Tous les chapitres de : Chapitre 321 - Chapitre 330

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第321話

「達也さん、湊に伝えて。退職したから、しばらく海外で生活する予定だって。湊の体調については、達也さん、どうかよろしくね」そう言って、綾はエレベーターへと歩いていった。1階へ下りると、康弘と加奈子に出くわした。康弘は宏介を抱きかかえ、加奈子の手には薬の袋が提げられている。綾はその場を通り過ぎようと努めたが、加奈子に呼び止められてしまう。「綾さん、あなたと凪との間であったことは、これでもう帳消しってことでいいでしょう?あなたが青木社長と組んで私たち二宮家を陥れたこと、そして海斗の出生の秘密をバラしたこと。凪があなたを車で轢こうとしたのも、結果的に中野社長が身を挺して止めてくれたんですから」綾は無表情で加奈子を見つめ、「言いたいことがあるなら、はっきり言ってください」と冷たく返した。「これで過去のことは水に流してくれませんか?中野社長が、二宮家に報復するようなことはさせないでほしいのです。第一、そんなに恨みがあるなら、凪との個人的ないざこざでしょう。矛先を誤らないでください」加奈子の言い回しを聞き、綾はその裏の意図を察した。つまりは、宏介をトラブルに巻き込むなということだ。綾は二人を軽く一瞥して、「二宮家に興味はないですから」と冷めた言葉を返した。二宮家は薄情な連中だ、なるべく関わらないのが一番だ。その午後、綾は弁護士との面会に向かった。凪による計画的な犯行を、法的に裁いてもらうためだ。凪のもとに法廷への召喚状が届いたのは、彼女がリハビリをしている時だった。足はもう二度と動かないと言われているが、わずかな望みを捨てられずにいた。看護師が「念花グループのエンジニアさんが開発した製品なら、お役に立てるかもしれませんよ」と言った。「死んでもごめんだわ。地面を這ってでも、あの女が作ったものなんて使わない」凪がそう叫んで、両手で体を支え前に動こうとしたが、無残に床へと転がり落ちた。治りきっていない傷口が痛み、顔が歪む。そんな折に、タイミング悪く召喚状が届いたのだ。綾は、「計画的に殺そうとした」として訴えてきた。足が不自由になった時点で全て許されると思っていた凪は、震えを抑えられなかった。いつも大人しさを装っている綾が、いざとなればこれほど非情になるとは。病室へ入ってきた誠は、
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第322話

「君は足が不自由だし、訴えられる身だろう?海斗を幸せに育てられるのは、この俺しかいない!」誠は諦めきれない。凪が民事裁判を抱えて危機にある今こそ、海斗が彼女から離れるチャンスだ。凪は無視し、大声で叫んだ。「看護師さん、体が痛いんです」二人の看護師が入ってきて、誠に言った。「すみません、お引き取りください」誠は追い出され、秘書に電話して海斗の行方を探させることにした。凪はシーツを強く握りしめ、胸が苦しくてたまらなかった。海斗を誠に渡してしまったら、この子を完全に失うことになる。誠は湊よりずっと冷酷で、自分のことしか考えていない人間だ。凪は歯を食いしばり、知り合いの記者に連絡を取った。「中野グループの会長が浮気してるネタがあるわ。安く売るわよ」相手は半信半疑だ。「あの人って、凪さんの元婚約者のお兄さんだろう?」「浮気相手は私よ。正妻を追い詰めて自殺させた挙句、子供まで捨てたの。これなら十分じゃない?」凪の目は冷徹に濁った。海斗さえ無事なら、もう何もいらない。誠を売って金を手に入れ、同時に社会的な立場も壊してやる。一石二鳥だ。しかし、凪が暴露する前に、先に誠に関するニュースが世に出た。スマホの急上昇ワードを見た綾の目に、喜びは一切なかった。和子には申し訳ないが、美羽を死に追いやった誠をのうのうとさせてはおけない。誠のDVと浮気、隠し子の発覚と妻の死が報じられ、中野グループで臨時株主総会が開かれた。第一株主である綾は総会を主宰し、誠の解任議案に投票した。結果、誠は解任され、任期中の職権乱用について、グループの法務部が法的措置を取ることになった。同日午後の取締役会で、綾は圧倒的な票数を集め、新会長兼社長に選ばれた。綾は驚いた。中野グループ内でこれといった地盤があるわけでもない。持ち株を除けば、何も優位な要素はないからだ。特に湊が辞任したと聞いたとき、胸の奥がざわついた。鋭い直感が、湊が何かを隠していると告げていた。その夜、達也や湊に黙って、こっそりと病院に向かった。病室の外から、真司の声が聞こえてくる。「ご指示の通り役員会へ通達しました。綾さんが新会長兼社長です」綾はドアにかけた手を止め、固まった。「彼女になら任せられる。達也に言っておけ。明日、療養所へ向かう」
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第323話

