All Chapters of 入籍しないなら…兄嫁になります!~冷徹社長に溺愛される日々~: Chapter 371 - Chapter 380

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第371話

賢治は寧々を叱りつけた。「黙れ。誰が来ていいと言った?」その視線は雪枝へと突き刺さり、言外の意味など隠しようもない。周囲ではひそひそ声が途切れず、絵里に向けられる眼差しはとりわけ露骨な蔑みを帯びていた。絵里は動じることなく、和也を見据えて冷たく口角を上げる。「これが、あなたが用意した今夜の茶番なの?」和也は無垢を装って肩をすくめた。「誤解だよ。俺には関係ない。俺がそんなことするわけないだろ」寧々が甲高い声を張り上げる。「今、ちゃんと証人がいるの。絵里が裕也を誘惑したのは事実よ。ただし、裕也と結婚したのは絵里じゃない。誰だって知ってるでしょ。裕也と郁江は両想いだし、ずっとお互いを待ってたのよ。絵里が裕也を誘惑しようとしたのは間違いないけど、ただ無様に失敗しただけよ!」寧々が言葉を終えると、野次を飛ばす者がいた。 「証拠もないのに口先だけで言われてもな。で、証人はどこだ?」寧々は綾子へ視線を送った。合図するように。「わ、私が証明できます……!」綾子が一歩前へ出る。絵里の視線を受けても怯まない。「私、絵里の脚本で撮影された作品の出演者です。前にT市でロケがあったとき、見ました。絵里が裕也さんを誘惑してるところを……裕也さんは止めたのに、絵里は抱きつくみたいに……それで『和也に復讐する』、『寧々にも復讐する』って」「ふざけるな!」治夫が怒りで顔色を青くし、胸を押さえた。「でたらめを言って、絵里を陥れる気か……!」洋二も憤りを隠さず命じる。「そのとおりだ。こんなのは捏造だ。誰か、彼女をつまみ出せ」「絵里の人柄なら信じられる」賢治が絵里を庇い、断言した。「そもそも最初に裏切ったのは和也だ。だから婚約は破談になった。裕也が来れば、絵里が……」雪枝が慌てて寧々に目配せをする。寧々が即座に遮った。「お爺さん!和也が嫌いなのはわかるけど、だからって彼の気持ちも考えず、外の人の肩を持つなんて……綾子は絵里と同じ現場にいたのよ。見たんだもの。ネットにも写真があるよ。これは動かない事実です」「お、お前……っ、ふざけるのもいい加減にしろ!」治夫は胸の痛みに顔を真っ白にした。絵里が数歩で駆け寄り、低い声で宥める。「じいちゃん、怒らないで。ここは私が対処するから」
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第372話

「なんて厚かましいの!名家の出っていうくせに、よくもあんな卑劣な真似ができるわね」「ほんとそれ。女性の面汚しにもほどがあるわ」絵里へ浴びせられる容赦ない罵声。真相を知っている藤原家の人間は、誰ひとりとして口を挟もうとしなかった。洋二が言いかけた瞬間、雪枝が腕を強く掴んで止める。「今かばったら、余計にこじれるだけよ。あの子自身に片づけさせなさい」治夫は顔色を土気色に変え、苦しげに胸を激しく上下させていた。だが信じている。絵里が「解決できる」と言ったなら、できるのだ。賢治が低い声で言い放つ。「全員、落ち着け。ネットの情報は悪意ある捏造だ。裕也が来れば、真相はすぐ分かる」「お爺さん、もう絵里をかばわないで」寧々が勝ち誇ったように言う。「裕也が遅いのは、郁江を宥めてるからに決まってるでしょ」和也も畳みかけた。「絵里。裕也はお前にふさわしくない。お前が一言くれたら、俺がすぐ火消ししてやる」「あっそう?でも今、身の潔白を証明すべきなのは、むしろあなたのほうじゃないかしら?」絵里がそう言い終えた、その瞬間だった。ひらり、ひらりと、天から何かが舞い落ちてくる。雪みたいに、写真が大量に降ってきたのだ。拾い上げた写真に映っていたのは、寧々と和也の裸。潤んだ目で絡み合い、熱い口づけを交わす姿が、逃げ場のないほど鮮明に焼きつけられていた。あまりにも、爆弾だった。直後、会場中のスマホが一斉に通知音を鳴らす。#激震!藤原和也と妹の藤原寧々が禁断の関係#藤原和也×藤原寧々、闇の地下交際トレンドがいくつも立ち上がり、ほんの瞬きのうちに、さっきまでの絵里の話題を押し流した。ざわっ、と場内が沸騰する。流れてきた動画まで再生した連中は、揃って顎が外れそうな顔になった。本当に……和也と寧々の、あの動画だ。二人を見る目が、みるみる変わっていく。雪枝は顔をどす黒く曇らせた。とりわけ賢治と洋二は怒りで表情が歪んだが、人目がありすぎて爆発させることもできない。和也は青ざめ、声を裏返す。「みんな見るな!こんな動画、全部捏造だ。悪質なフェイク映像だ!」寧々は血の気を失った顔で何かを悟り、絵里を睨みつけた。「ひどい……あなたがやったのね!」絵里は、二人が黒い噂を流すつもりだと先に掴んで
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第373話

