All Chapters of 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

懇願とも恫喝ともつかない声を上げて床に蹲るその姿に、琴音の表情が修羅の如く変わった。「出てお行き!よくもぬけぬけと顔を出せたものね!」琴音の怒声が響き渡る。「この子の人生を何年狂わせたと思ってるの?私たちから娘を奪っておいて、挙句ボロボロにして返すなんて……!あんたへの借りをどう返してもらおうかと思ってたところよ。どの面下げてここに来たのッ!」琴音の目には、娘を傷つけられた深い憎悪と、積年の恨みが燃え盛っていた。「誤解なんです、琴音さん!あれは全部違って……あの女とは何の関係もない!俺の心には紫音しかいないんです、信じてください!」「お黙り!」琴音の一喝が、清也の弁解を叩き斬った。「あんたが誰と遊ぼうが、もう知ったこっちゃないのよ。二度と私たちの前に顔を見せるんじゃないわ!」紫音は冷ややかな目で、床に這いつくばる男を見下ろした。まるで払っても払っても纏わりつく血吸蛭のようだ。どこまでも身勝手で、厚かましい。ここが京極の本邸だと知りながら、土足で踏み込んでくる神経には反吐が出る。「紫音、頼むよ……戻ってきてくれ!俺にはお前が必要なんだ、会社だって紫音がいないと回らない!そうだ、会社の権利も全部お前にやる、名義だって書き換えるから!だから俺を捨てないでくれ!」清也は泣きすがるように叫び、紫音の足元へ擦り寄ろうとした。「この数日、地獄だった……お前なしの人生なんて考えられない。お願いだ、戻ってきてくれ!」その言葉を聞いた瞬間、紫音の唇に乾いた笑みが浮かんだ。ああ、やっぱり。そういうことか。彼は自分を愛しているから来たのではない。経営難に陥った会社を処理し、尻拭いをしてくれる「便利な道具」を取り戻しに来ただけだ。今さら会社を譲ると言われても、中身はとっくに空っぽ。紫音が自らの手で主要プロジェクトを解約し、ボロボロにした抜け殻だ。それを押し付けて、自分だけ楽になろうという魂胆が見え透いている。清也がここまで泥酔している理由も明白だ。山積みのトラブルから目を背け、現実逃避したくて酒に逃げたのだろう。都合が悪くなれば酒に溺れ、責任を誰かに押し付ける──この男の本質は、昔から何ひとつ変わっていない。あまりの情けなさに、怒りを通り越して哀れみすら覚えた。パァン!乾いた音が玄関ホールに響いた。琴音の掌が、清也の頬を強く叩いたの
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第82話

紫音は深い溜め息をついた。ここまで話が通じない相手だとは思わなかった。もはや怒りを通り越して、呆れ果てるしかない。「清也、はっきり言っておくわ」紫音は冷徹に見下ろした。「あなたとの復縁なんて、天地がひっくり返ってもあり得ない。私はもうすぐ律さんと婚約するし、あなたには芙花がいるでしょう?もうお互い関わるべきじゃないの」「紫音、そんな……」「これ以上騒ぐなら警察を呼ぶわ。……自分の足で帰って。これ以上、自分を惨めにするのはやめなさい」紫音は感情を押し殺し、諭すように告げた。感情的になって怒鳴れば、相手はさらに逆上するかもしれない。それに何より、興奮した母の血圧が心配だった。かつて愛した男の成れの果てが、これだ。プライドも理性もかなぐり捨て、ただ自分の都合だけで暴れ回る化け物。紫音は今、本当の意味で不破清也という人間の正体を見定めていた。「紫音、もう怒らないでくれよ……頼むから一緒に帰ろう。あの女とは本当に何もないんだ、嘘じゃない!俺と芙花は、お前が想像してるような関係じゃ……誤解なんだよ!」清也はまだ食い下がった。「琴音さんだって、昔から俺のこと気に入らないのは分かってます。でも、俺の心には紫音しかいないんです!昔も、今も、これからも!頼みます、証明するチャンスをください。俺は変わりますから!」玄関先での押し問答は泥沼の様相を呈していた。清也は必死の形相で許しを請い、その場から一歩も動こうとしない。その瞳は涙で潤み、心からの懺悔に見えなくもない。