綾は憤慨して言った。「私は一人の大人として自分の考えで動いている。誰かに勝手に決められる覚えはないわ」達也は、また何か言いくるめられるのかと身構えつつ、探るように問い返した。「何を知ったんだ?」「湊が全身不随になって、療養所へ行くなんて……私が知らないことが他にもあるなら、教えてくれない?」綾の口調が少しだけ和らいだ。どれほど傷ついても、どうしても冷徹になれない優しい心の持ち主だった。達也は少しの間沈黙してから、隠し事はせず、湊の余命があと6年かもしれないという事実を告げた。隠し通して万が一のことがあったら、綾が一生トラウマを抱えることになると思ったからだ。「綾、湊には知らせるなよ。彼は君を心配するから」「分かったわ」綾は電話を切った。車の中にいたが、まるで雪山に一人放り出されたような心境だった。寒くて、寂しくて、途方に暮れていた。悲しむ力すら残っていない。体も心も凍りついていた。自分は、死神そのものだ。18年前のあの冬の夜に、凍えて死んで親の元へ行くべきだったのだ。その時、スマホの着信音で我に返った。健吾からだ。出ようとしても指一本も動かせない。時間がここで止まってしまえばいいのにとすら思った。健吾から立て続けに何回も電話が来たが、体が言うことを聞かなかった。ついには、通知が届いた。【大丈夫か?見たら返事をしてくれ】【大丈夫よ】力の入らない手で必死にそう返すと、綾は明里に電話をかけた。「明里、迎えに来てくれる?」20分後、明里が駆けつけてきた。「綾、一体どうしたの?」綾は弱々しく微笑んだ。「なんでもないわ。ただ、体が少し動かなくなっちゃっただけ」「先生を呼んでくる!」車はちょうど黒崎病院の前に停まっていた。パニックになった明里が中へ走ろうとするのを、綾が呼び止めた。「ダメ。そのうち治るから。家まで送って」明里は頷くと、綾を後部座席に乗せた。「私の家に行くわよ。ニコさんも今は出張中だしね」「お願い」頭の中では思考が駆け巡っていたが、体は氷のように冷えていた。「綾、一体何があったの?」明里が不安そうに尋ねた。毎年健康診断も受けている綾が、原因不明で動けなくなるなんておかしい。見たところ、ただの身体的な病気ではなさそうだった。綾は、湊の
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第324話

