All Chapters of 没落令嬢の家政婦契約 ~冷酷CEOは、初恋を逃さない~: Chapter 351 - Chapter 360

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家族編 第63話 子供のSOS

 残されたのは、乱れた空気と、ツンとした香水の残り香だけ。  砂利の上に立ち尽くし、遠ざかる親子の背中を見つめる。  息子の、あの光のない瞳。そして、スマートフォンの通知一つで、人が変わったように怯え切った母親の姿。  ただの子供同士の喧嘩ではない。もっと重く、湿った何かが、あの親子の間に横たわっている。  (……ひどい圧迫感)  肺の奥に、泥水が流れ込んでくるような錯覚。  陽向の肩を抱き寄せ、その温かい体温を確かめるように強く引き寄せる。 「帰ろう、陽向。お家でゆっくり、お洗濯しましょう」 「……うん」  小さな手が、私のワンピースの裾をぎゅっと握り返してきた。◇ 洗面所に、激しい水音が響いている。  蛇口から勢いよく吐き出されるぬるま湯が、洗面ボウルに張られた泡を白く盛り上げていた。  袖を肘まで捲り上げ、陽向のスモックを洗濯板に押し当てる。  固形石鹸を繊維の奥まで擦り込み、専用の硬いブラシで叩くようにして泥と絵の具を掻き出していく。  シュッ、シュッ、という規則的な摩擦音。  水が、どす黒い青色に濁っていく。  表面の泥はすぐに落ちた。しかし、繊維の奥深くまで染み込んだ絵の具のシミは、生地に頑固に居座り続けている。 「……ママ」  洗面所の入り口から、パジャマに着替えた陽向が不安そうに顔を覗かせていた。  両手で、あの泥だらけの画用紙の切れ端を抱きしめている。 「どうしたの? おやつ、テーブルに置いてあるわよ」  手を止めず、振り返らずに明るい声を作る。 「ママ……ごめん。さっき、うそついた」  陽向の声が、ついに水気を含んで震え出した。  手を止め、泡だらけの手をタオルで拭って振り返る。  陽向が抱きしめていた画用紙。そこに描かれていたのは、黒いクレヨンで力強く描かれた、背の高い男の人の姿だった。隣には、少し背の低い女の人と、小さな男の子が手を繋いでいる。  しかし、その「パパ」の顔の部分に、べっとりと黒い泥の足跡が重なり、輪郭を完全に潰していた。 「ぼく、ころんでないの。けんたくんが……えのぐ、えいってして。パパの絵、ふんだ」  陽向の頬を、大粒の涙が伝い落ちた。 「パパに、プレゼントするつもりだったのに……」  しゃくりあげる小さな体を、膝をついて強く抱きしめる。  石鹸の匂いと、子供の
last updateLast Updated : 2026-04-15
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家族編 第64話 子供のSOS

 ガチャリ。  玄関の重厚なオーク材の扉が開く音が、廊下の奥から響いた。  続いて、革靴を脱ぐ音がして、廊下を近づく足音が聞こえた。いつもより少し速い。  洗面所の空気が、ふっと変わる。  外の夜気を纏った、微かなシガーと、冷ややかな空気を孕んだ特有の匂い。  扉の枠に、長身の影が落ちた。 「……ただいま」  低い声。  天道征也が、漆黒のスーツ姿のまま、そこに立っていた。  結んだネクタイを少し緩める仕草。しかし、彼の視線は、泣きじゃくる陽向と、私の足元に落ちた「泥まみれの画用紙」に釘付けになっていた。  空気が、一瞬にして重くなる。  征也は音もなく歩み寄ると、長い足を折り曲げて片膝をついた。 「……陽向」  静かな声。怒りを押し殺し、努めて平坦に保たれた音の響きだった。  陽向はビクッと体を震わせ、泣き顔のまま征也を見上げた。 「パ、パパ……おかえりなさい。あのね、これ……」  震える手で、泥のついた画用紙を差し出す。 「ぼくが、おとしたの。……ごめんなさい」  まだ健太くんを庇おうとする陽向の手から、征也の大きく、形の良い手が、その画用紙を受け取った。  指先が、泥で潰された「自分の顔」の跡と、引きちぎられた端の感触をゆっくりとなぞる。  カサッ、という紙の音が、異様に大きく聞こえた。  征也の顎の筋肉が、ギリッと硬く引き締まるのが見えた。 「……陽向。これは、落としただけじゃないだろう」  画用紙の端を持つ指が白くなっていた。その声に息子の肩が縮むのを見て、征也は一度口を閉じた。  陽向は私の服を握ったまま、父を見上げる。 「けんたくんって言ったら、パパ、おこる? やっつける?」  征也はすぐには返せなかった。踏まれた絵へ目を落とし、そこから息子の顔へ戻す。 「……怒ってる。お前がこれを描いてる時のことを考えたらな」 「だめ! けんたくん、おこらないで!」  陽向が、征也のスーツの袖を小さな手で必死に掴んだ。 「けんたくん、泣いてたの! ほんとは、やりたくない顔だった。だから……やっつけないで」  必死に訴える陽向の顔を、征也は少し驚いたように見つめ、やがて小さく息を吐いた。  征也の大きな手が、陽向の頭を一度だけ、力強く撫でた。 「……お前は、本当に誰かに似て、お節介で優しすぎるな」  
last updateLast Updated : 2026-04-15
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家族編 第65話 子供のSOS