裕也だ……やっと来た!絵里の顔にぱっと喜びが灯り、胸の奥に張りつめていたものがすっとほどけた。だが、周囲の空気は一瞬で変わった。皆が顔色を変え、信じられないという目で入口を見ている。とりわけ和也の表情が強張っていた。今夜は来ないって話じゃなかったのか?郁江はいったい、何を企んでる……?「裕也……!」絵里は嬉しさのままにドレスの裾をつまみ、足早に駆け寄ろうとした。けれど、もう一つの影が並んで現れた瞬間、彼女の笑みは凍りつく。足が、止まった。郁江?二人で来た、ということ。裕也はダークカラーのスーツに身を包み、ひやりと沈んだ気配と、近寄りがたい品格をまとっている。その隣の郁江は、艶やかな礼装。ワイン色のロングウェーブのウィッグをかぶっていた。昨日、絵里に叩かれた頭の傷を隠すためなのだろう。けれどその装いは、むしろ目を奪うほど派手で、鮮烈だった。二人とも目立つほど整った容姿で、並ぶと不思議なほど絵になる。今夜、裕也が公表する「妻」は、郁江なのでは。そう思わせるには十分だった。「裕也、やっと来たな。みんな待ってたぞ」誰かが朗らかに声をかける。「すまない。急用が入ってな、遅くなった」裕也は会場へ足を進める。一直線に絵里へ向かってくるように見えた。絵里の喉がきゅっと締まった。疑問が次々に湧いてくる。どうしてこんな時間に。どうして郁江と一緒にいるの。昨夜、二人で何か話がついたの……?絵里は近づいてくる裕也を見つめ、説明を待った。裕也は彼女の横に立ち、眉の奥に感情を押し込めたまま低く言う。「大丈夫か?今夜は少し問題が起きた。遅れて悪かった」絵里は郁江をちらりと見て、唇だけで笑った。「平気よ。来てくれたなら、それでいい」「裕也、みんな待ってるわ。誕生日パーティーなんだし、そろそろ始めましょう?」郁江が艶のある笑みで、堂々と、しかも自然に口を挟む。絵里の表情がわずかに揺れ、裕也を見た。裕也は視線を返す。夜のように黒い瞳。深く、底が見えない。絵里は裾をつまんでいた手を下ろした。胸の奥で、警報が鳴る。周りの連中は意味ありげな顔をし始めた。あれほど親しげに呼ぶなら、裕也の結婚相手はやはり郁江だろう。つまり、絵里はさっき連中が言っていた通り、裕也を誘惑し
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第374話

