《義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる》全部章節:第 221 章 - 第 230 章

438 章節

第221話

「母さん、俺たちはただ、あなたの体を心配して駆けつけただけですよ。他意なんてありません。誤解しないでください」正人は白々しい笑みを浮かべ、さらに言葉を重ねる。「それに、起きた事実は変えようがないでしょう。自分たちのしたことが噂になるのは、自業自得というものだ。世間の後ろ指がどれほど冷たいか、あなたたちだって耳にしているはずだ」志津が倒れた直後こそ狼狽えていた正人だが、回復したと見るや、元の厚かましい本性を露呈させたのだ。「いい加減にしなさい!」正人の言葉を遮る志津の声には、鋭い怒気がこもっていた。「せっかく皆で集まったのだから、静かに食事もできないのかい。どんなことがあろうと、あなたたちは血の繋がった家族でしょう。その無様な態度は何事ですか!」志津の言葉は容赦なかった。「拝島の家名を汚しているのは、お前たちの方だよ」普段は穏やかな志津がここまで言い切ることは珍しい。さすがの正人たちも、その剣幕に圧され、それ以上言葉を続けることはできなかった。伯母の早苗は、今日に限って酷く静かだった。食卓についた後もスマートフォンを手放さず、何かに憑かれたように画面を凝視し、誰かと激しくメッセージをやり取りしている。「お義母様、お医者様からは薄味のものをと厳しく言われていますから。家に戻ったからといって、油断は禁物ですよ」朱美がかいがいしく志津の皿に料理を取り分ける。志津は本来、こってりとした味付けや揚げ物を好む。その食の好みは若者と変わらないほどだが、今は体力が第一だった。「分かっているわよ。そう四六時中構わなくても、自分の面倒くらい見られます。あなたたちも仕事が忙しいでしょう。私にばかり構っていては、かえって申し訳なくて落ち着かないわ」志津は根が強情だ。昔から一人で暮らすことに慣れており、四時中誰かに囲まれているとかえって息が詰まる質(たち)だった。「お義母様。退院されたばかりで心苦しいのですが、長らく調べていたことがございまして……今この場で申し上げないと、私の気が済みませんの」これまで沈黙を守っていた早苗が、唐突に顔を上げた。張り詰めたような声が部屋に響き、団らんの空気は一瞬で凍り付く。「回りくどい言い方はよしなさい。何が言いたいのです」志津が真っ直ぐに早苗を見据えた。その有無を言わさぬ迫力は、これか
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第222話

「いい加減にもったいぶるのはおやめなさい。家族しかいない場で、何をそんなに遠回しに言っているのですか」志津はいら立ちを隠せなかった。早苗の態度は、屋敷に足を踏み入れた時からどこか異様で、得体の知れない悪意を含んでいる。「律さん。あなたは……拝島の人間ではないわ」早苗が放った一言に、部屋の空気は完全に凍りついた。誰もが呆然と固まり、耳を疑った。律が拝島家の血を引いていないなど、到底信じられるはずがない。「滅多なことを言うものではありません。一体どういうつもりですか!」志津が鋭く声を荒らげ、同時に視線を朱美へと向けた。朱美は微動だにせず立ち尽くしている。声を荒らげることも、慌てて否定することもなく、ただ静かにその場にいた。早苗は、この瞬間のために周到な準備を重ねてきたのだろう。バッグから一通の封筒を取り出し、テーブルに叩きつけた。志津が震える手で中身に目を通す。そこには遺伝子検査の結果と共に、律が拝島家の血縁ではないことを裏付ける幾つもの資料が揃っていた。「……どういうこと。朱美、これは一体どういうことなの!」志津の声が激しく震える。突きつけられた証拠は、あまりに精緻で、到底偽造とは思えないほど説得力を持っていた。早苗の歪んだ笑みが、それが逃れようのない真実であることを物語っていた。「お義母様。律は……確かに、拝島の子ではありません……」言い逃れのできない証拠を前に、朱美はついに重い口を開いた。今日という日が来ることを恐れてはいたが、もはや認めるしかなかったのだ。その言葉に、誰よりも衝撃を受けたのは律自身だった。三十年近く生きてきて、ただの一度もそんな話を聞かされたことはない。もしこれがでっち上げなら、気の強い母が黙って耐え忍ぶはずがなかった。彼女の沈黙が、何よりも雄弁に真実を物語っている。「母さん、どういうことですか。初めから……知っていたんですか?」律は微かに声を震わせ、母を見つめた。得体の知れない不安が胸の奥をざわつかせる。朱美の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。数十年の時を経て、まさか早苗の手によって暴かれる日が来ようとは夢にも思っていなかったのだ。唇を噛み締め、ためらいがちに声の糸を紡ぎ出す。「実は……宏と結婚した時には、すでにお腹にあなたがいたの。家同士が決めた政略結婚で、私にはど
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第223話

