All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 291 - Chapter 300

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第291話

宏介はくりくりした目で、「ママは一人しかいないよ」と言った。凪はさらにいくつか質問してみたが、収穫はなかった。「頭にゴミがついてるよ。取ってあげる」凪は身を乗り出し、ぐいっと一房の髪を引き抜いた。あまりの痛さに宏介がわあっと泣き出し、先生が駆けつけてきた。「どうしたのですか?」「大丈夫、この子がどうしても一緒に帰りたいって言うんです」凪は適当に言い訳し、宏介にアイスを差し出した。「ほら、泣かないで。一番好きだったでしょ、このアイス」そのフレーバーは海斗の一番の好物だった。凪は寂しげな眼差しを向けて、幼稚園を後にした。1週間があっという間に過ぎたが、誠も湊も、離婚声明については一言も発さなかった。凪は誠を水月郷に呼び出し、綾が送ってきた不倫の証拠を叩きつけた。「ねえ、誠さん。私たちのことはみんな知っているわ。美羽さんももう気づいているんじゃない?」誠の胸に動揺が走ったが、すぐに表情を繕い、馬鹿にしたように笑った。「火遊び程度でいちいち騒がないさ。俺が君と別れさせすれば、美羽は俺を見捨てたりしないよ」もし美羽がすでに知っているなら、彼女は何もせず、妊娠のことを隠しているだけだ。つまり、美羽はまだ迷っているのだ。やり直せる可能性はまだ十分残されている。「本当にそこまで自信があるの?じゃあ今ここで、二人の写真を美羽さんに送ろうかしら?綾がこの証拠を湊に見せたら、海斗の身元がバレるかもしれないって考えないの?」凪は必死に笑みを浮かべた。結局、自分だけが何もかもを失ってしまうのか。誠は凪の苦しみを悟り、もうこれ以上騙しておくわけにもいかず、真実を口にした。「凪、美羽は妊娠したんだ。俺は、もう離婚なんてできない。「金は用意する。余生には困らないようにするから、海斗を連れて海外へ行ってくれ」凪は雷に打たれたように立ち尽くした。誠は子供ができにくい体質だったから、避妊をしたがることはなかった。だからと言って、美羽だって30を過ぎているのに、どうして今さら妊娠できるのか?「本当にその子はあなたの子なの?」「ああ、間違いなく俺の跡取りだよ」誠は動じず、凪を静かに見つめた。結局、凪に申し訳ないことをしたという認識はあるのだ。それはつまり、海斗は正式な子供として認められないとい
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第292話

その日の夜、一つのニュースがネット上で爆発的に広まった。【中野グループ会長夫人は愛人の子であり、実の母親は杉本グループの杉本宗介さんに薬を盛っていた……】ニュースには、美羽の母親が意図的に宗介を誘惑した詳細な過程と、中野家が美羽の素性を隠蔽していた事実が記されていた。このニュースは、社交界に激震を走らせるほどの衝撃を与えた。宗介といえば、誰からも慕われる極めて人格高潔な人物だ。そして美羽もまた、普段から社交界のパーティーでは、貴婦人然とした態度を崩さない人物だった。誰もが美羽を杉本家の身内であり、誠の妻として尊敬していた。世間は一瞬にして、裏切られたという怒りで満ちた。SNSでは、罵詈雑言が飛び交った。綾がそれを知った時、仕事中だった。彼女はすぐに作業の手を止め、美羽の元へ急いだ。部屋に辿り着く手前で、誠の激しい怒号が聞こえてきた。「杉本家とグルになって俺を騙していたのか!俺が一番許せないのは、愛人の子なんだよ!湊も同じ愛人の子だ!あいつの母親が俺の両親を殺したんだぞ!」それを聞き、綾は足を止めた。和子や湊からそんな話は一度も聞いたことがなかった。誠が湊とあそこまで激しくやり合っていた時でさえ、その事実は公にされていなかったからだ。ある考えが頭をよぎる。あのアンナが湊の母親だったのか?詳しく考える間もなく、誰かをひっぱたいたような乾いた音が響いた。綾が慌てて室内へ駆け込むと、美羽が顔を押さえ、憎々しげに誠を睨みつけていた。「何を今さらきれいごとを。あなたと二宮さんがやってきたことだって、同じくらい卑劣じゃない!私が証拠を全部公開すれば、あなたなんてすぐに社会的に抹殺よ!」誠が再び手を振り上げた時、綾はすかさず美羽の前に飛び出した。「誠さん!やめてください!これ、凪の仕業です。凪は二人を争わせたいだけなんです!」誠は悔しそうに手を下ろした。当初、杉本家が美羽を自分に嫁がせた時、事情は明確だった。美羽は幼くして両親を亡くし、親戚として育てられた子供だという話だった。自分が人々に美羽を紹介する時も、そう説明してきたのだ。これでは、自分さえ社交界中の笑い物になるのだ。しかも、美羽の母親がとった手段はあまりに卑劣で、不倫の何倍もタチが悪い。美羽は冷ややかな目で誠
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第293話