けれど。口では「何の関係もない」と言いながら、彼が口走ったのは「俺と芙花は」という言葉だった。誤解だと叫ぶその裏で、彼はまだその元凶である女と縁を切るという選択肢すら示せないでいる。名前が出ること自体が、彼の中で彼女がまだ大きな位置を占めている証拠ではないか。滑稽すぎて笑いすら出てこない。もっとも、今の紫音にとっては彼が浮気相手をどう扱おうがどうでもいいことだ。彼らのことなど、路傍の石ころほどの関心もない。「清也、もうその無意味な台詞は聞き飽きたわ。最後にもう一度だけ警告する。……今すぐ消えて」紫音はそれ以上、言葉を交わすのも嫌だった。同じ空間にいるだけで生理的な嫌悪感が込み上げてくる。一秒でも早くこの男から逃れたい。一生、視界に入れたくもない。「嫌だ、帰らな
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第83話

ドガッ!鈍い衝撃音が響く。すでに酩酊状態で足元の覚束なかった清也は、為す術もなく床に叩きつけられた。「ぐぅっ……!?」清也は無様に床を這い、呻き声を上げる。州は冷ややかにそれを見下ろした。この男への憎しみは、一発や二発殴った程度では消えない。実は州も、ただ黙って妹の傷心を見ていたわけではなかった。水面下ですでに手を打っていたのだ。清也の会社が急速に信用を失い、取引先から見放され、抜け殻同様になったのも、すべては州が裏で糸を引いていたからこそ。妹を裏切り、傷つけた代償は高くつく。州は拳を握り直し、床に転がる男へ無慈悲な追撃の構えを見せた。殴られたにもかかわらず、清也は反撃どころか、さらにすがりついてきた。「州さん……もっと、もっと殴ってください!俺が悪いんです、皆さんに嫌われるのも当然です。気が済むまで殴ってください!」口の端から鮮血が滴っているが、泥酔で麻痺しているのか、痛みを感じていないようだ。「紫音が許してくれるなら、何だってします。死ねと言われれば死にますから!」州が再び拳を振り上げようとしたその時、紫音が静かに制した。州が再び拳を振り上げようとしたその時、紫音が静かに制した。「お兄ちゃん、もうやめて。こんなのと関わるだけ時間の無駄よ。手を汚す価値もないわ」紫音は憐憫すら感じさせない、氷のように冷たい視線を清也に投げかけた。「行こう、お母さん、お兄ちゃん。彼がそこにいたいなら、気の済むまでいさせておけばいいわ」言うが早いか、紫音は二人を促して屋敷の中へと戻り、重厚な玄関扉を無慈悲に閉ざした。バタン、という乾いた音と共に世界が遮断される。取り残された清也は呆然としていた。かつてあれほど自分を愛し、尽くしてくれた紫音が、これほど冷酷になれるなんて。まるで別人のようだ。七年の歳月も、積み重ねた思い出も、すべて無に帰したというのか。信じられない。いや、信じたくなかった。彼の心にとって、紫音は常に「自分のもの」であり、最も重要な存在だったはずだ。芙花とのことは、ほんの出来心、男の甲斐性のような軽い遊びだった。紫音なら許してくれる、あるいは気づかないフリをしてくれると高を括っていたのだ。だが、その傲慢さがすべてを壊した。失って初めて、彼女なしでは息もできない自分に気づいた。しかし、もう遅い。扉
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第84話

かつて二人が交際を始めた頃、両親は猛反対だった。州自身も、清也という男の身辺を洗い、その軽薄な本質を感じ取ってはいた。だが、当時は妹があまりに幸せそうだったため、兄として水を差すことができず、不本意ながらも両親を説得する側に回ったのだ。あの時の自分の甘さが悔やまれる。やはり、人生経験豊富な両親の目は正しかった。最初から、清也という男は妹にふさわしくなかったのだ。今、その真実を目の当たりにした州は、心底後悔し、そして清也という男を骨の髄まで軽蔑していた。この男には、鉄槌を下して然るべきだ。「お兄ちゃん、お母さん、行こう」紫音は二人を促してその場を離れようとした。これ以上、あの男の虚しい戯言を聞いていたくなかったからだ。