Tous les chapitres de : Chapitre 311 - Chapitre 320

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第311話

「美羽さんに会いたいだろ?連れて行ってあげる」「本当!?」綾は身を乗り出し、興奮を隠せなかった。「行くぞ」健吾は満足げに立ち上がり、堂々とした足取りで外へ向かった。綾は彼の後ろを小走りで追いながら、「本当に美羽さんに会えるのよね?嘘つかないでよ」と念を押した。健吾を疑うわけではないが、颯太でさえ見つけられなかった美羽を、部外者の健吾が見つけられるはずがないと思ったからだ。「二宮家の土地を美羽さんのお父さんに渡したんだ。その代わり、お前と美羽さんが会う時間を買ったのさ」健吾のあまりに軽い口調に、綾は歩を止め、その場に立ち尽くした。「土地の評価額はいくらなの?中野グループの株主として、私がその分は負担するわ」8歳で引き取られてから、常に誰かに借りを作って生きてきた。その重圧に、もう耐えられなかった。「会ったあと、ゆっくり計算すればいい」健吾は車のドアを開け、綾をエスコートするように手を添えた。「分かった。ちゃんと受け取ってよね。じゃないと行かないわ」「心配しなくていい。俺はチャリティーでやっているわけじゃないんだ。しっかりもらうよ」健吾は反対側のドアから乗り込み、綾の隣に座った。気のせいかもしれないが、今日の健吾は終始上機嫌なように見えた。何度か視線を感じて横を向くと、健吾がじっとこちらを見ていた。綾はわざと見えないふりをして、窓の外に目を向けた。だが窓ガラスには、自分を熱っぽく見つめる健吾の姿が映り込んでいた。車は郊外へ向かって走り、4時間ほどして山間の屋敷に到着した。三方を絶壁に囲まれ、出入りできる道は一本しかない、完全に孤立した場所だった。車なしでは下山すら困難な場所だ。綾は拳を固く握りしめた。宗介の冷酷さに怒りを覚えた。こんな所に美羽を閉じ込めるなんて、牢屋と何が違うんだ。健吾は綾の隣に並び、低く囁いた。「今回の面会時間は、2時間だけだ」「あれほど高い土地を差し出したのに、美羽さんを連れ出せないの?」綾は悔しさをにじませた。なぜ一方的に相手にメリットを与えるようなことをしたのか、理解できなかった。「あそこは美羽さんにとって安全な場所さ。杉本家は、愛人の子が外で羽を伸ばすことを決して許さないからね」健吾はかつてカタリナの厳しい監視下に置かれたビアンカ
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第312話

「美羽さん!」綾が、美羽の手を握りしめると、氷のように冷たかった。綾は美羽の手を自分の懐に入れて温めようとしながら、もう一方の手で美羽の頬に触れたが、同じように冷え切っていた。「まずは家の中へ」健吾が美羽を抱き上げ、使用人たちに導かれるまま早足で寝室へ向かい、ベッドに横たわらせた。その頃には、屋敷専属の医療スタッフ6人も駆けつけていた。健吾に外へ連れ出され待機させられた綾は、張り詰めた神経で、かたくなに閉ざされた寝室の扉を凝視し続けた。30分後、医師が出てきた。綾は駆け寄って尋ねた。「美羽さんは、どうなりましたか?」医師は綾を一瞥したが答えず、その足で外へ出て宗介に電話をかけた。綾は美羽の様子を見に寝室へ入ろうとしたが、使用人たちに阻まれた。少しして、電話をかけていた医師が戻ってきた。「お二人とも、大旦那様から、今すぐお引き取りをとのことでございます」綾は憤然として問い詰めた。「美羽さんに一体何があったんですか?」「杉本家の内輪のことでございますので、申し訳ございませんが、お答えできません」「美羽さんは私の大切な家族です!」怒りに任せて叫び、綾はなりふり構わず中へ飛び込もうとした。だが相手の数が多すぎて、美羽の姿を見ることすらできない。「これ以上無茶をなさるのなら、警備員を呼んで強制的に退去していただきます」対応していた中年の男はこの屋敷の執事であり、指示を受けるやいなや、健吾と綾を追い出す準備を始めた。綾は冷ややかな目で彼を見据えた。「たとえ今日ここで命を落とそうとも、私は美羽さんに会います」心に嫌な予感が渦巻くが、それを認めるわけにはいかなかった。どうしても美羽に会わなければならない。颯太へ電話をかけたとき、とうとう堪えきれず泣き出してしまった。「美羽さんに何かあったみたい。颯太さん、お願い、すぐに来て」「位置情報を送ってくれ。今すぐ向かう」電話越しに颯太がそれだけ聞くと、綾は通話を切り、場所を送信した。先ほどまで外に出ていた健吾が戻り、綾を囲んでいた者たちに冷たい視線を投げかけた。「君たちが指示で動いているのは分かっている。だがこれ以上彼女の邪魔をするなら、この先穏やかな暮らしなどできないと思え。どけば、一人に1億やる。身の安全も保証しよう」
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第313話