何度も電話をかけてみたけれど、ずっと圏外だった。綾は仕方なくマルスに連絡することにした。I国に着けば、エステ家の保護がある。誰も美羽には手出しできないはずだ。今となっては、健吾を頼る以外に方法はない。マルスの電話はすぐにつながった。「綾さん、何かありましたか?」綾は焦った様子で言った。「健吾に連絡したいです。電話がつながらなくて」「健吾様はI国へ戻られました。おそらく多忙かと存じます」「それじゃあ、あなたは今、東都にいますか?」綾が問い詰めた。「はい。何か急用でしょうか?」マルスは綾の声のトーンから異常を察した。健吾が自分を東都に残したのは、会社の問題を処理するためだけでなく、綾の周囲に不穏な空気が漂っているからだ。何かあれば守るようにと言われていた。美羽の同意を得て、綾は手短に現在の窮状を説明した。マルスは二つ返事で承諾した。「そのまま待っていてください。すぐ車で迎えに行きます」電話を切ると、マルスはすぐにプライベートジェットの準備に取りかかった。綾は美羽の身分証やパスポートをカバンに詰め込み、厚手の服を一着だけ持った。ほかの物は向こうに着いてから買い揃えればいい。「綾ちゃん、杉本家は私の命なんて何とも思ってないわ」美羽は顔色を真っ青にし、瞳には恐怖が浮かんでいた。これほど恐ろしかったことはない。まるで自分を捕らえるための網がすぐそこにまで迫っているかのようだった。綾は美羽をなだめた。「大丈夫、I国に着けば安全ですよ。健吾はあっちで強い力を持ってますから」すぐにマルスが到着した。二人は使用人の目を盗んで車に乗り込んだ。「プライベートジェットの手配は完了しましたので、これからすぐに美羽さんを空港までお送りします。現地では我々の仲間が出迎えて、健吾様のところへ合流いたします」「本当にありがとう、マルスさん」綾は心から感謝した。健吾には頼り切りたくないと思っていたのに、結局また借りができてしまった。「健吾様が婚約の件でI国に戻られていなければ、こちらでご本人も動いていたはずですが」マルスはわざと健吾の婚約の話を口にした。「婚約!?」綾と美羽の声が重なり、驚きの声を上げた。「ビアンカさんは奥さんじゃないのですか?」二人は再び顔を見合わせた。「誤解です。ビアンカ様は、
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第294話

