも、やっと寝たね」 「ああ。……お前も寝ろ」  そう言った本人が、次の瞬間には私の肩へ頭を預けていた。重い。文句を言おうと横を見ると、もう目を閉じている。口元の疲れた線を見ていたら、起こす気にはなれなかった。  カーテンの縁が白んでいく。私は彼の髪へ頬を寄せ、靴下を拾うのは後にしようと思った。  産後一か月の健診を終えた帰り、私は久しぶりに陽向の幼稚園へ寄った。春はもう深まり、園庭の木々が濃い影を落としている。その間を走る子供たちの声が、門の外まで届いていた。  陽向は私を見つけると、友達へ向かって叫んだ。 「ぼくのママ! 結衣ちゃんもいる!」  ベビーカーの中の娘を、誇らしげに紹介する。  征也はベビーカーの横で、日差しが結衣の顔に当たっていないか確かめていた。先生がバザーの準備について
last updateLast Updated : 2026-04-12
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家族編 第59話 薔薇の隠し事

 春のチャリティーバザー準備で、幼稚園のホールは母親たちの声と段ボール箱で埋まっていた。  私は寄付品を仕分けながら、昔の家政婦時代と同じように、手を動かすことを楽しんでいた。  そこへ、むせ返るほど濃いダマスクローズの香りが近づいてくる。  鮫島夫人だった。 「まあ、天道さん。元・家政婦さんなら、こういう汚れ物がお得意でしょう?」  取り巻きが運んできた箱には、泥だらけのミニカー、錆びたブックスタンド、黄ばんだぬいぐるみ。  露骨な嫌がらせだった。  私は箱を覗き込み、笑った。 「ええ。捨てるかどうかは、汚れを落としてから決めます」  鮫島夫人は期待した反応と違ったのか、唇を歪めて去っていった。  箱の底からミニカーを取り出すと、車輪の隙間で乾いた泥が崩れた。ブラシを当て、回るようになった車輪を指で弾く。ぬいぐるみは別の箱へ移し、洗って出せるものか一つずつ確かめた。  夫人の背中がホールの向こうへ遠ざかっていく。最新の服を好む人なのに、ジャケットの袖口が擦れていた。新品のバッグを抱えた手と、何度も修理したらしい靴。その取り合わせが妙に気になり、私はミニカーを持ったまま、しばらく目を離せなかった。  昼休み。裏口近くで手を洗っていると、壁の向こうから鮫島夫人の声が聞こえた。 「もう借りられないって、どういうことよ……。私の名義なのよ?」  いつもの甲高い声ではない。  喉を押さえているような、小さく震える声だった。  私はその場を離れた。  盗み聞きを続ける気にはなれなかった。  午後、夫人は何事もなかったように現れた。真紅のバッグ。強い香水。完璧な笑顔。  けれど、カード決済の端末が一度エラーを出しただけで、顔色が変わる。  その手が、端末から逃げるようにバッグを抱え直すのを見た。  翌日、夫人を人気のない中庭へ呼び止めた。 「鮫島様。余計なお世話でしたら、ここで忘れてください」  彼女の目が鋭くなる。 「昨日、少しだけ聞こえてしまいました。借金のことで困っていませんか」  一瞬で表情が凍った。 「何のこと?」  夫人はバッグの口を押さえた。私は、それが昨日端末の前で見せた仕草と同じだと気づいた。 「違っていたら、ごめんなさい。ただ、気になってしまって」  その先は言えなかった。庭の向こうから子供の声がして
last updateLast Updated : 2026-04-13
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家族編 第60話 洗い流す虚勢

 バザー当日。  泥だらけだったミニカーは光を取り戻し、錆びたブックスタンドは落ち着いた黒に塗り直されていた。 「これ、本当に同じもの?」  子供たちが目を輝かせる。  私は少し離れた場所に立つ鮫島夫人を見た。  彼女は今日は香水をつけていなかった。  派手なバッグもない。  顔色は悪かったが、挨拶する相手の目を見ていた。バッグを胸へ抱え直す、いつもの仕草もなかった。  昼過ぎ、彼女の夫が会場へ現れた。  人目のない場所へ連れていこうと夫人の腕を取る。 「話がある。余計なことをしただろ」  鮫島夫人の身体が強張った。  私は一歩動きかける。  けれど、彼女の方が先だった。 「離して」  夫の手を振りほどく。 「昨日、弁護士に相談したわ。あなたが私の名義で作った債務も、会社から抜いた金も、全部調べてもらう」  夫の顔色が変わる。 「誰に入れ知恵された」 「私が決めたの」  鮫島夫人は、初めて胸を張った。 「もう、あなたの失敗を私のせいにはさせない」  私は近くの職員へ目配せした。夫人の夫がもう一度腕を伸ばしたら、声を上げようと思っていた。けれど彼は、周囲を見回すばかりで、その場を動かなかった。  夕方、バザーが終わる頃、鮫島夫人は一人で段ボールを畳んでいた。 「手伝います」  声をかけると、少しだけ苦笑した。 「元・家政婦さんに頼むと、また嫌味になるかしら」 「今は同じ保護者です」  二人で箱を潰す。  しばらくして、夫人が小さく言った。 「離婚するかは、まだ決めてない。でも、私の名義と人生は取り戻す」 「十分だと思います」  帰り際、征也が迎えに来た。  私の少し荒れた指先を見て眉を寄せる。 「また働きすぎたな」 「楽しかったのよ」  鮫島夫人が遠くで頭を下げ、去っていく。  征也はその背中を見てから、私へ視線を戻した。 「俺に何も言わなかったな」 「話していいか、聞いてなかったから」  征也は私の手を取った。指の脇にできたささくれへ触れ、眉を寄せる。私は引こうとしたが、そのまま掌を包まれた。 「じゃあ、これは聞いていいんだな。痛いのか」 「少し。箱を畳みすぎたみたい」  彼は小さく息を吐き、空いている手で私のバッグを持った。ホールから最後の段ボールを運び出す音がした。振り向くと、
last updateLast Updated : 2026-04-13
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家族編 第61話 子供のSOS

