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第281話

潤は、何を言っても聞く耳を持たない妹の頑なな態度に奥歯を噛み締めた。だが最後には、諦めたように深いため息を吐き、アクセルを踏み込む。――いいだろう。実際に壁へぶつかって痛い目を見ない限り、こいつは分からないのだ。……その頃、加賀見邸では――騒がしい潤たち兄妹を見送った後も、リビングに静寂が訪れることはなかった。静香の「もてなしモード」は依然として継続中で、帰ろうとする瑞人を引き止める勢いは、このまま屋敷に住まわせてしまいかねないほどだった。「瑞人くん、見てごらんなさい。もうこんな時間よ。外は寒いし、ここから市街地までは結構距離があるでしょう?」静香は二階を指差す。「客間ならいくらでもあるんだから、すぐ用意させるわ。お布団も新しいし、お日様に干してあるからふかふかよ。今夜は泊まっていきなさいな。明日の朝は、おにぎりも作ってあげるから」静香は心の底から瑞人を気に入っていた。容姿は整い、物腰も柔らかい。何より、食事中の受け答えや自然に滲む教養から、育ちの良さが隠しきれていなかった。心愛はその傍らで、どこか決まり悪そうに指先を弄っている。母の過剰なほどの世話焼きが発動しているのだと分かってはいた。だが、いくら暁がいるとはいえ、瑞人を家に泊めるというのは、さすがに少し――不適切ではないだろうか。心愛は無意識に、暁の様子を盗み見た。暁は玄関の段差に立ち、片手をスラックスのポケットへ入れ、もう片方の手を無造作にドア枠へ添えていた。その顔に露骨な「帰れ」という文字は浮かんでいない。だが、瞳の温度は外の氷点下の空気よりも数度低い。静香に同調して引き止めることもなければ、かといって直接追い返すこともしない。ただ瑞人を見つめながら、「お前は空気が読めない人間なのか」――そう問いかけるような、皮肉混じりの笑みを浮かべていた。瑞人は、熱心に勧める静香と、まるで門番のように立ちはだかる暁を交互に見やった後、少し居心地悪そうにしている心愛へ一瞬だけ視線を向けた。そして、ふっと笑う。「おばさま、お気持ちだけありがたく頂戴しておきます」軽く会釈をしながら、瑞人は非の打ち所のない穏やかな口調で続けた。「僕としても、ぜひ泊まっておばさまの手料理をもっといただきたいところなんです。今夜の食事、本当に
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第282話

瑞人に、名雲の名所を案内する?心愛は内心で戸惑った。二人は、そこまで親しい間柄ではない。ましてや、二人きりで出かけるというのは、どうにも据わりが悪い気がした。体調がまだ万全ではないとか、荷物の整理が残っているとか。何か適当な理由をつけて断ろうとする。「あの、お母さん……私……」心愛は言葉を濁した。「何よ。嫌なの?」静香は眉をひそめる。「瑞人くんは、あんたの命の恩人なのよ?二、三日案内してあげるくらい、どうってことないでしょう。あんた、いつからそんな分からず屋になったの」「そうじゃなくて、私が言いたいのは……」「彼女に暇はないよ」暁が歩み寄り、ごく自然な動作で心愛と瑞人の間へ割って入った。まるで、瑞人の視線から心愛を遮るように。「母さん、会社の方で少しトラブルが起きていてね」暁は瞬き一つせず、淡々と言う。「年明けに予定していた春の新作発表会が前倒しになったんだ。今、デザイン部は大混乱している。本来メインを担当するはずだったデザイナーが病気で入院してしまって、その穴を埋められるのが心愛しかいない」心愛は呆気に取られた。メインデザイナーが入院?初耳だった。昨日、碧と電話した時には、そんな話は一言も出ていなかったはずだ。だが彼女はすぐに、これが暁の差し出した「助け舟」なのだと悟る。「え?あ……そ、そうなの!」心愛は慌てて頷き、必死に焦ったような表情を作った。「あのプロジェクト、すごく重要なの。