All Chapters of 義妹に溺れる彼を捨て、私は宿敵の妻となる: Chapter 791 - Chapter 800

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第791話

彼女なりに、この恋にはすべてを懸けていた。二人の関係がこのまま順調に深まっていけば、いつかは彼と結婚して、平凡でも温かい家庭を築けるかもしれないと、甘い夢を見ていたこともあった。だが、浩一の母親からの冷酷な拒絶は、そのささやかな夢を容赦なく打ち砕いた。残酷な「家格の差」という現実を突きつけられ、彼女の自信は根元からポッキリとへし折られてしまったのだ。「分かってる。君が今は混乱していることも、俺を想うからこそ重圧を感じてるってことも……全部、分かってる」浩一は、弱々しく引き抜こうとする蘭の手を、絶対に逃がさないとばかりにさらに強く握り締めた。「でも、俺を信じてくれ。母さんのことは絶対に俺が説得するから。君を受け入れてもらえるように、俺が必ず何とかするから!」「浩一さん……」「付き合い始めてから今まで、俺の心には君しかいない……!全部俺の見通しが甘かったせいだ、俺の責任だ。だからお願いだ、俺を見捨てないでくれ。二人で一緒にいれば、誰が相手だろうと絶対に説得できる。だから、そんな風に一人で重荷を背負い込まないでくれ……!」浩一自身も、想定外の事態にひどく狼狽し、焦燥しきっていた。どんな言葉をかければ彼女の心を繋ぎ止められるのか。どうすれば彼女の不安を拭い去れるのか。気の利いた言葉など一つも見つからず、ただ不器用に、なりふり構わず自分の愛と覚悟を訴え続けるしかない。彼にとって、この理不尽なトラブルのせいで最愛の女性を失うことなど、絶対に受け入れられない結末だった。「二人とも、一旦落ち着きなさい」すがりつく浩一と、頑なに目を逸らす蘭。膠着状態に陥った二人を見かねて、紫音は静かに口を開いた。「いいこと?あなたたち二人の間に、愛情が冷めるような致命的な問題が起きたわけじゃないでしょう。なら、必要以上に悲観して問題をこじらせる必要はないわ。明日、私が貴子おば様のところへ行って直接話をしてくるから」紫音の言葉に、浩一と蘭は弾かれたように顔を上げた。「私は昔からおば様に可愛がってもらっていたし、気心の知れた仲よ。だからこそ、おば様が心の底で何を懸念しているのか、どうすれば彼女を納得させられるのか、腹を割って聞き出せるはずだわ。だから蘭、今はそんなに自分を追い詰めないで。あなたたち二人が本気で愛し合っているな
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第792話

浩一もまた、苦渋に満ちた表情で唇を噛み締めていた。あの日、母親が蘭に浴びせた言葉がどれほど鋭く、彼女の自尊心をズタズタに引き裂くものであったかを、彼は痛いほど分かっていた。だからこそ、今こうして蘭が絶望し、別れを選ぶことで自分を守ろうとしている姿を見るのが、たまらなく辛かった。どうすればこの理不尽な状況を打開し、二人の関係を修復できるのか。愛し合っているがゆえに、不器用にお互いを傷つけ合い、負のループから抜け出せなくなっている二人。紫音はそのもどかしい光景を前に、どうやって彼らを救い上げるべきか、静かに思案を巡らせていた。「わかった……冷却期間が必要なら、いくらでも待つよ」浩一は苦しげに顔を歪めながらも、懇願するように蘭の手を両手で包み込んだ。「お前がどれだけ理不尽に傷つけられたか……あんな仕打ちをされて、すぐに感情を整理しろなんて無理な話だ。俺がお前を急かすような真似は絶対にしないし、今回の出来事をうやむやにして無かったことにするつもりも絶対にない」「ただ……今日俺がお前を探し回ったのは、俺に挽回する時間とチャンスをくれないか、そう伝えたかったからだ。この問題は、必ず俺が責任を持って解決する。だから……お願いだ、俺たちの関係を諦めないでほしい。俺はお前を本気で愛している。愛しているからこそ、何が何でも守り抜きたいんだ」「いつか、どんな事態に陥ろうと……何があっても、俺のお前への気持ちだけは絶対に疑わないでくれ。どんな壁が立ちはだかろうと、俺たちは絶対に別れない」力強く言い切る浩一の瞳には、痛切なまでの愛情が浮かんでいた。だが、その声の奥底には明らかな動揺と焦りが滲み出ている。無理もない。これまで順調に愛を育んできた二人にとって、ここまで残酷で決定的な障害に直面するのは初めてのことなのだ。愛する者を失うかもしれないという恐怖が、浩一の冷静さを奪い、パニックに陥らせていた。「お前が俺を愛してくれているのも、俺のために見えないところでずっと無理をして、努力し続けてくれたのも痛いほど分かってる。本当に……苦しい思いをさせてごめん」浩一の声が震える。「もし本当に疲れ切ってしまったなら、今日はもう何も考えずに休んでくれ。俺はお前に何も強要しない。ただ……これからの試練は、俺たち二人で手を取
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第793話