兄の殺気に気圧されたのか、清也の態度は明らかに萎縮していた。先ほどまでの恥知らずな勢いは消え失せ、これ以上本気で州を怒らせれば本当に破滅させられる──そんな恐怖が、酔った頭にも染み渡ったのだろう。「見てて。十分もしないうちに、彼は帰るわ」紫音は冷淡に言い捨てた。あの男の底の浅さは、誰よりも自分がよく知っている。リビングへ戻ると、紫音は改めて母に向き合った。「お母さん、ごめんなさい。まさかここまで押しかけてくるなんて……また心配かけちゃったわね」紫音の声が湿る。「あの人と出会ってから、お父さんとお母さんには心配ばかり……私、本当に親不孝だった」憑き物が落ちた今、紫音は自分の愚かさを痛感していた。これほど深く愛してくれる両親を捨ててまで、あんな男に入れ込んでいたなんて。失われた年月の重みが、今さらながら胸にずしりとのしかかる。「馬鹿な子ねえ。お母さんがそんなこと気にするもんですか」琴音は慈しむように娘の肩を抱いた。「あなたがこうして無事に帰ってきてくれた。それだけで十分よ。過去のことなんて、もうどうでもいいの」母の温かい手が、紫音の震える背中を撫でる。「何があっても、お父さんもお母さんも、お兄ちゃんもついているわ。何かあれば家族みんなで解決しましょう。私たちはいつだって、あなたの最強の味方なんだから」その言葉は力強く、揺るぎない。親子の絆を取り戻した今、清也が何を喚こうとも、もう二度とこの平穏が脅かされることはないのだ。「……うん。ありがとう、お母さん」結局、紫音の予言通りだった。京極家に完全無
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第85話

それでも敢えて口にしたのは、これから拝島家という伏魔殿に関わる紫音に、相応の覚悟と警戒心を持ってほしかったからに他ならない。「州、そんな話をして紫音を怖がらせないでちょうだい。律くんは分別のつく方よ。あの子なら、家の揉め事もしっかり片付けてくれるはずだわ」すかさず口を挟んだのは、琴音だった。娘に変な重圧をかけたくないのだろう。琴音は律の人柄を高く買っており、彼なら万事上手く収めてくれると信じて疑っていなかった。「それに、いくらあの人が騒ぎ立てたところで、私たちは清廉潔白よ。根も葉もない嘘で、黒を白に変えることなんてできやしないわ」母の楽観的な言葉に、州は焦ったように身を乗り出した。「母さん、俺はただ紫音に油断してほしくないだけなんだ。あいつは常識が通じる相手じゃない。とんでもない手を使ってくる可能性がある」州は真剣な眼差しを紫音に向けた。「早苗の狙いは、結局のところ律くんなんだ。だからこそ、婚約者であるお前も標的になる。あいつと一緒になるなら、それ相応の覚悟をしておけと言いたいんだよ」州の胸の内には、妹へのやりきれない思いがあった。不破清也という泥沼からようやく抜け出したばかりだというのに、今度は拝島家の骨肉の争いに巻き込まれようとしている。律が信頼に足る男であることは認めているが、彼の背負うものが重すぎるのも事実だった。だが、紫音が選んだ道だ。兄としてできるのは、最悪の事態を想定して備えさせることだけだった。紫音は兄の真っ直ぐな視線を受け止め、ゆっくりと頷いた。「お兄ちゃん、私のためにそこまで考えてくれてありがとう。言いたいことは分かったわ。決して油断はしない。でも……」彼女は言葉に迷いのない強さを込めた。「私も、律さんを信じてる。彼ならきっと大丈夫よ」「……そうか。お前がそこまで言うなら、俺も腹をくくろう」妹の揺るぎない瞳を見て、ようやく州の肩から力が抜けた。翌日。紫音が目を覚ましたとき、太陽はすでに中天に達していた。これほど深く、泥のように眠ったのはいつぶりだろうか。悪夢も不安もない、穏やかな無意識の世界に漂っていたようだった。リビングへ下りると、テーブルの上にはすでに昼食が用意されていた。ラップの向こうに見えるのは、紫音の好物ばかりだ。すべて母の手作りだろう。皿の脇には、可愛らしいメモ書きが添えられていた。『お
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第86話

