All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 301 - Chapter 310

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第301話

「宏介はあなたの本当の弟よ。他人じゃないんだから!」と、加奈子は言い返した。あわよくば、凪も自分たちと同じように、可愛がってくれるのではないかという期待が、加奈子の中にはわずかに残っていた。「私に弟なんていないわ。私は二宮家の一人娘よ!」隙を突いて、凪は使用人の膝を蹴り上げた。不意を突かれた使用人は、痛みで手を離してしまった。凪は加奈子に飛びかかり、その腕を捕まえようとした。青ざめた加奈子は、悲鳴を上げて後ろへ逃げようとする。しかし、足が椅子の脚に引っかかって、そのまま床に倒れ込み、後頭部を強打して気を失ってしまった。「奥様!」顔面蒼白になった香織は、慌てて運転手を呼びに行った。加奈子を車に乗せ終えると、香織は凪の方を見て、渋々といった様子でこう言った。「凪様、旦那様が戻ってきたらお終いです。早くここからお逃げください」あんなに平穏だった家が、どうしてこんな事になってしまったのか?床に広がる血の跡を見つめ、凪は手足を震わせ、呆然と立ち尽くしていた。加奈子を引き留めたかっただけ、傷つけるつもりなんて毛頭なかったのに。香織は必ず康弘に電話する。そうなれば、彼に何をされるか分かったものじゃない。凪の頭の中で、考えが駆け巡る。両親が自分の命よりも大事にする息子、宏介のことが脳裏をよぎった。迷わず凪は車を飛ばし、幼稚園へ向かった。「お母さんが急に入院した」という嘘をつき、そのまま宏介を連れ去った。宏介は、いつもより早いお迎えに、嬉しくてはしゃいでいた。「お姉ちゃん、遊園地に連れてってくれるの?」「その呼び方で呼ぶんじゃない!」凪は激しく言い放つ。その呼び方が、何よりも嫌だったからだ。突然の怒鳴り声に、宏介は泣き出した。「家に帰る!ママのところに行くんだ!」「泣き止みなさい!」宏介の泣き声が耳障りで苛立っていたが、凪は渋々機嫌をとった。「分かったから泣きやんで。遊園地で遊んであげるわ。でもまだ泣くなら行かないよ」その一言が効いたのか、宏介は鼻水を垂らしながらも、泣き声をピタリと止めた。加奈子は「遊園地は危険だから」と言って、一度も連れて行ったことはなかった。その時、康弘から電話がかかってきた。凪は不快感をあらわにしながらも、応答した。「この外道が!」繋がるや否や、
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第302話

1時間ほど走り、車が停まった。周囲に何もない田舎の家を見回し、宏介は不満げに口を尖らせた。「騙したな!ここには何もないじゃないか?」「黙って!」凪は宏介を無理やり家の中に押し込んだ。「これ以上うるさくしたら、ここに置いていくから」「お姉ちゃん、怖いよ」宏介は涙を溜めた目で、縋るように凪を見上げた。凪は車からスナック菓子を取り出し、テーブルに置いた。「これを食べて。静かにしていればいいの」庭にある井戸で水を汲み、凪は顔を洗った。祖母・谷口莉緒(たにぐち りお)の家はしばらく空き家だが、凪が定期的に掃除を頼んでいるのでそれなりに綺麗だ。今夜はここで過ごし、明日、康弘と加奈子の様子を見てから決断しようと考えた。しかし、夜になっても宏介が騒ぎ続け、帰りたいと泣き叫んだ。凪は部屋に鍵をかけて閉じ込め、隣の部屋で耳栓をして眠りについた。2日間、加奈子と揉め続け、心身ともに疲れ果てているのに、何一つ得られなかった。加奈子の様子を聞こうと電話をかけようとしたが、その偏屈な態度を思い出すと、どうしても胸のつかえがとれず、結局やめた。耳栓のせいで外部の音は遮断され、深く眠ってしまい、気づけば午前10時を過ぎていた。その頃、綾のスマホにDNA鑑定の結果が届いた。予想通り、海斗は誠の息子であることが証明された。「なんてことなの……」綾は画面を食い入るように見つめ、言葉を失った。誠は子供ができにくい体質だと診断されており、美羽はもう二人に子供は授からないと思っていたのだ。それなのに、二人の関係が終わる直前に妊娠が判明し、さらに誠には隠し子がいたとわかるなんて。湊は海斗が自分の子だと信じて溺愛していたのに、結果は実の兄の子供だったというわけだ。凪はつくづく酷い女だ。兄弟二人をこれほどまでに弄ぶなんて。いや、そうさせてしまった中野兄弟も馬鹿だ。湊があの日、酔った勢いで道を踏み外さなければこんな事態にはならなかった。誠が色気に惑わされなければ、これほどまでに家族を不幸にすることなどなかっただろう。綾はその結果のスクリーンショットと、誠の不倫の証拠を揃えて、湊に転送した。多くを語る必要はない。これを見れば全てを理解するだろう。凪はおそらく、海斗を利用して二つの家から金を引き出そうとしている
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第303話