もし失敗したら、上半期の業績にも影響が出ちゃうかもしれなくて……」それを聞いた瞬間、静香の顔が曇った。彼女は暁をきつく睨みつけ、今にも手に持っていたクッションを投げつけそうな勢いで怒鳴る。「暁!あんた、それでも人間なの!?」静香は息巻きながら、暁の鼻先へ指を突きつけた。「心愛は、I国であんな危険な目に遭って帰ってきたばかりなのよ!体だってまだ本調子じゃないのに、火消し役までやらせるつもり?あんたの会社には他に人がいないの?加賀見グループともあろう大企業が、心愛一人いなきゃ回らないっていうの!?」さらに勢いづき、容赦なく罵倒を重ねる。「この強欲社長!まるでどこかの悪徳資本家じゃない!」暁は母親に好き放題怒鳴られても、まるで気にした様子を見せなかった。むしろ、興奮する
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第283話

玄関を出る直前、瑞人はふと足を止めた。そして、暁の背後に半ば隠れるように立っていた心愛を振り返る。「心愛。仕事が忙しいだろうけど、もし助けが必要になったら、いつでも連絡して」彼は手にしたスマートフォンを軽く振り、どこか含みを持たせるように笑った。「何しろ僕は暇人だからね。呼ばれれば、すぐ駆けつけるよ。デザインに特別なインスピレーションが必要になった時とか……あるいは――」そこで彼は、暁の冷え切った横顔へ視線を流し、わざとらしいほど挑発的な笑みを浮かべる。「ストレスが溜まりすぎて、誰かと一杯やりたくなった時でも。僕のところへ来れば、いつでも最高の酒を用意しておくから」そう言い残すや否や、暁が何か言い返すより先に、彼は扉を開けて夜の闇へと颯爽と消えていった。重厚な扉が、鈍い音を立てて閉まる。「何をぼーっとしてるの。もう行っちゃったわよ」静香が、ぱしりと暁の腕を叩いた。「心愛に仕事を押し付けたんだから、あんたが責任持ってちゃんと面倒を見るのよ!もし会社で嫌な思いをさせたり、疲れさせて痩せたりなんかしたら承知しないからね。あんたの足、叩き折ってやるわよ!」暁は母の言葉には答えず、静かに視線を戻した。その目が、心愛を真っ直ぐ捉える。心愛はうつむいていた。瑞人の最後の言葉を反芻しているようにも見えたし、あるいは暁の視線から逃れようとしているようにも見えた。「聞いただろう」暁が低い声で言った。「明日の朝、一緒に会社へ行く。あなたのオフィスは、もう模様替えさせておいた」心愛は顔を上げる。そして、底知れない深さを湛えた暁の瞳と視線がぶつかった。「……わかったわ、お兄ちゃん」彼女は素直に頷いた。けれど心の奥では、なぜかふっと肩の荷が下りたような感覚があった。瑞人のように、何を考えているのか掴めない食わせ者と向き合うよりも。暁のように、隠そうとしても隠しきれないほど強烈な独占欲の下で働く方が、今の彼女にはむしろ安全に思えたのだ。少なくとも、この男が自分を宝物のように守ろうとしていることだけは、本物だと分かっていたから。たとえ、その守り方が時に息苦しくなるほど過剰だったとしても。「さあ、二人とももう寝なさい」静香は欠伸を噛み殺しながら手を振り、そのまま階段を上がっていった。「もう
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第284話

翌朝、心愛は支度を終えるや否や、暁に連れられるようにして家を出た。加賀見本社ビルの朝は、通勤ラッシュの熱気に包まれていた。エレベーターホールには、淹れたてのコーヒーのほろ苦い香りと、社員たちが纏う様々な香水の匂いが入り混じって漂っている。暁は、社長専用エレベーターを使わなかった。片手をスラックスのポケットに入れ、もう片方の手で心愛の背後をさりげなく庇うようにしながら、書類を抱えて慌ただしく行き交うインターンたちの波を遮っていく。その姿が視界に入った瞬間、ざわついていたエレベーター内は水を打ったように静まり返った。響くのは、階数を告げる無機質なチャイムの音だけ。