「……ありがとう。時間をくれて」重い沈黙の後、蘭はぽつりと呟いた。しかし、その顔にはまだ色濃い疲労と悲哀が張り付いている。「今日はもう帰るね。続きは……また明日、落ち着いてから話しましょう」「蘭……」「あなたが何とかしようとしてくれているのは分かってる。信じてる。でもね……私、あなたを困らせたくないの。本当に愛しているからこそ、私と浩一さんのお母様の間で、あなたが板挟みになって苦しむ姿なんて見たくない……」震える声で紡がれる言葉は、どこまでも浩一を思いやる自己犠牲に満ちていた。「それに、一番の原因は私たちでちゃんと話し合っていなかったことよ。私の身の上を、もっと早くお母様に伝えておけば、こんなことにはならなかったかもしれない。私にも責任があるわ。だから……あなたが全てを抱え込んで、そんなに悲観しないで」胸の内にあった思いを吐き出すと、蘭は逃げるように席を立ち、足早にカフェから出て行ってしまった。これ以上、愛する彼の痛ましい顔を直視できなかったのだ。どんなに彼が優しい言葉をかけてくれても、頭の中では塚山貴子から浴びせられた冷酷な言葉の数々が、呪いのように木霊し続けている。その強烈な屈辱と絶望を消化しきれないまま、彼にどんな顔をして向き合えばいいのか、蘭にはもう分からなくなっていた。逃げるようにカフェを飛び出していった蘭の背中を、紫音も浩一も追うことはしなかった。あまりにも残酷で唐突な出来事に、今の蘭の心は限界を迎えている。無理に引き留めるよりも、今は一人にして感情を整理させる時間が必要なのは明白だった。しかし、だからといってこのまま放置して、二人の関係が自然修復するような生易しい問題ではないことも確かだ。蘭の姿が完全に見えなくなると、紫音はゆっくりと視線を戻し、目の前で項垂れる男を冷ややかに見据えた。「……あなた、一体どういうつもりだったの?」紫音の静かで冷たい声が響くと、浩一はビクッと肩を揺らした。「おば様がどういう方か、あなたが一番よく分かっていたはずでしょう?私たちのような家柄の人間が、事前の根回しもなしに突然連れてこられた『一般人の恋人』を、手放しで歓迎するわけがないわ。それくらい、最初から予想できたはずじゃない」手厳しい紫音の追及は、一切の容赦がなかった。身分
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第794話

