All Chapters of 身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った: Chapter 291 - Chapter 300

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第291話

桐生グループの副社長が修正案を山ほど抱えて押しかけてきても、部屋へ入る前に碧が応接室でぴたりと行く手を塞いだ。碧の口は機関銃のようによく回り、エリートを気取る桐生の男たちでさえ、反論できぬまま顔を青ざめさせるほどだった。そのおかげで、心愛はようやく息をつくことができた。彼女は持てる集中力のすべてを、黄ばんだ古い手描き原稿へと注ぎ込む。これらの作品を、名雲最高峰の発表会の舞台で蘇らせる――その思いだけが、彼女を支えていた。それから半月後の、ある昼休み。心愛が休憩スペースで食事を取っていると、ロビーに設置された大型テレビがふと視界に入った。画面の中では、名雲市で最も栄えているエリアが華々しく飾り立てられ、盛大なテープカットの様子が映し出されている。アナウンサーの清廉で無機質な声が響いた。「桐生グループが三年の歳月をかけて建設した大型ショッピングモール『スカイガーデン』が、本日正式にオープンしました。この場所は、かつて旧市街地再開発の重点区域であり――」心愛の箸が、ぴたりと止まった。画面に映るのは、陽光を浴びて眩く輝くガラスカーテンウォールの巨大な建物。だが、そこはかつて静かな裏路地だった。そしてモールの正面入口がある場所には、ライラックの香りに満ちた小さな庭があった。祖母の家だ。かつて葵は、この土地で功績を立てるために地上げ屋を引き連れ、強引に家を解体した。祖母が最期まで大切にしていた思い出までも踏みにじって。そして今、その場所は、桐生の富と権勢を誇示する巨大な資本へと姿を変えていた。胃の底から不快感がせり上がり、心愛は口にしたご飯をどうしても飲み込めなかった。「深水さん、どうしたんですか?」碧が近づき、彼女の視線を追ってテレビを見ると、低く吐き捨てた。「本当に、血も涙もない連中ですね。あのショッピングモールの下に、どれだけの人の無念が眠っていることか」「……おばあちゃんに会いに行きたい」心愛は食器を置き、虚ろな声で呟いた。ちょうど今週は俊輔が休暇で、まだ弟を連れてきちんと墓参りに行けていなかった。その話を聞いた暁は、多くを語らなかった。ただ車のキーを昂一へ放り投げ、供え物の準備を命じると、心愛には半ば強引に一日の休暇を取らせた。墓地には、骨の芯まで冷え込むような風が吹いていた。
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第292話

「俊輔、立ちなさい」心愛は歩み寄り、温度というものを一切失った声で言った。彼女は泣かなかった。目元はひどく乾ききっていたが、その神経のすべてが復讐を叫んでいた。背を向けると、心愛は大股で墓地管理事務所へ向かって歩き出した。事務所の中では、太った責任者が回転椅子にふんぞり返り、呑気に茶をすすっていた。凄まじい気迫を纏った心愛がドアを押し開けて入ってきた瞬間、男は飛び上がらんばかりに肩を震わせた。「お、おい、誰が勝手に入っていいと言った?用があるなら受付を――」「祖母の墓石が壊されていたわ」心愛は両手を机に突き、指先が木目に食い込むほど力を込めながら、男を真っ直ぐに睨み据えた。「十五番区よ。監視カメラの映像を見せなさい。誰がやったのか突き止める」責任者はその言葉に、一瞬だけ瞳を揺らした。だがすぐに取り繕うような笑みを浮かべる。「ああ、それは……何かの拍子にぶつかったとか、野犬が入り込んだとか――」「野犬が赤いペンキを撒くの?」心愛が激しく机を叩いた。乾いた衝撃音が狭い事務所に炸裂する。「野犬がハンマーで大理石を叩き割るの?本当のことを言いなさい。でなければ今すぐ警察を呼ぶわ。ついでにメディアにも連絡してあげる。管理費を取りながら暴徒の凶行を放置している、その実態を見せてやるからね」心愛の放つ剥き出しの殺気に、責任者は完全に気圧された。額に浮いた脂汗を慌てて拭い、周囲を窺うように視線を泳がせると、怯えきった声で身を乗り出してくる。「深水さん……あまり深追いしない方がいい。監視カメラは確認した。だが、あいにくその日は故障していて……」心愛が冷笑し、怒鳴りつけようとしたその瞬間、男は慌てて言葉を継いだ。「だ、だが、その日非番だった警備員が車を見ている。市内ナンバーだったそうだ。しかも主導していた男は、以前よく宇佐美家の若旦那――紘の後ろについていた連中の一人らしい」宇佐美家。また、宇佐美家だ。心愛は静かに目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、紘の陰湿な笑み。葵が投獄され、宇佐美家は面目を潰された。これは死人を辱めることで、自分を挑発しているのだ。「宇佐美家……」その名を、心愛は低く繰り返した。一文字一文字が、奥歯の隙間から滲み出るような響きを帯びていた。事務所を
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第293話

