All Chapters of 入籍しないなら…兄嫁になります!~冷徹社長に溺愛される日々~: Chapter 351 - Chapter 360

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第351話

賢治の言葉で、絵里は鼻の奥がつんとし、目元がじわりと潤む。彼女は賢治を見つめ、まっすぐな瞳で言い切った。「私、和也との婚約期間中、その誓いに背くようなことは一度もしていないです。和也がこの縁談を軽んじるのなら、仕方ありません。我が水原家が藤原家とのご縁を望んでいる今、裕也も私も独身だし、結婚に問題はありませんわ」裕也は伏し目がちに彼女を見下ろした。漆黒の瞳に浮かぶのは、甘やかな慈しみ。だが次の瞬間、彼が一同へ視線を走らせると、その温度は消えた。「絵里に求婚したのは俺だ。両家のお爺さんも了承している。まだ文句があるのか」鋭く、強く、容赦のない声。そこまで言われて、誰が口を挟めるというのか。「なんだ、誤解だったのか。そうなると、和也のほうが不義理だな」「裕也は落ち着いてるし、絵里ともお似合いだ。いいじゃないか」「みんな賛成だ。裕也、いつ公表する?盛大に式を挙げよう」「そうそう。藤原家も久々に賑やかになる。派手にやらなきゃな」好き勝手に言葉が飛び交う。雪枝と和也がどれだけ腹の中で煮えくり返っていても、表には出せない。「三日後、俺の誕生日パーティーに婚約を公表する。その場で、絵里との結婚を皆さんに見届けてもらいたい」と裕也は落ち着き払って告げた。賢治が頷く。「日取りは吉日を慎重に選べ。格式高い式にするんだ。藤原家が絵里を迎えられた幸運を、誰の目にも明らかなようにな」その言葉は、絵里に十分すぎるほどの面子と安心感を与えた。洋二がすぐさま応じる。「分かった、すぐに日取りを選ばせる。必ず盛大に」「ありがとう」「ありがとう」絵里と裕也の声が、ほとんど同時に重なった。絵里は顔を上げ、裕也に微笑む。守られている温かさが、胸いっぱいに広がっていた。さっきまでの嘲るような顔は消え、祝福の言葉が口々に寄せられた。雪枝は顔色が悪くなり、今にもその場に崩れ落ちそうだった。和也の動揺は、それ以上だった。血の気の引いた顔。糸の切れた人形のように、身体から力が抜けている。裕也の隣で、明るく艶やかに笑う絵里を見た瞬間、胸の奥が刃物でえぐられたように痛んだ。天が落ちたみたいだった。終わった。全部、終わった。その夜、絵里はたくさんの贈り物を受け取った。冷たかった雪枝のことなど、もはや気
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第352話

絵里は一晩中、裕也に執拗に求められていたせいで、目覚めた瞬間から腰がだるくて痛い。歩くだけで、体の奥がズン……と響くほど疼いた。この男、どれだけ体力あるのよ。そう思うくせに、昨夜の甘い熱がふっと蘇ると、絵里は唇をきゅっと結んで笑ってしまう。頬には、じわりと紅が差した。クローゼットで着替えを済ませ、ドアへ向かって階下に降りようとしたところで、背後から裕也に抱きすくめられる。「最近ずっと忙しいよな。また出かけんの?」耳たぶのすぐ近くで囁かれた声。熱い息が首筋をくすぐり、じりと肌を灼いた。ぞわぞわ、くすぐったい。絵里は「ふふっ」と堪えきれず笑い、肩をすくめて顔をそむける。「もうすぐ誕生日でしょ。そのタイミングで、私たちの結婚のことも公表するの。じいちゃんには私からちゃんと話す。それに、おじさんたちにも一人ずつ連絡しないとね」背中を裕也の胸に預ける。もうすぐ公になるそう思うだけで、胸の奥がふわりと浮き立った。「……だから忙しくて、俺のことは構ってくれないってわけだ」裕也は耳元に頬をすり寄せてくる。ねっとりと甘く、狙いが露骨で腹立たしいほど。絵里はまた笑って、わざと意地悪く言った。「そんなふうにくっついてたら、誰かに見られたら笑われるよ?」腰を抱く腕がぎゅっと強まる。絵里の髪から漂う淡い香りを吸い込みながら、裕也は気だるげに言った。「男が自分の嫁にべったりしないなら、外に女がいるってことだろ」「じゃあ裕也は、外に女いないってこと?」絵里が眉を上げると、裕也は鼻で笑った。「俺は『夫の鑑』だからな。そんな不届きな真似はしないさ」「うわ、うちの裕也すごーいね……」「だろ?じゃあ、ご褒美くれよ」裕也は絵里の首筋に唇を落とし、すりすりと甘く擦ってくる。くすぐったさと熱で、絵里の喉から「きゃっ」と笑い声が漏れた。熱い息がさらに近くなる。呼吸が重くなったのが、背中越しにはっきりわかる。まずい。昨夜みたいにまた……絵里は慌てて裕也の手をどけた。「ダーメ、今日の分は終わり」二歩、警戒するように下がりながらドアノブに手をかけ、ガチャリと開けて外へ飛び出す。と、廊下に出たところで引き返し、ひょいっと顔だけ覗かせた。「調子乗ってたら、足腰立たなくなるよ?」「へえ。じゃあ試してみろよ
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第353話

