All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 401 - Chapter 410

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第401話

明里は綾を見つめながら、小さくため息をついた。「綾が羨ましいわ。姑とのトラブルがないなんて」綾は困ったように笑った。姑との揉め事はあったし、それも命に関わるような深刻なものだったからだ。「千葉さんがしっかり守ってくれるなら、まだなんとかなるわ」「雅也は確かに庇ってはくれるけれど、彼はお母さんには甘すぎるの。うちの親を心配させたくなかったら、とっくに実家に帰って、こんなストレスからは逃げ出してるわ」綾は明里の手を握り、優しく諭すように言った。「ここは明里の家よ。出て行くなら、むしろ相手たちの方でしょ?千葉さんを愛しているなら、もっと自信を持ちなさい。彼のお母さんのことは、聞く必要があったら聞けばいいし、そうでなければ距離を置きなさい。面倒ごとは千葉さんに全部押し付ければいいの。彼がマザコンでありたいなら、一人で勝手にそうさせればいい。明里は、自分自身を大切にすること。妊娠中は一番心穏やかに過ごさなきゃいけないんだから」どこの家もいろいろと大変なのだと、二人はしみじみ思った。昔の自分たちがいかに夢見がちだったのかも。間もなくして、智子が入ってきた。「明里様、今夜雅也様は千葉家の屋敷へお泊まりになるとのことです。お体を大切に休まれるようにとのことでした」明里は一瞬顔を曇らせたが、すぐに笑顔を作り直した。「綾、今夜は私と一緒にいてくれない?」綾はうなずいた。「いいわよ。ところで、なぜ千葉さんは自分で言わずに、藤井さんを通したの?」「どうせお母さん優先だって文句を言われるのが怖いのよ」「言われて当然でしょ。今明里は妊娠中なのに、一緒にいてくれないなんて」綾は腹立たしげに言った。「まあ、もう分かってるのよ。どれだけ美しい恋だって、結婚という墓場に入ってしまえば、多かれ少なかれ腐ってしまうものだわ」明里は箸を置き、一口水を飲んだ。「もちろん、綾と健吾の場合は別ね。彼があんな風にあなたのために家族と縁を切るなんて、雅也には絶対に無理だもの」「いいから、そんなことは忘れなさい。何か悩みがあったら、溜め込まずに何でも私に話しなさいね」綾も箸を置いて、明里を支えながら立ち上がった。「溜め込んだりしないわ。雅也のお母さんが嫌味を言うなら、私も雅也に言い返してやるだけ。お腹の中の可愛い子のためにも、ずっと気分よく
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第402話

食事が終わると、綾は健吾に今夜は明里の家に泊まるというメッセージを送った。健吾からの返信は【分かった】とだけ、それ以上問い詰められることはなかった。翌日、昼食を済ませた綾は、青木家には直行せず、颯太が働く研究棟へと足を向けた。一つはメンタルドクターの件を確認するため、もう一つは以前の同僚たちの顔を見たかったからだ。綾は差し入れのコーヒーを買っていき、研究所の皆に配った。久しぶりに皆と言葉を交わした後、颯太は綾をオフィスへ連れて行き、からかうように言った。「綾さん、いっそ研究所でパートでもしないか?給料くらい出すぞ」「颯太さん、勘弁してよ。研究に入り浸っちゃったら、もう抜け出せなくなるんだから」オフィスを見回すと、何もかも昔のまま。馴染み深く、懐かしい光景だった。研究機材に囲まれ、ひたむきに実験に打ち込んでいた、あの頃の気楽な日々が胸をかすめる。綾はずっと、自分らしい生き方をしようと懸命だった。しかし現実は思い通りにならず、進めば進むほど大切なものを失っていくような気がする。「これを受け取ってくれ」颯太が綾に一枚の名刺を手渡した。「心理療法士の連絡先だ。もう話は通してあるから、直接連絡してくれればいい」綾は両手でしっかりと名刺を受け取り、大切にしまった。「ありがとう、颯太さん」心理療法士は見つかったが、問題は健吾にいかに納得させるかだ。健吾は頑固で、自分の話なんて聞こうともしないだろう。名刺を握りしめて青木家に戻ったものの、策が思い浮かばない綾は、彰人に助けを求めることにした。綾はI国で得た情報と推測を、すべて包み隠さず打ち明けた。「おじいさん、助けていただけますか?」「なんてことだ、もっと早く話してくれればよかったものを。健吾は青木家の血筋だ。エステ家などに好き勝手させるわけにはいかん。もし本当に洗脳されているのなら、タダじゃ済まさない!」彰人は激怒して机を叩くと、「その心理療法士の名刺を渡してくれ。あとは俺に任せなさい」と言った。綾はほっと胸をなでおろした。「ありがとうございます、おじいさん」彰人が動いてくれるのなら、すべてがスムーズに進むはずだ。あまりに非現実的な話だけに、彰人まで信じてくれないのではないかと不安だったのだ。彰人は優しく語りかけた。「綾ちゃん、よくぞ話して
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第403話