「昼は会議が入っているから、昂一に昼食を手配させる」エレベーターの扉が開き、暁は半歩横へ退いた。彼の視線が、心愛の胸元に下がったばかりの社員証へ落ちる。デザイナーという肩書きの部分を、指先で軽く叩いた。「高橋さんについて行って、適当なコンビニ弁当なんか食べるなよ。胃が治ったばかりなんだから」心愛が反論しようと口を開いた、その時だった。周囲の視線が一斉に自分たちへ注がれていることに気づく。特に数人の女性社員の目には、「好奇心」という名の炎が今にも燃え上がりそうな勢いで宿っていた。「……承知いたしました、社長」心愛はわざとその呼び方を強調し、彼との距離を取るように一歩外へ出る。「お気をつけて、いってらっしゃいませ」暁は、必死に関係性を誤魔化そうとする彼女の様子を見て、わずかに口元の笑みを深めた。何も言わないまま、静かに閉扉ボタンを押す。金属の扉が閉じ切るのを見届けてから、心愛はようやく安堵の息を吐き、デザイン部へ向かった。オフィスへ足を踏み入れた瞬間だった。パーテーションの陰から、人影が砲弾のような勢いで飛び出してくる。「ちょっと、嘘でしょ!?」碧は半分ほど残ったラテを片手に持ち、零れそうになるのも構わず目を見開いた。「今のって……社長!?直々に送り届けてくれたんですか!?しかも、宝物でも守るみたいにエスコートしてたじゃないですか!」心愛はバッグをデスクへ置き、危なっかしい碧のコーヒーカップを支えてやる。「ついでよ」彼女はパソコンを起動し、モニターの光に顔を照らされた。「社長室は最上階なんだから、つい
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第285話

今、この赤い数字が、自分はまだ「深水心愛」でいられるのだと教えてくれていた。「ありがとうございます。チームのみんなが支えてくれたおかげです」彼女は手柄を独占することなく、穏やかで落ち着いた口調で答えた。理恵はわずかに眉を上げ、その謙虚でありながら芯の通った態度に満足したように頷く。「謙遜しなくていいわ。この業界で評価されるのは、インスピレーションと結果よ」理恵は引き出しから一冊のファイルを取り出し、心愛の前へ差し出した。「次の四半期から始まるハイジュエリーラインは、あなたに単独でチームを率いてもらうことに決めたわ」心愛は息を呑んだ。加賀見グループのハイジュエリー部門は、グループ全体の「顔」とも呼べる存在だ。これまでは常に理恵自らが指揮を執るか、あるいは国外から招聘した世界的な巨匠たちが担当してきた。「ご家庭の事情でしばらく現場を離れていたことは聞いているわ。でも、あなたがまさか加賀見家の令嬢だったなんて、正直驚いた」「それは……」「断るなんて言わないで」理恵は、心愛の言葉を遮るように言った。「あなたが若いことは分かっている。でも、この世界に年功序列なんて関係ないわ」彼女は静かに腕を組み、真っ直ぐ心愛を見据える。「I国から送られてきたラフスケッチ、見せてもらったわ。あのオーロラと荒野――あれには圧倒的な表現力があった。社長も目を通して、正式に許可を出している」暁の名が出た瞬間、心愛の指先がかすかに震えた。彼は、そんなことを一言も話していなかった。「……はい」心愛はゆっくりと顔を上げ、重みのあるファイルを両手で受け取った。その瞳から、もう迷いは消えていた。「やらせていただきます」チャンスが目の前に差し出されているのなら、退く理由などない。もっと高い場所へ行かなければならない。二度と誰にも軽んじられない場所へ。ディレクター室を出た時、心愛の足取りは驚くほど軽くなっていた。ファイルを抱えながら、頭の中ではすでに色彩の組み合わせが幾通りも浮かび始めている。久しく忘れていた、「仕事に没頭する喜び」が、熱となって血の中を駆け巡っていた。エレベーターホールへ向かい、階下の工房へ届いたばかりの宝石原石を見に行こうとした、その時だった。チーン――一番左側にある、本来は役員専用のエレベータ