 征也はゆっくりと立ち上がり、手に持った画用紙を洗面台の端に置いた。  スーツの生地が擦れる音が、ひどく重々しい。 「……聞いたか。子供が無理やり悪意を演じさせられている。家庭という密室の中で、親からどんな圧力をかけられているか想像もつかんな」  征也は、低い声で私に向かって言った。 「白石の父親だな。あの家の権力を握っているのは。……明日、鈴木に調べさせる。裏の繋がりから取引先まで全て洗い出し、あの男の社会的地位を根元から潰してやる。俺の家族に泥を投げつけた代償だ」  彼の手は、まだ画用紙の端を押さえていた。力を入れすぎれば裂けると気づいたのか、指が一本ずつ離れる。 「待って、征也くん。それは違うわ」  私は、彼に歩み寄り、その硬い腕を両手で包み込むように掴んだ。  シャツ越しに伝わってくる、彼の高い体温。 「私だって腹が立つよ。でも、会社を潰されたあの人が、帰った家で誰に当たると思う?」  園で見た健太くんの肩が浮かんだ。母親に掴まれても、声一つ上げなかった肩だった。 「陽向が庇った子を、もっと怖い目に遭わせたくない」  征也の顔が近づき、鼻先が触れ合う距離で止まる。 「では、どうしろと言うんだ。俺の大事な息子が傷つけられて、黙って見ていろと?」 「違うわ」  私も、今すぐ誰かを責めたかった。洗面台に置かれた絵を見ると、喉の奥が熱くなる。それでも、征也の腕を放す気にはなれなかった。 「まず、白石さんと話してみたい。あの子を連れて帰る時、あの人も怯えてたの」  征也は私を見ていた。蛇口から落ちた水滴が、泡の残るボウルを叩く。 「話してどうなる」 「分からない。でも……あの親子だけを置いて、終わりにはできない」  言いながら、自分の指に力が入っているのに気づいた。征也は腕を引かず、その手元を一度見下ろした。  やがて、征也はふっと唇の端を上げ、私の腰に腕を回して強く抱き寄せた。 「人の家のことまで背負うつもりか」 「陽向が、もう背負って帰ってきちゃったもの」  彼の腕に力がこもった。私はその胸へ額を寄せ、ようやく顔を隠した。息子の前では泣かずにいられたのに、もう少しで声が漏れそうだった。 「……三田村には話しておく。弁護士が必要なら呼べ。危なくなる前に、俺にも言え」  私は頷いた。征也は返事を急かさず、私が息を整え
last updateLast Updated : 2026-04-16
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家族編 第66話 汚れを落とす