医師の話では、リビングで飲みかけのユリの汁物が見つかり、ミキサーの中には花びらの残骸も残っていたそうだ。暫定的な診察によると、美羽は1時間以上前に亡くなっていたと推測された。宗介が巨額の報酬で美羽とお腹の子の世話を頼んでいたというのに、結局、二人とも亡くなってしまった。健吾が裏で庇っていても、今後の仕事に支障が出るのは避けられないだろう。「どうにかしてくださいよ!」パニックに陥り、綾は震える手で達也に電話をかけた。健吾は綾の手を握り、「黒崎病院の専門医たちがヘリで向かっている」と優しく声をかけた。健吾は美羽を医師に引き渡すと、すぐに達也に連絡を取っていた。綾はパニックのあまり、右往左往するしかなかった。彼女は再び部屋へ飛び込み、ベッドの上に膝をついて、美羽に心臓マッサージを続けた。「美羽さん、起きて、死なないでください!戻ってきてください!」人工呼吸を続ける綾を見て、健吾はそれを止めようとした。しかし差し出した手は空中で止まり、ゆっくりと下ろされた。「どうなんだ?」健吾が毒の作用について尋ねると、医師は答えた。「今のところ関係ありません。ただ、除細動器を使い30分間処置しましたが反応はなく、おそらく……」健吾は時計に目をやり、時間を確認した。「君たちはもう帰れ」黒崎病院の専門医たちが来ると、これらの連中はただの邪魔な存在でしかなかった。みんなは密かに息を吐くと、急いでその場を立ち去った。懸命に心臓マッサージを繰り返す綾を見つめる健吾の目は、熱く潤んでいた。また一人、綾から身内が消えてしまった。綾は今後どう生きていくというのか?湊、どうか死なないでくれ。健吾は目を逸らした。深い悲しみに沈む綾を直視することができなかったからだ。彼は綾を止めず、ただ隣に寄り添って静かに見守り続けた。到着した黒崎病院の専門医たちも、ひと目見ただけで成す術がないことを察した。達也から厳重に指示を受けていた彼らは、念のため型通りの処置を行い、結末の変わらない救命処置を続けた。1時間後、彼らは医療機器を手に寝室から出てきた。「残念ですが……」綾は何も言わず静かに寝室へ戻り、再び心臓マッサージを続けた。数日前まで元気だった人が、どうしてこんなに簡単に消えてしまうのか?あの日のこと
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第314話