蘭が誰よりも信頼し、慕っている直属の上司であり、同じ財閥界隈を生きる最強の後ろ盾。紫音という底知れぬ力を持つ女性が、こうして二人のために動いてくれているという事実だけが、打ちのめされた浩一にわずかな希望を与えていたのだ。「……それにしても、おば様がそこまで強硬に反対するなんて少し意外だったわ」紫音はコーヒーカップの縁を指でなぞりながら、少しだけ眉をひそめた。「おば様はプライドが高いけれど、頭ごなしに人を否定するような方じゃないと思っていたの。恋愛のこととなると、あんなに頑なになるなんて……結局のところ、あなたが事前に何一つ筋を通さず、突然連れて行ったことが彼女の怒りを買ったんじゃないの?」「いや……そうじゃないんだ」浩一は力なく首を振った。「お前の言う通り、順序を間違えた俺の責任は重い。だけど、母さんは一度こうと思い込んだら絶対に譲らない人だ。……お前にだから正直に言うけど、母さんは最初から、蘭のことなんて微塵も眼中に無かったんだよ。どこの馬の骨とも知れない小娘だと、完全に家柄だけで切り捨てられたんだ」その時の光景を思い出したのか、浩一はギリッと奥歯を噛み締めた。「俺にとって、家柄や身分なんてどうでもいい。ただ互いに愛し合っていればそれで十分だ。俺は……何年も、誰かのことをこんなに本気で愛したことはなかった。やっと見つけた、心から愛する女性なんだ。だから、絶対に手放したくない……」頭を抱え、ひたすらに思い悩む浩一の姿は、いつもの自信に満ちた御曹司の面影などなく、ただ愛する人を失うことを恐れる哀れな男だった。普段なら絶対に他人に見せないような情けない姿を晒しているのは、目の前にいる紫音が、彼にとって心を許せる数少ない親友だからだ。「……分かったわ」紫音は小さく息を吐き出すと、凛とした瞳で浩一を見据えた。「明日、私が直接おば様のところへ行って、話をつけてくる」「えっ……?」「昔からのお付き合いだし、私が間に入れば、おば様も少しは冷静に話を聞いてくれるはずよ。あのまま蘭を傷つけられたまま泣き寝入りなんて、私がいちばん許せないから」彼女は自分の直属の部下であり、可愛い妹分なのだ。理不尽な身分差の壁で、愛し合う二人が引き裂かれる悲劇など、兄の件でもう二度と見たくない。紫音の言葉には、有無を言わさぬ
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第795話

浩一は、自分自身の感情の変遷を確かめるように、一つ一つの言葉を紡いだ。「こんな風に理屈抜きで誰かを愛したのは、本当に何年ぶりだろう。それに、ここまで来るのに決して平坦な道のりじゃなかった。蘭も、俺と一緒にいるために見えないところで必死に背伸びして、沢山のものを犠牲にして尽くしてくれたんだ。一人の女の子が、俺のためにあんなにひたむきに愛情を注いでくれたのに……ここで俺が逃げ出して、その想いを裏切るような真似、絶対にできるわけがない」浩一の声には、重々しいほどの決意が満ちていた。これまでの彼女の不器用で真っ直ぐな献身を思えば、どんな壁が立ち塞がろうとも、絶対にこの愛を守り抜かなければならない。何があっても、彼女の小さな手を二度と離すものか。親友である紫音の前に晒したその姿は、愛する女性を命懸けで守り抜こうとする、一人の男の揺るぎない覚悟そのものだった。翌日。紫音は予定通り、塚山家の本邸へ足を運んだ。豪奢な調度品に囲まれた広大な応接室に足を踏み入れると、そこには長年海外で生活していた浩一の母――塚山貴子の姿があった。上品に結い上げられた髪に、一目でハイブランドと分かる仕立てのいいドレス。彼女が放つ、洗練されているが故に冷酷な威圧感は、典型的な上流階級の女主人のそれである。だが、紫音の姿を認めた途端、貴子の表情はパッと華やいだ。「まあ……紫音さん!よく来てくれたわね!」貴子は満面の笑みを浮かべ、まるで自分の娘を迎え入れるように両手を広げた。「貴子おば様、お久しぶりです。ずっとお会いしたかったんですよ」紫音は完璧な令嬢の微笑みを浮かべ、自然な動作で貴子の隣に腰を下ろした。「長年海外にいらして、こんなに突然ご帰国されるなんて。一言ご連絡くだされば、私もお迎えの準備ができましたのに。浩一さんともずっと仲良くさせていただいていますし、水臭いではありませんか」「ごめんなさいね。本当に急な帰国だったのよ。でも、あなた相変わらずお綺麗ね。こうして会うのは何年ぶりかしら……相変わらず完璧なレディだこと」貴子は紫音の手を取り、愛おしそうに撫でた。長年離れていても、彼女が紫音に向ける親愛の情は本物のようだった。和やかな空気が流れる中、貴子はふと、微かに嘆息を漏らした。「……あの子ったらね、何年経っても浮
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第796話