電話の向こうから、グラスの砕け散る音が響いた。続いて、極限まで冷え切った暁の命令が飛ぶ。「昂一、あの墓地の責任者をこっちへ連れてこい。それと車を出せ」そして次の瞬間には、彼の声色は心愛へ向けるそれへと変わっていた。優しさを帯びているのに、その奥には底冷えするほど強烈な保護欲が滲んでいる。「心愛、そこを動くな。今すぐ迎えに行く」短く息を吐き、彼はさらに低い声で言った。「あとのことは、全部私に任せろ」心愛はスマートフォンをしまい、どんよりと曇り始めた空を見上げた。風はさらに勢いを増している。彼女はゆっくりとしゃがみ込み、砕けた墓石へそっと指を触れた。おばあちゃん、怖がらないで。心の中で、静かに呟く。もう二度と、誰にもいじめさせないから。夕陽の残滓が墓地を赤く染める中、心愛は俊輔を連れて山を下りた。その背筋は、二度と折れることのない利剣のように真っ直ぐ伸びている。かつて自分を踏みにじり、卑屈にさせ、苦しめてきた者たち。彼女はその一人一人を、この冷たい泥の底へ叩き落としてやるつもりだった。この戦いは、まだ始まったばかりだ。黒塗りのクロスカントリー車が、山に満ちる重苦しい空気を切り裂きながら、雨を孕んだ低気圧の下、墓園の入口へ滑り込むように停車した。暁がドアを開けて降り立った瞬間、泥の中に飛び散る刺すような赤が真っ先に視界へ飛び込んできた。彼は何も問わなかった。喉仏が大きく上下し、そのまま足早に心愛のもとへ向かう。そして砕かれた墓碑を目にした瞬間、その強靭な背中が抗いようもなく強張った。暁は無言でジャケットを脱ぐと、有無を言わせず心愛の冷え切った肩へ掛けた。さらに俊輔の後頭部をそっと押さえ、低く言う。その声は、今にも牙を剥きそうな獣を必死に押さえ込んでいるかのようだった。「帰るぞ」帰り道、車内は死んだような静寂に包まれていた。心愛は窓の外を流れていく枯れ木を、虚ろな瞳で眺め続けている。暁はバックミラー越しに彼女を見ていた。ハンドルを握る指先には必要以上に力が入り、白く関節が浮き上がっている。慰めの言葉をかけようとした。だが今の状況では、どんな言葉もあまりに軽薄に思えた。死者を掘り起こし、辱める。その卑劣極まりない行為は、完全に彼の逆鱗を踏
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第294話