「……あなただって平気で生きてるくせに、人のことをとやかく言える立場なの?」絵里が回り込むようにして給湯室へ入ってくる。その背後には警備隊長、そして例のディスクを絵里に渡した警備員の姿もあった。晴子は聞き覚えのある声に顔を上げる。絵里を見た瞬間、びくりと固まった。手にしていたコーヒーカップがガタンと机に落ちる。「……なんで、あなたがここに」立ち上がった晴子の声は、理由もなく震えていた。絵里は唇の端を薄く吊り上げる。冷えきった笑みだ。「そんなに怯えるってことは、後ろ暗いことでもしたの?」晴子の視線が泳ぐ。「……でたらめ言わないで」逃げるように歩き出す。絵里の脇をすり抜けようとした、その瞬間、腕を掴まれ、乱暴に引き戻された。絵里の立場を知らない女性社員が、慌てて割って入る。「ちょっと!なにするんですか。人に手を出すなんて……」騒ぎに気づいた周りの社員たちも、席を立って給湯室のほうを振り向き始めた。絵里は女性社員へ視線だけを投げる。「あなたには関係ない。外してくれる?」女性社員は絵里と、その後ろの警備員たちを見比べ、怪訝そうに口をつぐむ。晴子の胸の奥で、不安が膨らむ。早くここを出たいのに、声が上ずった。「なにがしたいの?殴るつもり?話すことなんてないわ、どいてよ」絵里は一切譲らなかった。真正面に立って道を塞ぎ、手を差し出す。「出しなさい」絵里の目は氷みたいに冷たく、温度がちっともない。見つめられるだけで背筋がぞわりとする。晴子は怖かった。それでも必死に平静を装う。女性社員は晴子と仲が良いのか、さらに食ってかかる。「あなた誰なんですか?警備の方も、なんでこんな人を連れてきて騒ぎ起こしてるんです?早く連れてってくださいよ、仕事の邪魔です!」絵里は取り合わない。晴子から目を逸らさず言う。「警察に行くか、素直に出すか。選びなさい」警備隊長が険しい顔で続けた。「監視カメラに、あなたがディスクを二枚持ち出す様子が映っています。大人しく提出してください。応じないなら、こちらも通報して対応します」警備員が指をさす。「あなたの顔覚えてる。あの日、監視室に来て俺を外に出したの、あなただっただろう。まさかディスク盗むためだったとはな」晴子の顔から血の気が引いた。目
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第354話

