All Chapters of 入籍しないなら…兄嫁になります!~冷徹社長に溺愛される日々~: Chapter 331 - Chapter 340

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第331話

「そんなこと、言わないでくれ……」裕也は彼女を抱く腕にいっそう力を込めた。胸の奥がきゅっと締めつけられ、何度も何度も言い聞かせるように宥める。絵里は記憶の底へ沈んでいた。顔には痛みが滲み、涙だけが静かに流れ落ちる。崩れそうな声で、同じ言葉を繰り返した。「私が悪いの……裕也には分からない……全部、私のせい。あれは全部、私が……」絵里は裕也のジャケットをぎゅっと掴み、感情を抑え込もうとしては、何度も失敗する。声を上げて泣きはしない。それでも、歯を食いしばって耐えるその姿が痛々しくて、見ているほうの心まで抉られる。代われるものなら代わってやりたいほどに。「忘れてしまったのか?自分を責めないでくれ」裕也は必死に宥めたが、彼女を抱きしめる以外、言葉が出てこない。お義母さんの死はあまりにも凄惨だった。あの年の交通事故は連日メディアが騒ぎ立て、新エネルギー車は一時期スキャンダル扱いされ、市場開拓を共にしていた水原家と星野家までが、しばらくの間、格好の標的にされた。「お義母さんは、誰よりお前を大事にしてた。お前が苦しむのが、一番つらいはずだ。な、いい子だから……」裕也の声は掠れていた。痛いほど慈しむように、低く優しくあやす。絵里は完全に制御を失い、彼の胸に頼りきる形で崩れ落ちた。記憶に呑まれたまま、泣いて、泣いて、それでも声だけは殺し続ける。涙が裕也のスーツをじわりと濡らしていった。裕也の瞳は暗く揺れ、後悔の色が浮かぶ。心臓が波のように締めつけられ、痛みで奥歯を噛み砕きそうだった。さっきの話題を出すべきじゃなかった。どれほど経っただろう。ようやく絵里の震えが少しずつ収まっていく。泣きすぎて酸欠になったのか、彼の胸に凭れたまま、弱々しく息を吸う。眉をきつく寄せ、ふいに小さく、うわ言のように呟いた。「母さん……ごめんなさい……ごめんね……ごめん……母さんに会いたい……母さん……」絵里の手はまだスーツを離さない。喉の奥から細い嗚咽が漏れる。裕也は深く息を吸い込んだ。端正な顔に、抑え込んだ陰りが濃く落ちる。腕の中の絵里を抱きしめたまま、目を細め、喉仏を何度も上下させる。そっと俯いて、彼女の頭頂に何度も何度もキスを落とした。眉間に刻まれたしわ。重い沈黙。その頃。郁江は、和也と落ち合う約束の
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第332話

絵里をあそこまで庇われて、郁江は本来なら腹が立って仕方なかった。だが、すぐに機嫌を直して言った。「いいわ。あなたの顔を立てて、絵里のことはもう笑わない」それから、探るように続ける。「でも聞かせて。あの二人、本当に結婚したの?」和也にも確信はなかった。裕也が口にした言葉が本当なのか、それとも自分の望みを断ち切るための嘘なのか、判別がつかない。けれど、郁江が裕也の好きな人である以上、答えは見えている気がした。裕也は絵里をダシにして、郁江の気を引こうとしているだけだ。「裕也が星野さんのことをあれだけ大事にしてるのに、他の女と結婚するわけないだろ」和也は言い切った。「この何年も、裕也のそばに女の影なんて一つもなかった。ずっと星野さんを待ってたんだ」そして、言葉を詰まらせるように眉を寄せる。「……それに、何があったんだ?裕也があんなに怒るなんて」G市で、同じ界隈の連中は皆、二人が「本命の組み合わせ」だと信じて疑わなかった。和也までそう言うのを聞き、郁江の胸のつかえがすっと落ちる。「そこは気にしなくていい。とにかく今は目的が同じよ。あなたは絵里をモノにする。私は裕也を振り向かせる」そうなれば、二人とも得をする。取引成立、郁江は車を走らせ、その場を離れた。星野家へ戻る途中、まだ車を降りてもいないのに、郁江のスマホが震えた。「お嬢様。裕也様は……絵里様と、確かにご入籍されています」「そんな……嘘よ、あり得ないわ!」全身が一気に冷えた。昂ぶりすぎて、声が掠れる。「間違いありません。裕也様は情報を隠しており、普通では辿れません。こちらも相当手間をかけて確認しました。それから、絵里様の資料もいくつか掴めました。すでにメールでお送りしています」喉がきゅっと締まり、顔色が抜ける。返事もせず電話を切り、すぐにメールを開いた。読み終えた瞬間、郁江は、言葉を失った。絵里は……本当に、システムを開発できる。しかも十歳にも満たないころに、すでに完成させていたのだ。郁江の胸の奥が、鈍く折れる。ふらふらと車を降り、本宅のホールへ入る。上座に座る隆志が視界に入っても、郁江は一瞥もしないまま、魂が抜けたように階段を上がろうとした。隆志が不機嫌そうに言う。「なんだその態度は。みっともな
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第333話

