初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった のすべてのチャプター: チャプター 281 - チャプター 290

506 チャプター

第281話

凪があそこまで図に乗っていられるのは、誠が関係しているからだ。美羽の予感通り、誠は病院を出るとそのまま車を走らせ、水月郷へと向かった。凪は大きな窓の前で絵を描いていて、白いキャミソールのワンピースは絵の具で汚れていた。静かに座る凪は、まるで何にも触れられない聖域のようにも見えた。しかし、キャンバスに描かれていたのは、血を流す恐ろしい骸骨で、背筋が凍るような絵だった。誠は視線をカルトンから逸らしたが、それでも、この時の凪がとても魅力的であることは認めざるを得なかった。まるで誘惑的な毒リンゴのようで、思わずかぶりつきたくなる。「凪、また何をするつもりなんだ?」誠は凪の背後に立ち、その真っ白で滑らかな肩に手を乗せ、身を乗り出して顎で彼女の頬を優しく撫でた。凪は顔をそらし、その手を避けた。「あっちへ行って」飛んできた絵の筆を避けようと、誠は慌てて後ろへ退いた。しかし、完全に避けきれず、首元に冷たい感覚が走る。赤い絵の具がたっぷりついた筆が滑り、まるで刃物で斬られたように、首元から血が流れているような痕跡を残した。窓に映るその跡を見て、誠はぞっとした。凪という女は、自分の思い通りにならなければ何をするか分からない狂気をはらんでいる。「どうしたの?怖い?」凪は少し横を向き、見上げてきた。笑みを浮かべつつも、鋭い視線が魂まで見透かすようだ。「この小悪魔、俺が怖いわけないだろ?」誠は凪の顎を掴み、身をかがめて唇を奪った。凪は持っていた筆を捨て、その腕を首に回して応えた。誠が彼女の細い腰をしっかりと抱き寄せ、軽々と持ち上げた。1時間後、二人はベッドで重なり合っていた。寝室には、まだ熱を帯びた空気が漂っている。誠は凪の長い髪を撫で、額に愛おしそうに口づけた。「凪、俺が一生愛する女は君だけだ」それは本心からの言葉だった。凪を深く愛している。他の男なら、凪のために妻や家族さえも捨てるだろう。しかし自分には無理だ。また、その程度の情しかないのも事実だった。凪は誠の胸元にすり寄り、甘ったるい声で言った。「馬鹿なこと言わないで。愛してるなら私を妻にして」自分にとっても、深く愛した男は誠だけだ。湊に対しては悔しさがあった。綾に負けることが、どうしても許せなかった。湊は自分
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第282話

「離婚したら分かるはずよ」凪も馬鹿ではない。誠に対する信頼は既に崩れ去っていた。それに最初から誠など信じていない。信じられるのは自分だけだ。利得が確実に手に入るまでは、切り札を簡単には差し出さないだろう。「1週間あげるわ。その後には、SNSで離婚声明を出してもらう」凪は誠の腕を振りほどくと、起き上がって服を着た。誠は眉をひそめた。「もし従わなかったら?」「その時は、私が手伝ってあげる」凪は長い髪をかき上げ、誠に薄ら笑いを浮かべてから背を向けた。誠は凪のしなやかな後ろ姿を見つめ、冷酷な眼差しを向けた。地下駐車場で車に乗り込んだ凪だったが、これだけでは物足りないと感じ、綾の番号へ発信した。綾は知らない番号からだったが、そのまま応答した。「もしもし」「私よ、かしこまらなくていい」受話器から聞こえた苛立った凪の声を聞くや否や、綾は迷わず行動に移した。即座に切断し、着信拒否した。凪から良い話が来るはずがない。しばらくすると、別の番号からメッセージが届いた。【美羽さんが愛人の子だってことは知ってるわよ。その母親が汚い手を使ったこともね】【美羽さんを助けたければ、すぐに連絡しなさい】綾の心が重く沈み、すぐさまかけ直した。「何を望んでいるの?」凪がなぜその秘密を知っているのかは不明だが、それが真実であることは疑いようもなかった。凪は満足げに微笑んだ。案の定、お人好しの綾は釣られたのだ。偽善者ぶって、自分のことを聖女か何かと勘違いしているのか?「湊と離婚して、青木社長の名義にある二宮グループの株を全部譲り渡しなさい。さもなくば、美羽さんを社会的に抹殺する」自分の株と合わせれば、全体の49パーセントに達する。これを秘匿しつつ両親から2パーセント上乗せすれば、自分が二宮グループの筆頭株主になれるはずだ。凪は心の中で思惑を巡らせ、全てが手の中にあるような気分でいた。綾は眉をひそめた。凪は貪欲で、ずいぶんと厚かましい要求をしてくる。これまでの経験上、凪は利益を得れば大人しくなるような女ではない。条件をのんでも、毒蛇のように噛み付いてくることは目に見えていた。しかし、ただでさえ情緒不安定な美羽が、秘密を公にされたら最悪の事態になりかねない……杉本家は間違いなく、宗
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第283話