「きゃあ!」急ブレーキで車が停まった。美羽は悲鳴を上げた。綾はショックで体が震える中、美羽の様子を確認した。「美羽さん、どこかぶつけましたか?」「大丈夫」美羽は首を振り、怯えた様子で車の外を見た。車の前には威厳のある白髪の老人が立っていた。宗介だろう。「待ってください、外を見てきます」マルスは車を降り、ドアをロックした。「何のつもりですか?」「それはこちらの台詞だ。娘をどこへ連れて行く気だ?」宗介は杖をつき、余裕の笑みでマルスを睨みつけた。マルスは一歩も引かない。「娘さんだとしても、本人の意思を無視していい理由にはなりません」宗介は鼻で笑うと、マルスを無視して車の窓をノックした。「美羽、余計な騒ぎを起こしたくなければ大人しく戻れ」余計な騒ぎ?美羽は綾を見た。宗介の言葉の意味をすぐに悟った。しかし、綾は憤った。「そんな脅しに屈しないでください、美羽さん!」颯太や樹はまだ穏やかだったが、この宗介だけは全く話が通じない。綾は宗介のやり方を知らなかったが、美羽は違った。杉本家の体面を守るためなら、宗介はどんな非情な手段も辞さないのだ。「綾ちゃん……もう逃げられないわ」このまま車の中にいても二人を巻き込むだけだと悟っていた。「そんな……」綾は美羽の手を掴み、力なく首を振った。「いいの、私のお父さんだもの」美羽は綾の手を優しく撫でると、ドアを開けた。綾も急いで車を降り、美羽の前に立ちはだかった。「美羽さんは渡しません。どこにも行かせないし、行くなら私も一緒です!」綾は目を据え、宗介の圧力にも屈せずに言い返した。さっき、密かに颯太に連絡は済ませてある。どうにかして、颯太が来るまでの時間を稼がなければならない。樹なら勝算もあっただろうが、なぜか彼は圏外だった。宗介は目を細め、綾を値踏みするように見た。「君は彩花の娘さんかね?」綾は眉をひそめた。「母を知っているのですか?」「君のおじいさんとは古い友人だ。本来なら君を孫娘として可愛がりたかったがな……まあ、今は関係ない話だ」綾を前にした時の宗介の口調は、幾分か柔らかかった。綾の話は樹と颯太からもよく聞いていて、彩花によく似ていると思った。才能があり、性格はひどく強情なところが。
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第295話

「綾さん、樹はもう海外に出張に行かせたよ。颯太も今頃は父親と一緒にいる。こんなところで足止めをしたところで、何も変わらないよ」綾はその言葉で、絶望の淵に突き落とされた。空港まであとたった1キロだった。たったそれだけの距離で、美羽は遠くへ行けるはずだったのに。宗介は痺れを切らしたのか、冷たく言い放った。「これ以上邪魔をするなら、君の研究者としての経歴を抹消してやる」「どうぞお好きに。美羽さんを見捨ててまで手に入れる地位なんて、何の価値もありません」綾は一歩前に出て、美羽を守るようにどっしりと立ちふさがった。「綾ちゃん……」美羽は嗚咽を漏らした。人生で初めて、誰かが自分を守ろうと必死になってくれているのだ。その瞬間、かつて自分を守ろうと執着していた見栄や世間体が、何の意味もないものだと悟った。宗介は複雑な表情を浮かべた。颯太が綾に入れ込む理由も、少し分かった気がした。「連れて行け」昔の縁や才能への惜しさもあり、宗介は綾を傷つけたくはなかった。数人の屈強な男たちが集まり、マルスと揉み合いになり、別の男たちが綾を取り押さえた。宗介は淡々と命じた。「綾さんを、安全に家へ送り届けろ」綾は強引に車の後部座席に押し込まれ、ドアがロックされた。運転席へ這い上がろうとしたが、入れ替わりに二人の男が乗り込み、両サイドから綾を封じ込めた。「美羽さん!」綾は腕を押さえつけられ、一歩も動けない。車は発進し、美羽からどんどん離れていく。「放して!」綾は男たちに向かって叫び、震える指で颯太に電話をかけた。呼び出し音だけが虚しく響く。颯太は監視役の隙を見てスマホを手に取ると、すぐに出た。「なんでまだ来ないの?」電話越しに、綾の泣き声混じりの問い詰めが聞こえた。「すまない……」颯太は悔しさで唇を噛んだ。母親の杉本真由美(すぎもと まゆみ)に騙されて家に誘い込まれ、そのまま部屋に閉じ込められていたのだ。「美羽さんが、あなたのおじいさんに連れて行かれたの。お願い、なんとかして美羽さんを見つけて!」綾の必死な懇願を聞きながら、最悪の事態を予感した。「分かった。必ず見つけ出す」颯太は繰り返しそう約束し、電話を切ると力任せにドアを蹴った。真由美は電話を一本入れたあと、そっと部屋の鍵を開けた
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第296話

