جميع فصول : الفصل -الفصل 140

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第131話

心愛はパソコンを受け取ると、画面に映し出されたデザイン画をゆっくりとスクロールした。そこには碧らしい、躍動感に満ちたしなやかなラインが躍っていた。少女の幻想をそのまま形にしたような甘美なスタイル。だが、全体的な構成はどこか散漫で、実用性への配慮に欠けるきらいがあった。「……少し、手を入れてもいいかしら?」心愛が尋ねると、碧は勢いよく両手を合わせ、祈るようなポーズを取った。「もちろんです、好きなようにしちゃってください!なんなら全部書き換えたって構いませんから!」心愛はそれ以上言葉を重ねることなく、自席に着くと静かにペンを走らせ始めた。決して大掛かりな修正ではない。碧の持ち味である流麗な曲線を尊重しながら、そこへ潔い幾何学的なカッティングを施していく。躍動感はそのままに、モダニズム的な「芯」が一本通った凛としたデザインへと昇華させていった。単なる装飾に過ぎなかったフリンジは、彼女の手によって、機能美を宿した隠しバックルへと鮮やかに生まれ変わる。ペンタブレットの上でペン先がさらさらと軽やかな音を立て、新たな筆致と元の構想が溶け合い、高次へと融合していく。その様を傍らで見守っていた碧は、呆気にとられたように口を半開きにし、その瞳を羨望と尊敬の色に染めた。「嘘……」彼女は思わず口元を押さえ、息を呑む。「深水さん、あなたはやっぱり天才です!どうしてこんな発想が湧いてくるんですか?もう、非の打ち所がない完璧な仕上がりですよ!」心愛は淡々とした調子でパソコンを返した。「あなたの基礎となるアイデアが優れていたからよ。私はただ、少し引き算をしたに過ぎないわ」「そんなの、引き算なんて言葉じゃ足りません。もはや錬金術ですよ!」碧はパソコンを愛おしそうに抱え、今にも小躍りしそうなほど興奮している。「よし、これで勝負ですわ!早速提出してきます!」意気揚々と駆け去っていく彼女の後ろ姿を見送る心愛の口元に、数日来の緊張が解けたような、微かな笑みがこぼれた。……その日の午後、会議室。デザイナーたちが一様に背筋を伸ばして居並び、室内には重苦しい沈黙が支配していた。プロジェクターの前に立つ理恵は、ポインターを手に、一切の感情を排した面持ちでスライドをめくっていく。やがて、スクリーンには二枚のデザイン画が並べて映し出
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第132話

碧の顔がさっと青ざめた。彼女は必死に首を横に振る。「そんなことしていません!ただ通りかかっただけです……あなたのパソコンには触れてすらいません!」だが、その血の気の引いた弁解は、佳穂の確信に満ちた非難の前ではあまりにも無力に響いた。心愛の眼差しも、次第に冷たさを帯びていく。狼狽し、途方に暮れる碧の姿を見た瞬間、心愛の胸には氷の塊を押し付けられたかのような重さが広がった。碧がそんなことをするとは思えない。だが、ならば佳穂はなぜ嘘をつくのか。なぜ碧を陥れようとするのか。心愛は佳穂へと視線を向けた。その瞳には怒りだけでなく、彼女には理解できない得意げな色と、露骨な挑発が潜んでいる。その視線は碧に向けられているのではなく……むしろ、自分へと突き刺さっているように感じられた。なぜ?心愛はゆっくりと視線を外し、隣で今にも泣き出しそうな碧の顔へと落とす。この件が、決して単純ではないことを、彼女はすでに悟っていた。佳穂は――自分をも巻き込もうとしている。会議室の空気は、まるで凍りついたかのようだった。佳穂の甲高い非難の声が、一本の針となってその見せかけの平穏を突き破る。同情、疑念、あるいは他人の不幸を面白がる視線。それらすべてが鋭い刃となって、碧へと突き刺さった。碧の顔から血の気が引いた。口をわずかに開くが、喉に何かが詰まったかのように声が出ない。彼女は無意識に心愛を見た。そこには、混乱と無力感が満ちている。だが――心愛は彼女を見なかった。その視線は、ただ佳穂へと向けられていた。「濡れ衣を着せられた」と言わんばかりの表情の裏に、隠しきれない挑発の色があるのを見逃さなかった。やがて心愛は視線を外し、静かに目を伏せる。まるで、この場の出来事とは無関係であるかのように。碧の心臓が、どくりと大きく脈打った。――深水さんも……私を信じてくれないの?その思いは、どんな非難の言葉よりも彼女を深く傷つけた。悔しさと不満が一気に頭へと昇り、真っ白だった思考が瞬時に覚醒する。「やっていません!」声は興奮でわずかに震えていたが、そこには確かな芯があった。碧は佳穂の視線を真正面から受け止め、一語一語区切るように言い放つ。「一昨日の午後、確かにあなたの席のそばを通りました。でも、あなたのパ
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第133話