 初夏を思わせる強い日差しが、聖星学園幼稚園のアーチ状の鉄門に照りつけ、白い塗装を眩しく光らせている。  お迎えの時間を迎え、色とりどりの日傘の花が咲くエントランス付近は、母親たちのさえずるような高い声と、園舎から飛び出してくる子供たちの足音で賑わっていた。  生け垣の影に立ち、日傘を少し傾けて直射日光を避けながら、門の奥を見つめる。  やがて、水色のスモックを着た小さな影が、園舎の入り口から姿を現した。  陽向だ。  いつもなら、こちらの姿を見つけるなり弾かれたように駆け出してくるはずの足取りが、今日はひどく重い。うつむき加減で、砂利を蹴るようにしてゆっくりと歩いてくる。  その姿が近づくにつれ、視界に飛び込んできた「異変」に、思わず息を呑んだ。  水色のスモックの腹部あたりに、べっとりと黒い泥水のような汚れがこびりついている。さらに、両手で大事そうに抱え込んでいる画用紙の端は無残に破れ、中央には、はっきりとした靴底の泥の跡が幾重にも重なって残っていた。 「陽向」  歩み寄り、砂利の上に膝をついて視線を合わせる。  ビクッと小さな肩が揺れ、陽向が顔を上げた。いつもは太陽のように輝いている大きな瞳が、今は微かに赤く潤み、必死に何かを堪えているように揺れている。 「……お帰りなさい。その泥、どうしたの?」  画用紙を持つ小さな指先には、泥だけでなく、青や赤の絵の具がべっとりと混ざり合い、乾いてひび割れていた。  陽向は、画用紙を背中に隠すようにして、無理に口角を引き上げた。 「……転んじゃったの」  その声は、空気をたくさん含んで震えていた。 「えのぐのお水、もってて……ころんで。絵も、おちて……みんな、ふんじゃった」  背中に回された小さな手が、画用紙の端をぎゅっと握りしめているのがわかる。画用紙がクシャリと潰れる乾いた音がした。  指先を伸ばし、陽向の頬に跳ねた泥をそっと親指の腹で拭う。  転んだだけで、画用紙のど真ん中に、あんなにはっきりとした靴底の跡が残るだろうか。それに、陽向の瞳の奥にあるのは、自分の失敗に対する恥ずかしさではなく、もっと別の、誰かを庇うような強張った色だった。 「……そっか。お怪我がなくてよかったわ。帰ったら、一緒にお洗濯しましょうね」  問い詰めたい衝動を喉の奥に押し込み、陽向の頭を優しく撫でる。
last updateLast Updated : 2026-04-14
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家族編 第62話 子供のSOS

 白石夫人の隣には、彼女の息子が立っていた。  陽向と同じ水色のスモックを着ているはずなのに、その生地にはシワ一つなく、まるで糊付けされたマネキンのように直立している。 「うちの息子が言うには、陽向くん、一人で勝手に走り回って転んで、絵の具のバケツをひっくり返してしまったそうですわよ。……少し、お行儀が良すぎる環境で育った反動かしらね」  白石夫人の口元には、薄い笑みが張り付いている。  しかし、その言葉の端々に混ざる粘り気のある優越感が、鼓膜を不快に撫でた。  陽向は、ギュッと唇を噛み締め、小さな両手を震わせた。それでも、反論の言葉を飲み込み、うつむいたまま何も言わない。  陽向の視線は、白石夫人の隣に立つ「健太くん」の足元に向けられていた。  健太くんの瞳は、どこにも焦点を結んでいない。ただ自分の足元だけを、まばたきすら忘れたようにじっと見つめている。  その視線を辿ると、完璧に磨き上げられたはずの黒い革靴の縁に、ほんの微かな「綻び」があった。靴底の側面に、赤と青の絵の具のようなものがわずかにこびりついている。  (……絵の具?)  シワ一つない糊付けされたスモックとは不釣り合いな、足元の小さな汚れ。  しかし、白石夫人は陽向の泥汚れを嘲笑うことに夢中で、自分の息子の足元にあるその不自然な汚れには全く気づいていない。  俯いたままの目には、母親が声を張り上げても、ほとんど動きがなかった。  彼は、靴についたその小さな汚れから、まるで目を逸らすことを禁じられているかのように、ただ息を潜めて立ち尽くしていた。  その細い肩は、内側に極端に丸まり、呼吸をしているのかすら疑わしいほどに胸の起伏が浅い。  立ち上がり、白石夫人の顔を真っ直ぐに見据える。 「ご心配をおかけしました。ですが、陽向は自分の失敗を人のせいにするような子ではありませんわ。泥くらい、洗えばすぐに落ちますから」  平静な声で返しながら、視線は自然と、白石夫人の手元へと動いた。  ブブッ、ブブッ。  彼女が両手で握りしめている、真紅のブランドバッグの中で、スマートフォンが短い振動音を立てた。  その瞬間。  白石夫人の顔から、先ほどまでの冷ややかな優越感が、文字通り血の気とともにスッと消え去った。  彼女の視線がバッグの隙間に落ちる。画面に表示された文字を見たの
last updateLast Updated : 2026-04-14
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