ついてるにもほどがある。神様まで味方してるじゃない。絵里は午後に会社を出てから、翌日までずっと眠り続けた。一晩中、悪夢ばっかり。目が覚めたときには、もう午前十時だった。頭痛に顔をしかめながら身を起こそうとした、その瞬間。外から裕也が入ってくる。「目が覚めたかい?」絵里が上体を起こしたのを見るなり、裕也は大股でベッドのそばへ来て、眉尻を下げたやさしい目で言った。「昨夜、熱が出たんだ。今日は無理しないで、大人しく横になって休んでおいで」熱……そうだったんだ。絵里も強がる気にはなれず、素直にこくりと頷く。声はひどく掠れていた。「スマホ……」裕也はベッドサイドの棚からスマホを取り、絵里に手渡す。「覚には俺が休みの連絡を入れておいた。向こうの仕事は遅れない」それが心配だった絵里は、胸の奥がすっと軽くなった。「ありがとう」「他人行儀だな。俺、そういうの好きじゃない」薄い唇の端をわずかに釣り上げ、響きのある低い声でからかうように囁いた。昨夜の絵里の様子を思い出し、裕也は内心ひやりとした。夜中、急に高熱が出て、泣きながら「母さん」を呼んだ。母さん、と。まるで子どもみたいに。涙で枕を濡らし、パジャマは汗でぐっしょり。夢の中に落ちたまま、痛みに耐えるように泣いて、声まで枯れていた。絵里はまだしんどい。頭は痛いし、身体も鉛みたいに重い。食べて、薬を飲んで、また眠った。途中で二度ほど目が覚めたけれど、精気を吸い取られたみたいに力が入らず、食べたら眠る、それだけだった。裕也はずっとベッドのそばを離れない。悪夢の続きを見せたくなくて、目を離すのが怖かった。気づけば、深夜。裕也のスマホがぶるっと震えた。彼は端末を手に取り、リビングの大きな窓の前まで歩いて出てから通話に出る。「どうした?」「社長、まずいです」健の切迫した声が耳に刺さる。「誰かが裏で社長のことを洗ってます。それで、かなり厳重に秘匿されていた情報にまで、奴らの手が伸びたようです。狙いは、社長の婚姻状況だと思います」一拍置いて、健は続けた。「それと、奥様のほうも……誰かが内偵してます」裕也は窓の外へ視線を投げた。街の灯りがきらきらと映り込む。だが、その瞳の奥は凍てついたように暗い。「誰だ」「
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第334話