明里はバックミラー越しに綾を見た。「健吾からだけど、出る?」「出て。今あなたと一緒にいるから大丈夫って伝えて」綾はひどく動揺していた。健吾とどう向き合えばいいのか分からない。けれど、無用な心配をかけるわけにはいかない。「もしもし?」明里が電話に出て、スピーカーにした。「綾とは連絡取れたか?」健吾の声は落ち着いている。それでも隠しきれない焦りが伝わってきた。「今、一緒にいるけど。何か用なの?」「綾は、無事なのか?」明里は一瞬綾の方を見て、「気分が沈んでるみたいだけど、他は大丈夫だよ。心配しないで」と返した。「頼む、面倒を見てやってくれ」「分かってるって」明里は待ちきれずに電話を切った。車内の沈んだ雰囲気の中でも、好奇心は抑えられそうになかった。「健吾と、どうなってんの?」美羽の葬儀で気づいたのだ。健吾が綾を見つめる瞳が、以前とは明らかに変わっていたことに。澄み切っているのに底が深い。二人が熱烈に愛し合っていたあの頃と同じ瞳だ。「分からないの」綾は、美羽の死後、健吾がずっと傍らにいてくれたことを話し始めた。「絶対にもう綾のこと許してるよ。それどころか、また愛し始めちゃってるんじゃない?さすがは健吾だね。都合のいい男の役回りだって受け入れちゃうなんて」明里は興奮を隠せなかった。もちろん綾と健吾が別れた時、明里自身も彼と大喧嘩をして絶交状態だった。だが、二人の愛を目の当たりにしてきた明里にとって、綾の意志よりも健吾の意志が強固なものだと分かっていた。「私、湊とは離婚したの。でも……」綾が最後まで言い終わらないうちに、明里が鋭い声で遮った。「綾!」明里は怒っていた。離婚という大問題について、綾が一切明かさなかったからだ。「お願い、説明させて」と綾は力なく言った。「私が納得する説明をしなさいよ」念のため、明里は車を路肩に止めると、シートベルトを外し、後部座席の綾の隣に滑り込んだ。「さあ話しな。全部話してから、帰宅しよう」綾は水筒に目をやって「水」と言った。明里が蓋を開けてやった。一口飲んでから、綾はこれまでの全てを包み隠さず打ち明けた。「今は私が中野グループのトップに立ってる。凪も自業自得の結果を迎えたし、もう離婚を隠す理由はないの」「綾、まだ許せ
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第325話

家の外に出ると、明里がすすんで綾をおんぶした。ハルちゃん、ナツちゃん、アキちゃんもドアまで出迎えに駆け寄ってきた。明里はソファに綾を降ろし、家政婦にうどんを作ってくれるよう頼んだ。「お腹すいたから一緒に熱いの食べようよ。絶対美味しいよ」「ちょうど私も少し空腹だったわ」アキちゃんが綾の膝の上に飛び乗ると、綾はアキちゃんのお腹に優しく手を置いた。明里と雅也の住まいは邸宅だった。二人と3匹の他に、運転手と2人の家政婦が一緒に暮らしている。うどんを食べているとき、明里が急に綾の目を見つめてきた。「綾、私の前からいなくならないで。ずっとずっとだよ」綾はきょとんとした顔で「どうしたの?」と聞いた。明里はうつむいて、鼻をすすった。「綾が自分は疫病神だなんて思って、私から離れちゃうのが怖いの」明里は手の甲で涙を拭い、顔を上げた。「綾に会えたのは私の一生の幸運よ。本当に。誰よりも私のことを分かってくれて、理解して、包み込んでくれる。すごく安心するの。綾がいるだけで、私の人生、孤独なんて感じないわ」明里がそんな大真面目なことを言うのは珍しく、自分でもおかしくなったのか涙を拭って笑顔を見せた。「気の利いた慰めなんて言えなくて、ごめんね。とにかく、自分を卑下しないで。綾が傷つくと私も悲しいの。大切な親友だから、あなた自身を含め、誰にも傷つけさせないわ」明里は綾の手を握り、真っ直ぐに伝えた。綾は以前、一番つらい時に友情が支えだったと言ったことがある。この友情が、今の時期を乗り越える力になればと願っていた。綾はぼんやりと明里を見つめ、ふと笑った。「明里、もう少し時間をちょうだい。今感じている絶望や痛みは一時的なものだわ。時が経てば、必ず前を向けるようになる」それは確信であり、自分自身への自信でもあった。どんな困難にぶつかっても、いつも立ち上がり、また一歩踏み出すことができるのだ。明里はうなずき、胸をなでおろした。夜中、二人はあたたかい布団に潜り込み、内緒話を続けた。「綾、健吾と一緒にならないの?」綾はしばらく考えてから、まじめに答えた。「そうね、きっと健吾はもっと素敵な人と一緒になるべきだと思う」明里は腹を立てて綾を軽くつねった。「綾が一番よ!それに勝手に健吾の将来を決めないで。
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第326話