健吾は腕の中の綾をそっと離すと、苦々しい顔をしてベッドから降りた。これ以上この屋敷にはいられない。何か取り返しのつかないことが起きる予感がしたからだ。年頃の男女が一つ屋根の下にいるのだ。ましてや、綾に対して抑えがたい欲情を抱いている自分にとってはなおさらだった。綾は慌ただしい足音で目を覚ました。部屋のドアを開けて、ビアンカが飛び込んできた。「綾、綾!すぐに準備して。今からI国に帰るわよ!」綾はガバッと身を起こした。「何かあったの?」「叔父さんが撃たれたの。深刻な状況だって。今すぐ行かなきゃ」「でも……」まだ健吾のカウンセリングすら予約できていない。綾の心は一気に底へと沈んだ。「チェッコがもう車で待ってる。綾は行きたくなければ東都に残ってもいいって言ってるけど、私は一緒についてきてほしいの」ビアンカはベッドの脇で、縋るような目で見つめてきた。「分かった。一緒に行くわ」綾は状況を飲み込み、手早く着替えると、すぐにスーツケースに荷物を詰めた。運転手がやってきてスーツケースを積み込み、二人は車へ案内された。車中で、綾は聞いた。「おじいさんには声をかけなくていいの?」「彰人おじいちゃんは今、公園に出かけているから時間がないの。執事には伝えてあるから」納得のいかない綾はさらに聞いた。「ルカさんは、そこまで危険な状態なの?」「命に関わるって……別に叔父さんのことは好きじゃないけど、死なれては困るの。私にとっては大切な身内だから」そう言いながら、ビアンカの声は震え、今にも泣き出しそうだった。「大丈夫だよ。エステ家の医療チームは最高クラスだし、きっと何とかなるはず」と綾は励ました。離れていく屋敷を振り返りながら、ようやく見えかけた希望が再び絶望に変わるのを感じていた。健吾はいつ帰ってくるのか。だが、今はそれを聞ける状況ではなかった。運命に身を委ねるしかない。一体、いつになったら自分の運気は巡ってくるのだろうか?予想外のことに、健吾は自分を一緒にI国へ連れて行くことを受け入れた。休む間もなく移動し、夜にはエステ家の城へたどり着いた。執事によるとルカは部屋にいるという。健吾とビアンカはそのまま面会に向かい、綾は部屋で待つことになった。胸がざわついて落ち着かず、綾は部屋の中を行ったり来た
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第404話