絵里の胸いっぱいだった期待は、高い場所から突き落とされたみたいに一気に冷え切った。裕也を見つめ、信じられない声で問い返す。「……今、なんて言ったの?」裕也は眉を深く寄せ、彼女の糾弾するような視線を受け止めた黒い瞳が、さらに暗く、耐えるような色に沈む。そこへ和也が興奮したまま絵里の前に躍り出て、勝ち誇ったように笑った。「聞こえただろ?最初から言ってたじゃん。あいつ、お前の存在なんて絶対認めないって。これで信じた?」絵里の心に、何本もの刃が突き立てられた気がした。血がだくだくと流れ出していくような痛み。喉がきつく締まり、乾いた声がやっと漏れる。「……そう、なの?」裕也は眉間に深いしわを刻み、体の脇で両手をぎゅっと握りしめた。喉の奥がきつく締め付けられた。「なんだ、ただの噂だったの?今夜、結婚発表するってみんな思ってたのに」寧々がわざと声を張り上げる。「兄さんが娶るのは郁江だって、てっきり……」絵里の唇が小さく引きつった。しばらくして、声がようやく形になる。「……どうして?」喉が締め付けられて、声は酷くかすれていた。裕也は唇を引き、寧々に向けて淡々と答える。「噂だ。結婚を発表するなんて言ってない」絵里は苦く笑った。結婚の発表、やめたのね。治夫が立ち上がり、厳しい顔で怒鳴る。「裕也!どういうつもりだ。今夜、結婚を公表するって決めたはずだろう!」賢治も慌てて立ち上がり、治夫を支えながら詰め寄った。「そうだ。いったいどういうことか、ちゃんと説明しろ」裕也のこめかみが脈打つ。奥歯を噛みしめ、ようやく絞り出すように言った。「準備を担当した連中が、情報を取り違えたんだろう。皆さんに誤解をさせた……申し訳ありません、お二人とも」裕也が繰り返し否定するほど、郁江の笑みはますます艶やかに、得意げに輝いていく。彼女だけじゃない。和也も寧々も、してやったりの顔で、さっきまでの動画トレンド騒ぎなどすっかり忘れていた。彼らがここまで手を回したのは、この瞬間のため。過程なんてどうでもいい。目的を果たした、それだけでいい。絵里は呆然と裕也を見つめたまま、言葉が出なかった。唇を噛み、胸の奥が刃で抉られる。分かった。嫌われたんだ。公にできないなら、できないでいい。絵里は口元を
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第375話

絵里は救急処置室の前で、焦げつくような思いで待ち続けていた。胸にぽっかり穴が空いたみたいで、感覚がどこかへ飛んでしまった。痛いはずなのに、痛みさえ来ない。ほどなくして、藤原家の人間が駆けつける。洋二が賢治を支えながら、彼女の前まで連れてきた。賢治は絵里の血の気のない顔を見て、申し訳なさに耐えきれない様子で唇を噛む。「絵里、今夜のことは……藤原家が、お前に顔向けできない」怒りに震えた賢治が、杖をドンッと床に打ちつけた。「裕也にはわしがきっちり問いただす。必ず、お前に筋を通す」絵里は賢治をずっと敬ってきた。今夜のことも、賢治を責める気にはなれない。虚ろな目がゆっくりと賢治へ向く。掠れた声で問いかけた。「お爺さん……じいちゃん、きっと大丈夫よね?」賢治はすぐに、縋るように頷いた。「もちろんだ。大丈夫に決まっておる」絵里は小さく「うん」とだけ返し、薄く頷く。それでも目の奥には、淡い悲しみが沈んだままだった。「私も信じてる。じいちゃんは、きっと……大丈夫」生気がない。心の芯が折れてしまったみたいに、感情の起伏が薄い。賢治は痛々しくて堪らなかった。泣いて、喚いてくれたほうがまだいい。こんなふうに静かに壊れているほうが、ずっと怖い。絵里は顔を逸らし、救急処置室の扉をじっと見つめたまま、囁くように言う。「お爺さん、もう遅いよ。身体に障るから、帰って休んで」「絵里……!」洋二が思わず声を上げる。あまりにも、いつもの彼女じゃない。絵里は反応しなかった。賢治の喉が詰まる。「……泣きたいなら泣いていい。無理に堪えるでない」絵里はまつげを伏せた。声は冷ややかで、静まり返り、ぞっとするほど淡々としていた。「私はここで、じいちゃんが出てくるのを待つ。あなたたちは先に帰ってください」賢治は悟った。これは、退いてくれということだ。今夜の藤原家のやり方はあまりにも、ひどい。洋二が何か言いかける。だが賢治が腕を押さえて制し、絵里に頭を下げた。「わかった。先に戻る。絵里、何かあれば……すぐ電話してこい」絵里は動かない。まるで、この世のあらゆる感覚を遮断したかのように。賢治は深く息を吐き、黙ったまま洋二を連れて去っていく。絵里の耳が届かないところまで離れると、賢治が堪えきれ
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第376話