誠に嘘はないはずだ。宗介は底知れぬ策士であり、そもそも誠を嫌っているからだ。「あなたにその資格はありません。あなた自身のせいで、美羽さんを追い詰めたんでしょう?」浮気とDVを繰り返していた時は家族のことなど考えていなかったくせに、今さら妻子を心配するなんて。綾は心底呆れ果てた。誠は怒りもせず、ただただ、美羽と子供が自分のもとへ無事に戻ることだけを願っていた。「美羽のお父さんは言った。子供が生まれたら、その子を俺に渡す。それ以降、中野家と杉本家は縁を切ると話していた。それに、美羽を完全に『中野家の人間』として扱っている。だから俺のところ以外、美羽には行く場所などないんだ」「誠さん、美羽さんは誰かに依存しないと生きられないわけじゃないです。ほどほどにしてください」綾は眉をひそめて電話を切った。誠という男は本当に役に立たない。何の手がかりもよこさないし、自分で探すことすらせず、妻子が戻ってくるのを待つだけなんて。樹に連絡を試みたが、余計なことをするなと突き放され、それ以降は何の返事もなかった。昼過ぎまで忙しく動き回ったが、結局何も収穫はなかった。凪は目を覚ましてからずっと待っていたが、康弘からは一度も連絡が来ない。宏介は康弘や加奈子にとっての宝物だ。凪は、二人が宏介を苦労させるわけがないと思っていた。その代わり、自分を犠牲にするのは平気なのだ。そう思うと、凪は康弘にメッセージを送った。【警察には言わないで。そうじゃなければ、このガキには二度と会えなくなるから】凪はお菓子をつまむ宏介を横目で見る。宏介は自分とそっくりで、加奈子に瓜二つだ。以前はその美しさを誇りに思っていたが、今はこの顔を見るだけで吐き気がする。スマホが震え、画面を見ると凪の表情が一瞬凍りついた。【お前のお母さんは緊急手術を受けている。騒ぐのはやめろ。宏介を連れて今すぐ来い】凪は躊躇した。どれほど恨んでいようと実の母親であり、自分が突き飛ばした結果なのだ。だが、たかが転んだくらいで大げさだと考え直す。【ハッタリをかまさないで。残された時間はあと半日よ】しばらく待っても、返信がないことに焦りが募る。加奈子は本当に危ない状態なのか?その時、宏介がアクビをしながら言った。「お姉ちゃん、いつ家にかえるの?」宏介はいつも加奈子と
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第304話

