All Chapters of 身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った: Chapter 111 - Chapter 120

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第111話

「もういい」貴臣は彼女の言葉を遮った。これ以上、弁明を聞く気にはなれなかった。「そのおばあさんの写真を一枚、俺に送れ」「……わかったわ」葵は数秒の沈黙のあと、どこか物憂げに応じた。「あとで看護師に撮らせて送るわね。貴臣、心愛さんのことであまり怒らないで。彼女もきっと、おばあさんのことが心配でたまらないだけなのよ」貴臣の胸にのしかかっていた重石が、ようやく外れた。やはり、心愛が理不尽に騒ぎ立てていただけだったのだ。酔いによる頭痛が波のように押し寄せる。貴臣は軽く頭を振り、疲れ果てた様子でソファに身を投げ出すと、そのまま泥のように眠りに落ちた。――その頃。葵は通話を切った。スマートフォンに目を落とし、それからピンクを基調とした部屋を見渡す。瞳には隠しきれない嫌悪が宿っていた。心愛というあの女、本当にしぶとい。あろうことか、貴臣のもとへ乗り込んで騒ぎを起こすとは。葵は冷ややかな笑みを浮かべると、連絡先からある番号を探し出し、そのまま発信した。長いコールのあと、ようやく繋がる。向こうからは雑踏の喧騒が流れ込んできた。どこかの屋台にでもいるのだろう。「もしもし?葵?どうして俺に電話なんてしてくれたんだ?」紘の声には、はっきりと酒気が混じっていた。「貴臣が、あのババアの写真を欲しがってるの」葵は端的に告げた。「今すぐ、あの女が高級病室で寝ている合成写真を作って。至急よ」「合成写真?」紘は電話の向こうで酒臭いげっぷを漏らした。「おいおい、そんなことで呼び出したのかよ?俺は今、田舎で身を隠してるんだぜ。どこでそんなもん作れってんだ?」「そんなの知ったことじゃないわ」葵の声音は一切の反論を許さなかった。「それはあなたの仕事でしょう。紘、忘れないで。あなたが今、のうのうと酒を飲んでいられるのは、誰のおかげ?」紘は黙り込んだ。「……ちっ、わかったよ。お前の勝ちだ」悪態をつきながらも折れる。「そのババアの写真、送ってこい」葵はアルバムを開き、以前盗撮しておいた写真を転送した。送信して間もなく、紘から再び着信が入る。その声には、どこか妙な響きが混じっていた。「この人……どこかで見たことがあるな」「見たことがある?」「ああ、俊輔のあのクソババアだ!」紘の声が一気に冴え渡る。
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第112話

スマホの画面が暗転しても、葵の顔から陰湿な表情は完全には消えなかった。手のひらに食い込む爪が、鋭い痛みをもたらす。紘との通話を切った直後、外からコツコツとドアを叩く音が響いた。柔らかく、どこか様子を窺うような気配。その瞬間、彼女の顔に浮かんでいた刺々しい計算高さは、見えない手で撫で消されたかのように跡形もなく消え去り、たちまちしとやかで従順な娘の面差しへと変わった。深く息を吸い、口元の角度を整えると、立ち上がってドアを開ける。外に立っていたのは、手入れの行き届いた中年の婦人だった。上品な着物をまとい、その所作の一つひとつから気品がにじみ出ている。加賀見家の奥様――加賀見静香(かがみ しずか)である。「お母さん」葵の声は柔らかく、ほどよい驚きとほのかな羞じらいを含んでいた。まるで長く迷っていた幼い鹿が、ようやく母のもとへ辿り着いたかのような響きだ。静香の顔には、たちまち笑みが広がった。目尻の細かな皺までほどけ、心からの喜びがにじむ。彼女は葵の手を取り、優しくその甲を叩いた。その眼差しは慈愛に満ち、失われた宝を取り戻したかのような愛しさに溢れている。「ええ。帰ってきたばかりだけれど、時差ボケは大丈夫かしら?」静香は葵の手を引いて部屋に入り、室内を見渡した。「この部屋は、あなたが小さい頃に使っていたのよ。内装もそのまま残してあるの。もし気に入らなければ、明日にも業者を呼んで改装させましょう。すべてあなたの好きなようにしていいのよ」葵はその視線に従い、室内へと目を巡らせた。ピンクの壁紙、白いレースのカーテン。出窓には大きなぬいぐるみのクマが静かに座っている。豪奢でありながら温もりに満ちた空間は、まさに少女が夢見る「お姫様の部屋」そのものだった。――心愛の持っていたものは、今やすべて私のもの。あの子も、ずいぶんと恵まれて育ったのね。胸の内では冷笑していたが、口にする言葉には一切の綻びもない。「いいえ、お母さん。お手間をおかけするなんて。私の好みはあの頃から変わっていませんもの。ピンク色、今でも大好きです。この部屋にいると、まるで一度も離れたことがなかったみたいで……本当に落ち着きます」その言葉は、静香が何より望んでいたものだった。長い年月の間に、娘が外で苦労し、心を閉ざしてしまっているのではないか――
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第113話