美羽は、一時的に黒崎病院の遺体安置室に安置されていた。綾はその傍らで見守っていた。健吾はその外で座って綾に寄り添い、颯太もその場を離れずにいた。30分後、宗介が部下を引き連れて駆けつけた。宗介が遺体安置室に入り、美羽を一瞥したが、その表情には微かな感情の動きすらなかった。「娘の救命処置にご尽力いただき感謝します。あとはこちらに任せてもらいましょう」「君たち、入りなさい。美羽を家へ連れ帰るぞ」数人が遺体安置室に押し寄せたが、黙り込んでいた綾が美羽の前に立ち塞がった。「美羽さんは遺書を残しています。葬儀の全てを私に取り仕切るよう、託したのです。美羽さんからは颯太さん以外の、杉本家の人間を葬儀に近づけるなと強く言い含められています」宗介は、気に留めぬ様子で鼻で笑った。「美羽は俺の娘だ。遺体をどうするかは俺が決める、部外者の分際で口を挟むな」しかし、綾は鋭い視線を向け、一歩も引かなかった。「無理に奪うつもりなら、杉本家の醜聞を世間に晒します」宗介は眉間に深くしわを寄せ、不機嫌そうな面持ちになった。「樹や颯太は、君を厚遇したはずだ。恩を仇で返すつもりか?」「二人がまともなら理解してくれるでしょう。分からず屋なら、縁を切るまでです」綾の声は枯れていたが、その言葉には重みがあった。健吾が綾の隣に歩み寄り、宗介を冷徹な目で見下ろした。「俺がいる限り、ここから連れ出すことなんて不可能ですよ」宗介の顔色がわずかに変わる。「青木社長、これは青木家とは関わりのない話でしょう」「誤解しているみたいですね。青木家の身分で言っていないですよ。これは個人的な問題です」健吾がそう言うと、マルスが数人の屈強なボディーガードを連れて遺体安置室の入り口に姿を見せた。「そっちと違って、こっちは法律を遵守する市民ですよ」宗介が入り口を一瞥し、健吾の部下が鍛え抜かれたプロであることを見抜いた。「フン、その連中は一体何をするつもりですか?」「そっちが先に手を出すなら、正当防衛で対処するだけです」健吾は冷ややかな目で宗介を見つめ、嫌悪感を隠そうともしなかった。「いい加減にしてください!」それまで黙り込んでいた颯太が吠え、宗介を睨みつけた。「おじいさん、美羽さんを死なせておいて、まだ安らかに眠らせることすら
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第315話

健吾は手を挙げて、マルスに人を連れて出るよう合図した。颯太は複雑な胸中で美羽を見やり、何も言わずに遺体安置室を出た。「健吾、今日はありがとう。でも、もう帰って」そう言って、綾は美羽の傍らに座り込んだ。虚ろな瞳のまま、その顔には果てしない悲しみが漂っていた。健吾は何も言わず、そのまま遺体安置室を出た。綾は夜までそこにいた。その間に、達也が一度顔を見せた。達也は美羽を誰にも渡さないと告げ、綾に帰宅するよう促した。しかし綾は残った。疲れると、美羽の隣で少しだけ瞼を閉じた。昔なら、遺体安置室の前を通るだけでも怖くて足早になったはずだ。でも今、こうして美羽と二人きりでいても、少しも怖くはなかった。ただ、残された時間がわずかしかないことが恨めしかった。翌朝、綾は白い布をめくり、一度だけ美羽の顔を見た。「美羽さん、お葬式の準備をしてきますね。怖がらないで、すぐにまた迎えに来ますから」綾は涙を拭うと、重い足取りで外へ向かった。扉を開けた途端、廊下のベンチに一人座り、うつむいている健吾の姿が目に飛び込んできた。彼は微動だにせず、まるでずっとその姿勢でいたかのようだった。綾の喉が詰まる。絞り出す声はかすれていた。「ずっと、ここに……一晩中いたの?」声に気づき、健吾が顔を上げた。答えずに、彼は静かに問いかけた。「お腹、空いたろ?」コートの内側から温かいクラフト紙の袋を取り出し、綾の前へ差し出した。「何か食べろ。これからお葬式の準備がある。お前がしっかりしてなきゃいけないんだから」綾はついに堪えきれなくなった。後ろを向くと、額を冷たい壁に押し付け、声を上げて泣きじゃくった。すると、誰かの手が、優しく肩を叩いた。健吾はそれ以上のことはせず、綾が泣き止むまで静かに背中に寄り添っていた。「ありがとう」綾は渡された温かい朝食を受け取ると、ベンチに座って夢中で頬張った。彼女が健吾の方を向くと、腫れぼったい瞳にまた涙が滲んだ。「健吾、食べたの?」「ああ、食べた」健吾は静かに返事をして、牛乳のパックにストローをさして手渡した。綾は一口飲み込んだ。ポロポロと、牛乳の容器に涙がこぼれ落ちる。二人の間に会話はなかった。一人は朝食を喉に詰め込み、もう一人はそれをただ黙って見守っていた。
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第316話