綾とビアンカが階下に降りると、ルーサーがいた。ビアンカは不思議そうに聞いた。「ルーサー、どうしてここに?」ルーサーは笑って答えた。「ルカさんにご挨拶したくてね。君たち、東都へ遊びに行くなんてずるいよ。一緒に連れて行ってほしかったのに」「チェッコが急に決めたのよ。次は必ず一緒に行こうね」「約束だよ」ルーサーは綾に視線を移し、優しく問いかけた。「随分と移動が続いたね。疲れていない?」健吾のような近寄りがたい美しさとは異なり、ルーサーは誰に対しても親切で、明るく陽気な雰囲気を持っていた。「ええ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」「うちのチョコレート工場で作った新作のチョコレートさ。まだ市販されていない特別なやつだから、お二人で食べてみてよ」ルーサーはテーブルの上の二つのプレゼントの箱を手に取り、ビアンカと綾にそれぞれ手渡した。「ありがとう!ルーサーは本当に優しいわね!」ビアンカは華やかなリボンを解き、中身を取り出すと美味しそうに頬張った。「これ最高!綾も食べてみてよ」綾が一口食べてみると、確かに他では味わえない深いコクがあった。「随分と楽しそうね」そんな会話の最中、スージーが入ってきて、ちらりと綾を睨みつけた。「まだいたの?東都に帰ったんじゃなかったの?ここで働くのがそんなに楽しいのかしら?」突き刺すような言葉に対し、綾は顔色一つ変えずに答えた。「スージーさん。まだあなたもこの家の正式な家族というわけではないでしょう。少々口を出しすぎでは?」ビアンカもすかさず口を挟んだ。「そうよ!綾は私の友達だし、私がここにいてほしいからいるの」スージーは鼻で笑うと、テーブルのチョコレートに視線を向けた。「ルーサー、それ新製品?私も一口もらおうかしら」ルーサーは丁寧な笑顔で拒絶した。「ごめんよ、今回はビアンカと綾の分しか持ってきていなくてね。すぐに店頭に並ぶから、店で買ってもらえるかな」スージーの顔色がさっと変わり、毒々しい目つきで綾を射抜いた。「どこに行っても男を誘惑する癖は治らないのね!」綾は皮肉っぽく微笑んだ。「そんなにみんなに好かれるのが妬ましいのですか?」「誰が嫉妬するっていうのよ!分をわきまえなさい!」そう吐き捨てると、スージーは綾に肩をぶつけ、そのままルカのいる部屋へ向か
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第405話

そう言って、健吾はリビングから背を向けて立ち去った。スージーは怒りに任せて足を踏み鳴らし、吐き捨てるように呟いた。「あの女は何様のつもりよ!なんでみんな、あんな女に夢中になるの?I国は私の縄張りよ。あの女なんかに好き勝手させるものですか」……ルーサーが選んだキャンプ地は、透き通った川が流れる美しい草地だった。彼はコンロを準備すると、笑いながら言った。「綾の国のバーベキューってやつ、食べてみたいな。作ってもらってもいいかな?」「任せてください」綾がルーサーの用意した食材を見ると、肉から野菜、さらには本格的な焼き肉用のタレまで揃っていた。綾の手際よく食材を焼く姿を眺めながら、ルーサーは健吾を冷やかした。「なぁ、こういうのに興味なかったろ?今日はただ食いしん坊なだけか?」「お前にビアンカを預けるなんて、安心していられないからな」ビアンカは素直に首を傾げた。「なんでよ?ルーサーの方がよっぽど優しいじゃない?」少なくとも、ルーサーはスージーと一緒になって自分を虐めたりはしないのだ。綾はまず、辛くない野菜をいくつか焼き、ビアンカに取り分けた。それから、辛いものが好きなルーサーのために、綾はたっぷりとスパイスをまぶした。それを受け取ったルーサーは、目を輝かせた。「綾、もう俺の好みを知ってるなんて」「チョコのお礼です。美味しいものをごちそうになったんですから。それに、ビアンカちゃんと二人でまたチョコが欲しいなって狙ってますよ」「うちにはチョコレート工場があるから、いくらでも分けてあげるよ」「工場見学、してもいいですか?実は、本物のチョコレート工場ってどんなところか気になっていたんです」綾は映画に出てくるような巨大なチョコレート工場に、ずっと憧れていた。「もちろんだ。いつでも歓迎するよ」ビアンカは頭をかしげ、真面目な顔で提案した。「綾、いっそルーサーのお嫁さんになったら?そうすればチョコレートも一生食べ放題よ」みんな言葉を失ったが、綾はただの子供の言い分として苦笑するしかなかった。健吾は青ざめた表情で、低い声で念を押した。「ビアンカ、俺と綾はまだ籍が入っているんだぞ」ビアンカは言い返した。「チェッコだってスージーと結婚するんでしょ?だったら綾も他の人と結婚した方が、ちょうどいいじゃない?」健吾
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第406話