 聖星学園幼稚園のアーチ状の鉄門は、初夏を思わせる強い日差しを受け、白い塗装を眩しく反射させていた。  お迎えの時間。色とりどりの日傘の間から子供たちの声が弾ける中、私は少し離れた生け垣のそばで、白石夫人と健太くんの姿を見つめていた。  夫人は今日も隙のない濃紺のスーツ姿だったが、何度もスマートフォンを確かめる指先だけが落ち着かない。その横で健太くんは、両手を身体の前で揃えたまま、じっと地面を見ていた。  昨日、陽向から聞いた言葉が頭を離れない。  ――健太くん、本当はやりたくなかったみたいだった。  私はバッグの中でスマートフォンを握った。何かを暴くためではない。ただ、異変が起きた時にすぐ助けを呼べるよう、緊急連絡の画面だけを開いておく。  その時、駐車場の入口から激しいタイヤの摩擦音が響いた。  黒塗りの大型セダンが、指定された区画を無視して斜めに停まる。運転席から降りてきた男を見た瞬間、白石夫人の顔から血の気が引いた。  夫だ。 「おい!」  野太い怒鳴り声に、周囲の母親たちが一斉に振り返る。  男は人目も構わず夫人へ近づき、腕を乱暴に掴んだ。 「あなた、やめて。みんなが見てる……」 「見させておけ! 銀行から追加融資を断られた。お前がくだらない見栄に金を使うからだろうが!」  違う。  夫人の怯え方は、今日初めて怒鳴られた人のものではない。  私はバッグからスマートフォンを出し、幼稚園の警備担当へ位置と状況を送った。 『保護者同士のトラブル。暴力に発展する可能性があります。すぐエントランスへ来てください』  送信を終え、動画撮影に切り替えた。画面を向けた直後、男の手が高く上がった。 「やめてください!」  声を上げて歩み出す。  けれど、一歩だけ間に合わなかった。  乾いた音が響き、白石夫人の顔が横へ弾かれた。 「ママ!」  健太くんが駆け寄ろうとする。  撮影を止めてスマートフォンをバッグへ落とし、私は反射的にその小さな身体を抱き止め、自分の背中側へ庇った。 「健太くん、ここにいて」  男がこちらを睨む。 「なんだ、お前は」  喉が冷たくなる。それでも足は退かなかった。 「警備の方を呼びました。今のことも記録しています」  バッグの中でスマートフォンが短く震えた。 『向かっています』  取り
last updateLast Updated : 2026-04-16
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家族編 第67話 汚れを落とす

 男の顔が、みるみる赤黒く染まっていった。 「記録だと? 勝手な真似をするな!」  こちらへ踏み出そうとした男の前で、私は健太くんをさらに背中側へ下がらせた。  白石夫人は頬を押さえながら立っている。足は震えていたが、息子を見た瞬間、その目に初めて別の色が宿った。 「あなた、もうやめて」  声は小さい。  それでも、夫へ向けてはっきりと言った。 「なんだと?」 「健太の前で、もうやめて」  男の手が再び動く。  その瞬間、エントランスの方から複数の足音が響いた。 「お客様、そこまでです!」  幼稚園の警備員二人と職員が駆け込んでくる。男は舌打ちし、夫人の腕を掴もうとしたが、警備員が間へ入った。 「家庭の問題だ! 部外者は下がれ!」 「園内での暴力です。警察にも連絡します」  職員の声は震えていたが、退かなかった。  私はスマートフォンを持ち上げた。 「先ほどの暴行は記録されています。必要であれば提出します」  男の目が一瞬だけ泳ぐ。  白石夫人は、その隙に健太くんを抱き寄せた。  子供の細い腕が母親の腰へ回る。 「ママ……帰りたくない」  かすかな一言だった。  けれど夫人の身体が、はっきりと震えた。  男も聞いたらしい。 「何を馬鹿なこと言ってる。帰るぞ!」 「帰りません」  夫人は息を吸い直した。 「今日は、健太と二人で実家に行きます」 「誰が許した!」 「許してもらう話じゃないでしょう」  自分でもその言葉に驚いたのか、夫人は目を見開いた。けれど、もう訂正しなかった。  遠くからパトカーのサイレンが近づいてくる。  男は周囲を見回し、何か言い返そうとして、結局口を噤んだ。  私は夫人へスマートフォンを見せる。 「映像も声も、残っています」  夫人はすぐには答えなかった。  ただ、健太くんの頭を抱く腕へ少しだけ力を込めた。 「……消さないでください」 「分かりました」  警察官が到着し、事情を聞き始める。  私は見た順に話した。殴る音を説明しようとしたところで声が詰まり、警察官が頷くのを待ってから続けた。隣で夫人が顔を上げたので、そこで口を閉じる。  やがて彼女は、自分の頬へ残った赤い痕を指先で触れ、警察官を真っ直ぐ見た。 「これ、今日だけじゃありません」  その声を聞いた瞬
last updateLast Updated : 2026-04-17
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家族編 第68話 汚れを落とす

