身代わり妻が去った日、夫は悔みの涙を知った のすべてのチャプター: チャプター 361 - チャプター 370

370 チャプター

第361話

誰もが自分に、聞き分けの良さと忍耐を強いた。ただ、暁だけが違った。暁だけが、何一つ見返りを求めることなく、助けの手を差し伸べ続けてくれたのだ。もし正国が真に激怒すれば、暁は加賀見グループの継承権を失うかもしれない。家を追われ、すべてを失うかもしれない。これほどの大災難を、どうして彼一人に背負わせることができようか。心愛は唇を噛み切った。口の中に血の味が広がる。彼女は意を決し、暁の背後から一歩踏み出した。「心愛」暁は彼女の動きに気づき、片手で彼女を後ろへ押し戻そうとした。しかし、心愛はその手をかわした。彼女は向き直り、正国と静香の目前で、暁の大きな掌を両手でしっかりと掴んだ。指先から心へと繋がるように、必死に固く握りしめる。暁は呆然とした。彼は視線を落とし、いつも猫のように自分を避け、自分を怖がっていた彼女を見つめた。「放せ」暁は声を低めて諭し、手を引き抜こうとする。心愛は放すどころか、さらに力を込めて握りしめた。彼女は正国の鋭い視線を正面から受け止め、顎を上げ、鼻声混じりの声ながらも一切の退縮を見せなかった。「お父さん、お母さん。お兄ちゃんを責めないでください。無理やりされたんじゃないんです。私が、お兄ちゃんを好きになったんです」静香は息を飲み、目を見開いて娘を見つめた。「心愛、あなた、何を馬鹿なことを言っているの?」「馬鹿なことなんかじゃありません」心愛は目を真っ赤に腫らしながら、声を張り上げた。「お兄ちゃんが私を桐生家という生き地獄から救い出してくれた時から。あの路地裏でおでんを食べさせてくれた時から。私のために宇佐美家を叩き潰し、あのろくでなしの指を折ってくれた時から、私の心は動いていたんです。お兄ちゃんは、私のために命さえ投げ出す覚悟でいてくれた。夜中に痛みに耐えきれず点滴を受けていた時でさえ、私には何ひとつ言わず隠していた。自分の持てるすべてを、私のために使ってくれた。そんな人を、どうして愛さずにいられるんですか」心愛は暁の手を必死に握ったまま、大粒の涙をこぼした。「叩くなら、罰するなら、私をそうしてください。いざとなったら、私は加賀見の家を出ます。お嬢様の座なんて、もういりません」暁の瞳の奥で、猛烈な嵐が吹き荒れた。彼は心愛を力任せに自分の胸へと引き寄せ、
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第362話

「……もう、いい」加賀見正国は、静かに片手を上げた。「二人して、親の前で今生の別れみたいな真似をするな。家を出るだの、株式を手放すだの……よくもまあ、そんな簡単に口にできたものだ。何だ、加賀見グループはその辺の八百屋か。不要になったら放り出せるような代物ではない」心愛は呆然と目を見開いた。暁もまた、父の真意を測りかねたのか、わずかに目を細める。正国は椅子の背にもたれ、暁の肩越しに、涙の跡を残した心愛の顔へ穏やかな視線を向けた。「心愛。こっちへ来なさい」心愛は頭の中が真っ白なまま、一度だけ暁を見上げた。彼が止める気配を見せないのを確認してから、おそるおそる足を進め、デスクの前へ立つ。正国は、数え切れない苦難を耐え抜いてきた娘を見つめ、深い慈愛をその瞳に宿した。「お前をこうして家へ連れ戻すまで、決して平坦な道ではなかった。お前はこれまで、あまりにも多くの理不尽を受け、苦労を重ねてきた。俺たちがしてやれなかったことを思えば、一生かけても償いきれん」彼はゆっくりと言葉を続ける。「だからこそ、俺たちは最初から、お前を再び外の家へ嫁がせるつもりなどなかったんだ」正国は窓の外を指差した。「外にいる名門の息子どもが、どんな連中か……今日、お前も嫌というほど思い知っただろう。いざとなれば後ろから平気で刃を突き立てる。あるいは女を盾にして、自分だけ助かろうとする。あれらが第二、第三の桐生や梅原にならないと、誰が断言できる」そして視線を暁へ向ける。「暁は、俺たちがこの目で見て育ててきた男だ。どんな気性をしているか、誰よりも分かっている。手段は苛烈で、情も薄い。だが、お前のこととなれば、命を懸けてでも守り抜く」正国は静かに断言した。「娘を託すなら、あいつ以上に安心できる男はいない」その言葉が落ちた瞬間、心愛の中で極限まで張り詰めていた一本の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。嵐のように責め立てられ、家から追い出され、すべてを否定される。そう覚悟していた。だからこそ、父が自分たちを認めてくれるなど、夢にも思わなかった。心愛の瞳から、再び涙が溢れ落ちる。静香が歩み寄り、床へ垂れたミルクを避けながら、娘を強く抱き締めた。「馬鹿な子……何をそんなに泣いているの」静香は心愛の髪を撫でながら、自らも涙を
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第363話