送信すると、明里は嬉しさのあまり布団の中で身をよじらせていた。綾は慌てて布団を蹴り飛ばすと、洗面所に駆け込み鍵をかけた。扉に背中を預けて立ち尽くす。心臓がドクドクと、小鹿のように胸の中で激しく波打っていた。メッセージを打ったのは明里なのに、まるで自分の手で送ったかのように指先まで震えていた。鏡に映る自分は耳まで真っ赤で、頬も火照っている。緊張と不安。そして、どこか悲しいような気持ち。健吾からどんな返事が来ても、どう受け止めればいいのかわからなかった。拒絶された方が楽かもしれない。そうすれば、未練も残らないのだから。それなのに、健吾の返信は期待していたものじゃなかった。【綾に伝えて。俺は今も、6年前のまま彼女を待っていると】明里はスマホを手に持ち、洗面所の扉を叩いた。「綾!健吾はうなずいてくれたよ!」その言葉を聞いた瞬間、綾の胸がズシリと重くなった。彼女は扉を開けて、そそくさと布団に戻って潜り込んだ。明里は不思議そうな顔で、綾を見つめた。「どうして嬉しそうじゃないの?」健吾も綾も独身の今、やり直すチャンスだというのに。綾はゆっくりと首を振った。「分からないの」明里は少し考えてから、優しく言った。「自分の心に素直になればいいよ」手足の痺れを感じて、軽く揉んで、綾は小さく丸まった。「明里、健吾のことは愛しているわ。でも、愛情だけが人生のすべてじゃない。健吾はエステ家の御曹司で、青木家の跡取りよ。それに比べて私は……」明里は眉をひそめる。「綾、自分を卑下しないで。あなたは健吾に劣ってないわ」「恋愛のせいで、自分をまた別の籠の中に閉じ込めたくないだけよ」綾は以前、ルカがビアンカに冷たく当たるのを見ていた。ビアンカですら容認されないのに、自分ならなおさらだ。それに、青木家といえば伝統を重んじる格式高い家系で有名だ。家の規律も厳格に違いない。嫁ぐ相手の、地位や家柄を重視するのが決まり事だ。昔、健吾の母親ですら貴族の末裔でありながら、離婚を理由に家から距離を置かれたことがあった。自分の方が身分が低ければ、何かと相手にいいように操られる羽目になる。18歳の頃の綾なら、世間知らずで怖いもの知らずだった。ただひたすらに、健吾と結ばれたい一心だった。けれど、今の綾にはもう無理だ。
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第327話

以前、綾が無垢で守るべき存在だと思っていた。だがこの1年で、自分は綾のことを何も知らなかったと気づかされた。綾は、自分が知る誰よりも強く、そして信念を持った人だった。「湊、準備は全て整った。午後には療養所へ行けるよ」達也が病室に入ってきた。今日は白衣を脱ぎ、スーツ姿で現れた。湊は苦笑を浮かべて聞いた。「送ってくれるのか?」「ああ、空の上でくたばった時の見届け人ってところだ」達也はぶっきらぼうに言った。湊の頑固さは筋金入りだ。今日行くと言えば、何があっても引き下がらない。「悪いな」湊が視線を向けた途端、笑みが凍りついた。「アンナ?」「ごめんなさい、こんなに遅くなってしまって」アンナはゆっくりと病床へ近づくと、涙を浮かべて湊を見つめた。しかし、湊は冷たく突き放した。「会いたくない。出て行ってくれ」かつてI国を訪れた時も、アンナは湊を避け、ボディガードを使って追い返した過去がある。あの日を最後に湊は、自分には母親などいないと思うことにした。「あなたのお父さんが私を海外へ売ったあの年、私はエステ家のカジノに多額の借金を作り、死ぬまで離れられない契約をさせられたの。逃げ出せば、すぐに手足を切り落とされてしまうわ」アンナは必死に弁解した。許してほしいわけではない。この別れの時くらい、湊に悲しい思いをさせたくないだけだった。湊はただの言い訳だと鼻で笑った。「嘘をつくな。俺に言ってくれればよかったんだ。借金くらい肩代わりしてやった」アンナは苦しげに俯いた。「あなたのお父さんの死後、身を守るためにカジノの有力者の愛人になるしかなかったの。相手は絶対に私を逃してくれない」達也は何も言わず病室を後にし、静かにドアを閉めた。友人として湊の複雑な境遇は知っていたが、実の母親が生きているとは知らなかった。「なら、今更何をしに戻ってきたんだ?」湊はアンナを見据えた。まるで赤の他人を見るような冷ややかな目だった。「チェッコさんが解放してくれたの。やっと自由になれたのよ」とアンナは答えた。「湊、お願い……これまでの償いをさせてちょうだい」湊の父親と一緒にいた頃のアンナはまだ若く、世界は自分を中心に回っていると信じていた。歳を重ね、多くの経験をしてようやく理解したのだ。自分などこの広い世界で
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第328話