「ママ!」  園舎の方から、陽向が走ってくる足音が聞こえた。  私は瞬時に強張った表情を消し、いつもの柔らかな母親の顔を作って、駆け寄ってくる我が子を抱き止めた。 「おかえり、陽向」 「ママ、どうしたの? みんな、変なお顔してる」 「ううん、何でもないわ。……さあ、帰りましょう。今日のおやつは、陽向の好きなプリンよ」  陽向の温かい小さな手を握り、私はエントランスを後にした。  背中には、まだ生々しい暴力の残滓が、ねっとりと張り付いていた。◇ 数日後の午前。  幼稚園から少し離れた場所にある、会員制のホテルラウンジ。  分厚い絨毯が足音を吸い込み、微かなピアノの生演奏が空気を柔らかく撫でている。アーチ型の窓から差し込む初夏の日差しは、磨き上げられたテーブルの上に落ち、ボーンチャイナのティーカップを白く輝かせていた。  テーブルを挟んだ向かい側。白石夫人は、運ばれてきたダージリンティーに手をつけることもなく、膝の上で両手をきつく握りしめていた。  濃紺のワンピースの首元には、季節外れのシルクのストールが隙間なく巻かれている。丁寧に塗り重ねられたファンデーションの下からでも、頬骨のあたりに広がる青黒い腫れがうっすらと透けて見えていた。 「……お呼び立てしてしまって、申し訳ありません」  静かな声で切り出すと、白石夫人の肩がビクッと跳ねた。 「……健太は、実家の母に見てもらっています。あの子の前では、なかなか話せなくて」  その声はひどく掠れ、以前のエントランスで響かせていたような、他者を威圧する鋭さは欠片も残っていない。まるで、見えない鎖に首を絞められているかのような、息苦しい響きだった。  カップの縁を指先でそっとなぞる。  紅茶の温もりが、指の腹からじんわりと伝わってくる。 「先日の記録、残してあります。今日は、その確認だけでも大丈夫です」 「……まだ、ありますか」  夫人の目が、私のハンドバッグへ向いた。  エプロンのポケットの代わりに、今日は膝に置いたハンドバッグの中から、スマートフォンを取り出す。  冷たい金属の感触。  画面を数回タップし、テーブルの上を滑らせて、彼女の目の前に置いた。  画面には、数日前の幼稚園のエントランスが映っていた。男の手が動き、乾いた音がしたところで、私は再生を止めた。頬を打たれた
last updateLast Updated : 2026-04-17
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家族編 第69話 汚れを落とす

「無理に見なくていいです。……残してほしいとおっしゃったから、消さずにあります。ここに置いておきますね」  夫人の動きがピタリと止まり、そして、糸が切れたように俯いた。 「……帰らないって言えたのに。実家にいても、電話が鳴るたびに怖くなるんです」  ポタ、ポタと、テーブルの木目に大粒の涙が落ちていく。 「あの人が怒るのは、私が至らないから。私が、家の管理をちゃんとできなくて、あの人の『完璧な妻』になれないから……! 私が我慢すれば、それで……」  帰らないと決めたあとも、長く言われ続けた言葉は消えないのだろう。彼女は夫を庇うように言いながら、伏せた画面から手を離さなかった。 「それは違います」  彼女の指がこちらへ動いた。私はその手を取り、握り返した。 「でも、あなたは健太くんを連れて実家へ行ったでしょう。あの日の決心を、今一人で取り消さなくていいと思います」 「……っ」 「陽向は、健太くんが怒られるのを怖がっていました。自分の絵を踏まれたのに、あの子のことばかり……」  あの日の泣き顔が浮かび、声が途切れた。私は息を吸い直す。 「健太くんが何を思っていたのかは、私には分かりません。でも、また同じことが起きるのは嫌なんです」  夫人の肩が、激しく震え始めた。  夫人はストールの端で目元を押さえた。園で健太くんを抱き寄せた時にも、同じように手が震えていた。 「今、何もかも決めなくても。誰かに相談する時、この記録が必要なら渡します」  私はスマートフォンを伏せたまま、彼女の手元へ寄せた。 「一人で話すのがつらければ、一緒に行きます。私もあの場にいましたから」  夫人は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、手の中のスマートフォンを震える指で握りしめた。  彼女が息を整え、何か言おうとした、その時だった。 「――おい! こんな所にいたのか!!」  静寂を切り裂くような、野太く下品な大声。  ラウンジの入り口から、恰幅の良い男がズカズカと絨毯を踏み荒らして近づいてきた。  白石夫人の夫だ。  今日はエントランスの時とは違い、高級なスリーピースのスーツを隙なく着込んでいるが、その体から発散される強烈なムスクの香水と、威圧的な態度は、周囲の空気をひどく淀ませた。 「あ、あなた……!? どうして、ここが……」  夫人が弾かれたように
last updateLast Updated : 2026-04-18
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家族編 第70話 汚れを落とす