三時間後。南川埠頭にある、廃墟と化した冷蔵倉庫を改造した私設の保安拠点。ここの防音設備は異様なほど優秀で、中でどれほど激しい物音が響こうとも、外へ漏れるのは風雨の唸りだけだった。頭上には、古びた工業用の吊り下げ灯が一つ。揺らめく灯りが人影を歪ませ、不吉なほど長く壁に引き延ばしている。宇佐美翔(うさみ しょう)は、両手を後ろ手に縛られ、鉄製の椅子へ乱暴に拘束されていた。口に詰め込まれていた布が、たった今引き抜かれたばかりだ。派手な柄のジャケットは冷や汗でぐっしょり濡れ、全身は篩にかけられたように震えている。夢にも思わなかった。宇佐美家の当主の秀夫に取り入ろうと、四十万円ほどの端金を受け取って酒を飲み、そのまま眠りについたはずが、目を覚ますより早く、黒スーツの男たちにベッドから引きずり出され、この場所へ連れて来られるなど。「お、おい……何かの間違いじゃないのか」翔は生唾を飲み込み、必死に虚勢を張った。「俺は宇佐美の人間だぞ。紘さんは俺のいとこだ!俺に手を出したら、宇佐美家が黙っちゃいないぞ!」「宇佐美家、か」暗闇の奥から、低く押し殺した失笑が漏れた。反響するその声には、感情の欠片すら滲んでいない。やがて、暁が影の中から姿を現した。彼は清潔な白シャツに着替えていた。袖を肘まで捲り上げ、しなやかな前腕を覗かせている。その手には白い革手袋。彼はそれを、一本一本指を整えるように、ゆっくり丁寧にはめていた。その優雅すぎる所作は、鉄錆と黴臭さに満ちたこの空間にあまりにも不釣り合いで――だからこそ、息苦しいほどの威圧感を放っていた。「あ、あんた……加賀見の……」翔は目を見開き、経済ニュースで何度も見たその顔に気づく。先ほどまでの尊大な態度は、一瞬で萎びた。「加賀見……暁……?俺たちは互いに干渉しない関係のはずだろ。俺を捕まえて、何をするつもりだ……」暁は答えなかった。彼は翔の前まで歩み寄ると、昂一からビニール袋に包まれた石の破片を受け取り、鉄のテーブルへ無造作に放り投げた。ガラン――鈍い音が倉庫内に響く。赤いペンキの付着した欠片は、テーブルの上で二、三度回転し、鋭く尖った断面が、ちょうど翔の顔を指す位置で止まった。「これに見覚えはあるか」暁は椅子を引き寄せて腰を下ろ
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第295話

「誰の指図だ。よく考えて答えろ。私の忍耐は、もう尽きた」温度を失った暁の瞳を見た瞬間、翔は悟った。この男は脅しているのではない。本気で、自分を消すつもりなのだと。加賀見家の若き当主が名雲で振るう手腕は、表も裏も容赦がないことで知られている。自分のような傍系の端くれを闇に葬ることなど、彼にとっては息をするほど容易いことなのだろう。「け……刑務所から伝言があったんだ!」翔はついに心が折れ、絶叫した。「紘さんだ!じい様に人づてで伝えてきたんだよ!紘さんが中で酷い目に遭ってるのは、全部あの女――深水心愛のせいだって!深水家は運が強すぎるから、あの婆の墓をぶち壊して、あいつにも地獄を見せてやれって……!」暁が椅子を踏みつける足に、わずかに力を込めた。革靴の底が鉄パイプを擦り、不快な軋み音が倉庫内に響く。「紘……そして、秀夫か……」その二つの名を、暁はゆっくりと噛み締めるように呟いた。「それで?」「そ、それで、じい様が俺を呼び出して……!」翔は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら喚き散らす。「墓を壊して、赤いペンキをぶちまければ、深水家の運は落ちるって!心愛は一生悪夢にうなされることになるって!俺はただ、言われた通りにやっただけなんだ、加賀見さん!本当に、深い意味なんてなかったんだよ!」――なるほど。これが、奴らの言う「名家の底力」というわけか。正面からの商戦では勝てず、株価が暴落すれば陰湿な嫌がらせに走り、ついには他人の墓を暴き、迷信にすがるところまで堕ちた。すべてを失った女をさらに苦しめるため。そして、刑務所の中で燻る孫の鬱憤を晴らすため。宇佐美家のあの老いぼれは、名家として最後に残されていた矜持すら投げ捨てたのだ。暁は静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。湿った空気に混じるカビの臭気が吐き気を催させる。だが胸の奥では、それ以上に激しい炎が燃え盛っていた。彼はゆっくりと足を退け、手袋を外すと、忌々しげにゴミ箱へ放り捨てた。「昂一、こいつを立たせろ」そう言って、暁は外へ向かって歩き出す。その背中は松のように真っ直ぐだったが、千鈞の重圧を纏ったかのような凄絶な威圧感を放っていた。「どこへ連れて行くんです?」昂一は泥のように腰を抜かした翔を、死んだ犬でも扱うように引き
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第296話