静香がその名を口にすることはなかったが、葵の胸の内では激しい動揺が渦巻いていた。加賀見暁。あの男が、加賀見家の養子だったなんて。なぜ暁が、あれほどまでに執拗に行方不明の令嬢を探し続けていたのか、葵には理解できなかった。彼は加賀見家の実子ではない。自分が「真の令嬢」として戻れば、彼の居場所は奪われるはずだ。それでもなお、恐れないというのか。巨大な恐怖と不安が、冷たい手で心臓を鷲掴みにした。暁は、自分の正体を知っている。もしお披露目の宴の場で、衆目の前で暴かれでもしたら――想像するだけで背筋が凍りつく。だめ、そんなこと、あってはならない。葵はテーブルの下で拳を固く握りしめ、爪が食い込むほどに力を込めた。暁が口を開く前に、何としても彼を完全に封じなければならない。「葵?どうしたの?」しばらく言葉を失い、顔色を失ったままの葵を、静香が心配そうに覗き込んだ。葵ははっと我に返ると、即座に悲劇のヒロインを思わせる表情を作り、目元をかすかに赤らめた。「なんでもありません、お母さん。ただ……あまりに現実離れしていて。私にお兄ちゃんがいたなんて、嬉しすぎて……」そう言って視線を落とし、茶碗の中のご飯を箸でそっとつつきながら、か細い声で続ける。「私……少し、怖いんです。お兄ちゃんに嫌われたらどうしようって」そのおずおずとした様子は、瞬く間に静香の庇護欲を掻き立てた。「馬鹿な子ね、何をそんなに思い悩んでいるの」静香は愛おしげに微笑み、彼女の皿に料理を取り分けた。「お兄ちゃんだって、あなたの帰還を知ればきっと喜ぶわ。あの子は落ち着いていて、とても物分かりのいい子よ。本当の妹のように可愛がってくれるに決まっているわ」夕食の間、葵は一瞬たりとも気を抜けなかった。笑顔を貼りつけ、静香の話に相槌を打ちながらも、頭の中では暁をどう排除するか、その算段を高速で巡らせ続けていた。食事が終わると、疲れを理由に、逃げるように二階の自室へと戻る。「バタン」とドアを閉め、外界を遮断する。葵は力が抜けたようにベッドへ倒れ込んだ。肌に触れる最高級のシルクシーツの滑らかで冷ややかな感触が、ここがどれほど贅沢な場所かを改めて実感させる。柔らかな寝台に身を沈め、天井で煌めくクリスタルのシャンデリアを見上げる。その瞳は、じ
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第114話