その考えが浮かぶと、凪は言葉を変えた。「株の話は後でいい。1週間以内に、あなたと湊の離婚声明を発表しなさい。そうでなきゃ、今回目の当たりにするニュースは、美羽さんとその母親のことになるわよ」湊と綾が離婚してしまえば、彼が再婚する可能性は極めて低い。海斗が湊の唯一の跡取りになれば、もう何も恐れることはない。そして自分自身は、晴れて誠の妻の座におさまるのだ。たとえ誠が自分を憎んでいたとしても、そんなことはどうでもよかった。夫婦関係を維持することに、もとより愛情など必要ない。綾は返事もせず、やり場のない苛立ちと共に電話を切った。離婚声明を出すにせよ、出さないにせよ、どちらも袋小路だ。少し考えてから、綾は車で美羽の家へと向かった。しかしそこに着くと、美羽が急に倒れて誠に病院へ運ばれたと聞かされた。誠に電話で黒崎病院にいると聞き出し、そのまま病院へ急行した。美羽は綾を見ると、驚いたように目を見開いた。「どうして入院しているのを知っているの?」「家に行ったけれど美羽さんがいなくて、尋ね回ってやっと分かったんですよ」綾は椅子を引くと、ベッドのそばに腰を下ろした。「顔色が悪いけれど、大丈夫ですか?」「脅されました」綾は簡単に、凪から受けた脅迫の内容を話した。美羽は表情を険しくした。綾に黙っていたのは、巻き込みたくなかったからだ。凪は欲深く、中野兄弟両方を離婚させようと企んでいたのか?枕元にもたれかかり、言葉を失った美羽の周りに静寂が降りた。「気にしなくていいわ。私が気にしなければ、二宮さんの脅迫なんて効かない」自分は体裁を重んじてきたが、そのせいで綾の幸せを犠牲にするなら、そんなもの維持する必要はない。綾は一瞬迷った末、真実を明かすことに決めた。「美羽さん。今朝、神社に行けなかったのは湊と離婚届けを出してきたからです」「な、何ですって!?」美羽は目を丸くし、信じられないという表情を浮かべた。「湊が納得したの?」綾の長年の付き添いは義務感ゆえかと思ったが、湊は違った。彼が綾を愛していることは、一目見れば明らかだった。「ええ。ただ湊の名誉のため、離婚のことは来年まで公開しないという誓約を交わしました」綾は苦悩した。湊との約束があったからだ。それでも一つ
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第284話