凪は躊躇っている暇はないと考えた。誠は海斗を必要としていないからだ。湊が海斗を送り出したとしても、それは捨てるのと同じだった。凪は宏介を部屋に呼び込み、外側から鍵をかけた。中からの叩く音や泣き声を無視し、毅然と背を向けた。宏介はまだ利用価値がある。泣き声ひとつで揺らぐほど甘くはない。今の生活において、心を鬼にして進むしかなかった。夕方5時半、星影荘に着くと、海斗が入り口で待っていた。自分よりも背の高いスーツケースが二つ横に並べてあり、幼い影は一人ぼっちで佇んでいた。その姿を見て、凪の胸は締め付けられるように痛んだ。海斗は凪を見つけると、とびきりの笑顔で駆け寄ってきた。「ママ、パパ……中野おじさんがママがお迎えに来てくれるって言ってたよ」湊の言い含めを思い出し、慌てて呼び方を変えた。湊から、もうパパではないと言われていたからだ。海斗は、これはただのゲームだと思っている。ママと会って帰ればまたパパと呼べるはずだと、気楽に構えていたのだ。「海斗、一緒に帰ろうね」凪は海斗の手を引き、車へと向かいながら顔を上げ、涙を必死にこらえた。悲しみに浸る余裕はない。今は憎しみだけあればいい。泣いたところで弱さが増すだけ。憎しみこそが生きるためのエネルギーだった。「ママ、どこへ行くの?」後部座席に大人しく座った海斗が、好奇心に満ちた目で尋ねた。「海斗、ちょっとママがお仕事で忙しくなっちゃって。2日間、親戚の晴香ひいおばあちゃんの家に預かってもらおうと思うんだけど、いいかな?」凪は涙を拭った。海斗の行き場などもうどこにもない現実と向き合わねばならなかった。自分が海斗の唯一の拠り所。それでも諦めたくない。海斗を抱えたまま消えるなどという結末は許せなかった。海斗が不満げに言った。「やだ、ママと離れたくないよ」「晴香ひいおばあちゃんの家にはね、猫も犬も、それから鶏やアヒルもいるんだよ。海斗は動物が好きでしょ?」凪が話す松尾晴香(まつお はるか)は、莉緒の実の妹のことだ。幼い凪にとても優しくしてくれた、心優しい人だった。莉緒を除けば、凪が一番慕っていた存在だった。もし莉緒が健在であれば、ここまで海斗と困窮することもなかっただろう。海斗はその話を聞いて、ぱあっと目を輝かせた。「わあ
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第305話

凪は深く息を吸い込み、口角を無理に上げた。「海斗は悪くないわ。謝らなくていい。他人を心配できるのは優しい証拠よ」それ以上、海斗をなだめる余裕もなかった凪は、カーオーディオをつけて、童話の物語を流し続けた。車は高層ビルが立ち並ぶ都市を離れ、郊外へと進み、やがてある村へと入った。閑散とした道には、数人の老人と数匹の犬しか見当たらなかった。彼らは好奇心旺盛に豪奢な車を見つめ、村の端にある古い家の前で車が止まるまで、その行方を追っていた。「晴香おばあちゃん」半開きになった門越しに、凪は手を引いていた海斗を連れて声をかけた。「どちら様かな?」枯れた声とともに家から現れた老人は、足取りもしっかりとしていて、白髪もほとんどなく、とても元気そうだった。想像していた姿とは少し違ったが、記憶にある面影と重なる部分が確かにあった。「私よ、凪よ」凪は鼻の奥がツンとし、懐かしさで心が熱くなるのを感じた。最後にこんな気持ちを味わったのは、10歳の頃、莉緒に髪をすいてもらった時だった。その日、加奈子が莉緒の家まで凪を迎えに来て、莉緒が綺麗に3つ編みをしてくれたのだ。凪は帰りたくないと泣きわめき、加奈子に怒鳴られた。莉緒は「また休みになったらおいで」と言って慰めてくれた。しかし、次に再会できたのは3年後。莉緒は既に他界しており、二度と髪をすいてくれることはなかった。凪が加奈子とうまくいっていない理由は、主にこの一件にある。あれから3年間、加奈子は莉緒に会いに行かず、凪が行くことも許さなかったからだ。目の前の晴香は、特に今のその表情が莉緒とよく似ていた。晴香は凪を見ると、満面の笑みを浮かべた。「まあ、凪!本当に凪だね!あらまぁ、こんなに大きく育って。お姉ちゃんが見たら、どんなに喜ぶことか」凪は海斗を優しく前へ押し出し、「海斗、挨拶して。晴香ひいおばあちゃんよ」と言った。「晴香ひいおばあちゃん!」海斗は元気よく挨拶したが、視線は晴香の足元にいた子犬に釘付けになっていた。晴香は嬉しそうに彼を見つめた。「凪の子かい?」「ええ、もうすぐ6歳になるんだわ」「まあ!お姉ちゃんが生きていれば、きっと大喜びしただろうに」晴香は手の甲で目頭を拭いながら、海斗を抱き上げた。「部屋においしいものがあ
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第306話