「いいよ」裕也は理由すら聞かず、即答した。絵里は意外そうに瞬きをする。「……どうしてか、聞かないの?」「何を?」スマホ越しの艶のある低い声が、今度は彼女のすぐ近くで響いた。「絵里がやりたいことなら、好きにやればいい。俺は合わせる」反射的に視線を上げた絵里の顔が、ぱっと明るくなる。裕也が、ほんの二メートル先に立っていた。口元に笑みを浮かべたままこちらを見て、スマホを軽く振ってみせる。背が高く脚も長い。所作は上品で、顔立ちは端正、見飽きることなんて、あるはずがない。絵里は胸を弾ませ、駆け寄った。「どうして来たの?」嬉しさが溢れている。少し顎を上げた澄んだ瞳には、跳ねるような喜び。頬には、花が咲いたみたいな笑顔。裕也の胸が、きゅっと鳴った。俺を見て、そんなに嬉しいのか。「江原社長が、こっちに来てるって言ってた。ちょうど近くにいたから、迎えに来た。一緒にホテルへ戻ろうと思って」まさか着いた途端、絵里から電話が入るとは。「今日はどうした?そんなに嬉しそうだけど」絵里は唇をきゅっと結ぶ。「当ててみて」「褒められた?」上のエンジニア連中、すっかり絵里のファンになっていたし。絵里は裕也の腕にぎゅっと抱きつく。「違う」二人は駐車場のほうへ歩き出す。「G市に帰れるから嬉しいのか?」「それも違うわ」「仕事に目処がついたから?」「もう……裕也のバカ。本当に鈍感なんだから!」西日がきらめく金粉のように降り注ぎ、二人の影を長く伸ばしていく。寄り添う影はぴたりと重なり、温かく、穏やかで、それはまるで、幸福そのものの縮図に見えた。翌日の昼。裕也に付き添われ、絵里はG市行きの飛行機に乗った。一方、和也は撮影現場へ行っても絵里に会えず、今度はホテルへと先回りして彼女を捕まえようとした。そこでようやく、絵里がすでにチェックアウトしていると知らされた。和也は腹の底から煮えくり返った。ホテルのロビーを出た瞬間、影が飛び出してきて、彼の腕にしがみつく。「和也!やっと見つけた……どうして電話に出てくれないの?わざと避けてるの?」寧々は顔色が紙みたいに白く、目の下には濃い隈。痩せた身体が頼りなく揺れ、怨みがましい目で詰め寄ってくる。和也はぎょっとした。たっ
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第335話

寧々は呼吸が少しずつ奪われていくのを感じ、恐怖に目を見開いた。次の瞬間、このまま絞め殺される。そんな予感が背筋を凍らせる。彼女は必死に彼の手を叩き、掠れた声でやっとの思いで言葉を吐き出した。「……離して……」息が途切れかけた、その瞬間。和也はようやく寧々を突き放した。ドサッ、と硬い地面に叩きつけられ、寧々は咳き込みながら空気を貪る。喉の奥が焼けるように痛く、むせ返るほど苦しい。和也は容赦なく一瞥するだけで、踵を返し、足早に去っていった。「待って……!」寧々は伸ばした手で掴もうとする。だが空を切った指先に残ったのは、冷たい虚しさだけだった。視界に焼きつく、あまりにも決然とした背中。その瞬間!世界が崩れるほどの憎悪が、胸の底から這い上がってきた。だって、自分は本来、愛されていた。幸せだったはずなのに。全部、絵里のせいだ。絶対に、ただじゃ済ませない。……午後2時、飛行機はG市に到着した。絵里と裕也が家へ戻った頃には、すでに3時を回っていた。田中がにこやかに出迎える。「お帰りなさいませ。やっと戻られましたねえ。ここ数日、外でお疲れになったでしょう」そう言いながら、手際よく段取りを進める。「ちょうどお料理も出来ております。スープを運んできますね。すぐお食事にできますよ」裕也は戻る前に予定を田中へ伝えていて、絵里に栄養のあるものを食べさせるよう、わざわざ頼んでいた。その気遣いがありがたくて、絵里は胸の奥がじんとする。「田中さん、ありがとうございます。お手数おかけして」田中は慌てて手を振った。「奥様、そんな……お食事の支度なんて、何も大変じゃありませんよ。なにより、お給料もとても良くしていただいてますし。外じゃ、こんな良い雇い主さんには巡り合えません」裕也は絵里の肩を抱いたまま、軽くぽんぽんと叩く。声音は穏やかだった。「手を洗っておいで。食べたら少し休もう」絵里は素直に頷く。「うん」食後、絵里は二階へ上がり、シャワーを浴びて部屋着に着替えた。浴室から出ると、ちょうど裕也が背中を向けたまま電話をしているところだった。「……わかった。今から行く」通話が切れてから、絵里は近づいて首をかしげる。「戻ってきたばかりなのに、もう出かけるの?そんなに急ぎの
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第336話