湊が旅立ってから3日目、綾は健吾を呼び出した。これが最後の一件だ。すべて終われば、ようやくこの東都を離れられる。青木家の屋敷で夕食を共にする約束をしていた。綾が到着すると、健吾はちょうど木彫りの制作中だった。綾は声をかけず、静かに隣の席で彼が終わるのを待った。オデュッセウスは、前回の綾の怪我を覚えているのか、少し離れた場所に座り、恐る恐る彼女をうかがっている。綾が微笑んで手招きすると、オデュッセウスは優雅に歩み寄り、ゆっくりと距離を詰めてきた。綾の目の前まで来ると、小さく頭を下げる。綾はそっとその頭に手を乗せ、優しく撫でた。許可をもらったと思ったのか、オデュッセウスは尻尾をブンブン振って綾の膝に前足を乗せ、舌を出して甘えてきた。一人と一匹が仲良く戯れていると、健吾は彫刻刀を置き、布で木くずを丁寧に拭き取った。「これ、私?」綾の目が輝いた。そこには確かに自分が彫られていたからだ。健吾は均整のとれた指で繊細な木彫りを手に取った。ランプの灯りに照らされ、指は宝石のように、彫刻は銅のような美しい光を放っている。「今回はうまくできたな」健吾は立ち上がり、棚を開けてそこに木彫りを収めた。綾がその棚の中を見ると、何十個もの木彫りが並んでいた。ほとんどの顔には目鼻立ちすら刻まれていない。それらすべてが、まるで自分に見えた。「それ、私にちょうだい」綾はお願いした。健吾から貰ったかつてのプレゼントはすべて湊や凪に捨てられた。だからこそ、手元に残る思い出が欲しかったのだ。「これは少し材質が悪くてね。今度もっといいのを彫ってあげるよ」健吾は扉を閉めると、洗面台へと向かった。「私にはこれで十分よ」綾は棚を開け、銅色の木彫りを取り出した。「健吾、これって私の肖像使用料ってことでいいよね?」健吾の返事を待たずに、綾は遠慮なくカバンに木彫りを詰め込んだ。「お前の肖像、ずいぶんと安っぽい価値だな」健吾はからかうように言い、使用人に食事の支度を急がせた。夕食を囲みながらとりとめのない会話を続ける。お互い、核心を突く話題だけは暗黙のうちに避けていた。「ビアンカさんはどこ?」綾は尋ねた。「I国に戻った。彼女のお父さんの容体が急変してね」と健吾が言う。「一緒にいてあげないの?」綾は心か
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第329話