心愛はデスクの端にもたれかかっていたが、膝から力が抜け、そのまま厚手の羊毛絨毯の上へ、ずるずると崩れ落ちていった。たとえ血の繋がりがなかったとしても、名門の社交界において、この種の騒動は一瞬で人の名声を地に叩き落とすには十分すぎた。暁は加賀見の看板であり、誰もが認める正統な後継者だ。もし自分のせいで、「妹に手を出した男」などという汚名を背負わされることになれば――彼がこれまで積み上げてきた威信も実績も、そのすべてが一夜にして灰になるかもしれない。「立ちなさい。床は冷えるわ」頭上から降ってきた静香の声には、もはや怒りはなかった。代わりに、呆れと諦めが滲んでいた。心愛がこわばった首を上げると、静香が腰をかがめ、ひっくり返ったトレイを拾い上げているところだった。絨毯に広がったミルクの染みは大きく、目に刺さるほど白い。静香は心愛のそばまで歩み寄ると、その腕を掴んで立たせようとした。だが心愛は恐怖で身体が硬直し、喉の奥に濡れた綿でも詰め込まれたように息が苦しかった。しばらくして、ようやく蚊の鳴くような声で謝罪を絞り出す。「お母さん……ごめんなさい、私……」「もういいわ。下へ降りましょう」静香はその言葉を遮り、彼女を床から引き起こすと、ポケットティッシュを一枚押しつけた。「そんな子猫みたいな泣き顔して。あとでお父さんが見たら、私が娘を虐めたと勘違いされてしまうじゃない」リビングでは、暖炉の薪がパチパチと小気味よい音を立てて燃えていた。心愛は本革のソファの端に腰掛け、背筋をぴんと伸ばしたまま、両手を強く絡めていた。爪が肉に食い込んでいるのに、その痛みすら感じない。彼女は耳を澄まし、茶室のわずかな物音さえ聞き取ろうとしていたが、この屋敷の防音性はあまりにも高く、聞こえてくるのは、ときおり吹き抜ける隙間風の音だけだった。静香がキッチンから淹れたての温かなハチミツ湯を二杯運び、ローテーブルにコトリと置く。「少し飲みなさい。落ち着くから」静香は向かいのソファへ腰を下ろした。その鋭い視線は、まるで心愛が隠している歪な恋心をすべて見透かそうとしているようだった。心愛がカップを持ち上げると、手はまだ細かく震えていて、縁が歯に当たり、カタカタと小さな音を立てる。「心愛、お母さんに本当のことを話して」静香はため息をつき
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第364話