「なんだ?」電話に出た誠の、冷え切った声が響いた。「美羽さんは?」湊が恐る恐る聞いた。「お前には関係ない」湊は一瞬黙り込み、ゆっくりと言った。「兄さん、俺の母さんが……兄さんたちを傷つけたこと、本当に申し訳ないと思ってる。ごめん」「謝罪などいらない。お前の言葉も、お前自身にも吐き気がする」「うちの揉め事に、赤の他人が口出しするな」そう言うと、誠は容赦なく電話を切った。スピーカーから漏れる会話の内容を、綾は聞き逃さなかった。「ごめんね、綾。自分の出自を黙っていて。本当のところは……」「分かってるわ」綾が遮る。「あなたのお母さんはアンナさんだってことでしょ?」綾は髪をかき上げ、椅子から立ち上がった。「私は行くわ」綾の頭には美羽のことしかなかった。今すぐ杉本家に行かなければならない。湊が後ろからついてくる。「手伝うよ」「それなら手分けしよう。何かあったら連絡して」これ以上人数をかけても無駄だ。それに、湊と二人きりでいるのも息苦しい。綾は杉本家に向かい、そこで偶然颯太と鉢合わせた。綾の目的を察すると、颯太は足早に近づいてきた。「美羽さん、中にいないの?」綾は苛立ちながら眉をひそめた。「あなたのおじいさんは美羽さんをどこに隠したの?」颯太は首を振る。「祖父が隠そうとしてるなら、本人が口を割らない限り、俺たちじゃ見つけられない。」「まさか、ただ焦って待つことしかできないの?」綾は為す術がなかった。次に何をすべきかも見えなくなっていた。宗介に会わせてもらえるはずもない。それに誠も、美羽の居場所なんて言わないだろう。仮に知っていたとしても、情報を漏らすわけがない。「祖父も、美羽さんに変な真似はしないはずだよ。だから、まずは落ち着いて」颯太がなだめる。「閉じ込めておいて、子供を産ませたら奪い去る。それが何よりの加害だわ」あと7ヶ月も経たないと、赤ん坊は生まれない。誠に子供が渡ったとしても奪還する術はある。でも、美羽の体がその日まで持つのかが心配だった。颯太は俯いたまま、何人かに連絡を入れてみた。返ってきたのは「放っておけ」という拒絶か、「恩を忘れて身内を売るのか」という罵倒だけだった。唯一頼れそうな樹は遠く海外にいて、戻ってくる気配すらない。樹は実母の杉
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第297話

【今日一日バタバタしていて、今スマホを見た。マルスから今日の話は聞いたよ。大丈夫か?】【気遣ってくれてありがとう。私は大丈夫よ。ただ、美羽さんがどこに連れて行かれたのか分からなくて】【すまない。そばにいてやれなくて】【ううん、気にしないで。マルスさんが力を貸してくれてるから、本当に助かってるの】マルスの今日の言葉を思い出し、綾はさらに一言付け加えた。【マルスさんから聞いたんだけど、もうすぐ婚約するのね。おめでとう】【まだ決定ではないよ。検討している段階だ】綾の指先が画面の上で止まった。何を返すべきか迷ったからだ。まだ確定していないという言葉を見て、胸の奥で秘かに抱いていた喜びに一瞬心が揺れた。その直後、健吾から新しいメッセージが届いた。【必要なら、戻ることもできる】綾は心臓を射抜かれたように胸が高鳴り、そのままドキドキが止まらなかった。彼が必要だ。今すぐ健吾にそばにいてほしい。美羽を探す手伝いをしてほしいと願った。自分の不安や恐怖を静められるのは、健吾だけだった。だが、そうしてはいけない。健吾は婚約するのだから。マルスの話では、相手とは家柄も釣り合い、幼なじみなのだという。じゃあ、自分は何なのか?かつて恋心を裏切った女に、再び健吾とやり直す勇気も資格もない。【いいよ、気にしないで。美羽さんのことは短時間で解決する問題じゃないから。今は婚約の準備に集中して】その言葉は重い石のように心にのしかかり、鼻の奥がツンと熱くなった。【最後にもう一度聞く。本当に戻らなくていいんだな?】画面の文字をじっと見つめすぎて、涙で視界が歪んだ。その瞬間、健吾が本当に何を想っているのかが分かった。これまでずっと、健吾から怨まれている、嫌われているとばかり思っていた。だがこうして第三者として、二人の再会以降を振り返れば、健吾は常に自分へと歩み寄ってきていたのだ。互いに傷つけ合いながらも、二人の縁は決して切れることはなかった。綾はスマホを両手で強く握りしめ、心臓に押し当てた。拳が白くこわばっている。【大丈夫、自分でなんとかするから。ありがとう、健吾】素直な気持ちを打ち明けることはできない。もう10代の女の子ではないのだから。健吾ほどの名家であれば、婚約は家族同士で決まることだ。
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第298話