「十年前?」文紀は驚いたように声を上げる。「監視カメラの映像は保存されてるけどさ。さすがに十年も前だと、探すのが大変じゃないか?」「範囲を絞れる。風見湖の周辺だけでいいの」「構わんよ、こちらで手配しておこう。いつ来るか、事前に連絡をくれればいいからね」文紀は、絵里が何をするつもりなのかを尋ねたりしない。姪っ子だ。やりたいようにやればいい。「ありがとう」「絵里……」絵里が通話を切ろうとしたところで、文紀がふいに呼び止めた。「何かあったの?」向こうが照れくさそうに笑う気配がする。「いや、なんでもない。会ったときにでも話す」「うん」文紀の馴染み深い優しい声を聞いた瞬間、絵里は胸の奥をぎゅっと掴まれたようになり、慌てるように通話を切った。深呼吸をして、しばらく。ようやく心が落ち着いてくる。最近、昔の記憶がやけに蘇る。ときどき針で刺されるみたいに、痛む。十年前、溺れかけたあのときのように、息が詰まって、どうしようもない。救いだったのは、霞からの着信が、絵里を過去の底から引き上げてくれたことだ。着信音に、絵里はびくっと肩を震わせる。我に返ったとき、背中に冷や汗が滲んでいることに気づいた。「霞……どうしたの?」「絵里、G市に戻ってきたんだって?」霞の澄んだ声が弾む。「うん、戻ったばかり」「ちょうどよかった。私、今リード・ナウで入社手続きしててさ。明日、よかったら食事でもご馳走させて」断る隙を与えない勢いで、霞は続けた。「今回、絵里が助けてくれなかったら、私、絶対リード・ナウに入れなかった。今回ばかりは、ちゃんとお礼をさせてほしいの。ね?」その言い回しが、なぜだか妙に耳に残った。以前、自分が手を貸した綾子の顔が浮かぶ。けれど、霞と綾子は同じじゃない。「そんなに改まらなくていいよ。私も霞に助けてもらったこと、たくさんあるし……でも、ご飯は行こう。しばらく会ってなかったもんね」絵里は素直に頷いた。明日、霞に会った帰りに、水原グループの支社にも寄れる。あのとき、自分を助けてくれた人が誰なのか?今すぐにでも知りたかった。……「何か掴めたか?」裕也は黒いソファに深く腰を沈めていた。黒のソファと濃紺のスーツが溶け合い、姿勢は崩しているのに、部屋の空
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第337話

霞は事前に下調べをしていたのだろう。当地で評判の高いレストランを予約してくれていた。店内は落ち着いた佇まいで清潔感にあふれ、装飾も風情があって、落ち着いた雰囲気だ。名を聞きつけて訪れる客も多く、観光客の姿も混じる。人の出入りは途切れず、フロアは賑わっていた。絵里と霞が案内されたのは、ホール中央、通路に面した小さなテーブル。「絵里、本当にありがとう。大助かりだった」霞は周囲の騒がしさが気になったのか、絵里が不快に思うかもしれないと慌てて言い添える。「ごめんね。本当は個室を取りたかったんだけど、こっちは二人だと無理だって言われてさ。ちょっと我慢させちゃうかも」霞にとって、絵里の立場なら個室が似合う。そんな気遣いが透けて見えた。絵里はやわらかく笑う。「平気よ。ご飯を食べるだけだし、席なんてどこでも同じ」穏やかな性格だとは知っていたが、ここまで気取らないとは思わず、霞は少し目を丸くした。「うるさくない?」「全然。むしろ、こういう賑やかさも悪くないし」絵里の言葉は、取り繕いではなかった。この五年、和也と一緒に食事をする機会はほとんどなかった。大抵はひとりで、腹が満たされればそれでいい。サンドイッチ、野菜サラダ……それでも足りなければ、麺を茹でて終わり。誰か一人のために回っていた時間を、これからは少しでも自分のために使いたい。そう思っている。「霞」「え?」不意に呼ばれて、霞がきょとんと絵里を見る。「今度、都合いいときに焼き肉しない?人数いたほうが、美味しいでしょ」絵里が自分から誘うのが意外で、霞は一瞬固まってから、はっとして頷いた。「う、うん!ぜひ!」絵里は小さく微笑んだ。その頃、斜め向かいの個室。烈が露骨に顔をしかめる。「ツイてねぇ。なんで行く先々で、あの役立たずの女にぶつかるんだよ。和也、お前ほんとにあいつを取り戻す気か?忘れたのか。寧々が藤原家から追い出されたのは、あいつのせいだろ。こんな屈辱、飲み込むつもりかよ?」さらに悪意のある声が続く。「水原家が金持ちでもさ、水原の老いぼれがくたばりさえすれば、結局ぜんぶお前のもんだろ。そしたら絵里のほうから、勝手に戻ってくるって」いつもと同じだ。友人たちは次々と口を揃えて、絵里を貶し始める。和也は拳を握りしめ
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第338話