「そんな……嘘だ……」志津は発作のように胸を押さえ、その顔色から一気に血の気が引いていく。紫音もまた、急転直下の事態に立ち尽くしていた。律が拝島家の人間ではない——その残酷な真実は、今この瞬間、一族を根底から覆すほどの破壊力を持っていた。「志津様!大丈夫ですか!」紫音は血の気を失った志津の顔色を見るや否や駆け寄り、震える手で常備薬を取り出した。志津は苦しげな息の下で強心剤を飲み込むと、弱々しく手を振った。「……大丈夫だよ。少し、一人で考えさせておくれ……」「お義母様、ご決断を。もし今日、私がこの秘密を暴かなければ、一味にずっと騙され続けていたのですよ」早苗は畳み掛けるように言い放った。「拝島の財産も、グループの実権も、見ず知らずの赤の他人が握っているのです。これを機に、正人こそが会社を継ぐべきではありませんか!」それが彼女の真の狙いだった。律たちを屋敷から放逐し、自らの手で会社の実権を奪い取ること。彼女がこの秘密に辿り着いたのは、単なる偶然だった。知人から「朱美が結婚前に別の男と関係を持っていたらしい」という昔の噂話を聞きつけ、裏付けに動いたのだ。ダメ元での調査だったが、よもやこれほど決定的な証拠が手に入るとは思ってもみなかった。「志津様がこんなにお苦しみになっているのに!会社の話など、後にしてください!」紫音が思わず抗議の声を上げる。「あなたに私を窘める資格があるとでも?よく見なさい、あなたも、そこの律さんも、もはや拝島家にとってはただの『他人』でしかないのよ!」早苗は鼻で笑い、勝ち誇ったように見下した。「次男の宏さんは海外暮らしで、ずっと家を空けたまま。血の繋がりもない居候が、いつまでこの家にしがみつくつもり?」この家で正当な血筋を持つ正人の妻として、早苗の態度はどこまでも傲慢だった。「いい加減にしなさい!……お前たち、皆そこまでだ!」志津が杖を激しく床に叩きつけ、絞り出すような声で一喝した。律は深い困惑の渦中にいた。自分は果たして、この家に居場所があるのだろうか。これまで「祖母」と慕ってきた志津に対し、どのような顔をして向き合えばいいのか。その道標(みちしるべ)すら見失っていた。紫音はただ一心に、志津の健康を案じていた。「志津様、上のお部屋で休みましょう」差し出された紫音の手を、志津は縋るように握
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第224話