「いやあ! 天道奥様! うちの愚妻が、いつも大変お世話になっております!」  男は、大仰な動作で深く頭を下げ、持っていた桐箱をテーブルの上に恭しく置いた。 「本日は、先日の幼稚園での『子供同士のちょっとした諍い』について、親としてお詫びに上がりまして。いや、妻のスマートフォンにGPSを入れておりましてね、こちらにいらっしゃると知り、慌てて駆けつけた次第です」  息を吸うのも忘れるほどの、露骨な二面性。  男の目は、私を「一人の人間」としてではなく、「天道グループという巨大な権力に繋がるパイプ」として舐め回すように値踏みしている。 「さあ、お前も早く頭を下げろ! 天道様の御曹司に怪我をさせかけたんだぞ!」  男は、へらへらと笑ったまま、隣に立つ妻の首根っこを太い手で乱暴に掴み、無理やりテーブルに押し付けるように頭を下げさせた。 「痛っ……!」 「黙って謝れ! この役立たずが!!」  私に向けられた笑顔のまま、男の口から吐き出されたのは、妻に対するゴキブリでも見るような呪詛だった。  首を掴まれた夫人の顔が苦痛に歪み、ストールの隙間から、青黒い痣が痛々しく覗く。 「天道社長には、どうかご内密に。子供の喧嘩で、大人同士の……その、今後のビジネスチャンスに水を差すようなことがあっては、お互いに損でしょう? うちの会社も、ぜひ天道グループの新規プロジェクトに一枚噛ませていただきたく……」  男の言葉から漂ってくるのは、腐りきった泥の臭い。  自分の家族をサンドバッグにしておきながら、権力者の前では平気で尻尾を振る。この男の頭の中には、妻の痛みも、息子の心の悲鳴も、微塵も存在していないのだ。  夫人の首を掴む手を見て、私はカップを置いた。ソーサーに強く当たり、紅茶が少しこぼれる。 「手を離してください」  男の笑顔が止まった。 「いや、奥様。これはほんの気持ちでして。中身は最高級の――」 「贈り物の話ではありません。奥様が痛がっています」  声を低くしようとしても、最後の方が震えた。私は桐箱を男の方へ押し戻し、椅子から腰を浮かせた。  真っ直ぐに男の目を見据える。  男の顔から、急速に愛想笑いが剥がれ落ち、どす黒い本性が表面に浮かび上がってきた。 「……なんだと? たかが元・家政婦の分際で、偉そうに……!」  男の喉仏が怒りで上下し
last updateLast Updated : 2026-04-18
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家族編 第71話 汚れを落とす