心愛の声は決して大きくはなかったが、静まり返った会議室の中で、その一言一言はくっきりと響き渡った。「バックエンドのログを確認して、異常なログインや不自然に終了したプログラムがないかを調べれば、すぐに分かります」佳穂の顔色が、わずかに、しかし確実に変わった。理恵は心愛を見つめ、それから緊張にこわばる佳穂と、潔白が証明されつつある碧とを交互に見やり、静かに頷いた。それが現時点で最も公平な解決策であることは明白だった。「いいわ」理恵は佳穂に視線を向けた。「真白さん、そのパソコンを出しなさい」佳穂の動きはぎこちなかったが、衆人環視の中で拒む術はなく、渋々ノートパソコンを差し出した。技術部の対応は迅速だった。パソコンには何本ものケーブルが接続され、画面上にはコードの列が目まぐるしく流れていく。針の落ちる音さえ聞こえそうな静寂の中、誰もが固唾を呑んで見守っていた。ただ一人、心愛だけが、あらかじめ結末を知っているかのように、静かに座っていた。数分後、技術部のスタッフが顔を上げ、理恵に報告した。「木村部長、このパソコンは二日前の午後三時十五分に、不正なリモートログインの試行が確認されました。ただし、途中で強制的に遮断されており、侵入は失敗しています」時刻は、碧の証言と一致していた。真実が、白日の下に晒された。碧の目元が一瞬で赤くなり、大きく息を吐いた。その表情は、まるで水中からようやく引き上げられたかのようだった。理恵の顔つきは険しさを増し、佳穂へと鋭い視線を向ける。「今後は会社のパソコンの管理を徹底しなさい。次があれば、今回のようには済まないと思いなさい」佳穂の顔は赤くなったり白くなったりと目まぐるしく変わり、唇を噛みしめたまま俯き、誰とも目を合わせられなかった。騒動はこれで収束したかに見えた。だが、その静寂を破るように、心愛が再び口を開いた。「木村部長、もう一つ問題があります」全員の視線が、再び彼女に集中する。心愛は、蒼白になった佳穂の顔をあえて見ようとはしなかった。声は相変わらず穏やかで、ただ事実を述べているに過ぎないかのようだった。「高橋さんの原稿は、今朝、私がブラッシュアップを手伝ったものです。構造上の重要な変更の多くは、午前十時過ぎに完成しています」一拍置き、ようやく視線を佳穂へと向
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第134話