「はい、分かりました。お願いします、紫音さん」電話の向こうで、蘭はようやく安堵したように息を吐いた。通話を切ると、紫音は冷ややかな目でスマホを見つめた。清也の狙いは明白だ。昨晩、門前払いを食らわせたことへの報復だろう。復縁したいと泣きついておきながら、裏では嫌がらせをして私の気を引こうとするなんて……その支離滅裂さと卑怯さに、紫音は怒りを通り越して呆れ果てていた。滑稽ですらある。蘭との通話を終えると、紫音はしばし沈黙の中に沈んだ。これは一朝一夕で片付く問題ではない。長期戦を覚悟する必要があるだろう。清也は伊達に業界に顔が利くわけではない。長年かけて築き上げた人脈と、手段を選ばない強引さがある。かつては紫音もその隣で、彼と共に同じ夢を見て、会社の規模を拡大させてきたのだ。もし私たちが決裂していなければ、今頃ふたりの会社はもっと大きく成長していたでしょうに……ふと沸き上がった感傷に、紫音が胸を押さえる。心臓が雑巾のように絞られるような痛みだった。本来なら背中を預け合い、一生を添い遂げるはずだった相手だ。それが今や、互いの喉笛を食いちぎろうとする敵同士になってしまった。なんという皮肉だろう。こうなるべきではなかった――そんな思いが頭をよぎる。だが、感傷に浸っている暇はない。紫音は頭を振って過去を振り払った。その時、不意にある人物の顔が脳裏に浮かんだ。彼なら、この局面を打開する手札を持っているかもしれない。紫音は迷わず連絡先を検索し、通話ボタンをタップした。「――おや、紫音ちゃん?珍しいね、急に電話なんて」懐かしい声が耳に届く。「浩一さん、お久しぶりです。実は、折り入ってお願いがあって……今、特許関係で少しトラブルを抱えているの。あなたの力を貸してほしい」相手の名は、塚山浩一(つかやま こういち)。長年の付き合いがある友人で、今では自らの会社を率いる有力な実業家だ。かつてはビジネスパートナーとして良好な関係を築いていたが、清也の異常な嫉妬心がそれを壊した。「あいつは男としてお前を狙っている」「仕事にかこつけて近づこうとしているだけだ」――そんな清也の妄想じみた言いがかりと諍いに疲れ果て、紫音は家庭の平穏を守るために、浩一との縁を絶つしかなかったのだ。今思えば、なんと馬鹿げた犠牲だったのだろう。私と浩一さ
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第87話

時は流れ、あっという間に一週間が過ぎ去った。束の間の休息を終え、紫音は日常へと戻る準備を整えていた。会社のデスクには、処理すべき案件が山のように積まれているはずだ。玄関先で、母の琴音が名残惜しそうに紫音を見つめている。「お母さん、そんな寂しそうな顔しないで。会いたくなったらいつでも帰ってくるわ。毎日電話だってするし」紫音は母の手を握りしめ、優しく言い聞かせた。本音を言えば、胸が痛い。失われた年月を埋めるように、もっと長く両親のそばにいて親孝行がしたかった。温かい家庭のぬくもりに、ずっと浸っていたかった。けれど、今の自分には責任がある。ただでさえ優秀な秘書の蘭に負担をかけすぎているのだ。これ以上、彼女一人に最前線で矢面に立たせるわけにはいかない。「紫音、向こうに戻っても無理は禁物よ。仕事にかまけて食事を抜いたりしちゃダメ。困ったことがあったら、すぐにお兄ちゃんに相談なさい。一人で抱え込むのは禁止だからね」「分かってるわ、お母さん。……お父さんも、お母さんも、そろそろ中に入って」紫音は湿る目元を隠すように笑い、母を促した。本当は足がすくむほど後ろ髪を引かれていたけれど、それを表情に出すまいと必死だった。門の前には、すでに黒塗りの高級車が到着している。律が迎えに来てくれたのだ。今日はこれから二人で拝島の本家へ向かい、祖母の志津を見舞う予定だった。志津は紫音のことをいたく気に入っており、口を開けば「紫音さんは次はいつ来るのかね」と催促するほどだという。その心待ちにしている老婦人のためにも、顔を見せないわけにはいかない。