綾は健吾を見て、呆れたような、でもどこかおかしいような顔をした。綾はそんなに食べきれるわけがなく、山盛りになった肉をルーサーにも分けてやった。ただの親切心だったが、健吾の目には違った意味で映ったのか、綾が男遊びをしているように見えたようだ。東都で颯太と食事をしたかと思えば、ここに来て今度はルーサーに焼肉を振る舞うなんて、男友達ばかり上手く転がしているものだ。ルーサーがバラ肉を一口味見して、親指を立てた。「すごいじゃないか、チェッコ。そんな隠し玉を持ってたなんて。でも、綾の手作りには少し敵わないな」健吾は含み笑いを漏らした。「料理の腕がダメなのか、それとも人がダメなのか?」健吾の含みのある言い方に気分を害したものの、ルーサーとビアンカの手前、綾は強く言えなかった。「座ってなよ。私が焼くから」綾が手際よくトングを取り上げ、受け取った。二人の指先が触れ合った瞬間、仕返しとばかりに綾は健吾の手のひらのくぼみを力いっぱいつねった。健吾は内心すごく痛かったが、顔には何も見せなかった。食後、ルーサーがビアンカに釣り方を教え始めた。綾はそれを横目に、水面の波紋を退屈そうに数えていた。すると、ルーサーが手招きをした。「綾、やってみないか?」綾は首を横に振った。「釣りには興味がないです」元々くじ運が悪く、確率頼みのものは苦手なのだ。ふと見ると健吾はアウトドア用の椅子で目をつぶり、くつろいでいた。何もすることがない綾は、森に咲く花を見つけ、袋を持って摘みに行くことにした。迷子になるのが怖かったので、少し歩くたびに木に目印を刻んでおいた。居眠りから目を覚ました健吾は、綾がいなくなっていることに気づいた。ルーサーとビアンカを騒がせることもなく、あたりを見回すと、すぐに木に彫られた逆三角形のマークを見つけた。昔、二人で宝探しごっこをしたとき、綾はいつもその記号を使ってマーキングしていたのだ。健吾はその記号をたどり、少し行くとすぐに綾の姿を見つけた。綾は片手に袋を、もう片手には花を持ち、森の中をゆっくりと散策している。薄緑のドレスが優しく揺れ、柔らかな髪が風に流れる。木漏れ日が彼女の上に細かな光の影を落としていた。健吾は綾を呼び止めることもせず、少し離れてただ背中を追った。理性では、この女から離れ
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第407話