部長室のドアが背後で閉まった。碧はまるで水の中から引き上げられたばかりのように膝が笑い、あやうく倒れかけたところを、間一髪で心愛が支えた。「深水さん……」碧の声はまだ震え、目元も赤く腫れている。「席に戻ってから話そう」心愛は彼女の背中を軽く叩き、支えながら歩き出した。デスクに戻っても、碧の動揺は収まらなかった。彼女は心愛を見つめ、戸惑いをそのままぶつける。「深水さん、これ……一体どういうことなんでしょう。あの原稿、今朝あなたの手で修正が終わったばかりなのに……真白さんが、どうやってあんなにそっくりな絵を描けたんですか」あの原稿の核となる部分は、間違いなく心愛が付け加えたばかりのものだった。まるで、最高のアイデアを思いつき、まだ誰にも話していないうちに、他人がそれを形にして発表し、逆に自分が盗作だと糾弾されるような――あまりにも不気味だった。「私にも分からないわ」心愛はパソコンを起動しながら、淡々と言った。「それより、まずは自分のパソコンに異常がないか確認して」「私のパソコン……ですか?」碧は一瞬きょとんとしたが、すぐにハッと気づいた。「ああ、そうですよね!」彼女は慌てて身を屈め、ノートパソコンを取り出して各種ケーブルを接続し、電源を入れた。デザインソフトを開いて履歴を遡り、重要なフォルダを何度も確認する。「……特に問題はないみたいです」碧は顔を上げ、不安げに言った。「見た感じは正常ですし、消えているデータもありません」心愛は答えなかった。ただ、技術部から戻ってきたばかりの、自分のパソコン――ハードディスクの救出に成功したそれを、じっと見つめ、思案に沈んでいた。その時、部長室のドアが開いた。佳穂が俯いたまま出てきた。表情は抜け落ちたように無く、泣いた後なのか目元だけが赤い。彼女は一言も発さず自席に戻ると、黙々と荷物をまとめ始めた。私物を一つ、また一つと段ボール箱に詰めていく。デザイン部全体が水を打ったように静まり返り、箱に物を収めるかすかな音だけが響いていた。碧は声を潜め、心愛の耳元で囁いた。「木村部長、今回は本気で怒ったみたいですね。まさに身内にも容赦なし、って感じです。遠縁の従妹でも、やらかしたら即クビなんですね」心愛は、段ボールを抱えて足早に去っていく佳穂の背中を横目で追った。そ
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第135話

昂一は話を聞きながら、眉間の皺をさらに深く刻んだ。技術部を名乗る男だと。「その男の容姿や名前について本人に問いただしましたが、何一つ答えられない有様です。近藤さん、これはあまりにも不可解です。デザイン部は会社の心臓部。部外者を安易に招き入れ、パソコンに触れさせるなど……」理恵の声には、はっきりと恐怖が滲んでいた。「分かりました」昂一の口調もまた、重苦しいものへと変わる。「この件は、直ちに社長へ報告します」電話を切ると、昂一は一刻の猶予もないと判断し、すぐさま社長室のドアを叩いた。そして理恵から聞いた内容を、一言一句違えず伝えた。報告を聞き終えた暁は、手元の書類に走らせていたペンを止めた。椅子の背にもたれ、無意識に机を指先で軽く叩く。その黒い瞳には、氷のような冷気が宿っていた。技術部を名乗る見知らぬ男が、デザイン部のオフィスに侵入した。――これが偶然であるはずがない。「調べろ」静かな声だった。だが長年仕えてきた昂一には、それが激怒の前兆であると分かった。「食堂の監視カメラをすべて洗い出し、その男の正体を突き止めろ。それから入館システムだ。出入りには必ずカードキーが必要なはずだ。真白が男を連れ込んだ日に、不審な入館記録がないか確認しろ」「承知いたしました」「それから」暁は続けた。「技術部長に直接指揮を執らせ、デザイン部の全パソコンを点検させろ。一台たりとも漏らすな。真白以外に、どの端末に細工が施されているのか、すべて洗い出せ」「はい」昂一もまた事態の深刻さを痛感し、即座に手配に走った。技術部による一斉点検は、前回以上に迅速かつ徹底したものとなった。部長自らが二人のチームリーダーを率い、まるで地雷を取り除くかのような慎重さで、デザイン部の全パソコンを検査していく。そして、結果はすぐに出た。解雇された佳穂の端末だけではなかった。さらに二台のパソコンに、極めて精巧なスパイウェアが仕込まれていたのだ。一台は、碧のもの。もう一台は、心愛のものだった。結果を聞いた碧は、口をぽかんと開けたまま固まった。「私のパソコンにも問題があったんですか?」自分の鼻先を指差しながら、信じられないといった表情を浮かべる。「でも、さっき自分で確認したときは、何もおかしなところなんてなかったの
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第136話