静香は心愛の手を取り、その甲を優しく叩いた。「今夜、私があれほど怒ったのは、あの子があなたに無理を強いているんじゃないかって、それだけが心配だったからよ。心愛、お母さんは伊達に歳を重ねてきたわけじゃないの。人を見る目には、それなりの自信があるわ。あの子があなたを見る目は、ビジネス相手や部下に向けるものとはまるで違う。あの視線の奥にある感情は……正直、怖いくらい重たいものよ」そう言って、静香はふっと肩の力を抜いた。「でも、これで良かったのかもしれないわね」その表情には、どこか吹っ切れたような穏やかな笑みが浮かんでいた。「これからは堂々と加賀見の家にいればいいのよ。外野のくだらない噂なんて、私たち夫婦が全部撥ね返してあげる。それに、暁の容赦のなさはあなたもよく知っているでしょう?誰かが陰で熱病みたいに噂を流そうものなら、あの子、本当にその人間を名雲市にいられなくしてしまうわ」その言葉を聞いてもなお、心愛の胸のざわめきは収まらなかった。むしろ、暁が自分のために払おうとしている代償の大きさを思い知るほど、胸は重く沈んでいく。同じ頃――一階の茶室。正国は椅子に腰掛け、手の中の文鎮を静かに弄んでいた。使うわけでもなく、ただ無機質な表面を指先でなぞっている。暁はデスクの前に真っ直ぐ立っていた。背後の本棚に落ちる影は鋭く長く、室内に圧迫感を漂わせている。「梅原家は、どう始末するつもりだ」正国が不意に口を開いた。縁談の話には触れず、いきなり本題を切り込んできた。暁は眉一つ動かさない。「康永メディカルが三年前、西宮区で行った認可手続きについては、すでに実名入りの告発状を監査班へ提出済みです。梅原が善人面を続けたいなら、その代償が一族の未来そのものになると理解させます。葵に関しては、保釈そのものは合法ですが、書類に署名した二人の医師には、自主的に証言を撤回させる段取りを終えています」正国はそこで手を止め、ゆっくりと顔を上げた。誇りとして育ててきた養子を、改めて見極めるように見つめる。「完全に退路を断つつもりか」低く沈んだ声だった。「梅原家は加賀見には及ばんとはいえ、医療界には深く根を張っているぞ」暁の口元に、冷え切った弧が浮かぶ。瞳には獣じみた光が宿っていた。「心愛の祖母の仇で
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第365話

「受け取りなさい。暁の、あの苦虫を噛み潰したような顔を真似するんじゃないよ」正国はそう言い放つと、傍らの静香へ視線を向けた。「腹が減ったな。使用人にうどんでも作らせてくれ。この大馬鹿二人のせいで、一晩中振り回されて胃が痛くてかなわん」静香はすぐにその意図を察し、微笑みながら正国の腕を取った。「ええ、私もちょうどお腹が空いていたの。あとは若い子たち同士、好きに揉めさせておけばいいわ」両親の姿が仕切り壁の向こうへ消えていくのを見届けてから、心愛はようやく深く息を吐き出した。何かを言おうとした、その瞬間だった。暁が大股で駆け寄り、そのまま彼女の後頭部をがっしりと抱き寄せる。次の瞬間には、身体ごと胸の中へ閉じ込められていた。「怯えすぎて、頭まで真っ白になったか」暁は彼女の耳元へ唇を寄せ、低く笑った。胸板を震わせるその声が、心愛の奥深くをじりじりと痺れさせる。心愛は彼のシャツを掴み、涙を浮かべた瞳で見上げた。「お父さん……お兄ちゃんに無理なこと、言わなかった?株式のこととか……」暁は、心愛から見えない位置に控えていた執事へ、手だけで「下がれ」と合図を送る。それからわざと彼女の顔へ近づき、悪戯っぽく片目を細めた。「親父の話では、三ヶ月以内に孫の顔を見せられなければ、私の持つ株式を全部あなた名義に書き換えるそうだ。これからは社長として、色々ご面倒をおかけします」心愛は一瞬ぽかんとした。だが、すぐに冗談だと理解した途端、顔が首筋まで一気に真っ赤に染まる。彼女は勢いよく手を伸ばし、彼の胸を力いっぱい叩いた。「な、なに破廉恥なこと言ってるの!誰があなたとそんな……!」暁はその暴れる手を片手で簡単に捕まえ、そのまま自分の掌の中へ閉じ込める。暖炉に残る火の明かりの中、二人は見つめ合った。静かに、優しく笑い合う。一晩中屋敷を覆っていた陰鬱な空気は、その瞬間、ようやく完全に霧散していった。窓の外では冷たい風が荒れ狂っている。けれど、この加賀見本家の中だけは、長いあいだ忘れ去られていた温もりに満ちていた。……その頃、桐生グループ最上階のオフィス。全面ガラス張りの窓の向こうでは、ネオンの光が絶え間なく明滅し、冷え切ったガラスへ無機質に反射していた。貴臣は一人、大型のオフィスチェアに腰掛けてい
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第366話