美羽との電話を早々に切り上げると、翌朝、綾は湊に電話をかけた。「誠さんの会長室に行きたいんだけど、邪魔が入らないように細工できない?」湊は深く聞くまでもなく、こう答えた。「彼なら9時から10時まで会議室だ。その時間は会長室は無人になる」「ありがとう、今から向かうわ」綾は時計を見ると、まだ8時だった。「本社ビルの外で待ってる。俺と一緒に中に入れば、誰も怪しまないだろう」湊は綾の目的までは聞かなかったが、美羽に関係があるのだろうと踏んでいた。本音を言えば、これ以上美羽と誠に関わって、余計な火の粉をかぶるようなことは避けてほしいと思っていた。だが、綾の性分を知っている以上、何もしないで引き下がるとも思えない。「ええ」美羽が何をしようとしているのかまでは読めないから、まずは慎重に行動しようと思った。8時半、中野グループ本社ビルで湊と合流した。「何のために会長室に入るんだ?」そう尋ねてから、湊はこう付け加えた。「もし1時間じゃ足りないなら、兄さんを引き止めてやる」「1時間もあれば十分よ」綾は以前にも会長室へ入ったことがある。中身はシンプルで、どこに何があるかは一目瞭然だ。徹底的に調べ上げたとしても、十数分もあれば事足りるだろう。ビルに入ると、湊は綾を社長専用のエレベーターへ導き、会長室へ向かった。「一緒に手伝うよ」「あなたは会議じゃないの?」綾が尋ねた。「ああ。俺が門番代わりさ。俺が塞いでれば、ハエ一匹入れさせない」湊は冗談めかしたが、その瞳の奥には拭いきれない闇が広がっていた。綾は小さく微笑んだ。湊とこうして、余計な気を使わずに会話ができるのは久しぶりだった。だが、季節は移ろい、自分の胸のうちにある風景はあの頃とは別のものになっている。9時を回ると、二人は会長室へ向かった。誠はすでに会議中らしく、会長室には誰もいなかった。綾は難なく中へ入り、湊が外で守りを固めた。「写真……」その言葉を繰り返しながら、ありそうな場所を手際よく探した。会長室内は、ソファとセンターテーブル、執務机と椅子だけ。窓辺には観葉植物がある程度だ。デスクの上は、パソコンと書類が山積みになっている。デスクの引き出しには鍵が掛かっておらず、中にはタバコ数箱とライターがあるだけだった。
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第299話