デザイン部全体の空気は、まるで一瞬にして抜き取られたかのように重く沈んだ。誰もが理恵を見つめ、その顔には一様に絶望の色が浮かんでいる。すべてを白紙に戻し、一からやり直す。それは、この一ヶ月余りの残業も、心血を注いだアイデアも、すべてがただの紙屑に帰すことを意味していた。「木村部長……」碧の声は力なく、顔からは血の気が引いている。「発表会は来週なんです。今からデザインし直すなんて、時間的に……到底間に合いません」コンセプトからラフ、さらにサンプル制作、本制作に至るまで、あらゆる工程に時間が必要だ。一週間でまったく新しいシリーズを完成させるなど、到底人間業とは思えない。理恵の表情も、これ以上ないほど険しかった。時間が逼迫していることなど、彼女とて痛いほど分かっている。だが、原稿が漏洩してしまった以上、もし相手に先を越されて発表されれば、加賀見グループは前代未聞の盗作スキャンダルに見舞われる。その代償は、発表会の延期とは比べものにならないほど深刻だ。彼女は会議室を見渡し、最後に、最初から最後まで異様なほど冷静だった心愛へと視線を止めた。「深水さん、あなたはどう思う?」一瞬にして、全員の視線が心愛に集中した。心愛は顔を上げ、理恵の探るような視線を静かに受け止める。その瞳には動揺も絶望もなく、ただ凪いだ湖面のような静けさだけがあった。間に合わないのか。彼女は考える。祖母はもういない。俊輔は今も刑務所の中で自分を待っている。今の自分に余っているものがあるとすれば、それは使い切れないほどの時間と、命を削ってでも働けるだけの力だけだ。孤独だった。そして、何も恐れてはいなかった。「……できます」心愛は静かに口を開いた。その声は決して大きくはなかったが、混乱に陥った場を一瞬で鎮める力を持っていた。碧は信じられないという表情で彼女を見た。「深水さん、正気なんですか?」心愛は彼女には応じず、ただ理恵だけを見据えて淡々と続ける。「条件があります。初期の資料収集、市場調査、そして生地の選定に至るまで、すべての工程を私一人に任せてください。私に、絶対的な裁量をいただけますか」理恵は心愛をじっと見つめた。「いいわ」わずかな迷いもなく、その場で即断する。「そうしましょう。他の者は全力で深水さんをサポートしなさい」会議
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第137話

心愛は呆然とした。食事――昨夜の電話で、彼が「明日戻る」と言ったこと、そして一緒に食事をしようと約束したことを、そのときになってようやく思い出した。あれほどはっきりと約束したのに……完全に失念していたのだ。「ごめん……忘れていました」彼女はうなだれた。「昂一から聞いています」暁はそれ以上追及することなく、椅子を引き寄せて彼女の隣に腰を下ろした。そして弁当箱の蓋を開ける。「今日、デザイン部で起きたことは、あなたのせいではありません」彼女の好みの香りが、ふわりと漂った。心愛は彩り豊かな料理を見つめたが、食欲は微塵も湧かなかった。「……食べられません」暁が眉をひそめる。「どうしてです?」「デザインをすべてやり直さなければならないのに、インスピレーションがまったく湧かないんです」心愛は画面上に散乱する素材を見つめた。頭の中はもつれた麻糸のようで、何を掴もうとしても指の間をすり抜けていく。暁はそれ以上、何も言わなかった。彼は立ち上がると、心愛のノートパソコンをぱたりと閉じ、驚く彼女の目の前でその手を迷いなく取った。「来てください」「でも、残業して進めないと間に合わないんです!」心愛は反射的に手を振り払おうとした。だが暁は振り返らず、有無を言わせぬ力で彼女を外へと連れ出した。その沈黙は、どんな言葉よりも強く響いた。車は地下駐車場を出て、夜の車列に溶け込んだ。窓の外を流れるネオンを眺めながら、心愛には彼がどこへ向かっているのか見当もつかない。やがて車が止まったのは、古い街並みが残る一角の入り口だった。多くの人々が行き交い、観月祭を控えた街は、ひときわ賑わいを見せている。暁に手を引かれて車を降りた心愛は、目の前の光景を茫然と見つめた。そしてようやく気づく。今日は、十五夜なのだ。暁が手を離し、彼女に向き直る。道沿いに並ぶ竹灯籠の明かりが、彼の深い瞳に温かな光を落としていた。「仕事のことは一旦忘れなさい」彼は静かに言った。「今日は祭りです」心愛は彼を見つめ、それから周囲に目を向けた。笑顔で行き交う家族連れ。その光景に、胸の奥がそっと温められるような気がした。最後に「祭り」を味わったのは、いったいいつだっただろう。暁は屋台で月見団子を買い、彼女に差し出し
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第138話