桐生グループ最上階、社長オフィス。貴臣は、葵が保釈されていく監視カメラの映像を、無言のまま凝視していた。画面の中の女は、肌こそわずかに土気色を帯びていたものの、骨の髄から滲み出るようなあの傲慢さだけは、映像越しですら見る者の神経を逆撫でする。髪をかき上げ、黒塗りのビジネスカーへ乗り込んでいくその横顔を目にした瞬間、貴臣の胃の底から激しい吐き気が込み上げた。反吐が出るほど、不快だった。かつての自分は、この顔こそが救いであり、あの火災の夜の記憶に残された、唯一の心の拠り所なのだと信じ込んでいた。だが今となっては、自分の頭がどうかしていたとしか思えない。「まさか、梅原家の私生児だったとはな……」貴臣は低く呟いた。声はひどく掠れている。手にしていた煙草を、灰で埋め尽くされたクリスタルの灰皿へ乱暴に押し付ける。吸い殻は無惨に潰れ、最後の火花がわずかに抗った後、闇の中へ静かに消えていった。ほんの三十分前、隆から極秘の調査報告書を受け取ったばかりだった。清廉潔白を装っていた医療名門・梅原家が、その裏でこれほど隠し事を抱え込んでいたとは。葵は、梅原家先代の次女の娘だったが、長年にわたって一族として認められてこなかった。普段なら他人に興味すら示さない瑞人が、一族の経歴に泥を塗る危険を冒してまで、診断書を偽造し、保釈に奔走した理由も、これで説明がつく。貴臣はネクタイを乱暴に緩めた。だが、喉を締め付けるような息苦しさは一向に消えない。脳裏に浮かぶのは、葵が以前、自分の前で涙を流しながら「孤独だ」「寄り添ってくれる人がいない」と訴えていた姿だった。弱々しく、自分一人では何もできない女を演じていた、あの欺瞞に満ちた表情。あの演技力なら、いっそ映画賞でも狙えば良かったのだ。自分はまるで道化師だった。嘘に塗れた毒蛇のために、自らの手で婚姻関係を壊し、かつて自分だけを見つめてくれていた心愛を、自分の手で深淵へ突き落としたのだから。コンコン。オフィスのドアが二度、静かに叩かれた。貴臣は微動だにせず、冷え切った声で告げる。「入れ」隆がドアを開け、猛獣を刺激することを恐れるような慎重な足取りで中へ入ってきた。タブレットを抱えたまま近づき、声を潜めて報告する。「社長、葵さんの動きに変化がありまし
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第367話

「梅原家が人を救い出そうというのなら、俺はその穴をさらに深く掘り下げてやる。どれだけ土を注ぎ込もうと、二度と埋め戻せないほどにな」貴臣は立ち上がり、巨大な全面ガラス張りの窓の前へ歩み寄った。窓の外には、繁栄を極める名雲市の夜景が広がっている。ネオンの光が巨大な網のように幾重にも絡み合い、街全体を妖しく照らしていた。彼は眼下を流れる無数の車列を見下ろしていたが、その胸にあるべき権力を握る快感など、もはや欠片も存在しなかった。そこにあるのは、底の見えない虚無感だけだった。「社長……もし梅原家が本気で正面衝突を仕掛けてきた場合、我が社も海外医療シェアの一部を失うリスクがあります」隆がわずかに躊躇いながら進言する。「失う、だと?」貴臣はゆっくりと振り返った。その目には血走った筋がびっしりと浮かび、狂気じみた執着の光が宿っている。その視線に射抜かれ、隆は思わず半歩後ずさった。「葵と梅原――あの愚かな連中に代償を払わせられるなら、桐生グループの半分が吹き飛ぼうと惜しくはない。俺は葵に思い知らせてやりたいんだ。あいつが必死にしがみついている後ろ盾が、どれほど脆いものかをな」そう言いながら、彼はデスクの引き出しから一通の手紙を取り出した。先ほど速達で届いた封筒だった。封を切った瞬間から、吐き気を催すほど濃厚な香水の香りが漂っている。葵が最も好んでいた香りだ。すでに開封された手紙には、たった数行だけ文字が並んでいた。【貴臣、助けて。瑞人が私を支配しようとしているの。私をもう一度名門へ戻せるのは、あなただけ。昔、二人で交わした誓いを、私はまだ忘れていないわ】――誓い、だと?貴臣はその言葉を見つめながら、極限の皮肉しか感じなかった。彼は両手で手紙を挟み込み、一寸ずつ、引き千切っていく。香水臭い紙片は、汚れた雪のように静かに舞い落ち、ゴミ箱の底へ沈んでいった。「名門へ戻る、だと?」貴臣は鼻で笑った。「あいつがこの先の人生で辿り着ける『名門』など、地獄だけだ」彼は向き直り、隆へ命じる。「加賀見側の動きを監視しろ。暁が心愛を守る気なら、必ず梅原家にも牙を剥く。我々は加賀見と手柄争いをする必要はない。ただ、背後から梅原家へ致命傷を叩き込んでやればいい。梅原に教えてやるんだ。この名雲
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第368話