志津の眼差しには、隠しきれない慈しみが宿っていた。これほどまでに自分を思いやってくれる女性を孫嫁に迎えられたことを、彼女は心から幸運に思っていた。たとえ血の繋がりはなくとも、律は長年、自分を「おばあちゃん」と呼び、真心の限りを尽くしてくれた。その彼を、今さら他人として切り捨てられるはずがない。けれど、これは一族の根幹に関わる問題だ。感情だけで押し通すわけにはいかない。結論を出すには、あまりに時間が足りなかった。今はただ、静かに己と向き合うための、冷徹な時間が必要だった。「志津様、私はこれで失礼します。どうか少し休んでくださいね」志津の胸中がどれほど千々に乱れているか、紫音には痛いほど分かっていた。今は一人になって、心を落ち着かせる時間が必要だ。紫音は深く一礼し、そっと部屋を後にした。階段を下りると、律が歩み寄ってきた。「おばあちゃんの具合はどう?さっきはとても顔色が悪かった。必要なら医者を呼ぶけど」「大丈夫。お薬を飲まれて、少し顔色も戻ったわ」紫音は小さくかぶりを振った。「今は落ち着いておられるけど、少し一人で考えたいそうよ。今は誰も、お部屋に行かない方がいいわ」その会話を断ち切るように、冷ややかな声が飛んだ。「お義母様がいまどんな状態だろうと、あなたたちにはもう何の関係もないはずよ。部外者はさっさと出て行きなさい。この家にもう用はないでしょう!」早苗の態度は、先ほどまでの卑屈さを完全に脱ぎ捨て、露骨な敵意に満ちていた。だが、朱美は微動だにせず、真っ向から早苗の視線を射返した。「私たちが出て行くかどうか、あなたにとやかく言われる筋合いはありません。律が血の繋がった子ではないから何だと言うの?この何十年、律がこの家のためにどれだけの事をしてきたか。そして私も、長年この家の嫁として務めを果たしてきたわ」朱美の声には、静かだが確かな凄みがあった。「警告しておくわ。くだらない難癖をつけるのはおやめなさい。すべてを暴露したところで何になるの?律の功績を、お義母様がすんなり切り捨てるとでも思って?」秘密が明るみに出たことで、かえって朱美の腹は据わったようだった。早苗の底の浅い挑発など、もはや意に介していなかった。「拝島家を裏切ったくせに、どの口が言っているの!律さんが家のために尽くしたのだって、自分が当主だと勘違いしていたからでし
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第225話

朱美の声は震えていた。「ほかにどうしようもなかった。気づいた時には、もう三ヶ月だったわ。……後になって、宏に打ち明けようと何度も思ったのよ。でも、どうしても勇気が出なかった。拝島の家がどれほど厳しいところか、あなたも知っているでしょう。もしあの時に知られたら、どうなっていたか……」朱美は悲痛な面持ちで俯いた。「宏との夫婦仲が冷え切っていたのは、それが理由よ。初めから愛なんてなかったし、反発することも許されなかった。だから……私はあなたにだけは、本当に愛する人と結ばれてほしかった。私のような苦しみを、息子には絶対に味わってほしくなかったの」「墓場まで持っていく覚悟だったのよ。まさか、こんな形で暴かれる日が来るなんて……」懺悔するように絞り出されたその声には、深い後悔と行き場のない戸惑いが滲んでいた。これからどうなるかは、すべて志津の判断ひとつにかかっている。もし志津が今まで通りに彼らを受け入れると頷けば、家族の形はかろうじて保たれるだろう。志津は情に厚い人だ。たとえ血の繋がりがなくとも、律との間に築かれた絆は、間違いなく本物の「家族」のそれだったからだ。「母さん、僕たちは、おばあちゃんの決断を尊重しましょう。あの方がもし、僕に拝島を去れとおっしゃるなら、すべての地位を退く覚悟はできています」道中、律はすでに心を決めていた。「ええ、あなたがそう決めたのなら、おばあ様の沙汰を待ちましょう」朱美は、律がそう言うであろうことを分かっていた。「本当に、これまで黙っていて済まなかったわ。何度も話そうとしたけれど……あまりに時が過ぎてしまって、どうしても口にできなかったの」朱美にとって、それは人生で最大の過ちであり、消えない悔恨だった。今更どうあがいても、事実は変えられない。これまでの年月、志津とは実の親子以上の情を育んできた自負はある。だが、志津がこの裏切りを許さないというのなら、甘んじてそれを受け入れるしかなかった。「母さん、もう自分を責めないで。過ぎたことを悔やんでも仕方がありません」律は静かに、けれど力強く言った。「たとえ拝島という後ろ盾を失ったとしても、僕があなたを養います。今までと変わらない生活を約束しますから。僕を信じてください」律に、母を恨む気持ちなど微塵もなかった。彼女もまた、時代の波と家のしがらみに
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第226話