絵里はふいに両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。顔を手のひらと膝の間へ押しつけ、肩がぶるぶると震える。それでも、下唇を歯で噛みしめた。血が滲みそうなくらい強く噛んで声だけは、どうしても漏らさない。その光景に、裕也の喉がきゅっと詰まった。壁の縁を掴む手に力が入り、指先が白くなる。爪が白い壁に食い込み、爪の間から赤がにじんだ。駆け寄って、抱きしめたい。そう足を踏み出した、その瞬間、バンッ。救急処置室の扉が開き、医師が出てきた。マスクを外しながら言う。「処置が間に合いました。命に別状はありません」張りつめていた絵里の神経が、ぷつんと切れたようにほどける。両手で顔を覆ったまま、堪えきれず嗚咽が漏れた。よかった……じいちゃんは、助かった……裕也はその言葉に、足を止めた。瞳を曇らせ、自身の感情を押し殺すように彼女の方を見つめた。健はそれに気づいて、どうしようもないといったふうに息を吐いた。ほどなく手続きも済み、治夫は上級の特別看護病室へ移された。「奥様、すべて整いました。お疲れでしょう。私がお送りしましょうか」病室の前で、健が絵里に小声で言う。絵里は首を振った。「今夜はありがとう。あなたも早く帰って休んで」健は何か言いかけたが、近づいてくる背の高い影を目にして、黙って身を引いた。絵里はその気配に気づく。空気の中に、覚えのある香りが漂っている。さらに、数回、彼の身体から嗅いだことのある、別の女の淡い香水の匂いが漂っていた。絵里は嘲るように口角を上げた。「絵里、疲れたんだろう」背後に立った裕也が、彼女の肩に手を置く。「ここは付き添いの人がいる。いったん帰って休もう……」手が触れた瞬間、絵里は汚いものに触れられたみたいに身を引いた。正面から裕也を見る。視線は冷えきっていた。「ついて来るなって言ったよね。まだ何の用?」胸の奥がぎゅっと痛んだのか、裕也は一瞬だけ息を飲む。それでも冷たさなど感じていないように言った。「心配で……様子を見に来ただけだ」絵里はまぶたを持ち上げる。見下ろす瞳は、他人を見るように淡かった。「藤原さんにご心配いただく必要はありません。出て行ってください」「絵里……」裕也が一歩、距離を詰める。かつては格好良く、絶対的な安心感を
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第377話

心臓がぎゅっと引き裂かれるような、容赦のない痛みが襲う。身を切られるほどの苦しさに涙がいっそう溢れ、あまりのことに目の前が暗転しかけた。この夜、彼女の涙が止まることはなかった。ドアの裏、壁との隙間の狭い角。身体を抱えて丸まり、泣き疲れてそのまま、深い眠りに落ちていった。深夜の警察署は、異様なほどの喧騒に包まれていた。和也と寧々、それに綾子まで連行され、事情聴取を受けている。署の入口には報道陣がびっしり張りつき、カメラもマイクも途切れない。雪枝は弁護士を連れて自分で保釈手続きに行くつもりだったが、洋二からの電話に止められた。「今、藤原グループ全体が目をつけられているんだ。お前が警察署に出入りしてるところでも撮られたら、明日の株価がどうなるか……わかってるだろ。今すぐ戻れ。手続きは弁護士にやらせろ」雪枝はまさか、今夜ここまで大事になるとは思っていなかった。本当は、絵里の評判を地に落としてやり、頃合いを見て裕也と離婚させ、最後に和也を動かすつもりだったのだ。絵里が「いわくつき」の烙印を背負えば、あとは思いのままに握れる。そう踏んでいた。それなのに、事態は想定を軽々と飛び越えた。ネット上で拡散されていた和也と寧々の動画トレンドは、一度は取り下げられた。だが数分も経たないうちに、また一位に急上昇した。裏で誰かが火に油を注いでいる。わざと大騒ぎにしているのが見え見えだった。「絶対、絵里の仕業よ!和也と寧々を潰す気なのよ!」雪枝は怒りで全身を震わせながらも、車は警察署の向かいの道路に停めたまま、一歩も近づけない。「証拠もないのに決めつけるな。いいから戻れ」洋二の声は有無を言わせなかった。雪枝は歯を食いしばり、結局、不承不承運転手に命じて引き返した。今夜は、どう考えても荒れる。隆と章が病院の屋外駐車場に駆けつけ、裕也を見つけた時彼は車体にもたれ、火をつけた煙草を指に挟んだまま、病院のビルを見上げていた。黒いスラックスに白いシャツだけ。ジャケットはどこにもない。ネクタイは外れ、シャツのボタンも二つほど開いたまま。髪は乱れ、いつもなら隙のない優雅さは影も形もない。今の裕也は、ひどく疲れ果てて見えた。「裕也、どうしたんだよ。なんでこんな……」隆が早足で詰め寄り、ほとんど問い詰める口調になる。
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第378話