「社長、梅原グループの主要株主たちが、いよいよ痺れを切らして動き始めました」それから間もなくして、隆が刷りたての財務諸表を抱え、足早に部屋へ入ってきた。貴臣は振り返りもしない。まるで氷穴の底から響くような冷え切った声で応じた。「……掴んだか」「はい。康永メディカルが昨年申請した三件の新薬認可ですが、やはり不正ルートが使われていました。梅原は父親の薬事審議会時代の古い人脈を利用し、医療ミスによって患者に重い後遺障害が残った二件の告発を強引に揉み消しています」隆はそこで一度息を継ぎ、さらに続けた。「加えて、一族が経営する私立精神病院ですが、帳簿上は巨額の『慈善寄付』として処理されているものの、実態は梅原グループによる資金洗浄の抜け穴でした」報告書の束がデスクへ置かれ、重い音が室内に響く。貴臣はゆっくりと身体を巡らせた。そして手にしていた煙草を、躊躇なく真っ二つに折る。砕けた煙草は灰皿へ投げ捨てられた。「……上出来だ」低く吐き捨てる。「梅原の奴は、自分が救い出したのが哀れな被害者だとでも思っているんだろう。だが、その女が梅原家の弔鐘になるとは夢にも思わないだろう。聖人君子を気取り、死んだ母親の遺言を果たしたいと言うなら、自分のせいで一族がどう破滅したか、あの世で母親にでも言い訳するんだな」彼はデスクの後ろへ腰を下ろし、両手の指を組んで顎の下へ当てた。「法務部と財務部に通達しろ。これより桐生グループは、梅原家との全共同プロジェクトから撤退する。特に南川の医療機器パーク――あれは梅原の命脈だ。即刻、資金を引き揚げろ。それに伴って、梅原グループへ製品を納入している二次代理店どもにも最後通牒を突きつけろ。梅原と心中するか。それとも今すぐ供給を断ち、我が社と新契約を結ぶか――好きな方を選ばせろ」隆は一瞬、言葉を失った。「社長……このタイミングで資金を引き揚げれば、我が社も立ち上げ資金として六十億の損失を被ります。取締役会が黙ってはいないかと……」「黙らせろ」貴臣は猛然とデスクを叩いた。低い声音。だが、逆らうことを許さぬ圧力が宿っていた。「六十億程度なら、俺が個人資産から補填する。葵一人を庇った代償が、梅原家そのものの未来を叩き潰すことだと、梅原の分不相応な理想主義に骨の髄まで刻み込んでや
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第369話