愛のない結婚生活だった。けれど、律という存在が、絶望の淵にいた彼女を支えた。「宏とは一度も心を通わせることはなかった。でも、あなたがいてくれたから、過酷な拝島家で耐え抜くことができたの。ここで踏ん張れば、きっとあなたの将来を拓いてあげられると信じていたから」母が長年、どれほどの屈辱に耐え忍んできたか。律は痛いほど分かっていた。彼女は律に自分の苦境を押し付けることも、何かを強要することも一度としてなかった。常に律の意思を尊重し、陰ながら支え続けてくれたのだ。「母さん。分かっているよ。僕のために、ずっと自分を押し殺してきたんだね」実のところ、父である宏は長年海外に身を置いていた。現地にはすでに別の家庭があり、律と年の変わらない子供までいる。いわば拝島という家を捨て、あちらでの生活を選んだのだ。その事実を知った志津は、激怒した。「その女を連れてくるなら、二度とこの家の敷居を跨ぐな」そう突き放された宏は、言葉通り二度と屋敷に戻ることはなかった。志津はこの件を家の恥辱とし、誰一人として宏の名を口にすることを許さなかった。ある意味、律の両親は互いに別の「真実」を抱えながら、冷え切った仮面夫婦を演じ続けてきたのである。紫音はこれまで、拝島家の複雑な内情など知る由もなかった。朱美が余計な心労をかけまいと、一切を伏せてきたからだ。律の父親の名がこの家の禁句(タブー)であった理由。冷え切った夫婦仲。そして、互いに別の拠り所を持っていたという真実。朱美が今日まで屈辱に耐え、この家に留まり続けてきたのは、偏に、息子のためにすべてを勝ち取るという執念ゆえだったのだ。「紫音さん、あなたを騙すような形になってしまって、本当に申し訳ないわ。まだ入籍もしていないし、婚約したばかりの身。もし……別の道を選びたいというのなら、遠慮なく言ってちょうだい。私はあなたの決断を、全面的に受け入れるわ」朱美は身を切るような思いで告げた。この醜いスキャンダルに、若く輝かしい未来を持つ紫音を道連れにしたくはなかった。けれど、紫音の心は微塵も揺らがなかった。「朱美さん。きっかけは家同士の紹介でしたが、律と共に歩むと決めた日から、そんな理由で離れるつもりはありません。たとえ名字が変わっても、私たちの絆には何ら影響はありませんから」紫音は毅然とした口調で、朱美の手
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第227話

ネット上に溢れるのは、これまで完璧だった律を「ペテン師」呼ばわりし、激しく糾弾する冷酷な誹謗中傷の嵐だった。「律。これからのこと、どう考えているの?」紫音は意を決したように切り出した。「もし志津様から退くよう言われたら、どうするつもり?このまま手をこまねいて、事態が過ぎるのを待っているわけにはいかないわ」心中では、律の境遇を思うと胸が締め付けられるようだった。血の繋がりがないと暴かれようと、彼がこの家のために捧げてきた歳月は、決して嘘ではないのだから。朱美もまた、不安げに息子を見つめていた。律が今の地位を奪われ、情熱を注いできた仕事を失うことに、人一倍胸を痛めていた。あまりに急転直下な出来事に、当の律自身もまだ、最善の正解を見つけられずにいた。すべては志津の決断一つにかかっている。もし強引に解任を突きつけられれば、抗う術はないのだ。「母さん、おばあちゃんの動揺が収まったら、きちんと話し合ってくるよ。その後については、すべておばあちゃんの指示に従うつもりだ」律は静かに、けれど揺るぎない口調で言った。「たとえ会社を去ることになっても、投げ出したりはしない。すべての懸案事項を片付け、完璧に引き継ぎを終えてから身を引くよ」それが、二十年余りの歳月を共に過ごし、自分を慈しんでくれた祖母への、彼なりの最後の誠意だった。「大丈夫よ、律。もし拝島にいられなくなったら、私のところへ来て」紫音は少しでも彼を勇気づけたくて、明るい声を向けた。「私の会社はまだ規模も小さいけれど、あなたの実力があれば、二人でいくらでも大きくしていけるわ。一緒に頑張りましょう?」精一杯の励ましだった。もしそれが現実になれば、それはそれで幸せなことかもしれない。紫音の真っ直ぐな瞳には、どのような未来になろうとも彼と共に歩むという、強い覚悟が宿っていた。「それは素敵な考えね。たとえ拝島を離れたとしても、二人で新しい事業を始めればいいわ。優秀なあなたたちなら、きっと今よりもっと大きな会社を築けるはずよ。。紫音さんも、ずっと一人で切り盛りしてきて大変だったでしょう?律が力になれば心強いし、お母さん、二人なら大丈夫だと信じているわ」二人の絆が深まっていく様子に、朱美はどこか安堵したような表情を浮かべた「分かった。……ただ、これからのことは少しだけ時間をくれないか。
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第228話