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第286話

その一団の背中が廊下の奥へ消えていくまで、心愛はようやく呼吸を思い出したような感覚で立ち尽くしていた。胸の内で心臓が激しく脈打っている。それは高鳴りなどではない。純粋な恐怖だった。間違いない。あれは貴臣だ。あの顔。あの歩き方。死にかけた状態にあってなお崩れない、あの傲慢なまでの佇まい。貴臣でなければ、他に誰がいるというのか。――あいつ、狂ったのだろうか。瑞人は言っていた。あの注射によって、身体には永続的な損傷が残るはずだと。命が惜しくないのだろうか。「深水さん?何ぼーっとしてるんです?」背後から同僚の声が飛んできた。「エレベーター、行っちゃいますよ」心愛ははっと我に返り、曖昧に返事を返した。そのままエレベーターには乗らず、踵を返して早足でオフィスへ戻る。頭の中が混乱していた。誰かに事情を確認しなければならない。デスクへ戻ると、碧が腰を浮かせたままカラーチャートをひっくり返していた。顔面蒼白で戻ってきた心愛を見るなり、彼女は飛び上がりそうな勢いで目を見開く。「どうしたんですか!?まさか部長に怒鳴られました?でも、さっきのデータあんなによかったじゃないですか」心愛は抱えていたファイルを机へ置き、すっかり冷え切った水を一気に飲み干した。氷のように冷たい液体が喉を通り落ち、ようやく胃の奥のむかつきが少し収まる。「高橋さん、桐生グループに最近何か動きあった?」「桐生グループ?」碧はカラーチャートの山から顔を上げ、不思議そうに首を傾げた。「なんで急に、あんな縁起でもない会社の話なんです?」少し考え込んだ後、彼女はぽんと手を叩く。「あっ、そうだ!特大ニュースがあったんですよ。色選びに追われてて、言うの忘れるところでした」碧は椅子を滑らせて近づき、わざともったいぶるように声を潜めた。「桐生グループのあの社長……つまり、あなたの元旦那ですけど。今朝早く、精鋭引き連れてここに乗り込んできたらしいです」「……」「桐生が突然、ファッションジュエリー分野への参入を宣言したそうで。しかも加賀見グループと共同で新規プロジェクトを立ち上げたいって、名指しで話を持ってきたんですって」「共同開発?」心愛は眉をきつく寄せた。「桐生の主力は不動産とエネルギーでしょう。ジュ
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第287話

「このプロジェクトを引き受けたからには、完璧に仕上げてみせるわ」そう言って、心愛はドローイングソフトを立ち上げ、新しいキャンバスを開いた。モニターいっぱいに広がる真っ白な光は、まるで静かに燃え上がる炎のようだった。「そうだ、高橋さん。前回使い切れなかったサファイアのサンプル、探しておいてくれる?ちょっと使いたいイメージがあるの」一瞬で仕事モードへ切り替わった彼女の姿に、碧は二秒ほど呆気に取られていた。だが次の瞬間には、にっと笑って親指を立てる。「了解です!今すぐ行ってきます!」彼女は興奮したように身を乗り出した。「その負けん気の強さ、最高ですよ。桐生グループの社長だろうが何だろうが、今の私たちにとっては、ただの『クライアント』でしかないんですから!」風のように駆け去っていく碧の背中を見送りながら、心愛は深く息を吸い込んだ。そして静かに、窓の外へ視線を向ける。向かいの高層ビルのガラスカーテンウォールが、鋭い陽光を反射していた。「共同開発を望むなら、きっちり代償は払ってもらうわよ。貴臣。今の私は、あなたのためにご飯を炊いて、帰りを待つだけのおめでたい女じゃないんだから」……最上階の大会議室。空気は、息が詰まるほど冷え切っていた。長い会議テーブルを挟み、二つの陣営がくっきりと対峙している。暁は上座に腰を下ろし、指先で万年筆を弄んでいた。表情から感情は読み取れない。だがその瞳だけが、深い淵のような冷たさを湛え、真正面に座る男を見据えている。その視線の先にいるのは、貴臣だった。