一方で、紘の仕事は驚くほど迅速だった。ほどなくして合成写真を仕上げて葵に送り、彼女はそれを念入りに確認し、不備がないことを確かめた。その写真は、間を置くことなく貴臣のスマホへと転送される。写真には、療養所の庭のベンチに腰掛けた老人の姿が写っていた。膝には毛布がかけられ、口元にはどこか不自然な笑みが浮かんでいる。背後には、明るい陽光と青々とした芝生が広がっていた。貴臣はそれを一瞥すると、胸に燻っていた苛立ちをようやく押し込めた。深く考えることもなく、そのまま写真を心愛へ転送する。【お前のおばあさんは療養所で元気にしている。トップクラスのチームが世話をしているんだ。余計な騒ぎを起こすのはやめろ。それがお互いのためだ】その文面は、拒絶を許さぬ命令のように冷えきっていた。……墓地を吹き抜ける風は湿り気を帯び、冷たく、心愛の細い黒のワンピースを肌に貼りつかせていた。彼女はつい先ほど、祖母の墓石に残っていた最後の埃を拭い、真っ白なヒナギクの花束を供えたばかりだった。その静寂を破るように、スマホが「チリン」と鳴る。彼女は力の抜けた手つきでスマホを取り出した。画面に映し出されたのは、貴臣から送られてきたあの写真と、氷のように冷たい言葉だった。心愛は画面を見つめ続ける。その瞳は、凪いだまま死んだ水面のように空虚だった。写真の中で、祖母は微笑んでいる。だがその顔は、かつての写真を無理やり合成したものだと一目で分かった。輪郭には不自然なぼかしの跡が残り、現実感を欠いている。何より――心愛は誰よりも知っていた。祖母は最期、病に蝕まれ、やせ細り、ベッドに沈むような姿だった。これほど背筋を伸ばして座る力など、残されているはずがなかった。この写真を送ったときの貴臣の顔さえ、彼女には容易に想像できた。傲慢な施しと、「やるべきことはやった」と言わんばかりの形だけの誠意。彼にとって、自分を欺くためのわずかな手間すら、惜しむべき無駄なのだ。心愛は口角を引き上げた。笑おうとしたのだ。だが、顔の筋肉はすでに強張り、思うように動かなかった。スマホの画面から視線を外し、目の前の冷たい墓石を見上げる。写真の中で「生きている」祖母と、土の下で静かに眠る祖母。そのすべてが、虚偽に塗り固められていた。彼女はゆっく
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第115話

ここ数日、彼女は濁った意識の中を漂うように生きていた。あろうことか、最も大切なことを忘れていたのだ。「ごめん、また後で。行かなきゃいけないところがあるの」「えっ?深水さん?」心愛はそれ以上何も言わずに電話を切り、タクシーを拾うと、市街地から離れた刑務所へと急いだ。面会室。俊輔は囚人服に身を包んでいた。短く刈り込まれた髪、ややこけた頬。だがその瞳には、以前よりも確かな光が宿っているように見えた。席に着くなり、彼はもどかしげに心愛を見つめた。唇がわずかに動くものの、何から切り出せばいいのか分からない様子だった。心愛は弟を見つめながら、胸を引き裂かれるような痛みに耐えていた。祖母が亡くなったという知らせは、焼けた烙鉄のように舌の上にのしかかり、どうしても言葉にすることができない。怖かった。この知らせが、弟を絶望の淵へ突き落とす最後の一押しになってしまうことが。「姉ちゃん、あの……大丈夫?顔色、すごく悪いよ」俊輔が先に口を開き、おずおずと彼女を気遣った。「大丈夫、ここ数日あまり眠れていなかっただけよ」心愛は、泣き顔よりも辛い笑みを無理やり浮かべ、強引に話題を逸らした。「俊輔、中では……慣れた?誰かにいじめられたりしてない?」俊輔は首を横に振ったが、その瞳にかすかな戸惑いがよぎった。「いじめられてないよ……それより姉ちゃん、数日前に誰か来させた?」心愛は虚を突かれた。「誰も行かせてないわよ。誰のこと?」「男の人だよ。背が高くて、スーツを着ていて……なんていうか、僕らとは住む世界が違う感じの人だった」俊輔は記憶を手繰り寄せるように言葉を探した。「あまり多くは話さなかったけど、事件のこととか、ここで困ってないか聞いてくれたんだ」仕立てのいい、高価なスーツ。心愛の脳裏に、隙のない立ち姿がよぎった。暁――彼なの?「それで……どうなったの?」心愛は思わず問い詰めた。「その翌日だよ。急に一人部屋に移されたんだ」俊輔の声には、戸惑いと安堵が入り混じっていた。「環境もすごく良くなったし、誰も僕に手出ししなくなった。姉ちゃん、あの人は一体誰なの?」心愛の心臓が大きく跳ねた。温かな何かが、酸っぱい痛みを伴って胸の奥から込み上げてくる。暁……あの人は、自分の知らないところで、ここまで手を差し伸べてく
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第116話