「仕事があるので、凪との面会を邪魔するつもりはありません」綾は、美羽がもうこの世にいないことを誠には告げず、横を通り過ぎて立ち去った。美羽が死んだ原因。それは、誠にもある。いま美羽が遺体安置室に横たわっているというのに、誠は謝罪のつもりで15本のバラを手に、美羽を死に追いやった当事者のもとへ向かっているのだ……これから先、美羽と誠にもう関係はない。彼には、美羽の前に立つ資格すらなかった。誠は凪を見舞った。凪は彼にひどい剣幕で当たり散らし、持ってきたバラを顔面に投げつけて、さっさと消えろと追い返した。誠はそこに長居はしなかった。どんなに凪が好きでも、もう彼女と深く関わるつもりはなかったからだ。美羽が子供を産めば、すべてが終わる。それから新しい人生を始めればいい。病院を去る前、誠はさっきの綾の様子が気になり、湊の病室を訪ねた。突然現れたことに、湊は少し驚いたようだ。「なんでここにいるんだ?」達也の話では美羽がいなくなったはずなのに、誠はなぜ美羽のそばにいないのか?たとえ愛のない関係であっても、10年ものあいだ夫婦だったのだ。誠の顔からは、悲しみの色は欠片も感じられない。「愛すべき弟が死んだか見に来ただけだよ」誠は病室の脇に立つと、身動きの取れない湊を見て唇を歪めた。「6年前にできなかったことを、凪が代わりにやってくれた。これでもう二度と立てないだろう?」湊はそんな挑発を無視して、険しい表情を浮かべた。「兄さんはそんな冷酷な人間じゃないはずだ」「俺がどんな人間か。赤の他人のお前にとやかく言われる筋合いはない」誠の目に嫌悪が走る。湊が自分に向ける、その憐れむような目が大嫌いだった。「美羽さんは……」「俺たちのことは放っておいてくれ。それより自分の心配でもしたらどうだ」誠は、湊が綾の時のように美羽の行方を訊ねてくるのだと思い込み、不機嫌に遮った。背中を向けて去る誠を眺めながら、湊はどこか釈然としないものを感じた。検診に来た達也に、湊は訊ねた。「誠は美羽さんが毒を飲んで自殺したって知っているのか?」「知らないだろう。今のところ杉本家と綾しか知らないんだ。杉本家から教えるはずはないし、綾が自分から口にするはずもない」達也はあえて健吾の存在を隠した。もし湊が、昨夜から健吾が遺
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第317話

本音を言えば、達也は綾に湊のそばにいてほしいと願っていた。綾がいなくなれば、全身不随の湊はただ息をしているだけの屍同然だ。だが、それが許されないことも分かっていた。綾に対してあまりにも残酷だからだ。しばらくして、湊はゆっくりと口を開いた。「お前の家の、南の方に療養所があるだろう?俺をそこに送れ」「動けるようになってから言えよ」達也は適当に返した。療養所へ送るということは、治療を放棄するのと同義だった。回復の望みはほぼゼロに近い。それでも、希望を捨てることはできない。……美羽の葬儀は3日後に決まった。綾は美羽のために、ユリの花が咲き誇る良い墓地を選んだ。綾はノートパソコンを遺体安置所まで持ち込み、美羽と相談して葬儀に招く参列者を決めていった。「杉本家から招待するのは颯太さんだけです。私は当然出席します。それに、明里と千葉さん……健吾も行きたいと言っていますね」その名前を見て、綾は自分の交友関係に思いを馳せ、記憶をたどりながら名前を付け足した。「あとは、美羽さんがよくトランプ遊びをしていた奥さん方。優しそうな方たちだから、きっと美羽さんを見送りたいはずですよ。あんなに腕が悪いのに、いつも負けて金品を貢いでくれる『カモ』を失うのは悲しいでしょうから。それと、ユリを毎日取り置いてくれていたあの花屋の店主もね、美羽さんがその人をとても気に入ってましたからね」綾は名前を一つずつスクリーンに打ち込んでいった。数えると10人ほどになった。それで十分だった。遺書の中で美羽は、仲の良い友人たちに最後に一度だけ会えれば満足だと綴っていたから。その遺書は、綾があの山間の屋敷を出る時に美羽の身の回りを世話していたメイドが託したものだった。美羽の遺書には自分のことは書かれておらず、全編が綾への温かい励ましと、これから生きていくことへの願いだった。そうであればあるほど、綾の心は痛んだ。綾は訃報を作成し、メールでリストの人たちへ送った。すぐに、颯太と健吾以外の人たちから返信が来た。悪戯ではないかと疑う声も少なくない。綾は自分の素性を明かし、丁寧に経緯を説明した。そうこうしているうちに、夜は更けていた。綾はパソコンを閉じ、美羽の冷たい手にそっと手を添えた。「美羽さん、おやすみなさい」疲れた足取
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第318話