貴子はこれ以上、あの不愉快な小娘の話で場を白けさせたくなかった。長年離れていたせいで、ただでさえ目の前の紫音との間には見えない空白の時間が横たわっている。せっかくお気に入りの令嬢が会いに来てくれたのだから、下世話な話など忘れて、昔のように優雅で楽しいティータイムを過ごしたかったのだ。しかし、紫音は微笑みを絶やさないまま、貴子が用意した逃げ道を真っ向から塞いだ。「おば様。どうか、話を聞いてください」凛とした声色が、応接室の空気をピンと張り詰めさせる。「おば様はどうして、あの子をそこまで頑なに拒絶なさるのですか?――実は、あの森下蘭という女性は、私の大切な直属のアシスタントなんです。そして、あの二人を引き合わせたのは、他でもない私なんですよ」「え……?」思わぬ告白に、貴子はティーカップを持った手をピタリと止めた。馬の骨だと思って見下していた女が、よりにもよって京極紫音の側近だというのだ。「私自身が彼女を深く信頼し、とても愛らしく思っているからこそ、一番の親友である浩一さんに紹介しました。もちろん、おば様が重んじる家柄という問題を考慮していなかった私に一番の責任があります。その点については、深くお詫びいたします」紫音は一度深く頭を下げると、再び真っ直ぐに貴子を見据えた。「ですが、おば様。蘭は、家柄というたった一つの物差しで切り捨てていいような女性ではありません。彼女は人一倍努力家で、仕事に対しても真摯で前向き。今では会社の一部門を一人で背負って立てるほどに優秀です」紫音の脳裏に、これまでの壮絶な戦いの日々が蘇る。「私がかつて前の会社を去り、たった一人でゼロから起業しようと決意した時のことです。周囲の人間は無謀だと冷ややかな目を向け、誰一人として私の誘いには応じてくれませんでした。そんな四面楚歌の状況の中で……彼女だけは違ったんです」紫音の声には、熱を帯びた強い響きがあった。「蘭は、自分の安定した立場も何もかも全てを投げ打って、私についてきてくれました。私がどれほど泥水すするような思いをしようとも、彼女だけは私を信じ、共に立ち上げの苦しい時期を戦い抜いてくれたのです。……あんなに義理堅く、芯の強い女の子はそうはいません」「だからこそ、私は彼女の幸せを心から願って、浩一さんに紹介しました。
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第797話

愛だの恋だのといった感情は、所詮一時的なものに過ぎない。最終的に残るのは、家柄の釣り合いと一族に齎される莫大な利益だけだ。それが、上流階級の冷酷にして絶対のルールである。浩一にはいずれ、相応しい名家の令嬢を見繕うつもりではいたが、まさかどこの馬の骨とも知れない一般人を連れてくるとは思っていなかった。だからこそ、一族の利益となる今回の縁談は、貴子にとっても渡りに船だったのだ。「おば様……」紫音は、膝の上でギュッと拳を握りしめた。「政略結婚だなんて……愛してもいない女性と無理やり結婚させられて、浩一さんが本当に幸せになれるとお考えですか?これは彼の一生を左右する問題です。浩一さんは自分の人生を、自分の伴侶を、自分自身の意志で選ぶ権利があるはずです」紫音の脳裏に、ボロボロになって涙を流していた蘭の顔と、頭を抱えて絶望していた浩一の姿が浮かぶ。「それに、浩一さんの性格はおば様が一番ご存知でしょう?頭ごなしに家の事情を押し付けて縛り付ければ、彼は絶対に猛反発します。彼にとっても、嫁がされるそのお嬢さんにとっても、ただ不幸になるだけではありませんか!」どうしても、親たちの身勝手な論理が理解できなかった。権力や金のために子供の感情を犠牲にし、愛のない結婚を強要する。兄・州の悲劇で嫌というほど見てきたその呪わしい連鎖が、今度は親友と可愛い部下に降りかかろうとしているのだ。しかし、紫音がどれほど声を荒らげ、正論をぶつけたところで、重苦しい無力感が胸にのしかかっていた。――結局のところ、私は「部外者」に過ぎないのだ。紫音は所詮、他家の人間だ。塚山家の当主が決定した巨大プロジェクトと、それに伴う政略結婚。莫大な利権と一族の運命が絡む問題に、いくら浩一の親友だからといって口を挟む権限などない。何とか貴子の情に訴えかけ、蘭という女性の魅力を知ってもらうことで道を切り開きたかった。だが、相手が「絶対的なビジネスの利益」という最強のカードを切ってきた以上、もはや個人の感情論で説得できる余地など、一ミリも残されてはいなかった。「あなたたち若い世代は、すぐに『愛だの恋だの』と夢みたいなことを口にするけれどね」貴子は呆れたように小さくため息をつき、優雅な手つきでティーカップを置いた。「私たちくらいの年齢になれば、結婚におい
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第798話