刑務所を出た後、心愛は家へは戻らず、そのままタクシーで会社へと向かった。空は重く垂れ込め、まるで彼女の胸の内を映し出しているかのようだった。車窓の外では、林立するビル群が猛スピードで後方へと流れていく。――おばあちゃんが、いなくなった。悲しみに沈む時間さえ、今の彼女には許されていない。弟はまだ刑務所の中におり、真相は闇に閉ざされたままだ。ここで立ち止まるわけにはいかなかった。オフィスのガラス扉を押し開けると、受付嬢が彼女に気づき、はっと息を呑んだ。すぐに気遣うような視線が向けられる。「深水さん、もう出勤されたんですか。大丈夫ですか」心愛は無理に口角を引き上げ、泣き顔よりも痛々しい笑みを浮かべた。「ええ、大丈夫よ」そのまま自席へ向かい、椅子に腰を下ろした直後、昂一が熱いコーヒーを運んできた。彼はそれをそっと机の上に置く。「もう少し休まれてもよかったのでは」周囲に配慮して声を潜めながらも、その言葉には様子を窺う慎重さが滲んでいた。社内の人間は皆、心愛の身に不幸があったことを知っていたが、誰一人として深く踏み込もうとはしなかった。「眠れなくて」湯気を立てるコーヒーを見つめる心愛の声は、かすかに掠れていた。「近藤さん、加賀見さんを探しているんだけど、いらっしゃるかしら」「加賀見さんですか。今日はまだこちらには来ていないようですが、少し確認してみます」昂一は少し離れた場所へ移動し、電話をかけた。心愛はうつむいたまま、無意識に指先で冷たいデスクの表面をなぞる。彼女は暁に、あまりにも多くの恩を受けていた。弟が個室に移され、目に見える危険から遠ざけられたことも、祖母の葬儀が滞りなく執り行われたことも――すべては彼が人を手配してくれたからだ。その恩は、深く胸に刻まれている。ほどなくして電話を終えた昂一が戻ってきたが、その表情はどこか微妙に歪んでいた。「深水さん、加賀見さんが今すぐこちらに向かうそうです。ちょうどあなたにお話があるとのことで、下のカフェで待っていてほしいと」――私に、話?心愛の心臓がどくりと跳ねた。以前、暁に当たり散らしてしまったことを持ち出されるのだろうか。彼女はすぐに立ち上がる。「わかりました。今すぐ行きます」ちょうど、彼にはきちんと面と向かって礼を伝えたいと思ってい
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第117話

暁はそんな心愛の様子を見て、「家族なのだから、そんなにかしこまらなくていい」と言ってやりたい衝動に駆られたが、今はまだその時ではないと踏みとどまった。ブリーフケースから茶封筒を取り出し、テーブルに置いて彼女の方へ静かに押しやる。「今日ここに来たのは、あなたに伝えておきたいことがあったからです」心愛はその封筒を見つめ、胸の鼓動がひとつ大きく跳ねた。手を伸ばして受け取ろうとした、その瞬間――暁のスマートフォンが無遠慮に鳴り響いた。彼はわずかに眉をひそめ、着信画面に目を落とす。母からだった。無意識に向かいに座る心愛へ視線を流してから、通話に応じる。声を抑え、低く応じた。「お母様、どうしたんですか」電話の向こうで、静香の声が抑えきれない興奮と喜びに震えていた。その声量は大きく、向かいの心愛にまで断片的に届いてしまうほどだった。「暁!見つかったのよ!あなたの妹が見つかったの!」――妹?封筒に触れようとしていた心愛の手が、宙でぴたりと止まる。暁の体もまた、瞬時に硬直した。反射的に問い返す。「……誰が、ですか」「葵よ!明石葵!あの子が、うちがずっと探していた娘だったの!」静香の声は支離滅裂になるほど高揚していた。「親子鑑定の結果も出たの、間違いないわ!あなた、いつ帰ってこられる?妹のためにお披露目の宴を開きましょう。最高に華やかにして、もう二度とあの子に辛い思いをさせないようにしなきゃ!」脳内で何かが炸裂したような衝撃が、暁を襲った。――葵?なぜ、葵なんだ。彼の視線は、テーブルの上の茶封筒へと吸い寄せられる。その中には、自ら院長のもとへ足を運び、手に入れたもう一通の親子鑑定報告書が入っている。母・静香と心愛との間に血縁関係があることを示す、動かぬ証拠。その瞬間、薄いはずの茶封筒は千斤の重さを帯びたかのように感じられ、指先が痺れるほど熱を持った。電話の向こうでは、静香がなおも興奮したまま未来の話を続けている。「……その時が来たら、あなたもいい加減身を固めなさい。あなたと葵は、それこそ……ああ、もういいわ。帰ってきてから話しましょう!」暁は乾ききった喉を鳴らし、しばらくしてようやく声を取り戻した。「お母様、まずは落ち着いてください。その件については……」「落ち着いていられるわけ
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第118話