律は車を降りると、紫音の両親の前に進み出た。「おじ様、おば様」律は深々と頭を下げ、まっすぐに二人を見据えた。「紫音さんのことは、私の生涯をかけてお守りします。二度と悲しい思いはさせません。……どうか、安心してお任せください」普段は冷静沈着で、氷のように冷徹な印象すら与える律だが、今のその瞳には揺るぎない熱が宿っていた。その言葉は単なる社交辞令ではなく、重みのある誓いとして両親の胸に響いた。「律くん」父の隆之介は、感慨深げに律の肩に手を置いた。「私たちは君を信じて、大事な娘を託すことにしたんだ。君なら紫音を幸せにしてくれると見込んでね」そして母の琴音も、懇願するように言葉を継いだ。「この
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第88話

志津の眉が曇る。先日の挨拶で、早苗が紫音を侮辱した一件だ。志津はずっとそれを気にかけていたのだろう。「我が家へ嫁いでくる大事な娘さんに、あんな仕打ちを……申し訳なくて、顔向けできないよ」紫音は被せるように首を振った。「そんな、謝らないでください。あの時のことは、もう忘れてしまいました。本当に気にしていませんから」志津の罪悪感を拭い去るように、紫音は言葉に力を込めた。「それに、あの伯母様の言葉が、私の本質を突いていたわけでもありませんし。私、そんなに柔ではありませんから。あんなことでは凹んだりしませんよ」「紫音さん……」「志津様には、余計な心労をかけてほしくないんです。もしまた何かあっても、その時はきっと、律さんが守ってくれます。だから、どうか私のことは心配なさらないでください」紫音の言葉は、単なる慰めではなく本心だった。心優しい祖母に、嫁姑や親族争いの種になってほしくない。その思いをしっかりと伝えて、志津の心のつかえを取り除いてあげたかったのだ。志津の表情が、ようやく柔らかく解けた気がした。「紫音さん、ありがとう。あんたは本当にできたお嬢さんだよ。初めて会った時から、芯の通った優しい子だと思ってた」志津は紫音の手を愛おしそうに撫でた。「あんたは気にしないと言ってくれるけれど、それでも、いわれのない苦労を背負わせたくはないんだよ。……情けない話だけれど、うちはこういう家だからね」志津の言葉には、名家ゆえの諦めと、長年背負ってきた重圧が滲んでいた。紫音はその言葉を静かに受け止めた。拝島家ほどの巨大な一族になれば、権力争いや足の引っ張り合いは避けられない宿命なのだろう。私の家は、両親とお兄ちゃんだけの穏やかな家庭だったから……ここはまるで別世界ね。改めて、自分が足を踏み入れようとしている世界の複雑さを痛感する。しばらくの間、紫音と志津は他愛のない話に花を咲かせ、律はその横で穏やかに相槌を打っていた。暖かな空気が満ちたその時、不意に玄関の扉が開く音が響き、慌ただしい足音が近づいてきた。「紫音さん!帰ってらしたのね!」部屋に飛び込んできたのは、律の母、朱美だった。旅行先から急いで戻ってきたのか、まだ外出着のままだ。「どうして教えてくれなかったのよ。知ってたら予定を切り上げて飛んできたのに!私、留守の間にあんなこと
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第89話

朱美が駄目押しの一言を放つと、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。「さあさあ、済んだことだ。雨降って地固まる、というだろう?今日はみんな揃ったことだし、賑やかに食事にしようじゃないか」志津が手を叩いて場を和ませる。その顔には、家族団欒を喜ぶ屈託のない笑みが浮かんでいた。朱美も表情を崩し、旅行カバンの包みを開けた。「そうですね、お義母さん。これ、お土産の真珠のネックレスです。お義母さんに似合うと思って」「おやまあ、素敵だねぇ。ありがとう、朱美さん」志津と朱美のやりとりは、まるで実の母娘のように自然で温かい。早苗がいた時の、あの凍りつくような緊張感とは雲泥の差だ。この風通しの良さこそが、本当の拝島家の姿なのだろう。