美羽のことを心配して、綾は午前中ずっと上の空だった。昨日、DNA鑑定の結果を湊に送ったのだが、今朝幸子から、湊が凪に頼んで海斗を連れて行かせたと聞いた。今朝、康弘からも電話があり、凪が宏介の存在を知って激昂し、そのせいで加奈子が入院したと聞かされた。綾にとって、それは驚くことではなかった。嘘はずっとはつけないものだ。宏介という生身の人間がいる以上、バレるのは時間の問題だったのだから。康弘が電話をかけてきたのは、自分の悲惨さをアピールして、二宮グループに金を出させようという魂胆だ。しかし綾は適当な言い訳をして、申し出は断った。もともと二宮家に関わったのは、凪への復讐が目的だった。今はもう二宮家と凪が仲違いし、彼らに関わるメリットは自分にとって無かった。二宮家が所有していた価値のある土地は健吾の手に渡った。残りの株も大した額ではないし、健吾の方も二宮家には目もくれていない。綾がデスクでぼんやりしていると、温かいコーヒーが目の前に置かれた。「颯太さん?」颯太は最近、美羽の捜索に追われており、ここ数日研究所に顔を出していなかった。「美羽さんの消息はつかめた?」颯太は首を振り、溜息をついた。「いや、まだだ……何を考えていたんだ?」綾は海斗のことを話し、「笑っちゃうよね」と力なく笑った。颯太は首をかしげた。「誠さんと中野社長はビジネスに関しては抜け目ない連中なのに、なんで二宮さん一人に手玉に取られているんだ?」「自信過剰なのよ」綾は冷ややかな目で言った。「誠さんは自分が凪を操っていると高を括り、湊は凪が従順だと思い込んでいる。自分の都合のいいようにしか見ていないのね。凪が自分の利益のために彼らを利用しているだけだとは、思いもしないんでしょ」ただ、何も知らない美羽がこのとばっちりを受けているのが不憫でならなかった。颯太は何かを思った様子で言った。「子供の件もはっきりしたんだし、中野社長と復縁してもいいんじゃないか?」綾は笑った。「颯太さん、私たちの一番の問題は、海斗くんじゃないのよ」湊が6年もの間、体裁を重んじて嘘をつき続けていたこと。そして、自分のことを何一つ理解していなかったこと。そのせいで、結婚生活とは呼べないものになっていたのだ。自分が演じていた役割は妻なんかじゃない。和子に対して
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第307話

「仕事は終わったわ。お先に帰るね」颯太に頼ってもどうにもならないと悟った綾は、他に救いを求めるしかなかった。あわただしく去っていく背中を見送りながら、颯太は力なく首を垂れ、自嘲の笑みを浮かべた。綾は昔から、どうしても他人を放っておけない性格だ。かつては湊のために奔走し、今度は美羽のために気を揉んでいる。そのせいで、綾はいつも誰かのために駆けずり回り、身を粉にしている。だが、そんなところこそが、他でもない綾という人間なのだ。研究所を後にして、入り口のゲートを出たその時、一台の車が猛スピードで綾に向かって突っ込んできた。あまりの速さに避ける余裕はなく、運転席に座るひどく歪んだ表情の顔が見えた。凪だった。「あッ!」恐怖で目を閉じ、悲鳴を上げた瞬間、激しい衝突音が鳴り響き、タイヤが地面を激しくこする鋭いスキール音が続いた。迫り来る衝撃波に足をすくわれ、綾は後方に弾き飛ばされるように地面へ崩れ落ちた。目を開けると、別の車が横向きになって凪の車を阻止していた。鼻先まで、あとわずか50センチだった。あの車が無理やりにでも突っ込んで防いでくれなければ、今の自分はタイヤの下だった。綾は震えが止まらず、立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。慌てて辺りを見回し、少し先に倒れている人影を見た瞬間、張り詰めていた心が音を立てて崩れた。湊が血に染まり、動かぬまま地面に倒れている。「湊!」綾は叫び、震える指先でスマホを操作し、達也へ電話をかけた。「達也さん、湊が事故に……お願い、すぐに来て」声は泣きじゃくるように震え、頭は真っ白になった。視界には、辺りを染める鮮烈な赤色しか映らなかった。「湊、耐えて!今、達也さんが向かってるから」鮮血にまみれた湊の姿を見て、怖くて、怖くて、どうしてもその体に触れることができなかった。異変を聞きつけた颯太が駆け寄ってきたが、現場の惨状を見て、声すら上げられないでいた。湊のケガはひどい。強い衝撃によって車から放り出されたのは明らかだった。凪もまた、エアバッグと座席の間に押しつぶされるようにして意識を失っている。その車内にはまだ子供の姿があった。シートベルトのおかげで車外には投げ出されなかったものの、事態は極めて深刻そうに見えた。颯太は急いで救急車を呼び、守衛
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第308話