彼はほとんど口を開かず、ときおり喉の奥で押し殺したような咳を漏らしていた。聞いているこちらの胸まで軋むような、重く湿った咳だった。手元には白湯の入ったカップが置かれているが、一口も手をつけていない。しかし、その纏う威圧感は衰えるどころか、むしろ増していた。死地から這い戻った者だけが持つ、捨て身の覚悟。その狂気じみた迫力が、病的な痩身によってなお際立っている。「桐生さん、なかなか景気のいい話だな」暁は弄んでいた万年筆をテーブルへ放り出した。乾いた「パシッ」という音が、静まり返った会議室に鋭く響く。「広告宣伝費はすべて桐生側が負担。利益配分は三割だけでいい、か」暁はゆっくり口角を吊り上げた
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第288話

暁は、独断で決めることをためらっていた。I国のあの雪の夜。自分の判断だけで貴臣を彼女のもとへ連れて行った結果、心愛の沈黙を招いてしまったことが脳裏をよぎる。もう二度と、心愛に代わって何かを決めるような真似はしたくなかった。たとえそれが、彼女のためを思ってのことだとしても。暁は内線電話を取り、デザイン部の番号を押した。「心愛、社長室まで来てくれ」受話器を置くと、向かいに座る、紙のように青白い顔をした男へ視線を向ける。「桐生さん、心愛がまだこれを欲していることを祈るんだな」貴臣は答えなかった。ただ、膝の上で拳を強く握り締めるだけだった。五分後、心愛がドアを押し開けて入ってきた。仕事への意欲に満ちた表情を浮かべていた彼女は、ソファに座る黒い人影を目にした瞬間、ぴたりと足を止める。ドアノブに添えた指先に力が入り、爪が白く浮き出た。「社長、お呼びでしょうか」彼女は貴臣を見ようとしなかった。視界の端にさえ入れまいとするように、真っ直ぐ暁のデスクへ歩み寄る。暁は立ち上がり、デスクを回って彼女の隣へ立った。それは自然な動作だったが、同時に、貴臣から向けられる視線を遮るようでもあった。彼は茶封筒を差し出し、声を少し落とす。「桐生さんが提携の合意書を持ってきた。正確に言えば、これを手土産にな」暁は静かに続けた。「中を見て、やりたいかどうか、自分で決めてほしい」心愛はうつむき、見覚えのあるその封筒を見つめた。震える指で封を切り、中の紙を取り出す。それは、数枚の手描きの原稿だった。線にはどこか未熟さが残っている。けれど、生き物のような熱と感性に満ち溢れていた。紙の隅には、赤いインクで小さく「心」と書かれている。それは、かつての彼女の夢だった。同時に、最も無残に踏みにじられた記憶そのものでもある。図面を見つめるうちに、心愛の呼吸は次第に浅く速くなっていった。あの日の貴臣の冷淡な顔が脳裏によみがえる。――「こんなものは華やかなだけで実用性がない。葵側のデザインの方が市場を理解している」彼は、そう言ったのだ。今さら何だというのか。昔捨てたものを、今になって元の持ち主へ返そうとでもいうのか。「心愛」貴臣が口を開いた。その声は酷く掠れていて、まるで紙やすりで喉を削っ
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第289話

心愛はデスクの上に置かれた販売データへ視線を落とした。暁がこの会社のために、どれほどの心血を注いできたのか、それを彼女は誰より近くで見てきた。自分の一時の感情だけで、これほど莫大な利益を生む提携を蹴るなど、プロとして失格だ。あまりにも身勝手すぎる。いつまでも、貴臣に傷つけられた過去の陰に隠れて生きるわけにはいかなかった。「提携は受けるわ」心愛は静かに口を開いた。その声音は冷えきっていて、どこまでも事務的だった。「この利益は加賀見が受け取る。名声も、私がもらうわ。それは元々、私に与えられるはずだったものだから」貴臣の瞳に、かすかな希望の光が宿る。だが、続く心愛の言葉が、その光ごと彼をその場に縫い止めた。「ただし」心愛は図面を丁寧に袋へ戻し、きっぱりと言い放った。