やがて食卓には色とりどりの料理が並び、四人はテーブルを囲んだ。「紫音さん、遠慮はいらないからね。ここはもうあなたの家なんだから。食べたいものがあったら、私でもお祖母様でも、誰にでも言って頂戴」「はい、朱美様」二度目の訪問ということもあり、紫音の肩の力も抜けていた。不思議なほど居心地がいい。かつて、清也の母親とも良好な関係ではあった。だが、そこには常に「息子の嫁として相応しいか」という値踏みするような視線や、どこか損得勘定が含まれていたように思う。けれど、律の家族は違う。ここにあるのは、打算のない純粋な歓迎と、家族としての温もりだけだ。紫音は温かいスープを口に運びながら、じんわりと胸が熱くなるのを感じていた。和やかな食事の時間を切り裂くように、玄関の扉が開く音が響いた。現れたのは、あの早苗だ。紫音は思わず眉をひそめた。またか、という徒労感を隠しきれない。早苗たちは別邸に住んでいるはずなのに、紫音たちが本家を訪れるたびに計ったように現れる。これは偶然と言うにはあまりにも出来すぎている。監視でもされているのだろうか。「あら、今日は随分と賑やかね。皆さんお揃いで」早苗は部屋に入ってくるなり、粘つくような視線を紫音に向け、嫌味ったらしく鼻を鳴らした。その瞬間、場の空気が一変した。真っ先に口を開いたのは、朱美だった。「お義姉さん。純粋に食事にいらしたのなら歓迎しますわ。でも、またこの前のように難癖をつけて騒ぎ立てるおつもりなら、私も黙ってはいませんよ」朱美の声は鋭く、毅然としていた。「紫音さんは
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第90話

「お義母さん、そこまでおっしゃるなら、今日はとことんはっきりさせてもらいましょうか」早苗の表情から、取り繕った笑みが消え失せた。双眸に宿るのは、積年の怨嗟だ。「お義母さんはずっと律さんばかりを贔屓なさる。うちの隆行こそが長兄の息子であり、拝島の正当な跡取りでしょう?それなのに、なぜ後継者を律さんに決めたのです」早苗は堰を切ったようにまくし立てた。「昔からそうです。あちらばかり可愛がって……これまでは私も我慢してきました。長男の嫁として、弟一家を立てるのが筋だと自分に言い聞かせてね。でも、それももう限界です!」金切り声に近い叫びが部屋に響く。これまでは、どれだけ騒いでも無視されてきた。だが、今は違う。紫音という「外の人間」がいる。一族の恥部を晒されたくなければ、ある程度の譲歩を引き出せるはずだ――そんな卑しい計算が見え透いていた。この機に乗じて、すべてをひっくり返すつもりなのだ。志津は静かに目を伏せ、ため息をついた。「私はね、誰かを依怙贔屓したことなど一度もないよ。……早苗、文句を言う前に、自分の足元を見つめ直したことはあるのかね」「なんですって?」「拝島という巨大な船の舵取りを、誰に任せるか。それは能力と人間性、信用で決まるものだ。血の順番ではない」志津の声は静かだが、鋼のような強さがあった。「あんたの息子はどうだ?毎日遊び惚けて、仕事もせずに放蕩三昧。そんな男に、私の全生涯をかけた会社を任せられると思うかい?一瞬で食いつぶされるのが関の山だよ」志津がここまで手厳しく断罪するのは初めてのことだった。それだけ腹に据えかねているのだ。前回の紫音への無礼に加え、今日もまた懲りずに騒ぎ立てる愚かさ。老体に鞭打ってでも、ここで引導を渡さねばならない。曖昧な態度は、早苗をさらに増長させるだけだということを、志津は痛いほど理解していたのだ。「いい加減になさい!」その場の空気を切り裂いたのは、朱美の一喝だった。「お義姉さん、何度も何度も……わざとらしく騒ぎ立てて、一体何がしたいの?魂胆は見え見えよ。以前のことは目をつぶってあげようと思っていたけれど、もう我慢の限界だわ」朱美は立ち上がり、早苗を睨みつけた。「私の大事なお嫁さんを傷つけ、あまつさえお義母様まで苦しめて……そこまで性根が腐っているなら、こっちだって容赦はしない。積も
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