絵里は、寧々の意図がどうにも掴めなかった。だから詳しい話まではせず、さらりと言った。「大丈夫。私で処理できるから」その後、文紀に裕也の誕生日パーティーの件を軽く話し、会社を後にした。寧々を捕まえて、きっちり話をつけるつもりだ。あれほど執拗に突っかかってくる以上、何かをわざと隠している。そう疑わずにはいられない。絵里は車を発進させると同時に、寧々へ電話をかけた。「やっと連絡くれたのね?」寧々は電話に出るなり、意味ありげに笑う。まるで、こうなると最初からわかっていたみたいに。絵里は単刀直入だった。「ディスクを返して」回りくどいことは言わない。「あなたが何を企んでるのかは知らない。でも、返しなさい。今すぐ」寧々が、わざとらしく笑い声を漏らす。「何のことだか、さっぱりわからないわ……」絵里の全身に、ひやりとした冷気がまとわりつく。「世間ってさ。名門の『禁断』の恋、しかも証拠付き、そういうの大好物だと思わない?」スマホの向こうで、怒りが爆発した。「最低!恥を知りなさいよ!」絵里は眉ひとつ動かさない。「あなたに教わったの」「……いいわ。ディスクが欲しいなら、雲上倶楽部まで来なさい」歯ぎしり交じりに吐き捨てて、寧々はブツッと通話を切った。一方その頃。裕也はクラブの個室で、隆と章を呼び出し、パーティーの件を伝えていた。隆がいちばん派手に反応する。「やるじゃん。ついに公にする気になったか」章は上品に微笑んだ。「おめでとう。ようやく望みが叶うな」黒いソファにゆったり身を沈めた裕也。夜を溶かし込んだような瞳には、隠しきれない甘い笑みが滲んでいた。「待った甲斐があった」手元のグラスを軽く掲げると、二人も同じようにグラスを取り、カチンと鳴らして飲み干した。隆はグラスを置き、眉を上げる。「たださ、聞いたぞ。ここ2、3日で郁江が会社まで押しかけたんだろ?あっちはどうすんだよ」章も表情を崩さないまま言った。「確かに厄介だ。慎重に片をつけろ。絵里を傷つけるなよ」「もう説明した」裕也がさらりと言い切り、二人が思わず顔を見合わせた。その瞬間。ガチャリ。扉が乱暴に開き、郁江が怒気を纏って乗り込んできた。「裕也!電話は出ない、メッセージも返さない、会
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第355話

ふいに、郁江の腕が乱暴に掴まれた。「……やめろ。これ以上、俺を追い詰めるな!」指の力が尋常じゃない。骨ごと握り潰されるんじゃないかと思うほどで、郁江は息を呑む。そのまま半ば引きずられるようにして、個室へと連れ戻された。その頃、絵里が角を曲がり、反射的に右手の廊下へ目を向ける。そこはしんと静まり返り、人影ひとつない。……変だな。さっき、裕也の声が聞こえた気がしたのに。考え込む間もなく、絵里は個室の前まで来ると、手を伸ばして扉を押し開けた。絵里は入口に立ったまま、室内を見渡す。ソファに座る寧々が、背もたれに身体を預け、腕を組んでいた。その目はまっすぐ、絵里だけを射抜いている。「……どうしたの。入れないの?」寧々の冷えた声が、部屋の空気を切った。絵里は薄く口角を上げると、そのまま一歩、室内へ入る。「……ディスクは?」絵里は酒卓を挟んで寧々の前に立つ。卓上にはウイスキーのボトルと、ほんの少しだけ注がれたグラスがひとつ。寧々は身体を起こし、グラスを手に取って飲み干した。「何度も同じ目に遭って、まだ学習できないの?呼ばれたからって、本当に来るんだ?」言い終わるのと同時に、扉がもう一度開いた。ぞろぞろと男が数人入ってきて、寧々の傍へ寄り、絵里を値踏みするように見下ろす。寧々の眼光が、一段と鋭くなった。「T市で、あなたは私を嵌めて地獄に落とした。ここに来てまで、無事に帰れると思った?」「帰れるわ」絵里は動じない。最初から、その手を打ってくると読んでいた。「和也とのあれこれ、世間にばらされたくないなら……私に指一本触れないことね」寧々が歯噛みする。「脅し?こっちは人もいる。どうするつもりなのよ」絵里はスマホの時刻をちらりと確認した。「十分後。私が電話を入れなかったら、あの動画は外に流れる。それだけじゃない。この前の通話の録音から警察があなたを割り出す……賭けてみる?」寧々の顔色が、すっと変わった。こいつ、本当に変わった。「信じると思う?」寧々はグラスを床へ叩きつけた。ガシャンッ!砕けた破片と酒が飛び散り、床に不気味な光を散らす。絵里は睨み下ろすように視線を落とし、冷えた声で言った。「信じなくていいわ」寧々はこぶしを握り締め
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第356話