美羽の葬儀には、綾が招待した面々も訪れ、祭壇には花が手向けられた。綾は訪れた人々に礼を尽くした。話の折々で、皆が口を揃えて美羽を褒め称えていた。とても繊細で、心優しい女性だったと。皆の目には、美羽はポジティブな人に映っていたらしい。毒を飲んで命を絶った話になると、誰もが暗い表情でため息をついた。その晩、誰も帰ろうとはせず、祭壇の周りで美羽と過ごした日々に思いを馳せていた。翌日の朝、皆が見守る中で美羽を埋葬した。納骨の直前、誠がやってきた。彼は血走った目で、墓前へと駆け寄り、綾が抱える骨壺を凝視していた。そして視線は、颯太が抱く遺影へと移る。写真の中の美羽は、月のように穏やかに微笑んでいた。湊から今日納骨だと聞き、誠はそれが嫌がらせのための嘘だと思い込んでいたのだ。だが、湊をよく知る誠には、そんなことで嘘をつく人間ではないという確信もあった。「なぜだ?」美羽の眠りを妨げないよう、掠れた声で誠は聞いた。黒いコートを纏い、髪を一つにまとめた綾は、素顔のままさらに顔色を悪くしていた。綾が静かに視線を上げると、誠は凍りつくような冷たさに背筋が震えた。「亡くなった方への礼儀を守ってください。誠さん、お帰りください」誠は体を強張らせ、胸の中で燃えるような怒りと苦しみが渦巻いた。あの日、病院へ凪のお見舞いに行った。その時、亡くなった美羽と我が子が遺体安置所で眠っていたのだ……夫であり、父親であり、二人にとって一番の家族だったはずなのに。「美羽、どうしてそう身勝手なんだ?俺たちの子だぞ!」誠は発狂したように骨壺を奪おうとした。手に入るはずの幸福が灰になったことが、どうしても受け入れられなかった。綾が一歩下がると、健吾が前に出て彼女を庇った。「マルス、こいつを追い出せ!」「美羽!子供を返せ!俺の子を殺したんだ。地獄に落ちろ!」マルスによって引きずられながらも、誠は汚い言葉で叫び続けた。耐えきれなくなった綾は、健吾に骨壺を託すと、誠の元へ駆け寄って平手打ちをくらわせた。「黙ってください!あなたのような人間、夫としても父としても最低です!美羽さんと子供を追い詰めたのは、あなたと杉本家の連中でしょう!一番の凶悪犯は、誰でもないあなたですよ!」綾の声は掠れ、言葉を発するた
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第319話