和也の胸には巨石でも押しつけられたみたいな重苦しさがのしかかっていた。カッとなって、手近にあった空の皿をひっつかむと、そのまま烈に投げつけた。全身から、燃え盛る怒気が噴き上がっている。ガツンッ!烈は額を割られ、血が噴き出した。額を押さえて、悲鳴みたいな声を上げる。「何すんだよ!俺が絵里のことで、何か間違ったことでも言ったかってんだよ!」指の隙間から、どろりと血が滲み出す。場が凍りつき、全員が呆然とした。しばらくしてようやく、誰かが慌てて駆け寄り、ハンカチで烈の傷口を押さえる。絵里は目を見開いた。和也と烈は、一番仲がいいはずじゃなかった?それが殴り合い?しかも、どう見ても自分が原因…………へえ。珍しい。和也が、自分のために烈とやり合うなんて。「絵里がどうであれ、お前がとやかく口を挟んでいい筋合いじゃねえんだ。次、俺の前であいつのことをそんなふうに言ってみろ。殺すぞ」和也は烈を睨みつけ、歯ぎしりするように言い捨てた。烈は殴られた衝撃で目が回っているのか、ふらつきながらも怒りを爆発させる。「は、はは……!何年もツルんできたのに、あんな女のために手ぇ出すってか!忘れんなよ。ここ数年、絵里を嫌ってたのは誰だ?あいつは性格が悪い、わがまま、ムカつくって言ってたのは誰だよ!」血は止まらない。眉からまぶたを伝い、頬へと流れ落ちる。烈は立ち上がると、そのまま外へ出ようとした。病院へ行くつもりだ。ドアを開けた、その瞬間。入口に絵里が立っているのが見えた。烈はぎりっと歯を噛み、憎々しげに吐き捨てる。「調子に乗るなよ!」そう言い残し、友人に付き添われて苛立ちを撒き散らすように去っていった。和也は汚い言葉で悪態をつくと、隣の椅子を勢いよく蹴り倒した。他の連中は、ここまで拗れるとは思っていなかったらしい。誰も口を開けない。そのとき、個室の扉は完全に開け放たれていた。先に絵里に気づいたのは、そいつらだった。「絵里……!」絵里は、彼らの視線を淡々と受け止める。和也の身体が、びくりと固まった。空気の変化に気づいたのか、慌てて入口を見る。不意打ちみたいに、絵里と目が合った。冷たい。彼女の目は、まるで知らない他人を見るみたいで、和也の胸に理由のない恐怖が刺さる。それなの
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第339話