あの尊大な態度に、寧々は思わず、かつて太陽みたいに眩しかった頃の絵里の姿を重ねた。嫉妬で腹の底が煮えくり返り、寧々は歯を食いしばる。「……行かせて」絵里は淡々と視線を引き、背筋を伸ばしてエレベーターホールへ向かった。裕也は両手をポケットに突っ込み、エレベーターを待っている。顔色は陰り、近寄りがたいほど険しい。その隣にいる郁江は、勝ち誇ったように口元を吊り上げていた。「考える時間はあげるわ」郁江は笑いながら、彼のたくましい腕に触れようと手を伸ばす。「ただし、あまり待たせないでね」チン、と軽い音。エレベーターの扉が開いた。裕也は一歩、すっと中へ入る。彼女の指先が届く隙すら与えない。けれど郁江は機嫌がいいまま、少しも腹を立てず、笑って後に続いた。扉が閉まりかけた、その瞬間。絵里がエレベーターの前へ来て、わずかな隙間から中を覗き込む。裕也らしき横顔が見えた気がした。だが、はっきりとは確認できない。絵里はスマホを取り出し、LINEを送る。【どこ?】返信が来たのは、下の階まで降りてからだった。【友だちと外で用事の話してる。どうした?】【ううん、何でもない。ちょっと聞いただけ】絵里は屋外の駐車場へ出る。ふと顔を上げた、その先、黒い高級車が、出口から滑るように去っていくのが見えた。死角でナンバーは確認できない。……今の、裕也の車に似てたような。けれど、絵里は何も聞かなかった。疑っているみたいで、嫌だったから。自分の車を出し、絵里は寧々に動画を送ってから、ハンドルを切って走り出した。個室では寧々が、焦れたように待ち続けていた。スマホの通知音が鳴るやいなや、寧々は勢いよく画面を開き、リンクをタップする。その瞬間、背後に気配が増えた。整った顔立ちの男、和也。だが、その表情は冷たく陰っている。画面は目を背けたくなるほど下品で、それでも絡み合う男女の顔だけははっきり映っていた。寧々は迷いなく操作し、動画を削除した。「これで信じた?」和也を一瞥し、寧々はわざと火に油を注ぐ。「あの女は、あなたにもう一欠片も気持ちなんてない。動画を残してたのも、いつか、私たちを完全に潰すためよ」今日わざわざ絵里と会ったのは、この場面を仕込むためだった。和也に絵里への未
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第357話

絵里はほっと胸をなでおろし、ふっと笑って返す。「うん。会いたくなっちゃって。夜、仕事が片づいたら早めに帰ってきてね」スマホの向こうで、急にカサ……と小さな物音がした。ほんの僅か。衣擦れのような、かすかな気配。「……そっち、何の音?」沈黙が落ちて、ようやく裕也の穏やかな声が戻る。「大丈夫。うっかり何か倒しただけ……今夜ちょっと用があって、遅くなるかもしれない。腹減ったら先に食べて。待たなくていい」「了解。大忙しだもんね。じゃあ、家で待ってる」冗談めかして言いながらも、絵里は素直に頷いた。「いい子だ」甘やかすような声、けれど、裕也の視線は刃のように冷たく鋭い。目の前の郁江を、容赦なく抉る。郁江は口を塞がれ、壁へ押しつけられていた。乱れた髪。挑むような眼。さっきの物音は、彼女が必死にもがき、何か言おうとしたせいだ。通話の切れた「ツーツー」という音が聞こえてから、裕也はようやくスマホを下ろす。郁江の口を塞いでいた手は、今度は頬を掴むように力を入れた。「……俺が、お前に手を出さないとでも思ったか?」裕也の顔は氷のように冷え、眼底で凶気が爆ぜる。郁江の身体がびくりと震えた。だが次の瞬間、彼女は艶めく笑みを浮かべる。勝ち誇ったように。「もちろん、できるって知ってる。あなたって昔から非情だもの、そうでしょう?でも、残念。私、あなたが何を一番大事にしてるか、知っちゃったのよね」頬の痛みなど意に介さず、郁江の瞳は狂気じみた執着を滲ませる。裕也は歯の隙間から、押し殺した声で言った。「……脅しは嫌いだ」郁江は彼を見据えたまま、ゆっくり笑みを引っ込め、怨みを込めて吐き捨てる。「私だって裏切られるのが一番嫌い。簡単に手放してあげるわけないでしょ。私が地獄なら、みんな道連れよ。誰も幸せになんてさせない」裕也は手を離し、郁江を突き飛ばした。ドサッ。床に倒れ、髪がさらに乱れる。それでも彼女はすぐに立ち上がり、狼狽の色を微塵も見せない。「いい報告、待ってるわ」高慢な背中を残し、郁江は個室を出ていった。絵里は電話を切ると、すぐにディスクの中身をもう一度絞り込んだ。その結果に、胸がざわつく。何も、ない。空っぽだ。消されていたとしても復元できる。なのに、最初から何も入っていない
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第358話