「西宮の土地の件なら、半時間も前に、俺が実名で告発を済ませてある。葵の命など、最初から興味はない。俺が望むのは――あいつがこの先の人生で、二度と『名門』という言葉を耳にできなくなることだ」昂一は小さく笑みを浮かべた。何も言わぬまま、身を翻し、そのまま軽やかな足取りで去っていく。オフィスには再び、死んだような静寂が戻った。貴臣は右手側の引き出しを開けた。数十億の価値を持つ印章の数々、その奥に――かつて心愛が残していった一枚の古い写真が眠っている。それは、彼女がまだ桐生家へ嫁ぐ前の姿だった。写真の中の少女は、何度も洗濯されて白く色褪せた制服を身にまとい、陽だまりの中で目を三日月のように細めて笑っていた。あの頃の彼女の瞳には、未来への憧れが満ちていた。そして、そのすべてが――桐生貴臣という男へ向けられていたのだ。貴臣は荒れた指先を伸ばし、写真の中の少女の柔らかな頬をそっとなぞった。「……心愛、すまない」その声はあまりにも低く、吐息のように頼りなかった。「こんな謝罪に何の価値もないことくらい、俺にも分かっている。お前の祖母のことも、深水家のことも……そして俊輔の件も。俺は、本当に目が潰れていた。毒蛇を宝物のように抱え込み、お前を泥沼へ踏みつけていたんだからな。あの時の俺は、どうしてあそこまで冷酷になれた……おばあちゃんの前で膝をつき、葵の一言で警備員に門外へ追い出されるお前を見ながら、俺は書斎で平然とコーヒーを飲んでいたんだぞ」記憶が蘇るたび、貴臣は自分の顔を殴りつけたい衝動に駆られた。写真を見つめているだけで、心臓が錆びたナイフで何度も抉られるように痛む。「……これが、お前への最初の償いだ」貴臣は引き出しを閉めた。目を閉じた瞬間、一滴の涙が静かに床へ落ちる。……同じ頃。南郊に位置する高級別荘地、晴海テラス。葵は贅沢なシルクのナイトガウンをまとい、ダイニングの長いテーブルの前へ腰掛けていた。テーブルには豪奢なフレンチのフルコース。傍らにはラトゥール。ようやく自分は生き返ったのだと、彼女は感じていた。先ほど瑞人は激昂していた。だが結局のところ、こうして今も、自分に快適な生活を与えているではないか。葵はスマートフォンへ目を落とした。先ほど、心愛を挑発するために送信した
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第370話

晴海テラス。リビングは薄暗い光に包まれていた。葵は絨毯の上へ力なく座り込んでいる。その周囲には、高価なワインボトルの破片が無数に散乱していた。濃密なアルコールの臭いが空気の中に充満し、鼻を突くたびに頭痛を誘う。彼女は壁に掛けられた百インチの液晶テレビを、死んだ魚のような目で見つめていた。手にしたリモコンは、指の関節が白く浮き出るほど強く握り締められている。テレビ画面の中では、名雲市でもっとも権威ある医療名門――梅原家の先代が、カメラへ向かって深々と頭を下げていた。いつもなら慈愛に満ちているはずの老人の顔は、今や厳粛さと深い罪悪感に染まっている。その背後には、瑞人が黒いスーツ姿で直立していた。うつむいたその姿は、まるで魂を抜き取られたようだった。かつて「天才医師」と呼ばれた男の覇気は、もはや微塵も残っていない。「……葵の保釈および加療に関する件につきまして、我が梅原病院内部における管理不足があり、一個人に欺かれた結果、診断書に重大な虚偽および偏りが発生しておりました。梅原グループとして深く遺憾の意を表するとともに、関連するすべての証明を即時撤回することをここに発表いたします。すでに警察当局とも協議を終えており、司法の正義を支持し、いかなる違法行為も断じて容認いたしません」波ひとつ立たない、冷酷極まりない「尻尾切り」だった。葵はその言葉を聞きながら、喉の奥から乾いた笑い声を漏らした。「……欺かれた?正義を支持するですって?」次の瞬間。彼女は手にしていたリモコンを、猛然とテレビへ投げつけた。凄まじい衝撃音が室内へ響き渡る。「梅原、この腰抜けがッ!お前、自分の母親に誓ったんじゃなかったの!?私を絶対に守り抜くって!あの死に損ないの老いぼれを引っ張り出して、私を売り飛ばすなんて……!」そのまま笑い転げ、涙を零す。梅原家は、加賀見家と桐生家という二大勢力に挟み撃ちにされ、完全に退路を断たれていた。生き残るためには、自分という「尻尾」を切り落とすしかなかったのだ。先ほど彼女は、別荘の周囲に配置されていた警備員たちが、一人残らず撤収していることに気づいていた。その代わりに、敷地入口の陰には二台のパトカーが不気味に潜んでいる。――このままでは殺される。あるいは、あの光も届かない牢獄
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