健吾は綾の方を見た。綾は映画に夢中になっている。彼がそっと体を寄せ、綾の膝の上に置かれた手に自分の手を重ねる。綾は息をのみ、とっさに手を引こうとした。しかし健吾は離さない。強く握られたままだ。綾はあきらめて、そのまま健吾に寄り添うことにした。健吾は空いた手で綾の頭を軽く押し、肩にもたれさせた。綾もそれに応え、もう片方の手を彼の腕に絡める。見慣れた映画、嗅ぎ慣れたほのかな香り。大学時代に遅刻しないよう、朝走った日を思い出す。「健吾」「ん、どうした」健吾は優しく返した。呼びかけても誰も答えてくれない、あの孤独な日々を恐れていた綾を彼は知っている。その後は、ただ映画のセリフだけが流れていた。綾は何かを話そうと口を開くが、言葉が見つからない。4時間の映画が終わったが、肝心の話は何一つできなかった。画面の中で懸命に生きる主人公の姿を見て、綾は一つ息を吐いた。「健吾」「なぜ教えてくれなかった?」綾が話し出すより早く、健吾が先に尋ねた。薄暗い光の中、綾は顔を上げて彼と視線を合わせた。「何を?」健吾の表情までは見えない。でも、その声から痛いほどの哀しみが伝わってくる。「俺から離れた本当の理由だ」その低く沈んだ声は、綾の胸に重い一撃を叩きつけたようだった。「知っていたの?」「中野から聞いた。彼のおばあさんがお前に頼み込んで、無理やり結婚させたと」婚約当日、健吾のもとに一本の電話がかかってきた。その知らせを聞いてすぐ、健吾は婚約を破棄して綾の元へ戻ることを決めたのだ。綾は少し沈黙してから尋ねた。「それだけ?」「それと、もう離婚したこと、それに……くだらない話だ」湊は、二人がいわゆる「形だけの夫婦」だと言ったのだ。けれど健吾は、綾が無事でさえあればそれでよかった。「理由がどうであれ、あなたを裏切った事実に変わりはない」綾は穏やかに言った。言い訳なんてしたくなかった。過ちは過ち。自分が正しいと思う道を選んだからといって、もう一方が間違いになるわけではない。「バカだな。俺に相談してほしかった。信じてほしかったんだ」健吾には分かっていた。それが綾らしいやり方だと。彼が知っている綾は、いつも彼女自身を傷つけて、手のかかる女だった。綾が味わってきた苦し
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第330話

この夜は狂おしいほどで、二人は荒野に解き放たれた獣のように、ただ本能のままに身を任せていた。綾は、激しい風の音や遠雷、雄大な山々や川の流れを感じていた……「魂の欲望こそ、運命の預言者」激しい愛に溺れる中で、綾は魂が自由に近づいていくのを感じていた。健吾は、その自由の一部だった。翌日、全身の痛みで綾が目を覚ますと、すでに昼の12時を過ぎていた。キッチンから物音が聞こえ、スリッパを履いて見に行くと、健吾がエプロン姿で料理をしていた。綾はキッチンのガラス扉のそばで、その光景をじっと見つめていた。愛する人がそばにいて、鍋が湯気を上げ、窓の外では植物が息づいている。これこそが幸せなのだろう。こんな小さな幸せさえ、これまで手に入れるのは難しかった。少なくとも自分はまだ手に入れたことがなかった。ぼんやりしていると、健吾がこっちを見た。健吾が菜箸を持ったまま近づき、綾のおでこに軽くキスをした。「煙がすごいから、先にフルーツでも食べてて。すぐにできるから」「お願いね、シェフさん」綾が健吾の頬にキスを返すと、食卓には洗ったばかりのイチゴが置いてあった。シャワーを浴びて戻ってくると、健吾が食卓に料理を並べていた。「久しぶりに料理したよ。口に合うといいんだけど」「健吾の手料理なんて贅沢ね。めったに食べられないわ」綾はお椀を二つ手に取り、食卓に向かった。健吾が向かいに座る。「贅沢だなんて言うなら残さず食べてくれよ。痩せすぎだ」「豚じゃないんだから」綾は文句を言いながら、大口で料理を口に運んだ。健吾は小さく笑ったが、内心では少し不安を感じていた。すべてが現実味を欠いているほど、たやすく手に入ってしまったからだ。食事を終えると、健吾が下へ荷物を取りに行くと言い出した。綾は食器を食洗機に入れ、窓の外を見下ろした。健吾がマルスから大きな箱を受け取っている。綾は何が入っているのか気になった。健吾が戻るのを待たず、綾はドアの前で心待ちにしていた。健吾が戻ってくると、綾が彼の抱えるダンボールを興味深そうに見つめていた。「先にセキュリティーチェックを受けて」綾は両手を上げ、おどけて言った。「危険な物はないと保証するよ。重いから、中に入ってから検査してもいいか?」健吾は目を細め、甘えるよ
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