翌朝早く、医師が回診にやって来た。絵里は泣き腫らした目のまま医師に尋ねる。「じいちゃんは……いつ目を覚ますんですか?」低く掠れたその声は、まるで喉の粘膜をやすりで削られたかのようにざらついていた。医師は重々しく言う。「意識は戻っていませんが、生命兆候は安定しています。正直、いつ意識を取り戻すかは断言できません……3日後かもしれない。1か月後かもしれない……あるいは、数年先になることも」その言葉に、絵里の視界がぐらりと揺れた。拳をぎゅっと握りしめ、縋るように頭を下げる。「お願いします。どんなことをしても……じいちゃんを目覚めさせてください」医師は困ったように眉を寄せ、ため息をついた。「ご安心ください。最善を尽くします」医師が去ったあと、絵里はベッド脇に立ち尽くした。人工呼吸器をつけた治夫を見つめる。ここ数か月の出来事が次々と胸をよぎり、彼女の中で何かが、かちりと音を立てて定まった。赤く腫れた目の奥に、澄んだ決意だけが宿る。絵里は治夫のそばに人をつける段取りをしてから病院を出て、タクシーで裕也と自分の家へ戻った。身につけているのは昨夜のドレスのまま。涙で化粧は崩れ、まぶたにはアイラインの黒がにじんでいる。みじめで、痛々しいほどだった。その姿でホールに入った途端、田中がぎょっとする。「奥様……一体、何があったのですか?先ほどまで、あんなに……」田中は昨夜のことを知らない。ニュースで藤原家の和也と寧々が警察に連行されたと知っただけだ。裕也様も奥様も一晩帰らない。きっと、それと関係があるのだろう。一夜にして、何かが静かに変わった気がした。G市全体が、世論の渦に包まれている。「何もないよ」絵里は目を伏せ、淡々と返すだけで、まっすぐ二階の寝室へ向かった。洗面を済ませ、服を着替える。涙と化粧を洗い流した顔は白く透きとおっているのに、腫れた目元だけが痛々しく、疲れが隠しようもない。絵里は間髪入れずにスーツケースを引っ張り出し、クローゼットから自分の私物を、淡々とスーツケースへ移していった。持ってきた荷物は多くない。衣類のほかは、いくつかのキーボードと本くらいだ。階下で田中は、ただならぬ気配を感じていた。あれほど憔悴した様子。何か大きなことが起きたに違いない。そう思っ
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第379話