必死に言葉を絞り出したが、紫音自身、それがどれほど虚しい響きになっているか自覚していた。案の定、貴子はふっと薄く笑うだけで、紫音の言葉を取り合おうとはしなかった。もはやこれ以上、何を言っても無駄なのだと悟らざるを得ない。――蘭は、また理不尽な苦しみを味わうことになるのね。本来なら、二人で温かい家庭を築き、幸せな未来を歩んでいくはずだった。もし二人が結ばれる前であったなら、あるいはまだ諦めもついたかもしれない。しかし、二人はすでに深く心を通わせ、共に確かな幸せを味わってしまったのだ。一度手にした温もりを知ってしまった後に、それを無理やり引き剥がされ、忘れることを強要される苦痛は、想像を絶するものだ。もし自分が同じ立場なら――愛する律の手を親の都合で無理やり離されるようなことになれば、絶対に受け入れられないし、狂ってしまうかもしれない。紫音は、胸の奥がギリギリと締め付けられるのを感じた。あんなに健気で、誰よりも幸せになってほしかった可愛い妹分。昨日、ボロボロに泣き崩れていた彼女の姿が目に焼き付いて離れない。交渉の余地は完全に断たれた。頼もしい姉として切り込み隊長を買って出たものの、何の成果も得られなかった自分が……明日から、一体どんな顔をして蘭に会えばいいのだろうか。紫音は、深い無力感とともに静かに視線を落とすことしかできなかった。「紫音さん。あなたがまだ若いから、感情ばかりを優先してしまうのは仕方がないわ。でもね、親が子どものために選ぶ道というものは、いつか必ず正しかったと証明されるものなのよ」貴子は諭すような、それでいて一切の反論を許さない口調で静かに言い切った。「うちの主人が長年、海外でどれほどの血の滲むような努力をして事業を拡大してきたか……その集大成とも言える今回の巨大プロジェクトを成功させるためには、相手の企業との間に絶対に揺るがない血の繋がりが必要なの。これは塚山家の存亡をかけた決定事項。同情や愛情の入り込む隙なんて、一ミリもないのよ」その冷徹な眼差しは、財閥を支える妻としての絶対的な覚悟を示していた。そもそも、長年海外に拠点を置いていた塚山夫妻が今回急遽帰国したのも、他でもない浩一の政略結婚を正式に推し進めるためだったのだ。最初から、蘭という「イレギュラー」が入り込む余地など、どこにも用
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第799話