「このプロジェクトに、あなた――貴臣は一切関わらないこと。打ち合わせにも、工房にも、打ち上げの席にさえ、あなたの姿は見たくない。桐生側は資金と場所、それから必要なリソースだけ提供して。担当者は、私の知らない別の人間に変えてちょうだい。もし受け入れられないなら、この紙切れなんて必要ないわ」貴臣の顔色が、白から灰色へと変わっていく。彼がここまで策を巡らせ、自分の身体さえ犠牲にして、このか細い可能性に縋ったのは、ただ仕事の合間にでも彼女の近くにいたかったからだ。たとえ言葉を交わせなくても、真剣な眼差しで図面を描く彼女を遠くから見守れれば、それで十分だと思っていた。だが心愛は、その僅かな余地すら彼に残さなかった。「心愛、細かい部分については……」貴臣はなおも食い下がろうとした。「交渉の余地はないわ」心愛は彼の言葉を遮り、視線ひとつ向けぬまま暁へと言った。「お兄ちゃん。契約の詳細は近藤さんに任せて。桐生さんが私の前に現れないと約束するなら、このプロジェクトの責任者を引き受けるわ」貴臣は、その場で凍りついた。まさに、自業自得だった。かつての自分も、こうして高慢な態度で、何度も何度も心愛を突き放してきた。今、彼女はただ、それをそのまま返しているだけなのだ。「……わかった」貴臣はゆっくりと目を閉じた。これ以上追い詰めれば、逆効果になる。心愛の性格なら、本気で怒らせれば図面をその場で破り捨て、二度と会おうとしなくなるだろう。
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第290話

ペン先が紙を滑る音だけが、午前三時の書斎に鋭く響いていた。心愛は腫れぼったく重い目尻を指先で揉みほぐす。机の上には却下したラフが山のように積み上がり、その一枚一枚に複雑な線が幾重にも描き込まれていた。ハイジュエリー・シリーズの重圧は、想像以上に彼女の肩へとのしかかっていた。とりわけ、桐生グループとの提携によるあのジュエリープロジェクトを並行して進めるのは、並大抵の負担ではない。貴臣は約束通り会社に姿を現さなかった。だが、彼が送り込んできた担当者たちは、一人残らず目に見えない枷でも嵌められているかのように堅苦しく、その空気が心愛をひどく息苦しくさせていた。書斎のドアが静かに開き、先に温かく甘い香りが流れ込んでくる。静香が、温めたミルクを持って入ってきたのだ。まだ机に齧りついたままの心愛の姿を見た瞬間、彼女は不憫さのあまり今にも泣き出しそうな顔になった。何も言わず、まず明るすぎるデスクライトの光量を落とし、それから湯気の立つ器を机の端へそっと置く。「心愛、お母さんの言うことを聞いて、もう寝なさい」静香の声はかすかに震えていた。「暁も暁だ。あいつ、正気なの?あんたを家畜か何かだと思ってるんじゃないでしょうね」心愛は顔を上げ、無理に笑みを作って母を安心させようとした。だが、喉はひどく掠れている。「お母さん、大丈夫よ。今はプロジェクトの山場なの。せめて原案だけは、自分の手で完成させたくて」「完成なんて後でいいのよ!」静香は机をバンッと叩いた。衝撃でデザイン画がばさばさと音を立てる。「今すぐあいつをベッドから引きずり出してくるわ!」そう言うや否や、静香は踵を返し、そのまま二階へ怒涛の勢いで突き進んでいった。数分後。ダークグレーのシルクのパジャマを羽織り、髪を少し乱した暁が書斎の入り口に現れた。彼も眠りについて間もなかったのだろう。瞳にはまだ疲労の色が残っている。だが、心愛の目の下に刻まれた濃い隈を見た瞬間、その疲れは一転して鋭い怒気へと変わった。「母さん、あとは私に任せてくれ」暁は静香へ短く告げると、静かに書斎のドアを閉めた。そのまま心愛の背後へ歩み寄り、両手を彼女の肩へ置く。力強いその重みは、無言の支えであると同時に、彼女へ強制的な休息を命じるものでもあった。「明日から、アシス
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