ドアの裏でしばらく立ち止まり、気持ちを落ち着けてから、綾はドアを開けた。湊は壁に寄りかかり、何か考えていた。綾が姿を見せると、彼は思索を中断した。「お目当てのものは見つかったのか?」綾は首を振った。「いいえ、ただ確認したかっただけだから」写真については、真相を確かめるまで湊には秘密にしておくことに決めた。「そうだ、今夜星野邸で食事に招いてもらってもいい?」湊は複雑な瞳でかすかな光を宿し、微笑んだ。「言っただろう、あそこはいつだってお前の家だよ」「それなら良かった。じゃ、今夜またね」綾は手を振り、車で研究所へ向かった。颯太は宗介の対応に追われ、健吾はI国に飛んでいる。「001」プロジェクトの進捗を上げなければならない。幸いなことに、仕事に没頭すると集中力が増す綾は、高い効率で作業を進めた。昼食もろくに取らず、サンドイッチをかじりながら仕事を続けた。夕方6時を過ぎて顔を上げると、外はもう暗い。綾は慌てて湊に電話をした。「ごめんなさい、時間を忘れてたわ。今すぐ向かうわね」「仕事だと思って、催促しなかったよ。急がなくていい、気をつけておいで」通話を終えると、湊はシェフに残りの料理の準備を命じた。7時近くになって、ようやく綾は星野邸へたどり着いた。「ごめんなさい、道が混んでいて」「そんなに謝らなくていい。お前を待つ時間は苦じゃないから」湊は綾が脱いだコートを受け取り、丁寧にハンガーに掛けた。手洗いを済ませてダイニングへ戻ると、食事が並べられていた。昼のサンドイッチだけでは物足りず、綾はすでにお腹が空いていた。大好きな料理が並んでいるのを見て、我慢せず食べ始めた。湊が口元を緩める。「ゆっくり食べな。誰も取らないから」海斗がまじめに付け加えた。「パパが言ってた。よく噛んで食べるのが体にいいんだよ」綾は二人の姿を見て、今夜の目的を思い出すと、さっきまでの食欲はどこへやら消えてしまった。綾の上の空な様子を見て、湊が取り皿に料理を運んだ。「たくさん食べな、また痩せたようだ」「これ、パパがシェフに頼んで作ってもらったんだ。美味しい?」海斗が期待を込めて目を輝かせた。「美味しいわよ」と綾は微笑んだ。今は海斗に対する感情も随分落ち着いていた。やはり教養のある子供は愛
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第300話

綾はDNA鑑定を急ぐため特急料金を支払い、翌日午前中には結果が出るようにした。その頃、凪は二宮家で大荒れに荒れており、事態が深刻化していることには全く気づいていなかった。「本当にいい身分ね。孫より年下の息子ができるなんて、恥ずかしくないのかしら!」宏介の存在を知った凪は、二宮家に押しかけ、両親に対し、保有する株を全て自分に譲渡するよう迫っていた。しかし両親は宏介ばかりを溺愛し、逆に凪を「強欲で身勝手な女だ」と罵倒する始末だ。「恥ずかしい?それは一体どっちよ!婚約を破棄して、前の婚約者のところに転がり込むなんて。凪、人の心なんてものはあるの?」加奈子はこれまでの不満を爆発させ、凪に対しても容赦なく言葉を突きつけた。「私がこんなふうになったのは、全部お母さんたちのせいよ!親を名乗る資格なんてないわ!」凪は取り乱し、叫んだ。弟という存在が突然現れたことも、財産がその弟に移されたことも、全て納得がいかなかった。自分は二宮家の長女なのだ。全ては自分のものであるはずだと信じて疑わない。「不動産を一つあげるから、それで手を打ちましょう。あとは自分で何とかしなさい。不動産を渡したら、もう親子の縁は終わりよ」加奈子は胸を押さえながら、憎しみの籠った瞳で凪を睨みつけた。加奈子にとってこの娘はもう見限った存在であり、全ての期待は跡継ぎの息子にかかっている。「たかが不動産一つ?私が誰だと思っているの?私は二宮家の長女なのよ。馬鹿にしないで!」凪は腕を組んでソファにどかっと座り、株をもらうまでは一歩も動かないという構えだった。「いらないなら、好都合ね。体の具合が悪いから、病院に行ってくるわ。あとは好きにしなさい」加奈子は使用人の介助で立ち上がり、そのまま部屋を出ようとした。しかし、凪は先回りして道を塞いだ。「いいえ、株を譲渡すると言わない限り、この家を一緒の墓場にするわ」加奈子は信じられない思いで凪を見つめた。「胸が苦しいのよ。私を死に追いやる気?」凪は子供の頃は可愛らしかったが、大人になるにつれ手に負えなくなった。何かにつけては親に不満を抱き、理解不能な騒動ばかり起こしている。その積み重ねで、親としての愛情も完全に冷めきっていた。凪の婚約破棄騒動があったことで、新しい跡継ぎを作り、家業を継がせること
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