紫音の言葉には、意図的に微かな毒が混じっていた。母の猛反対によって引き裂かれた、兄・州と最愛の恋人。結果として彼女と死別し、心から愛した人を失った兄が、今どれほどの地獄を抱えて生きているか。それを知っているからこそ、「親の身勝手な愛」というものに強烈な皮肉を込めたのだ。しかし、紫音の内心の葛藤など知る由もない。今回の浩一の置かれた状況は、かつての兄よりもさらに厄介で絶望的だ。州の時には、家の利益となる明確な政略結婚の相手までは指定されていなかった。しかし浩一にはすでに、十数年単位の巨大プロジェクトと、それに紐づく「政略結婚」という絶対的な足枷が用意されてしまっている。この地獄のような状況を打破できるかどうかは、最終的に浩一自身の覚悟にかかっている。だが、もしこのまま二人が引き裂かれれば、兄と同じように心に一生消えない傷を負うのは目に見えていた。お願いだから、二人をこれ以上苦しめないで……そんな紫音の悲痛な願いを他所に、貴子は優雅に紅茶を啜りながら、どこか遠くを見るような目をした。「……海外ではね、あなたのお母様のように何でも話し合えるような、本当の意味での友人には巡り会えなかったわ。孤独を感じて、全てを投げ出して帰国したいと思った夜も何度もあった。昔みたいに毎日集まって、あなたたちが無邪気に遊ぶ姿を見て笑い合えたら、どれほど幸せだろうってね。でも、背負っているものが重すぎて……どうしても無理だったのよ」そこには、一族を支える女主人としての計り知れない苦労と重圧があったのだろう。彼女自身、過酷な世界を必死に生き抜いてきたのだ。だからこそ、自分が息子に与えようとしているものが「絶対的な正解」だと信じて疑わないのだ。「紫音さん。お母様には、くれぐれもお体だけは大切になさるようにと伝えてちょうだいね」貴子はふっと冷ややかな、それでいて慈愛に満ちたような奇妙な笑みを浮かべた。「私はね、子どもの結婚問題で自分の心を乱したり、体調を崩したりなんて絶対にしないわ。だって、私が決めたことには一片の狂いもないと確信しているから。あの子がどんなに反発しようと関係ない。私の息子なのだから、親の敷いた完璧なレールの上を歩くのが当然でしょう?」貴子の言葉には、圧倒的な自信と揺るぎないエゴイズムが満ちていた。そこ
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第800話

浩一はギリッと奥歯を噛み締めた。まさか海外から帰国した両親が、唐突に自分の婚姻をここまで徹底的に支配しようと目論んでいたとは思いもしなかった。彼の心はとうに決まっている。誰に何を言われようと、愛する彼女を妻に迎えるという決意が揺らぐことなどあり得ないのだ。「母さん、もうやめてくれ……俺の覚悟は決まってるんだ。俺は蘭に誓ったんだよ。一生かけて彼女を守り抜くって。だから、これ以上俺たちを追い詰めないでくれ!」喉の奥から絞り出すような、苦痛に満ちた声だった。蘭とここまで歩んでくるのに、どれほどの障害を乗り越え、どれだけの痛みを分かち合ってきたことか。振り返れば、決して平坦な道のりではなかった。けれど、彼女と出会えたことは浩一にとって人生最大の奇跡だった。価値観を共有し、心から深く愛し合い、魂の根底から寄り添えるたった一人の女性。蘭と過ごす時間は何よりも愛おしく、彼女の笑顔を思い浮かべるだけで胸が温かくなる。そんな絶対的な幸福を与えてくれるのは、この世界で蘭ただ一人だけなのだ。もし彼女を手放せば、蘭を深く傷つけるだけでなく、浩一自身の心も完全に壊れてしまう。そんな未来には、絶対に耐えられなかった。だが、息子の悲痛な叫びを前にしても、貴子はため息交じりに首を振るだけだった。「黙りなさい、浩一。親心というものが分からないの?私たちだって若い頃はあったわ。あなたが今何を考えているかぐらい、お見通しよ。でもね、愛だの恋だのという一時の熱病で人生を棒に振るような真似、私とお父様が許すはずがないでしょう。いいから、大人しく従いなさい」「どうして……どうしてそうやって俺を縛り付けるんだ!少しは俺の意志を尊重してくれないのか!?これは俺の人生だぞ!結婚する相手くらい、俺自身に決めさせてくれ!俺が愛しているのは蘭だけだ。この先も、心変わりなんて絶対にしない!」浩一は髪を搔き毟り、狂いそうなほどの葛藤に苛まれていた。目の前にいるのは、自分を産み育ててくれた実の母親だ。親への恩義や愛情があるからこそ、これ以上どうやって反発すればいいのか分からなかった。愛する女性と、自分を生かしてきた親。その二つの間で引き裂かれそうになりながら、どうすれば皆が幸せになれるのか、答えの出ない問いに心が千切れそうだった。だが、立ち止まっている猶予
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