これまでと違って、今回の絵里の口ぶりはやけに真剣で、嘘をついているようには見えなかった。最初は、せいぜい「付き合い始めた」程度だろうとしか思っていなかったのに。まだどれだけ経ったというのだ。三か月にも満たない。それなのに、結婚?いや、信じない。絵里は眉を寄せ、苛立ったように彼を見た。言葉を発するより先に、今まさに車へ乗り込もうとしていた霞がそれに気づき、慌てて駆け戻って絵里の前へ立ちはだかった。「また何するつもり?絵里をいじめる気?」「どけ!」和也は顔を真っ赤にして怒鳴った。霞の身体がびくん、と震える。それでも霞は一歩も退かず、絵里の前に立ち続けた。絵里は一瞬きょとんとして、それから胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。和也は乱暴に霞を押しのけ、絵里の肩を強く掴んで、制御不能のまま詰め寄った。「嘘だろ……頼むから嘘だと言ってくれ!お前ら、結婚なんてしてないよな」絵里は必死に振りほどこうとしたが、びくともしない。苛立ちが一気に噴き上がり、足を上げて、思いきり和也の足の甲を踏みつけた。続けざまに、もう一発。今度は躊躇なく、股間へ膝を叩き込む。「ぐっ……!」和也は痛みに折れ曲がり、顔色がみるみる赤くなった。絵里は冷え切った声で言い放つ。「何度も言ったはずよ。信じなかったのはあなたでしょ、十年も私を騙し続けてきた。まだ何の償いもしていないのに、よくもそんな口が利けるわね?」それだけ言うと、絵里はもう和也を見なかった。霞の手を掴み、そのまま歩き出す。和也はほとんど立っていられず、言葉も出ない。追いかけたくても力が入らない。怒りで頭の血が沸騰しそうだった。くそ……!なんであいつ、昔みたいにまたあんなに気性が激しくなってやがるんだ……!車の中で、霞はまだ顔が青いまま呟いた。「ずっとああやって付きまとってるの……もう警察呼んだほうがいいんじゃない?」絵里も考えたことはある。けれど両家の関係が絡んでいて、そう簡単にはできなかった。「大丈夫。心配しないで」絵里は霞の手を軽く叩いて落ち着かせた。絵里はそのまま支社の前で車を降り、霞と別れた直後に裕也から電話が入った。受話口の向こうで風の音が混じったのを聞き、裕也が意外そうに言う。「外にいるのか?」「う
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第340話

絵里はディスクケースを受け取ると監視室を出た。隣で、秘書のスマホが鳴る。「すみません、電話に出ますね」「どうぞ」絵里が軽くうなずくと、秘書は恭しく一礼してから少し離れた場所で通話を始めた。ほどなくして戻ってくるなり、にこやかに言う。「水原さん。社長からなんですが、今夜ご自宅でご一緒に食事をどうか、とのことです。それから……必ず受けるように、と」絵里はふっと考え込んだ。叔父、叔母と食卓を囲むのは指折り数えても、もう何年ぶりだろう。けれど今夜はどうしても無理だった。「おじさんにお伝えください。こちらの用事が片付きましたら、近いうちに必ずお邪魔させていただきますね」秘書は断りの意を汲み取り、困ったように眉を寄せる。絵里は微笑みを添えた。「おじ様にも、心配なさらないでとお伝えください。約束は絶対に破りませんから、と」秘書はその目を見て、ゆっくりうなずいた。「かしこまりました。必ずそのままお伝えします」絵里はディスクケースを抱え、歩き出す。秘書は彼女の後ろ姿を見送ってから駐車場へと向かい、みずから文紀へ報告に行った。高級車の後部座席で話を聞き終えた文紀は、やるせなく息を吐く。「絵里の気質も……昔とは別人だな」秘書は視線を落としたまま、黙っている。文紀は突然、苛立ちをぶちまけた。「全部、和也のせいだ。まったく、ろくでもない!あいつなら絵里を守れると思って任せたのに、挙げ句の果てに婚約破棄だぞ。絵里はあいつと付き合ってから変わった。あんなに『いい子』になってどうする!聞き分けのいい子ばかりが、いつも馬鹿を見る羽目になるんだ!」怒りに任せた声に、秘書は穏やかに取りなす。「水原さんは今、落ち着いていらっしゃいますし、物事も冷静に見ておられます。以前ほどの快活さはありませんが……和也さんの本性が見えたのなら、社長も少しはご安心なさるかと」文紀は重くうなずき、もう一度だけ長い溜息をついた。「……いい。過ぎたことは蒸し返すな。ただ、あの子が昔の傷に縛られないでほしい。それだけだ。行くぞ。まずは戻る」……絵里が路肩で待っていると、見慣れた黒い高級車がすっと目の前に滑り込んできた。裕也が降りてくる。長い脚に、すっと伸びた背。眉目は相変わらず穏やかで、柔らかな気配をまとっていた。
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