「やっぱり、あなたは私の自慢の息子ね」朱美は涙ぐみながら微笑んだ。「世界中が私に背を向けても構わない。でも、あなただけは失いたくないの。あなたがそばにいてくれるなら、私は何だって頑張れるわ。苦労なら慣れているもの。たとえ拝島を追われて無一文になったって、一緒にいられればそれで十分幸せよ」夫の宏が家を出て以来、朱美に浮いた噂が立ったことは一度もない。色恋への関心などとうの昔に捨て去り、ただ息子の未来と、拝島の家で生き抜くことだけにその人生を捧げてきたのだ。「母さん、決して惨めな思いはさせません。明日、あの屋敷を出ましょう。僕が母さんを何不自由なく養ってみせます」律の口調は静かだが、鋼のような決意がこもっていた。彼はすべてを失っても、ゼロから再起できるだけの類稀な才覚を持っている。拝島という看板を失うことなど、彼にとっては恐れるに足らなかった。揺るぎない覚悟を見せる母子の姿に、紫音は胸の奥が熱くなるのを感じていた。今日という日を経て、紫音は律の真の人間性をはっきりと理解した。そして、自分の両親がなぜ、何としてでも彼と結ばせようとしたのかが、今なら痛いほど分かった。誠実で、頼りがいがあり、側にいるだけで底知れない安心感を与えてくれる。いざという時のその潔さは、並の男たちを遥かに凌駕していた。紫音は、自分がこの男をどれほど深く愛し始めているかを自覚した。胸の奥から湧き上がる密かなときめきも、彼を大切に想う気持ちも、もはや偽りようがない。彼女の心は、自分でも驚くほど確実に、律という存在に染められようとしていた。いつの間にか、夜が明けていた。ふと目を覚ますと、隣にいたはずの律の姿がない。紫音は跳ね起きるようにしてベッドを抜け出し、リビングへと駆け出した。昨夜は朱美もこの家に身を寄せていたため、二人は久々に同じ寝室で夜を明かしていたのだ。リビングでは、すでに松田が朝食の支度を整えて待っていた。「松田さん、二人はどこに?」「律様と朱美様なら、早朝から拝島の本邸へ向かわれましたよ」松田は穏やかな手つきで食事を並べながら答えた。「紫音様が起きたら必ず朝食を出すように、と律様から仰せつかっております。さあ、召し上がってください」本邸へ行ったのだ――律のことだ、きっと一刻も早く志津様と話をつけたいと考えたのだろう。
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第229話