「――触らないで!!」  ラウンジの空気を切り裂くような、金切り声。  振り上げられた男の腕を、白石夫人が両手で力一杯に弾き飛ばしたのだ。 「なっ……! お前、俺に向かって……!」  男が目を剥く。園で帰らないと告げられた時と同じように、自分の言葉が通じないことに苛立っていた。  夫人は、激しい呼吸を繰り返しながら、テーブルの上のスマートフォンをガシッと掴み取った。 「もう、たくさんよ。……あなたの機嫌を取るために、息を殺して生きるのは。……あの子の心を、これ以上殺させるわけにはいかないのよ!!」  夫人は、震える手でスマートフォンの画面を男の目の前に突きつけた。  再生された動画。エントランスで妻の頬を打つ、男自身の姿。 「な……てめえ、何撮ってやがる!!」 「園でお巡りさんにも話したでしょう。帰りません。今日のことも話します。……健太にも、私にも、もう近づかないで!」  夫人の目は真っ赤に血走り、涙でぐしゃぐしゃだったが、その瞳の奥には、子供を守る母親としての凄絶な炎が燃え上がっていた。 「ふざけるな! そんな真似してみろ、ただで済むと……!」  男が顔を真っ赤にして夫人に飛びかかろうとした、その時。 「――ただで済まないのは、お前の方だ」  地獄の底から響くような、鼓膜を直接震わせる低い声。  背後から吹き抜けた圧倒的な冷気に、男の動きが完全に凍りついた。  ラウンジの入り口に、長身の影が立っていた。  漆黒のスーツの肩が、息に合わせて上下していた。急いで来たのだと気づくより先に、その顔を見て膝から力が抜けそうになった。  天道征也だ。 「て、天道……社長……!?」  男の顔から、一瞬にして血の気が引いた。先ほどの傲慢な怒りはどこへやら、膝がガクガクと震え始めている。  征也くんは、音もなく絨毯の上を歩み寄り、私の隣に立った。  征也は私の腕と夫人の顔へ素早く目をやり、男の前へ立った。 「……俺の妻の前で、何をしている」 「ち、違います! これは誤解でして! 私はただ、妻がご迷惑をおかけしたと聞いて……」  男が必死に揉み手をして言い訳を始める。  征也くんは、その言葉を完全に無視し、冷酷に宣告した。 「取引の話なら、審査は終わっている。受けられん。……それより、彼女から離れろ」 「そ、そんな……! ど
last updateLast Updated : 2026-04-19
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家族編 第72話 汚れを落とす

 警備員が間に入ると、男は口を開きかけ、征也を見て黙った。桐箱を置き去りにしたまま、促されてラウンジを出ていく。夫人は、その背が見えなくなるまで身を固くしていた。  ドタドタという見苦しい足音が遠ざかり、再び静かなピアノの調べが戻ってくる。  緊張の糸が切れたのか、白石夫人はその場にへたり込むようにしてしゃがみ込んだ。 「……っ、あああ……っ!」  顔を両手で覆い、子供のように声を上げて泣きじゃくる。  帰らないと言い切った声が嘘のように、肩が震えていた。私は彼女のそばへしゃがんだ。  私は彼女の背中にそっと手を回し、ゆっくりと一定のリズムで撫でた。 「……もう出ていきました。少し、ここで休みましょう」 「……ありがとう……ございます……。本当に、ありがとう……!」  夫人は、ワンピースの裾を強く握りしめ、何度も何度も感謝の言葉を繰り返した。◇ 夕暮れの冷たい風が吹き抜ける中、黒塗りのリムジンが滑るようにして道路を走り出していた。  広々とした後部座席。  幼稚園で遊び疲れて眠ってしまった陽向を真ん中に挟み、私と征也くんは静かに座っていた。  街灯のオレンジ色の光が、一定のリズムで車内を流れていく。 「……白石夫人、これから大変な手続きがたくさん待っているわね」  私が、陽向の柔らかい髪を撫でながらポツリと呟くと、征也くんは小さく息を吐いた。 「弁護士が必要なら呼べる。あの男が実家まで来るようなら、すぐ連絡させろ」  征也は声を落として言った。二人の間で眠る陽向の頭が揺れ、彼は話を止めて膝へ受け止める。息子の髪を撫でるその手に、私も指を添えた。 「……お前も、手が冷たい」 「平気だと思ってたんだけどね。あなたの顔を見たら、急に」  私が少し笑うと、征也は陽向を起こさないよう身体を傾け、手を伸ばした。私の耳にかかった髪を払ってから、頬へ触れる。 「……お前まで殴られるところだった」  低い声だった。返事をしようとしても、その手が離れるまでは何も言えなかった。  タイヤが舗道の継ぎ目を越える。眠ったままの陽向が父の膝へ頬を擦りつけ、征也は背を起こした。私は息子の上で重なった手を、そのまま握っていた。  白石夫人には、まだ怖い夜があるだろう。必要になった時に連絡できるよう、別れ際に交わした約束を思い出す。私はもう一度、征也
last updateLast Updated : 2026-04-19
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