そうだったのか?誠から漂っていた香水の匂い、あれは凪がいつも使っているものだ。どうりで嗅いだことがあるはずだ。これまでの出来事が一瞬で頭を駆け巡り、のように頭を巡り、綾はすべてを悟った。凪と誠は、ずっと前から繋がっていたんだ……込み上げる激しい怒りに、綾の体が震えた。凪に対してだけじゃない、誠と湊に対しても同じだ。美羽は静かに頷いた。その表情には、すべてを察していた諦めが漂っていた。「あなたがI国に行っていた間に気づいたの。あまりのことに、毎日頭が痛くて……」「美羽さん、こんな最低な連中のために体を壊しちゃダメです」綾は美羽になぜもっと早く教えてくれなかったのかとは聞かなかった。美羽には美羽なりの事情があったからだ。海斗のことを隠し通してきた時、自分自身も嘘を重ねていた。「心配しないで。何事もなかったかのように振る舞うから。これは私の問題だから、自分に任せてほしい」美羽の切実な頼みに、綾はそうとしか言えなかった。しかし、美羽一人で一体どうやって凪に立ち向かうというのだろう?病院を出る頃には夜も更けていた。帰宅後、綾は考えた末に二宮家に電話をかけ、凪が株を狙っていることを伝えた。話を聞いた康弘夫妻は激怒した。凪が中野家を狙うなら、それは凪の実力かもしれない。だが、他を諦めて今度は自分の実家まで利用しようというのか。二宮家の残りの株は、すべて宏介の名義になっている。康弘夫妻は断じて凪には譲らないだろう。綾から凪が中野家だけでなく青木家をも脅迫していると聞き、康弘夫妻は自分たちが巻き込まれないよう、今すぐ凪との縁を切ってやると憤慨していた。二宮家が凪に対して敵対的な態度を取ると確信し、綾は少しだけ胸をなでおろした。これでもう、凪が実家を頼る道は閉ざされた。二宮家は宏介の将来のために、凪がこれ以上変な動きをしないよう厳しく釘を刺すはずだ。もちろん、凪が素直に従うとは思えないが。それでも、少しでも凪を縛り付けることで、美羽の負担を減らせればと願うばかりだ。電話を切り、綾は居間を行ったり来たりした。美羽に何もするなと言われた以上、裏から手を回すしかなかった。人には誰しも弱みがある。凪も例外ではない。彼女の弱みは海斗だ。思いついた綾は、すぐさま凪に電話をかけた。
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第285話

言い終えると、綾は躊躇いなく電話を切った。今、決定的な証拠はない。でも、これから探せばいいだけの話だ。翌朝、綾が研究所へ向かうと、そこには颯太しかいなかった。綾に気づいた颯太は、「おいおい、綾さん。まだ休み中だろ?物好きな奴だな」とからかった。「健吾に用があるの。今日、来てる?」「急ぎか?」健吾に対する綾の態度を理解している颯太は、余程のことでない限り綾が自分から健吾に接触しないと察した。「まあね」と綾は頷く。これは美羽に関わることだ。杉本家の人間である颯太に、すべての事情を打ち明けるわけにはいかない。「青木社長が来るかは分からないな。最近はたまに顔を出してはすぐに出て行くから。何かあったのか?俺でよければ手伝うぞ」颯太は、淀みのない澄んだ瞳で綾を見つめた。彼の申し出に打算はなく、純粋な親切心から出たものだと綾にも分かっていた。「個人的なことなの。健吾は不在みたいだし、またにするわ。じゃあね」綾は足早にその場を立ち去った。これ以上突っ込まれたくない一心だった。颯太は誠実な人間だ。そんな彼を、杉本家と美羽の板挟みにしたくなかった。車に乗り込んだ綾は、少し考えてから、健吾に直接電話をかけた。木工の彫り込みに集中していた健吾は、スマホの着信音に気づき、画面を見た。「エレナ」という名前を見ると、すぐには出ず、ゆっくりと手を動かし続けた。通話が自動で切れる直前になって、健吾は口角を上げ、ゆったりとした仕草で通話ボタンを押した。「用か?」たった一言。けれど、今の綾にとっては救いの神に見えた。「そう!健吾、報酬は払うから、一つお願いを聞いてくれる?」拒否される隙を与えないように、綾は続けた。「あなたに金が不要なのは分かってる。でも、代わりに何か望むものがあるなら言って」「回りくどいな。さっさと言え」健吾の態度は冷たかったが、わずかに滲む期待の色が、彼の中の隠された情を物語っていた。「誠さんと凪が不貞を働いている証拠がほしいの。高画質の写真でも、動画でも構わないから」綾が言い終えるか否かのタイミングで、電話からプツリと音がした。健吾は罵声さえ浴びせず、容赦なく切ったのだ。それでも綾には分かっていた。健吾にはその能力がある。あの時拉致された際、そしてI国でのカジノの騒動
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第286話