「若造のくせに、少しは骨があるようだな」秀夫は冷ややかに鼻で笑うと、杖をついてゆっくりと立ち上がった。「行くぞ。わしの縄張りで、いったいどれほどの無礼を働くつもりか、この目で拝ませてもらおうじゃないか」宇佐美家の門前。数台の黒いクロスカントリー車がハイビームを焚き、雪のように白い光の柱が、宇佐美家の扁額――「至誠一貫」と金文字で刻まれたそれを容赦なく照らし出していた。鉄門はすでに破壊され、無惨に歪んだまま片側へ傾き、辛うじてぶら下がっている。暁は、その光の中心に立っていた。雨が髪を濡らし、数筋の黒髪が額に張り付いている。普段の穏やかな気配は微塵もなく、その全身からは、凍てつくような殺気だけが静かに滲み出ていた。その足元では、すっかり腰を抜かした翔が地面に膝をついている。秀夫が護衛たちを引き連れて姿を現した瞬間、その皺だらけの顔がみるみる青ざめた。「これはどういう了見だ!」秀夫は杖を強く突き、腹の底から怒鳴り声を響かせた。「真夜中に他人の屋敷へ押し入り、うちの者にまで手を出すとは……宇佐美家を侮るのも大概にしろ!」「秀夫さん」暁は詰め寄る護衛たちを一瞥すらせず、ただ階段上の老人を冷たく見据えた。そして、つま先で地面に転がっていた石片を蹴り上げる。まだ赤いペンキの残る墓石の破片は、濡れた地面を転がり、ゴロゴロと鈍い音を立てながら、秀夫の雪駄のすぐそばで止まった。こびりついた赤色が、車のライトに照らされ、不気味に光る。「侮ってなどいませんよ」暁の声は雨音を貫き、その場にいる全員の耳へ鮮明に届いた。「ただ、『返礼』に来ただけです。ついでに申し上げておきましょう。閻魔も受け取りを嫌がるような質の悪い借りは、この私が代わりに回収して差し上げる、と。ここまでご高齢になってなお、他人の墓を暴き、先祖を辱める趣味をお持ちだというのなら――」暁は手を上げ、秀夫の背後にそびえる灯り煌めく本邸を指し示した。「今日からは、宇佐美家も腕利きの占い師を雇っておくことですね。この土地の『運』も、そろそろ尽きそうですから」宇佐美本家・大広間。天井高は五メートルを超え、沈香木の棚には陶磁器や古い茶道具が隙間なく並べられている。中央に据えられた青磁の香炉からは、白檀の煙がゆらゆらと立ち上っていた。
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第297話

秀夫は冷笑を浮かべると、開き直ったように椅子へ深く腰を沈めた。手の中の数珠は再びゆっくりと回り始めたが、その指先の動きだけが異様なほど速い。「わしのやり方に不満があると?あの冷たい檻の中にいる孫を思えば、この老い先短い命など惜しくもない。手段など、知ったことか」秀夫は暁を睨み据えた。その濁った瞳には、毒々しい愉悦がぬめりのように浮かんでいる。「深水心愛……あの女が策を弄し、紘をあの中へ送り込み、宇佐美家の根を腐らせたのだ!殺してやるものか。生かしたまま悪夢へ突き落とし、犬以下の暮らしをさせてやる。あの墓を壊させたのもわしだ。赤いペンキを撒かせたのもわしだ。それがどうした?たかが死人の石ころ一つのために、この老いぼれを刑務所へ送れるとでも思っているのか」秀夫は狂ったように笑い声を上げ、顔中の皺を痙攣させた。「加賀見の小僧、やれるものならわしを殺してみろ。わしが生きている限り、深水心愛を狙い続けてやる。今日は墓石だが、明日は深水家の先祖の墓そのものを暴かせてやるわ!いつまであの女を守り切れるか、見ものだな」その狂気じみた悪意に、居合わせた若い者たちは思わず身震いした。床に伏した翔は、さらに激しく震えていた。この家で二十年以上生きてきたが、当主がここまで醜悪な本性を剥き出しにする姿など、一度として見たことがなかった。暁は秀夫を静かに見つめていた。だが、その瞳の底からは、最後に残っていた温度さえ完全に消え去っていた。ビジネスで圧力をかけ、株価を暴落させれば、この老いぼれも少しは正気に返るだろうと思っていた。この名雲で、誰が本当に実権を握っているのかを思い知るだろう、と。だが、彼は忘れていた。常軌を逸した憎悪に、理屈など通用しない。秀夫はすでに地獄へ落ちている。今の彼が望んでいるのは、周囲の人間を一人残らず道連れにすることだけだった。「生きている限り、心愛を苦しめ続ける……か」暁はその言葉をゆっくりと反芻し、不意に口角を持ち上げた。それは笑みと呼ぶにはあまりにも冷たかった。見る者の心臓を凍りつかせるような微笑を浮かべたまま、彼は一歩前へ踏み出す。革靴の先が、翔の血に濡れた手のすぐ脇で止まった。翔は本能的に危険を察し、慌てて手を引こうとした。だが次の瞬間、暁は容赦なく足を振り上げ、その手を力任せ
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第298話