車が猛スピードで疾走する中、暁の頭の中は激しく混乱していた。家で一体何が起きているのか、突き止めなければならない。あのペンダントは……ハンドルを握る指に力がこもり、関節が白く浮き上がる。キキーッ!タイヤが地面を擦り、耳をつんざく悲鳴を上げる。黒のベントレーは加賀見邸の玄関前にぴたりと止まった。暁は助手席の封筒を掴み取ると、車を飛び降りるや否や、玄関へと全力で駆け込んだ。リビングには煌々と明かりが灯り、温かな空気に満ちていた。父・加賀見正国(かがみ まさくに)と母・静香がソファに並んで座り、久しく見ていなかった心からの笑みを浮かべている。そして二人の間には、白いワンピースを纏った一人の少女がいた。静香に寄り添い、にこやかに談笑しながら、ときおりカットフルーツを差し出している。入口の気配に気づいた若い女性が、顔を向けた。視線がぶつかる。暁の足がぴたりと止まり、瞳孔が一瞬で収縮した。――本当に、葵なのか。葵は彼を見ると、まず驚きの色を浮かべ、すぐにそれを絶妙な喜びと羞恥へと変えて立ち上がった。そして鈴を転がすような声で言う。「……先輩?」その様子を見た静香は、葵の手を取り、いっそう嬉しそうに微笑んだ。「あら、知り合いだったの?」静香は葵の手の甲を軽く叩き、それから暁へと向き直り、抑えきれない歓喜を滲ませる。「暁、早くこちらへいらっしゃい。紹介するわ。この子が、私が言っていた長年行方不明だったあなたの妹、葵よ。今日からこの子が加賀見家の令嬢になるの。これからは加賀見葵と名乗るわ」妹の……葵――暁の脳裏で、何かが弾けた。彼は目の前のその顔を、食い入るように見つめた。あまりにも見慣れた顔だ。海外のロースクール時代、彼女は離れないガムのように一日中自分の後を追い回し、事あるごとに「先輩」と呼びかけてきた。だが、その瞳の奥には常に計算高い光が潜んでいた。何よりも印象に残っているのは、ある時、中年の女性が学校を訪ねてきて、自らを葵の母だと名乗ったことだった。それが――今や彼女は、自分の「妹」に成り代わっているというのか。暁はその場に立ち尽くし、一歩も動かなかった。空気は恐ろしいほど低く沈み、張り詰めている。彼は手にした封筒を強く握りしめ、爪が肉に食い込むほど力を込めた。
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第119話