絵里は拳を握り直し、深く息を吸って気持ちを整えた。夫婦のあいだでいちばん大切なのは、信頼だ。目に見えたものが、必ずしも真実とは限らない。沈みかけた感情に溺れるのはやめ、ディスクへ視線を走らせた絵里は、寧々にメッセージを送る。【ディスクの件、私を騙したわね。後悔することになるわよ】寧々が怖がるはずもない。動画はもう消してある。脅しなんて効かない、と高を括っているのだろう。寧々は鼻で笑うように返してきた。【あなたを助けた人は、とっくに死んでる。あなたは一生、そいつが誰か知れないままよ】その文面を見た瞬間、絵里の背筋を冷たいものが走った。助けた人が死んでいる?そんなはずがあるのか。絵里は強引に落ち着こうとして、あの日の観光地でのことを丹念に思い返した。あの場にいたのは、誰だった。人が多すぎる。誰か、決定的に見落としている。けれど記憶だけじゃ足りない。あの日、自分を助けた人物は、身につけていた半月形の銀色のペンダントが印象に残っている。それに、誰かが名前を呼んだような気もするのだが……遠すぎて、はっきりと思い出せない。目を覚ましたあと、父も「和也が助けた」と言っていた。何がどう食い違えば、父までそう断言することになる?そのとき、着信音が思考を断ち切った。絵里ははっとして画面を見る。寿樹からだ。スワイプして通話に出る。「どうだ?監視カメラのディスク、手に入ったのか。助けたのが誰か分かった?」ここ数日、寿樹は忙殺されていたはずだ。それでも絵里がG市に戻ったと知って、ひと段落ついた瞬間に電話を寄こしてきたのだろう。絵里はこめかみを揉んだ。「ちょっとトラブルがあって。ディスク、すり替えられて……消えた」「え?何だそれ。どういうことだ?」絵里は晴子の件をかいつまんで話す。話しているうちに、こめかみのあたりがずきりと疼いた。「今まで、両家の関係があるからって、ずっと手加減してきた。でも寧々は、容赦なく噛みついてくる。もう甘くはしない」寿樹は彼女の決意を聞き取ったようだった。「分かった。俺にできることは?」「当時、その場にいた人たちの具体的な名簿が欲しい」絵里は一拍置き、言葉を重くする。「ディスクがない以上、当時の関係者から当たるしかない。それと、内密に調べ
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第359話