現場に到着した達也は、惨状をひと目見ただけで心臓が凍りつく思いがした。彼は同行した医療スタッフに負傷者3名を救急車へ運ぶよう指示し、自分は湊の乗る車両に同乗して車内で救急処置を開始した。颯太は綾を車に乗せ、救急車を追って病院へ急いだ。湊、凪、そして宏介の3人が次々と手術室へと運び込まれた。黒崎病院中の各診療科の専門医が招集され、湊を救うべく総力戦が繰り広げられた。綾は手術室前の長椅子に座り込んでいた。頬に残った涙の跡はすでに乾いていた。颯太はウェットティッシュを取り出し、綾の手についた血を拭った。「ここには世界トップクラスの医師が揃っている。中野社長は6年前と同じように、必ず命の危機を乗り越えてくれるよ」綾は極限の恐怖を経験し、感情が麻痺していた。彼女はスマホを取り出し、康弘へ電話をかけた。康弘は下の階で入院中の加奈子の看病をしていた。事態を知ると、1分も経たずに駆け上がってきた。「宏介はどうなったんですか?」「手術室に入っています。命に別状はないはずです」と颯太が答えた。「なんて奴を育てちまったんだ!宏介に万が一のことがあれば、凪のやつを地獄に落としてやる!」康弘は怒りに打ち震え、目を血走らせて呟いた。颯太が冷静に諭す。「娘さんが負った傷は息子さんよりもはるかに深刻です。一命を取り留めたとしても、一生体に障害が残るかもしれません」「自業自得でしょう!手術室でそのままくたばってもいいですよ!」康弘はそう言い放ち、耳を塞ぎたくなるような呪詛の言葉を次々と口にした。これ以上聞いていられなくなった颯太は、冷ややかな声で告げた。「二宮社長、ここは病院です。静かにしてください」颯太が送られてきた監視カメラの映像を確認すると、凪は長い時間研究所の外で待機していた。その標的は間違いなく綾だったのだ。綾が出てきたタイミングで、湊は駆けつけた。湊が車を停め、シートベルトを外した瞬間、凪が車を急発進させて研究所の入り口へと向かうのが見えた。湊は直感で凪の企みを感じ取り、シートベルトをする時間すら惜しんで凪の車両へと突っ込んだのだ……湊の反応が少しでも遅れていたら、今ごろ運び込まれていたのは綾だったはずだ。1時間が経過したが、手術室から出てくる者は誰もいなかった。2時間が経過し、ようや
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第309話