「ええ……あの方は私の養母です」葵の声にはかすかな嗚咽が混じり、肩が小刻みに震えていた。「お兄ちゃんはご存じないかもしれませんが、私は幼い頃にあの人に引き取られたんです。でも、決して大切にされていたわけではありません。あの日、彼女が私を訪ねてきたのは、養父の仕事が行き詰まったからで……私を退学させて帰国させ、取引先の息子のもとへ嫁がせるためでした。結納金目当てに……」そこまで言うと、葵は大粒の涙をぽろぽろとこぼし、言葉を詰まらせた。「私……あの時は本当に、ほかにどうすることもできなくて……だから、いつも先輩を頼ってしまったんです……ただ……ただ勉強を続けたかっただけなんです。自分の人生が、あんな形で壊されてしまうのが怖くて……」涙に濡れたその告白は、聞く者の胸を締めつけた。静香は完全に取り乱し、すぐさま葵を抱き寄せた。「なんてこと……可哀想に!辛かったわね、本当によく頑張ったわ。でも、もう大丈夫よ。お父さんとお母さんのもとに戻ってきたんですもの。もう誰にも、あなたを傷つけさせたりしないわ!」正国もまた心を動かされた様子で、暁に責めるような視線を向ける。「暁!お前というやつは。妹がようやく帰ってきたというのに、そんなことを聞いてどうする!」暁は、目の前で抱き合う母娘の姿を、ただ呆然と見つめていた。あまりにも荒唐無稽な光景に、胸の奥が激しく波立ち、行き場のない怒りで喉がひりつく。その時、ダイニングの方から執事が静かに歩み寄ってきた。「旦那様、奥様。お食事のご用意が整っております」「さあ、食事にしましょう!」静香は葵の涙をそっと拭い、柔らかな笑みを浮かべて言った。「行きましょう、葵。今日はシェフに頼んで、あなたの好物をたくさん用意させたのよ。お口に合うといいのだけれど」一家は葵を囲むようにしてダイニングへと向かう。暁だけが、その場に取り残された異物のように、静かに立ち尽くしていた。食卓では、両親が絶え間なく葵の皿に料理を取り分け、細やかに世話を焼いていた。失ったものを取り戻した喜びが、隠しようもなく溢れている。暁には、食欲などまるでなかった。ただ冷ややかな視線で、目の前の光景を見つめていた。葵が手慣れた様子で両親の関心に応え、ときおり「今までの苦労話」を織り交ぜては、静香の涙を誘ってい
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第120話

静香は、疑念を隠そうともしない息子の態度に、不快の色を露わにした。「暁、葵に対して誤解があるのは分かっているわ。でも、あの子はお母さんの本当の娘なの。あれほど苦労して、やっと帰ってきたのよ。もっと可愛がってあげなさい」――親子鑑定……暁の胸は、重く沈み込んでいく。もし鑑定まで済んでいるのだとすれば、それは――では、自分の手元にあるこの鑑定結果は、いったい何なのか。それでも、直感が告げていた。何かがおかしい。あらゆるところに、拭いきれない違和感が潜んでいる。彼は手にした封筒を、さらに強く握りしめた。静香は、息子の疑いに傷ついたのか、声をやや荒げる。「あの日、ショッピングモールを歩いていたら、葵が店員にいじめられているのを見かけたのよ。揉み合いになった拍子に、このペンダントが彼女から落ちたの。一目見て、これだと思ったわ。あの目元、若い頃の私にそっくりじゃない!自分の娘を、母親が見間違えるはずがないでしょう!」語るほどに感情が昂り、静香の目元は再び赤く滲んだ。「葵の髪の毛が、本当に本人のものだと断定できるのですか」暁は彼女の瞳をまっすぐに見据え、核心を突く問いを投げかけた。コートのポケットの中で、茶封筒は指に食い込むほど強く握られている。「当たり前でしょう!」静香はきっと彼を睨みつけた。「あの子のブラシから、私が直接取ったのよ。お父さんと一緒に病院へ行って、報告書も出た。実の娘だとはっきり確認されたの!これ以上の真実がどこにあるっていうの?」息子の頑なな態度に、彼女は本気で腹を立てているようだった。「暁、いい加減にしなさい。あの子はあなたの妹なの。これからはもっと優しくしてあげて」そう言い残すと、静香は小さくため息をつき、喜びに代わって疲労を滲ませながら、手すりに手を添えて二階へと上がっていった。暁はその場に立ち尽くしたまま、まるで頭から氷水を浴びせられたかのような感覚に襲われていた。母もまた、親子鑑定を行っていた。ならば、自分の手元にあるこれは――いったい何なのか。二つの鑑定結果。二人の「実の娘」。だが、真の加賀見家の令嬢は一人しか存在しない。この過程のどこかに、致命的な落とし穴があるはずだ。思考は混沌を極め、その夜、暁は一睡もできなかった。翌朝早く、充血した目を
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