加賀見邸。静香との和やかなアフタヌーンティーを終えたばかりの葵は、自分のために用意されたピンクの部屋へ戻るや否や、顔に貼り付けていた甘やかな笑みを一瞬で拭い去った。窓辺へ歩み寄り、庭で植木職人に何やら指示を出している母の姿を見下ろす。その瞳に、かすかな苛立ちがよぎる。こうして「聞き分けの良い娘」を演じる芝居は、客の相手をするよりもよほど神経をすり減らす。バッグの中でスマートフォンが震えた。非通知設定の暗号化された回線だ。葵はそれを取ると、部屋の奥へ移動し、声を潜めた。「もしもし」受話器の向こうの声は焦りを帯びていた。「葵さん、加賀見本社の技術部が本日午後、デザイン部を一斉点検しました。仕込んでいたプログラムが発見され、真白も解雇されています」「解雇?」葵は眉を上げたが、驚きはほとんど見せなかった。「ええ。木村が自ら処理に当たったようです。対応はかなり迅速でした」葵の口元に冷ややかな笑みが浮かぶ。見つかったところで何だというのか。佳穂のような役立たずは、もとより使い捨ての駒に過ぎない。「構わないわ」彼女は淡々と相手の言葉を遮った。「原稿は手に入った。それで十分よ」電話の向こうの主は、ほっと息をついたようだった。「では、次は……」「私の指示を待ちなさい」そう言い捨てると、葵は一方的に通話を切った。彼女はウォークインクローゼットへと足を運び、壁一面に並ぶオートクチュールのドレスを眺める。今頃、心愛はさぞ火のついた蟻のように右往左往しているだろう。一週間でまったく新しいデザインを仕上げる?――笑わせる話だ。彼女が望んでいたのは、まさにこの状況だった。心愛を窮地に追い込み、絶望の中でもがかせる。その間に、自分は次の計画のための時間を稼ぐ。機嫌よく披露パーティーのドレスを選んでいると、再びスマートフォンが鳴った。画面に表示された「紘」の名を見て、葵は露骨に眉をひそめる。――しつこい、愚か者。出るつもりはなかったが、着信は執拗に鳴り続けた。出なければ、いつまでもかけ続ける気配だ。葵は深くため息をつき、通話ボタンを滑らせた。声は氷のように冷たい。「……何の用?」すぐに、受話器の向こうから紘の酔いの回った愚痴が流れ込んできた。背景には麻雀牌のぶつかり合う音が混じっている。「葵、会いたく
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第139話