彼女はそれをもう一度テーブルの上へ戻した。瞳の奥に、かすかな哀しみと決別の色を宿しながら、伏し目がちに言う。「私、自分の物だけ片づけたの。ほかは一切いらないわ」あの、彼が好きな人に贈るという腕時計……そして、彼女のものではないダイヤの指輪。どちらも、もういらない。絵里はキャリーケースのハンドルを握りしめ、立ち去ろうとした。裕也が一歩詰めて、彼女の手首を掴む。「俺を置いて行くのか?」濃いタバコの匂いが鼻をつき、絵里は反射的に顔をしかめて裕也を押し退けた。数歩下がり、距離を取った。「近寄らないで」拒絶の動きは露骨で、まるで、嫌悪しているみたいだった。「昨夜、自分で選んだのは藤原さんでしょ。どうして私が『置いて行く』ことになるの?」「絵里……昨夜、公にしなかったのは俺が悪かった。でも、離婚なんて言わないでくれ。頼む」裕也が手を伸ばす。けれど絵里は冷たく身を引き、触れさせない。それでも裕也は堪えたように、掠れた声で宥めた。「結婚生活において、一番のタブーは、何かとすぐに『離婚』を口にすることだ。何度も口にしていると、本当に現実になってしまうよ」おかしくて、絵里は笑った。笑っているうちに目が赤くなって、涙が浮かぶ。「兄弟そろって、わざと私を弄んだの?公開するって言ったのはあなたでしょ。信じろって言ったのもあなたなの。で、結果は何?」怒りで唇がかすかに震える。瞳は冷え切った失望に染まっていた。「あなたはもう道を選んだ。だから私は尊重しただけ。これからは……二度と会わない。あなたがくれたものは全部そこにある。返すわ。持ち主のところへ」絵里はキャリーケースを引いて歩き出す。数歩も進まないうちに腕を引かれ、次いで手のひらに腕時計を押し込まれた。「渡したんだ。もうお前のものだ」裕也はもう片手に指輪を持っていて、彼女の指に嵌めようとする。滑稽で、残酷で。絵里は腕時計を見下ろし、乾いた笑いを漏らした。「私のもの?これ、五年前……あなたが好きな人に渡せなかったプレゼントじゃない?私は後から来ただけ。最初から私のものじゃない物を、たまたま受け取っただけなのよ」裕也の目が暗く揺れ、抑えた声が落ちる。「どうして、それが最初からお前のためじゃなかったって決めつける?」「私の
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第380話

手の甲には青筋が浮き出て、砕けた腕時計の破片を力任せに握りしめていた。鋭いガラス片が皮膚に食い込み、じわりと血が滲んだかと思う間もなく、鮮血が床へぽたぽたと落ちていく。裕也は感情を必死に押し殺していた。首筋にまで青筋がくっきりと走り、一本一本が怒りを物語っているようだった……絵里はスーツケースを引き、タクシーを拾ってその場を離れた。走り出した車内で、梨乃から電話が入る。「絵里、昨日のこと全部聞いたよ。今どこ?私、行くから」この二日、梨乃は地方で撮影があり、昨夜のパーティーには戻れなかった。埋め合わせに、とわざわざプレゼントまで用意していたのに……なのに、到着して早々に耳に入ってきたのは、目を疑うようなとんでもない話だった。絵里は堪えて堪えて、やっと感情を繋ぎ止めていた。けれど梨乃の声を聞いた瞬間、築いてきた堤防が崩れそうになる。顔を上げ、目からこぼれ落ちそうになる涙をぐっと堪えた。しばらく沈黙してから、ようやく言う。「……ちょうどよかった。私、行くところないの。しばらく、梨乃のところに行ってもいい?」「もちろんよ。おいで」話を決めて電話を切り、絵里はそのまま目的地へ向かった。一時間後、梨乃の部屋の前で合流する。二人はほとんど同時に到着した。絵里が扉の前に立っていると、エレベーターから梨乃が飛び出すように現れ、早足で駆け寄ってくるなり、思いきり抱きしめた。「辛かったよね……よしよし、ぎゅーってしてあげる」梨乃の声が震え、腕に力がこもる。「ごめんね。こんな大事なとき、そばにいてあげられなくて……」絵里はもともと目が腫れていた。梨乃に抱かれた途端、鼻の奥がつんと痛んで、また泣きそうになる。絵里は涙を必死に堪え、梨乃の背中を軽く叩いた。「私、大丈夫よ……とりあえず、入ろ?」「うん、そうだね!」梨乃は我に返ったように抱擁を解き、鍵を開ける。絵里のスーツケースを受け取り、一緒に室内へ運び込んだ。「ここ、自分の家だと思っていいから。好きなだけいてね。藤原家のあのクズ兄弟のことなんて、もう気にしなくていい」梨乃は怒りが収まらない様子だった。裕也が絵里にあんな仕打ちをするなんて、信じられない。公開するって約束していたくせに、突然「そんな関係じゃない」と火消しするなんて、あまりに残酷だ。
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