絵里は社内でも引っ張りだこの売れっ子脚本家だ。彼女が姿を見せた途端、受付の秘書がにこやかに出迎え、内線でどこかに確認を入れた。ほどなくして、秘書は電話を切り、満面の笑みのまま絵里を社長室へ案内する。扉をくぐると、隆がデスクの前から立ち上がった。皺ひとつないスーツの襟元を軽く整え、回り込むようにこちらへ歩いてくる。「この二日、裕也は誕生日パーティーの準備でバタバタだろ。絵里も休み取って準備してるんじゃないのか。どうして会社に戻ってきた?」隆はソファスペースへ促しながら言った。「何か飲む?」「コーヒー。砂糖もミルクも抜きで」「了解」隆が秘書に目配せすると、秘書はすぐに下がっていった。「それで、俺に何か用か?」崩しすぎない程度の優しい笑み。普段の隆は飄々としていて、軽薄なプレイボーイにも見えるのに、絵里の前では、滅多に見せない真面目さを崩さない。「ずっと引っかかってることがあって。聞きたくて来たの」隆の眉がわずかに上がる。「引っかかってること?」ちょうどそのとき、秘書がコーヒーを二杯運んできて、テーブルにそっと置いた。扉が閉まり、室内が静かになる。絵里は隆の顔をまっすぐ見た。「十年前、私が溺れたこと……覚えてる?」隆の目つきが一瞬、変わった。「覚えてるよ。危なかったって聞いた。けど、無事でよかった」軽い笑みに戻して、彼は首をかしげる。「いきなりどうした?なんで今さらその話を」絵里は膝の上で指を握り込んだ。爪が皮膚に食い込みそうになる。「じゃあ、あのとき私を助けたのが誰か、覚えてる?」隆の表情が微かに揺れる。顎に手を当て、考える素振りをした。「誰が助けたかまでは……正直、知らないな。もう昔の話だし、細かいところは印象が薄い」絵里は心が重く沈んでいく。それでも食い下がる。「知らない?本当に?もう少し思い出せない?その場にいたの、誰だった?」「俺は章たちと休憩スペースにいた。家族と将来の話をしてたんだよ。だから何が起きたかは……覚えてないな」隆はもっともらしく続ける。「後から、絵里が落ちたって聞いた。お父さんが慌てて病院に連れて行ったともな。誰が助けたか?そこまでは聞いてない」絵里の中で疑念が渦を巻く。前に聞いたとき、隆はたしか「藤原……」と言いかけた
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