「はっきりした返事を聞かせろ!」「こうしましょう」葵は脳を高速で回転させた。「東海から船で戻ってきて。あちらなら検問もそれほど厳しくないわ。三日後の夜十時、南川埠頭に来て。私が自分で車を出して迎えに行くから。それでいいでしょう?」紘は向こうで算段を巡らせると、満足げに鼻を鳴らした。「……まあ、それならいいだろう。葵、やっぱりお前はいい子だな」電話を切った瞬間、葵の瞳に殺意が閃いた。自分で迎えに行く?ええ、もちろん。私の手で、あの世へ送ってあげるわ。……一方、花火が打ち止めとなり、川辺には再び静寂が戻っていた。暁は心愛を連れ、路地の奥深くにひっそりと佇む創作料理の店を訪れた。店内は広くはなく、いくつかの卓が置かれているだけだが、古色を帯びた佇まいにはどこか雅やかな趣が漂っている。やがて料理が次々と運ばれてくる。鱸の酒蒸し、若鶏と栗の琥珀煮、ずわい蟹の銀あん豆腐――いずれも、かつて心愛が好んでいた味ばかりだった。並べられた皿を見つめ、心愛は呆然と呟いた。「……どうして私の好みが分かったんですか?」暁は彼女のために料理を取り分けていた手を一瞬止めたが、すぐに淡々と答えた。「あなたにあれだけ何度も飯を作ってもらったんです。嫌でも覚えます」そして、珍しく穏やかな口調で付け加える。「以前はあなたが私を世話してくれた。この食事は、そのお返しです」簡潔な言葉だったが、箸を握る心愛の指先には、わずかに力がこもった。凍りついていた心の湖面に、小さな石が投げ込まれ、静かな波紋が広がっていくようだった。食後、暁は車で彼女をマンションまで送り届けた。車が階下に停まると、心愛はシートベルトを外し、そのまま部屋へ戻って残業を再開しようとした。だが、暁が手首を掴み、引き止める。「戻って寝なさい」心愛は手を振りほどこうとした。「ダメです、原稿を仕上げないと」暁は眉を上げ、再び自分の殻に閉じこもろうとする彼女の様子を見て、いつもの毒舌を解禁した。「加賀見グループは社員を搾取するようなブラック企業じゃない。脳が疲れ切れば回転も止まる。あなたが会社で過労死でもしてみなさい、法務の私は徹夜で社員補償協議書の対応に追われることになります。ボーナスを削られるのは御免です」その屁理屈に、心愛は思わず吹き出した。胸の奥に溜まっていた暗雲が、
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第140話

今夜の食事は、心ゆくまで堪能できるものだった。並べられた料理の数々は、あのとき疲れ切っていた自分の味覚を、的確に癒してくれた。暁が見つけてくれたあの店は本当に素晴らしい。またいつか必ず訪れようと、心愛は胸の内で密かに決めた。……時は少し遡る。暁と心愛が連れ立って店を後にし、路地の角に姿を消した頃――それまで半歩も近づけずにいた店員が、ようやく安堵の息をつき、テーブルの片付けに現れた。若い店員が、ほとんど手つかずのまま残された贅沢な料理を眺め、小声で思わず漏らす。「あの男性、本当に羽振りがいいわね。うちの店、ひとり五桁は下らないのに、一人の女の子のために、まばたき一つせず貸し切りにしちゃうなんて」少し年長の店員が、手際よく食器をまとめながら、からかうように笑った。「羨ましいの?だったらあなたも、それくらいのお金持ちを見つけなさいよ。貸し切りどころか、店ごと買い取ってプレゼントしてくれるような人をね」二人が冗談を言い合っていると、マネージャーがやって来て声をかけた。「何をしているんだ。さっさと片付けて、早く帰りなさい」……十五夜のひとときの休息は、まるで鍵のように、心愛の中で固く閉ざされていたインスピレーションの扉をこじ開けた。マンションに戻っても、彼女はすぐには眠りにつかなかった。目に焼き付いた風景、揺れる灯籠、そして夜空に弾けた花火の一瞬の光と影――それらが脳内で交差し、ぶつかり合い、やがて奔流となって溢れ出す。パソコンを開いたとき、思考はかつてないほど澄み渡っていた。ペンは画面の上を飛ぶように走り、線は滑らかに、これまでにない生命力を帯びて広がっていく。古典的な雲の紋様は解体され、シャープな幾何学ラインと融合する。伝統的なボタンの意匠は大胆に拡大され、極めて現代的なロックのデザインへと昇華された。この夜、心愛はほとんど一睡もしなかった。翌朝――徹夜明けの疲労と、創作後の高揚を抱えたまま出社した心愛が、新たなデザインを会議室のスクリーンに映し出すと、理恵と碧は思わず息を呑んだ。図面の上には、古典的な情緒と現代的な鋭さが完璧に調和していた。激しくぶつかり合いながらも、異様なまでの美しさを湛えた造形がそこにある。碧は口元を押さえ、瞳を羨望に輝かせた。「深水さん、神様でも降りてきたんですか?完
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