彼は血に塗れたその手を秀夫の目の前へ突き出し、この上なく穏やかな口調で――それでいて、身の毛もよだつほど生々しい血の匂いを滲ませながら言った。「法というものは、深水家の墓石を救うことなどできませんでした。同じように、法は目の前にいるあなたの御孫さんも救えません。この名雲で、私――加賀見暁がその気になれば、この者を遺骨の欠片ひとつ残さず消し去ることだってできるのです。さあ、お好きなだけ壊し続けてください」暁はポケットから真っ白なハンカチを取り出し、指先に飛び散った血を一滴、悠然と拭い取った。「もし再び深水家の墓に手を出されるなら、こいつのその両手を、指一本ずつ切り落としてお届けします。ちょうど良い。この寂れたお屋敷も、少しは賑やかになるでしょう。もっとも、宇佐美家が加賀見家を敵視しているのは今に始まった話ではありません。今となっては、紘があんな吐き気のするような真似を平然とできた理由もよく分かります。宇佐美というお家そのものが、根の部分から腐りきっていたのでしょうね」翔は激痛のあまり、意識を失いかけていた。かつては威厳の象徴だった祖父を、絶望に満ちた目で見上げる。そして、生涯を通じて非道を尽くしてきた秀夫は、自分からわずか半メートル先にある血塗れの手を、椅子に座ったまま凝視していた。やがて――彼の手の中にあった数珠が、「カラコロ」と乾いた音を立てて床へ転がり落ちた。「暁……お前、一体何を望んでいる……」秀夫の声は、ついに力を失っていた。暁は血の染みたハンカチを無造作に投げ捨てた。ハンカチはひらひらと舞い、秀夫の足元へ落ちる。「三日です」暁は秀夫を真っ直ぐ見据え、三本の指を立てた。「三日以内に、深水家の墓石を元通りに修復しなさい。最高の石材を使い、一流の石工を呼ぶことです。それから、あの赤いペンキです。あなたの可愛い御孫さんたちに、舌で一滴残らず舐め取らせなさい。それと、南川にある宇佐美家所有の埠頭二つ。明朝までに譲渡書類を整え、加賀見へ持って来なさい。もしできなければ――あるいは、再び深水家に関する妙な噂でも耳にしたならば……」暁は背を向けた。入口の光と影の狭間に立つその背中は、異様なほど巨大に見えた。「その時は、宇佐美家全員分の棺桶をご用意ください。私は、一度口にしたことは必ず実行しますので」
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第299話