達也は真実を話すことができず、ましてや綾をここに残すことなどできなかった。「でも……」綾はなんとか居残ろうとしたが、達也はそれを遮った。「君が残ると湊も気になって回復に響くんだ。綾、信じてくれないか?」綾は下唇を強く噛みしめ、小さく頷いた。「分かった。帰る」湊の容態が良くないことを察したが、達也の邪魔をしたくなかったのだ。帰る前、綾は湊が入っている集中治療室の前に行き、ドアのすりガラス越しに中を覗き込んだ。湊は無機質な医療機器と管に囲まれていて、その姿は見えなかった。帰り道、送ってくれた颯太が聞いた。「食事でもしていかないか?」「いいえ。すごく疲れたから、家に帰って眠りたいの」心がかき乱されていた綾は、とにかく早く家に帰って独りになりたかった。颯太はそれ以上引き留めず、綾を玄関まで送り届けてから去った。綾はドアを閉めると、そのままソファーに崩れ落ち、体を小さく丸めた。そのまま一晩中ソファーで横になり、スマホを握りしめ、消音設定になっていないか、着信やメッセージがないか、確認し続けていた。空が明るみ始める頃、ようやく重くなった瞼を閉じた。2時間しか眠れなかったが、静まり返った家にはもういられなかった。車を出して黒崎病院の周辺をぐるぐると回った。病院はいつもと変わらぬ光景で、患者が行き交い、時折泣き叫ぶような声も聞こえてくる。綾は病院の向かい側に車を止め、そのまま夜まで待った。途中、我慢できず達也に【湊は目覚めた?】とメッセージを送ったが、何の返信もなかった。午後にマルスから電話があり、手助けが必要かと尋ねられた。その頃、健吾もまたマルスから電話を受けていた。その夜は健吾の婚約披露パーティーだ。「健吾様、中野社長が大事故に遭いました。二宮さんが車で綾さんをひこうとして……」マルスは電話越しに、起きたことの全てを詳細に報告した。健吾は電話を切った後、アドレス帳を開き、綾の名前をじっと見つめたが、結局かけることはなかった。今の綾は、自分の声さえ聞きたくないはずだ。ビアンカが首をかしげた。「チェッコ、本当に結婚するの?」ビアンカには結婚が何を指すのか分からなかったが、二人がこれからずっと一緒に暮らすものだと聞かされていた。健吾に結婚なんてしてほしくなかった。結婚
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第310話

湊は病室のベッドに横たわっていた。呼吸は荒く、顔はひどく青ざめている。達也が彼のスマホを取り上げ、人工呼吸器を取り付けた。「今はただ休め。余計なことは考えるな」湊は意識を取り戻すと、体調を顧みず、どうしても健吾に電話をかけようとした。何を話しているのかは聞こえないが、その死にそうな表情からして、良い内容ではないことは確かだ。湊は目を閉じ、か弱く震える長いまつ毛が呼吸に合わせて微かに揺れる。全身に痛みが走る。しかし、何よりも心が痛い。まるで世界中の重圧が、たった一つの心臓にのしかかっているようだ。翌朝、達也のもとに再び綾からの問い合わせメッセージが届いた。昨夜、湊がはっきりと面会を拒否していたため、達也は【まだ会わせられない】とだけ返した。湊の心身に影響を出さないためには、綾は近づかせないほうが賢明だ。若い医師がカルテを抱えてやってきた。「院長、二宮さんの検診が終わりました。昨日と同じ状況です」達也は頷いた。「分かった」湊をあれほどの目に遭わせた凪のことを、本音では診療したくなかった。しかし、医者として、どんな相手でも命を救う義務がある。目の前にいるのはただの患者だ。善人か悪人かで区別することはできない。治療のかいあって、凪は一命を取り留めた。しかし足の怪我がひどく、生涯車椅子生活になる可能性が高い。宏介は肋骨が2本折れたものの、他の傷は比較的軽傷だった。面会を断られた綾は、再び車を走らせて黒崎病院を後にした。近くのカフェに入り、コーヒーを注文すると、窓辺で頬杖をついてぼんやりと空を眺めた。どうしてここまで、何もかもが最悪な方へ転がってしまうのだろう?美羽の行方は知れず、湊は病院で寝たきり。この人生は、どうしてこうも呪われているのか?幸せが見えた途端、運命はいつも残酷な悪戯を仕掛けてくる。両親がいなくなった時、親戚はこぞって自分を引き取ろうとした。大切にされていると思っていたら、彼らが奪い合いをしていたのは自分の財産の方だった。和子に引き取られ、そこからの10年は比較的穏やかに過ごせた。大学を出たら健吾と結婚しようと思っていた矢先、湊が事故に遭い、障害を装って自分を6年間も縛りつけた。ようやく離婚し、新しい生活が始まったと思ったら、またこの騒動だ。神様はこれ以上自分
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