絵里は、裕也が今夜は帰ってこないと思っていた。身支度を済ませ、ベッドに横になろうとしたそのとき、彼がふいに外から戻ってきた。絵里は、思わず固まる。いつ見ても隙のない、あの優雅な男。その姿を目にしただけで、あの動画が脳裏に蘇り、胸が締め付けられて息が詰まりそうになった。「まだ寝てなかったのか?」裕也は長い脚でベッドまで歩み寄り、軽く身を屈める。穏やかな眼差しの奥に、わずかな疲れが滲んでいた。距離が近すぎる。絵里の鼻先に、かすかな香水の匂いが触れた。この匂い……前に嗅いだのと同じ。反射的に、郁江の名前が浮かぶ。「今から寝るところだったの」絵里は思考を押し込み、淡々と彼を見た。探るように言う。「こんな遅くまで、どうしたの?」「ちょっとトラブルがあってな」弱い灯りが絵里の顔を照らし、裕也の眉がわずかに動く。「……どうした?顔色が悪い」「何でもない。考えごとしてただけ。少し休めば平気」絵里はあくまで静かに答えた。裕也がそれ以上、何も言う気配を見せない。胸の奥が、ずしりと沈む。絵里は布団を引き寄せ、そのまま横になった。裕也が身を屈めると、長身の影が絵里の顔に落ちる。唇を薄く吊り上げて笑った。「少し待っていておくれ。シャワー浴びて、戻ったら一緒に寝る」絵里は温度のない声で答える。「……うん」ほどなく、裕也はバスルームへ向かった。バスルームから響くザーザーという水音を耳にしながらも、絵里の胸のモヤモヤは晴れないままでいた。まるで重い塊が喉の奥につかえているかのように、息を吸うことも吐き出すこともできず、ただ苦しさに胸が締め付けられる。あと二日で、彼の誕生日。もし彼が郁江とまだ切れていないのなら、この先も一緒にいる意味なんて、あるのだろうか。絵里は、ないと思った。けれど、問い詰めたくはない。人が本気で騙そうとしているなら、問い詰めたところで返ってくるのは、計算し尽くされた言い訳だけだ。水音を聞きながら、絵里の意識が落ちかけた、その瞬間。音がぷつりと止んだ。ほどなく背後のマットレスが沈み、次いで、温かな体温が背中に寄り添う。馴染みのある香りが鼻に忍び込んだ。裕也が後ろからそっと抱きしめ、胸板を絵里の背に当てたまま、低く訊く。「寝たか?」
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第360話

外から言われるほど、残酷なやり口ではなかった。絵里は忘れていない。視線を落とし、淡々とした声で言う。「私はいつでも空いてるわ。そのときは電話して」裕也は眉間にかすかな皺を寄せ、訝しげに瞳を持ち上げた。「どうした?今日、あんまり嬉しそうじゃない」絵里はそのまま目を合わせ、さらりと笑う。「まさか。裕也が私に後ろめたいことさえしなければ、私が不機嫌になる理由なんてないわ」十年前の出来事が脳裏をよぎり、今なら聞けるかもしれない。そう思った、そのとき。コンコン、と扉が鳴り、健が外から入ってきた。きっちりと糊の利いた身なりだ。「社長、奥様」彼は端正な姿勢で脇に立ち、手には書類を一通持っている。裕也はそれを一瞥し、短くうなずいた。絵里も薄く微笑んで会釈を返す。朝食を終え、絵里は玄関まで裕也を見送りに出た。ネクタイが少し曲がっているのに気づき、そっと手を伸ばして整える。指先は優しく、動きは丁寧。伏せた睫毛と柔らかな眉目は穏やかで、肌は眩しいほど白い。裕也は視線を落として彼女を見つめ、しばらくして唇の端を上げた。「最近、ますます優しくなるな」絵里は瞼を上げる。どう見ても、この人が郁江と軽はずみな真似をするとは思えない。昨夜は胸の奥がざわついたけれど、結局は信じている。だから、余計な詮索はしたくなかった。けれど、別のことは聞いておきたい。「十年前、私が溺れたこと……覚えてる?」裕也は眉をわずかに持ち上げる。「覚えてる」絵里の目が丸くなる。「じゃあ、私を助けたのが誰か……知ってる?」「どうして急にそんなことを」裕也の目がふっと細くなり、その瞳の奥を、夜の闇のように昏く沈ませた。絵里は、彼のような人がそんな細事を覚えているはずがないと思い、平静を装った。「なんでもないの。ただ、気になっただけ」裕也は何かを思い出したように、その瞳の奥に暗い陰りを宿した。そして手を伸ばし、彼女の頭をくしゃりと撫でた。「無事だった。それで十分だ。過去のことは考えるな……過去の人間のこともな」絵里の予想通りだった。裕也からは何も引き出せない。彼自身も、詳しくは知らないのだろう。裕也が車に乗り込むと、健が助手席から資料を差し出した。「社長。奥様は、たしかに神原さんと面識があ
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