その場にいた誰もが、呆然としていた。秀夫は椅子から跳ね起き、杖で床を何度も激しく叩きつけた。皺だらけの顔は、驚愕と怒りで絨毯と同じ土気色に染まっている。「貴様……本当にやりおったな……」「翔!私の翔!」翔の母、宇佐美吉江(うさみ よしえ)が狂ったように駆け寄ってきた。床に膝をつき、息子を抱き起こそうとする。だが、あの無惨に折れ曲がった手を目にした瞬間、触れることすらできず、ただ暁の足を押し退けようと縋りついた。爪が、隙ひとつないスラックスに幾筋もの皺を刻む。「加賀見暁!あんた、人間じゃないわ……悪魔よ!離して、翔を離してちょうだい!」暁は微動だにしなかった。彼の足はなおも翔の手の甲を踏みつけたままだ。あとわずかでも力を込めれば、残る指も同じ末路を辿るだろう。「昂一」暁の声は淡々としていた。足元から響く絶叫など、まるで耳に入っていないかのように。昂一が一歩前へ出る。そして吉江の肩を片手で掴むと、そのまま容易く引き剥がし、後方へ放り投げた。吉江は数歩よろめき、結い上げていた髪を乱したまま、無惨な姿で床に崩れ落ちる。その傍らで跪いていた慶次も、ようやく我に返った。息子の潰れた手を見た瞬間、その瞳に宿った憎悪は、暁の温度を失った視線とぶつかった途端、極限の恐怖へと霧散する。――こいつは、正気じゃない。慶次は膝をついたまま這い寄り、今度は秀夫へ向かって何度も額を床へ叩きつけた。鈍い音が広間に響き、一瞬で額には青紫の痣が浮かび上がる。「親父!翔を助けてくれ!傍系とはいえ、あんたの孫じゃないか!暁は本当にあの子を殺しかねない!頼む、あいつに慈悲を乞うてくれ!負けを認める、埠頭も譲る、墓も直す!それでいいだろう、親父!」吉江も我に返ったように秀夫の足元へ這い寄り、老人の脚に縋りついて声を枯らしながら泣き叫ぶ。「お義父様!翔を見捨てないでください!紘さんだけが孫じゃないでしょう!?うちの翔だって、家族なんです!墓を壊せと命じたのはお義父様なのに、その罪を翔一人に背負わせるなんて、あまりにも酷すぎます!」秀夫は泣き喚く夫婦を見下ろし、それから床で痙攣する翔を一瞥した。その目には、露骨な嫌悪が浮かんでいた。彼にとって、この次男一家は、普段は本家に寄生して甘い汁を吸うだけの存在でしかない。
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第300話

吉江は床を這うようにして立ち上がり、秀夫を指差した。その指先は小刻みに震えている。「『この子の卑しい命に、それほどの価値はない』……ですって……?」それまで部屋の隅で沈黙を守っていた慶次の兄――現在、宇佐美家の実務を取り仕切っている宇佐美慶太(うさみ けいた)が、苦々しげに眉をひそめた。彼は制御不能になりつつあるこの場を見渡し、今にも二本目の指を叩き折りかねない暁の佇まいを見て、頭の中で瞬時に損得を弾き始める。南川の埠頭は、宇佐美家にとって金の成る木だ。到底、手放せるものではない。だが、ここで拒めば、暁が今夜このまま引き下がる気など毛頭ないことも明白だった。それに――今しがたの父の言葉は、家の利益を守るためだったとはいえ、傍系たちの心を完全に凍りつかせてしまっている。「親父」ついに慶太が前へ進み出た。乱れひとつないスラックスを軽く整え、場を収めようとするように口を開く。「言い過ぎです。翔だって、我々が成長を見守ってきた身内でしょう。卑しい命だなんて……加賀見さん、ここは一度話し合いましょう。現に手も下した。少しは気も済んだはずだ……」「兄貴、善人面はやめろ!」突如、慶次が床から跳ね起き、血走った目で慶太の言葉を遮った。「話し合うだと!?どうやってだ!折られたのが兄貴の息子の手じゃないから、そんな他人事みたいな口が利けるんだろうが!俺の息子は、この場で犬みたいに踏み殺されなきゃならねえのか!?その上、『自業自得』とまで吐き捨てられて!」「慶次、気でも狂ったか!兄に向かって何という口の利き方だ!」秀夫が怒鳴りつける。「ああ、狂ったさ!」慶次は秀夫を指差し、唾を飛ばしながら怒声を張り上げた。その全身は、極限まで煮えた怒りで激しく震えている。「親父は昔から露骨に贔屓してきた!それでも、当主だからって俺は耐えてきたんだ!だが今は何だ!?紘がやったのは強姦殺人だぞ!あいつが勝手に自滅しただけじゃねえか!なんで俺たち一家まで、あいつと心中しなきゃならねえんだ!」慶次は肩で荒く息をしながら、さらに怒鳴った。「深水家の墓を壊したのだって、紘の鬱憤晴らしのためだろう!?そのせいで相手が乗り込んできて、指を詰めろと言われたら、今度は俺の息子を身代わりに差し出すのか!?」慶次は勢いよく向きを変え、そのまま暁
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