「仕事、辞めようと思ってるの」墓地を出て駐車場へ向かう途中、綾はふとそう口にした。美羽の一件を経て、綾は杉本家と一切関わりを持ちたくないと思った。念花での仕事も含め、もう未練はなかった。健吾は少しも驚いた様子はなく、落ち着いた声で言った。「お前の実力ならどこへ行っても問題ない……ただ、よければ青菊へ来ないか?」「辞めたら、少し外の世界を見てみたいの」もう年末だ。綾は来年から新しい仕事を探そうと考えていた。ただし、青菊に行くことは考えていない。明里と協力して、ペット関係の仕事をするかもしれない。マンションの下まで健吾が送ってくれ、綾は彼に礼を言った。「最近は色々と気遣ってくれてありがとう。あなたもお疲れ様。ゆっくり休んでね」「ああ。何かあったらすぐ連絡してくれ」健吾は頷き、綾がエレベーターに消えるのを見届けてから車を出した。綾は夜の7時か8時までぐっすりと眠り、目が覚めると達也に電話をかけた。「達也さん、湊の様子はどう?」ここ最近は美羽の供養で忙しく、湊のことを直接尋ねる暇がなかった。達也がいれば、こっちが過度に心配する必要もなかった。「意識は戻ったよ。今は回復に努めている最中だ」達也は、湊からの釘刺しもあり、全身不随になったことは伏せておいた。「明日お見舞いに行っても大丈夫?」と綾は尋ねた。湊の容態について深く聞くのが怖かった。悪い知らせを聞かされるのではないかと、心臓が痛かったからだ。「大丈夫だよ」何の思惑があったのか、達也は湊に代わって応じた。湊は退院したらすぐに療養所へ向かう計画を立てていた。その前に、綾と顔を合わせるべきだと思ったのだろう。黙って姿を消すことも一種の裏切りだ。話せるうちにしっかり話しておいた方がいい。綾はお風呂に入り、夕食はデリバリーを頼んだ。食事が終わる頃には夜11時を回っており、健吾からメッセージが届いていた。【まだ起きてるか?】【起きてる。夜の7時頃に起きたばかりだから】綾はパソコンに向かい、退職届を書いていた。退職届を仕上げたら、手持ちの案件を引き継ぐ準備も整えなければならない。樹は綾を信用していたので、契約書に違約金について明記していなかった。そのため、いつ辞めても違約金を払う必要はない。確かに樹からは特別扱い
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第320話

綾は仕事を終え、3時間ほど仮眠をとった。達也から湊はまだ食事ができないと聞いていたため、朝食の準備はしなかった。病院に行くと、湊は病床に横たわり、看護師が点滴の準備をしていた。綾は、枯れ木のようにやせ細った湊の姿を見て言葉を失った。綾が来たことに気づいた湊は、青白い顔をさらに曇らせた。「何しに来た?」湊は鋭い声で言い放ち、視線を天井に吊るされた点滴の袋に向けたままだった。綾は、ただ体調が悪いせいで機嫌が悪いのだと思い、特に気に留めなかった。「湊、様子を見に来たの。大丈夫?」湊は鼻で笑った。「お前がいなければ、俺はこんなことにはなっていない」綾は無理をして笑顔を作り、尋ねた。「どうしたの?」「なぜ海斗の正体をバラした?」湊は初めて綾に目を向けたが、その瞳は冷たく凍りついていた。綾はあっけにとられ、なんと答えるべきか迷った。なぜ、と聞かれても。当然、凪を暴くためであり、湊がこれ以上騙されないようにするためだ。しかし、湊の言い分から察するに、答えを求めているのではなく、ただ自分を責めたいだけだった。「事実を知りたくなかったの?」湊が凪の車から自分をかばい、今こうしてベッドから起き上がることもできない状態を見ると、もしや事故のせいで頭でも打ったのか、と聞きたくなった。「時に、真実は残酷で、何の意味も持たないこともある。お前が真実を語ったせいで、俺はすべてを失い、凪も自制心を失ったんだ」湊は顔を背けた。その声は、最大限に抑え込まれていた。綾は憤りを覚え、怒鳴った。「ごめんね、余計なお世話だったわね。あなたの大事な息子を失わせることになっちゃって!」被害者は自分のはずなのに、すべての原因を自分のせいにされ、本当に湊の頭がおかしいのではないかと疑った。「出て行け。もう二度と顔を見たくない」湊は深呼吸をし、両目を閉じた。胸の痛みに耐えかね、眉間にしわを寄せる。綾は驚愕した。以前どれだけ言い争っても、湊がこれほど無情な言葉を口にしたことは一度もなかったからだ。「湊、本気でそう思ってるの?」「ああ、お前といると不幸になる。お前がいなければ、もっと幸せになれた」湊は少しの間を置いて続けた。「そもそも俺たちは既に離婚している。赤の他人だ」綾が見た湊は、以前よりも一層暗い影
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