綾は探偵の力だけでは証拠を集めきれないと不安を感じ、健吾に協力を頼むことにした。そもそも人頼みな上に、これほど後ろ暗い話だ。健吾に断られても、綾はそれを完全に理解できる。「3日後に渡す」受話器から聞こえる健吾の投げやりな声に、綾は喜びを隠しきれなかった。健吾が動いてくれるなら、証拠などすぐに手に入るはずだ。「健吾、何か望むものはある?」「今は特に欲しいものはないから、ひとまず貸しにしておく」健吾は淡々と言った。電話を切ると、すぐにマルスを呼び出した。「3日後、中野会長と二宮さんの不貞の証拠をすべてまとめて綾に送れ」実のところ、すでに手元に証拠は揃っていた。二人の関係を疑い始めた時から、部下に収集させていたのだ。元々、綾に渡すつもりだった。I国へ行って婚約する前、これが綾のためにできる最後のことだと考えていたから。ただ、それを少し早めただけのことだ。マルスは指示を受けると、健吾の表情に浮かぶ晴れない憂鬱を垣間見て、心の中でそっと溜息をついた。健吾も随分と深い情に囚われているが、相手が綾ではどうにもならない。幸い、I国での婚約が無事に決まれば、新しい生活も始められるはずだ。この婚約話は健吾もずっと断り続けてきたものだが、相手のエステ家とは釣り合っている。これ以上断り続ければ、カタリナはビアンカを相手方の兄に嫁がせると言い出すだろう。その兄とやらはビアンカより20も歳上で、女遊びに耽るクズだ。綾にはなぜ健吾が突然協力してくれたのか分からなかったが、証拠が手に入るのならそれで十分だった。凪を牽制するため、綾は車を走らせ、星野邸へ向かった。土曜日だったため、海斗は家庭教師からピアノを習っていた。湊はその隣に寄り添い、慈愛に満ちた父親の顔で見守っている。突然訪れた綾の姿に、湊は少し驚いた。「綾、どうしたんだ?」「来ちゃいけなかった?」綾は笑って聞き返すと、慣れた手つきでコートを掛け、手を洗った。「どんな関係になったとしても、ここはお前の家だ。いつでも帰ってきていい」湊はピアノの練習を中断させると、海斗を招き寄せた。「海斗、挨拶しなさい」海斗は目を瞬かせながら、大人しく挨拶をした。「中野おばさん、こんにちは」凪がいなくなってから、湊は毎日時間を作っては海
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第287話

湊は綾を門の外まで見送ると、穏やかな眼差しで彼女を見た。「綾、時間があるときはいつでも来てくれ。海斗がお前のことをすごく気に入っているんだ」「分かった」綾は適当に返事をしたが、心の中は冷静だった。海斗はせいぜい自分を嫌わなくなった程度で、「すごく気に入っている」なんてことはない。そもそも自分も、海斗に気に入られることに興味などなかった。綾が星野邸を訪れたとき、凪は二宮家へと呼び戻されていた。「凪、会社の資金繰りがまた厳しくなった。なんとか工面してくれないか?」康弘の顔はやつれきっており、声には焦りがにじんでいた。康弘は健吾にも当たったが、相手は担保として土地を差し出すよう求めてきただけだった。綾はといえば、凪のせいで湊との離婚問題でもめていると言い、資金を出す余裕などないと言った。金の話ばかり聞かされ、凪の心は真冬のように凍りついた。彼女は鼻で笑うと、足を組み替えてソファに深く腰かけた。「お金を出してあげてもいいわよ。その代わり、会社の残りの株を私によこして。他人にだまし取られるのも嫌だし」それを聞いて、康弘は我慢の限界を迎えた。「お前が中野家や青木家を脅したりしなければ、わざわざ頼んだりしないんだよ!」康弘は、健吾や綾が助けてくれないのは、凪が二人を挑発したせいだと決めつけていた。「綾がこっちに来たの?」凪は表情を強張らせた。もし綾が身内を使って自分を追い込もうとしているなら、大きな間違いだ。「凪、いい加減にしろ。中野家も青木家も、杉本家だって。俺たちには敵う相手じゃないんだ!相手が少し本気を出しただけで、二宮グループなんて秒で潰されてしまうんだぞ。お母さんは心臓が悪いんだ。まさか、怒らせて死なせる気か!」康弘は怒りが収まらなかった。娘を育てたところで何の役にも立たないどころか、トラブルの種ばかり増やしやがる。凪はそんな康弘の罵倒にも動じず、慣れきった様子で平然としていた。「お父さん、正直に言うわ。湊とはもう終わり。今の私は何も持ってないの。今まで黙ってたのは、二宮家が最初から私の逃げ道なんかじゃなかったから。どうせ、お父さんたちは私を役立たず呼ばわりするだけでしょ」それを聞いて、康弘の望みはついえた。「あいつと縁を切ったら、俺たちは一体どこから資金を調達すれば
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第288話