言葉を失う律の胸に、冷たい風が吹き抜ける。これ以上、使用人を相手に押し問答をしても無意味だ。彼はスマートフォンを取り出すと、直接、志津の番号を呼び出した。しかし、何度鳴らしても応答はない。体調が本当に悪いのか、あるいは、あえて拒絶されているのか。昨日の騒動を思えば、無理もないことかもしれない。律の心には、拒絶された寂しさよりも、今この瞬間も苦しんでいるであろう祖母の身を案じる不安が、波のように押し寄せていた。「ガタガタ言わないでちょうだい!」朱美が耐えかねたように声を荒らげた。「私たちは、志津様に会いに来たの。今後この門を潜らせないと言うならそれでもいい。でも今日は、決着をつけに来たのよ」彼女は一歩踏み込み、使用人を鋭く睨みつけた。「私はまだこの家の嫁よ。無礼な真似をするなら、力ずくでも通らせてもらうわ。そこをどきなさい!」使用人たちは、朱美の気性の激しさを嫌というほど知っている。本気で怒らせれば手が付けられない。彼らは律に血の繋がりがないと聞かされていても、長年仕えてきた二人への恐怖と情の間で、立ち尽くすしかなかった。律はそんなやり取りを冷ややかに一瞥した。逡巡する使用人をよそに、強引に車を走らせて敷地内へと滑り込む。彼らに反論の余地など与えなかった。本邸へ足を踏み入れた律は、真っ直ぐに志津の部屋へと向かう。昨夜は一睡もできなかったのだろうか。志津は微睡(まどろ)んでいたが、物音に気づき、ゆっくりと身を起こした。「おばあちゃん、お休み中に申し訳ありません」律は静かに語りかけた。志津は二人を拒むことなく、以前と変わらぬ穏和な笑みを浮かべた。その優しさが、かえって律の胸を締め付ける。「おばあちゃん、今日ははっきりと伝えに来ました。母のしたことは、決して許されることではありません。ですが、私たち親子に拝島の名にしがみつくつもりはありません」律は志津の目を真っ直ぐに見据えた。「会社の地位も、権利も、すべて手放します。ただ、おばあちゃんをこれ以上板挟みにしたくない……どうか、ご自身の体だけを大切にしてください」それが、律の偽らざる願いだった。志津の心は深く揺さぶられた。すべてを捨てる覚悟で見せた、その潔さ。血は繋がっていなくとも、彼こそが間違いなく自分の育て上げた「立派な孫」だった。「勝手なことを言うんじゃ
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第230話

律は珍しく声を慌てさせた。外では冷徹な彼も、志津の前ではいつも緊張を隠せない。祖母から見捨てられることを、彼は心の底で何よりも恐れていたのだ。「いいかい。血の繋がりなんて、とうの昔にどうでもよくなっているんだよ。誰の子であろうと、私の中でお前はいつだって大切な孫さ」志津の眼差しに、深い情愛が滲んだ。「若い頃は誰しも過ちを犯すものだ。そもそも、お前の両親の結婚には愛情なんて欠片もなかった。……私はね、お母さんのことをずっと本当の娘のように思ってきたんだよ。気性の荒いところはあるにせよ、根は優しくて情に厚い、真っ直ぐな人だと分かっているからね」志津はそばで立ち尽くす朱美を見やった。「本当の息子ですら、海外にかまけて寄り付きもしない。この年寄りのことなど頭の片隅にもないっていうのに……ずっと私のそばにいてくれたのは、お前たち二人じゃないか。お前がこれからも『おばあちゃん』と呼んでくれるなら、私はそれだけで十分なんだよ」胸に支えていたものが溶け出すように、志津は柔らかく微笑んだ。「会社についても、私の腹は決まっているよ。信じられるのはお前だけだ。引き続きトップとして頼むよ。あの親戚連中のことなら……私が一緒に片付けてやるからね」志津は熟考の末、やはり会社を律に託すべきだと確信していた。長年築いてきた信頼は、血の繋がりなどという脆いものでは揺るがない。何より、彼の本質を誰よりも理解しているのは自分だった。「おばあちゃん、信じてくれてありがとう。……もし、僕を会社から追い出すと決めていても、伯父さんにすべてを譲るつもりでした。不満なんて、これっぽっちもありませんから」律は力強く告げた。互いを思いやる心が強いからこそ、二人の絆はここまで深いものになったのだ。逆境にあってこそ、真価が問われる。そして二人は、その試練を見事に乗り越えていた。「分かっているよ。だからこそ託したいんだ。あの子たちに会社を任せて、私が安心できると思うかい?一年も経たぬうちに、食い潰されて空っぽにされるのが目に見えているよ」志津は静かに、だが語気を強めて続けた。「今、家の中では大変なことが起きている。外の連中は面白がって噂しているだろう。だがね、家族がバラバラになってはいけないよ。私たちは変わらず一つだと、世間に証明してやろうじゃないか」本来なら、律と紫音の
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