「海斗!ねぇ、海斗どこにいるの!」凪は星野邸に駆けつけたが、正門は固く閉ざされ、中には入れなかった。凪は鬼気迫る様子で門を叩き、海斗の名前を叫んだ。やがて使用人が門を開け、海斗が凪の元へ駆け寄った。「ママ、会いたかったよ!」凪は海斗を突き放すと、肩を力強く掴み、顔色を変えて怒鳴りつけた。「どうして綾なんかに近付くの!?近付くなって言ったでしょ?」海斗はうろたえ、泣き出しそうな声で震えていた。「ママ、ごめんなさい」パパは綾は良い人だから仲良くしろと言い、ママは悪い人だから離れろと言う。誰に従えばいいのか分からないけれど、一番はママを怒らせたくなかった。「凪、いい加減にしろ!」湊が歩み寄り、海斗を抱き上げると、家庭教師に連れて行くよう指示した。海斗たちを見送るなり、湊は凪を叱りつけた。「自分のわがままのために子供に洗脳するなんて、親失格だな!」「私が親失格って?じゃあ、綾ならあるって言うの?」凪は冷ややかな笑いを浮かべ、湊を蔑むように睨んだ。「あなたは本当に情けない男よ。当時綾を選ぼうとしながら私と婚約して、あちこちフラフラして、結局ただの臆病者ね!今さら綾と青木社長や颯太さんの間に割って入る勇気もないなんて、滑稽だわ。綾はあなたを愛したことなんてないわ、湊。あなたは誰からの愛も受ける価値なんてないんだから!」湊に期待するのをやめた今、本性を隠す必要もなかった。湊に嫌われようが、こちらこそ願い下げだ。どうせ今さら、湊は自分を海斗の母親だとは見ていないのだから。いくら騒いでも、海斗に対する湊の態度が変わることはない。「黙れ!」湊は怒りで顔を歪ませ、額の青筋を立てていた。やがて、彼は深く息を吐き出し、冷静さを取り戻そうとした。「凪、どうしてお前はこんなに変わってしまったんだ?」婚約当初の凪はわがままだったが、根は優しい子だった。後に海斗を連れて帰国してからは、昔の驕りも消え、おとなしくて健気な、どこか綾の面影を持つ女性に見えたのだ。目の前のこの狂ったような女が、かつての凪だとは信じられなかった。凪はその言葉に、馬鹿げた冗談でも聞いたかのように笑い出した。「変わったわけじゃないわ。私は綾みたいみたいな偽善者じゃない。もっともらしい理由で自分を正当化するつもり
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第289話

これからどうすべきか、わからなかった。ただ、誠が離婚声明を発表するのを待つしかなかった。もし相手がそれをしなかったら、強硬手段に出るしかない。綾は毎日、病院にいる美羽のもとへ通った。綾が必死に隠そうとしても、美羽には綾の心中にある不安が見えていた。「もしかして、二宮さんのことで悩んでいるの?」隠しきれないと悟った綾は、小さく頷いた。「ええ。美羽さんが、何か心ない噂の的になるのだけは嫌なんです」凪は気分屋だ。海斗のためであっても、簡単に引き下がるとは限らない。噂というのは矢にも等しく、何よりも深く人を傷つけるものだ。かつて凪に世論を扇動され、ネット上で晒されたとき、画面の向こう側の心ない言葉たちが、まるで鋭い刃となって胸に突き刺さったことを、綾は忘れていなかった。「安心して。私はもう覚悟を決めたわ。綾ちゃんが私の出生を受け入れてくれたおかげで、強くなれたの。綾ちゃんがそばにいてくれるだけで、何も怖くない。二宮さんが私の素性をばらしたとしても、どうにでもなればいいわ」美羽は穏やかな微笑みを浮かべていたが、内心では一日中、恐れで押しつぶされそうになっていた。あの残酷な日が来るのが怖いのだ。しかし、何をどうあがこうとその日はいつか来る。ならばこれ以上苦しまない方がいいし、何より綾を巻き込むわけにはいかなかった。綾は美羽の手を握り、「美羽さん、大丈夫ですよ。私が最後まで美羽さんの味方です」と力強く告げた。凪にこのことがバレれば、もはや秘密にできる状況ではないことも、綾はわかっていた。こちらが画策してきたことのすべては、その日を引き延ばすための抵抗でしかなかったのだ。もし自分なら、すべてを受け入れて真っ向から戦うだろう。しかし相手が美羽となると、一瞬たりとも噂にさらされることなど望まず、ただ穏やかに過ごしていてほしいと願ってしまうのだ。「そうそう、健吾に頼んで、誠さんが不貞行為をした確かな証拠を集めてもらってます。本来は、それで凪を牽制しようと思ってたんだけど、美羽さんのために使ってもいいですよ。全部美羽さんに委ねます」美羽の瞳に、かすかな不安がよぎった。それは綾と健吾の関係についてだ。「綾ちゃん、青木社長は結婚してるのよ。それなのに、あなたは……」「私と彼は、あくまで雇用関係の上司と部
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第290話

綾が送られてきた動画の最初を再生すると、開いた瞬間に絶句した。誠と凪が、カーテンも引かない大きな窓際で、何もかも忘れたように激しく抱き合っていた。綾はそれを見るだけで吐き気がし、すぐに画面を閉じた。やはり、健吾に頼んで正解だった。他の人間には無理な証拠でも、健吾はすぐに見つけ出す。何人もの人間が匙を投げる難題でも、健吾の手にかかればいとも簡単だ。「美羽さん、例の証拠を送りました」綾は美羽に転送した後、凪と誠の密会現場を収めた数枚の写真を、警告代わりに凪へ送りつけた。写真が凪の元へ届いた頃、彼女は幼稚園の外で、海斗を待っていた。湊からは「星野邸には近づくな」と言われていたが、幼稚園への送迎まで制限する権限は誰にもない。親密な様子の写真をまじまじと見つめた凪は、怒りのあまりハンドルを思い切り殴りつけた。もし綾がこの写真を湊に送れば、彼は間違いなく海斗を連れてDNA鑑定に行くだろう。いらだちで髪をかきむしった凪がふと顔を上げると、そこに加奈子の姿があった。ほどなくして幼稚園から子供たちが出てきた。香織との孫、「宏介」と呼ばれる少年が先生に挨拶して駆け寄ると、加奈子の腕に飛び込み、頬にキスをした。二人の様子は、隣を歩く他の実の親子以上に親しげに見えた。凪は疑念を抱いた。加奈子が香織との交流のついでに宏介の面倒を見ることはあっても、あそこまで心から愛おしそうに接するような人物ではない。自分の学生時代は運転手が送り迎えをしており、加奈子は親の集まりに参加すらできなかったほど忙しかったはずだ。そんな人間がわざわざ使用人の孫を迎えに来るなど、あまりにも不自然だ。海斗の帰りを待つのも忘れ、凪はそのまま加奈子の車を尾行した。加奈子は自宅には帰らず、そのまま宏介の手を引いてショッピングセンターへ向かった。加奈子が宏介に何十万円もする高級ランドセルを買ってあげているのを目にした瞬間、凪は顔をひっぱたかれたような衝撃を受けた。自分が子供の頃、何を買ってもらうにもコストパフォーマンスばかり重視され、手元に来るのは決まって安物ばかりだった。何百万どころか、数十万円のバッグすら一度も買ってくれたことはなかったはずだ。それなのに、加奈子はカードを通す際、迷う素振りすら見せず、溺愛に満ちた笑みを浮かべていた。凪
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