「背中に乗れ」綾は健吾の背中に飛び乗り、顎を彼の肩に乗せた。「ありがとう、健吾」健吾は素っ気なく答えた。「気にするな。誰が相手でも同じことだ」「分かってるよ」綾は小さく笑った。「でも、いい人でいてくれてありがとう」健吾は根っからの善人なのだ。たとえ洗脳されて自分を恨んでいたとしても、自分に対して残酷な振る舞いまではできなかった。「喜ぶのはまだ早いぞ」健吾の声は沈んでいる。「あの蛇は毒が強い。まだ油断はできない」彼は綾を車まで運び、ルーサーに電話を入れた。しばらくすると、ルーサーがビアンカを連れてやってきた。綾が蛇に噛まれたと聞いたビアンカは、涙をこぼした。「綾、死んじゃわないよね?」「大丈夫だ。悪い奴ほど長生きするっていうし」口では悪態をつく健吾だったが、急いで車を飛ばし、一刻も早く病院へ連れて行った。毒が強い蛇だったが、健吾がすぐに毒を吸い出し、縛ったベルトが毒の回りを抑えていたのが功を奏したらしい。血清を注射し、綾は入院して経過を見ることになった。健吾は額の汗を拭った。「ルーサー、ビアンカを家まで送ってやってくれ」「嫌だよ、綾のそばにいたい!」ビアンカは目を赤くして首を振った。綾はビアンカの手を取り、優しく諭した。「ビアンカちゃん、言うことを聞いて。私は本当に平気だから。ビアンカちゃんが帰らないなら私も病院を抜け出して、一緒に帰るよ」「分かったよ……ちゃんとお医者さんの言うことを聞くんだよ」ビアンカはあわてて言った。綾はルーサーを見た。「せっかくのチョコレート工場、行けなくてごめんなさい」「気にするな。いつでもまた行けるさ。何かあればすぐに連絡をくれ」ルーサーとビアンカが去ったあと、病室には静けさが戻った。窓辺で風に当たっている健吾のシャツの背中が、汗で濡れているのに気がついた。「健吾、もう帰っていいよ。蛇に噛まれただけだし、自分のことは自分でできるから」健吾は清潔さを好む男だ。冷や汗で服がまとわりついては、さぞ気持ち悪いだろうに。健吾は業務的な口調で返した。「お前はうちの人間だ。責任を持たないといけない」「意地っ張りなんだから」綾はそれ以上反論せず、傷口に防水テープを貼ってシャワーを浴び、病院の着衣に着替えた。蛇の毒のせいか、一日の疲れか。頭がぼうっとして、
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第408話

綾は空腹のあまりお腹が鳴るのを感じ、病院の食堂へ向かおうとした。綾が立ち上がり、足を引きずりながら外に出ようと病室のドアを開けた時、ちょうど健吾とぶつかりそうになった。「もう帰ったんじゃなかったの?」健吾は眉をひそめ、綾の足元に目をやった。「どこへ行くつもりだ?」綾が口を尖らせると、その声にはつい甘えが混じった。「ご飯、お腹が空いたから」言いながら、健吾の手元にある紙袋に目を留めた。「もしかして、私に?」「外食するついでに、買ってきた」「ありがとう」綾は背を向け、また足を引きずってテーブルまで戻り、椅子に腰を下ろした。健吾がどこで買ってきたかなんて気にしなかった。お腹さえ満たされればそれでいい。健吾は袋から料理を取り出し、一品ずつテーブルに並べた。料理を見た綾は、思わず口にした。「わあ、私の好物ばかり。まだ私の好みを覚えていたなんて、案外情がないわけでもないのね」「さっさと食え」健吾は頬をひきつらせると、無言のまま傍らに腰を下ろした。綾は彼が退屈しないように、以前のような雰囲気で話しかけながら食事を続けた。「健吾、本当は心の奥ではまだ私のこと、嫌いじゃないんでしょ?」健吾はスマホの画面から目を離さず、吐き捨てた。「飯を食っている時くらい、静かにしてられないのか?」「私のことを何とも思ってないなら、わざわざI国まで連れてきたりしないわよね。昨日だって、ビアンカちゃんと勝手に帰ればよかったんだし。それに今日、蛇に噛まれた時だって、ひどく慌てていたわよ」健吾はスマホを置き、冷徹な声で言い放った。「まず、お前を連れてきたのはビアンカがお前を離さなかったからだ。それと、普通の人間なら他人が目の前で死にかけていれば助けようとする。愛なんて関係ない。それに汗をかいたのは、お前を運ぶのが重かっただけだ」綾は食事を咀嚼しながら、ふっと笑った。「もっともな言い訳ね。まあ、そいうことにしておこう。じゃあ今夜は、付き添ってくれるの?」健吾は手早くティッシュを抜いて綾に投げ渡した。「噛まれただけだろ。自力で動けないわけじゃない」綾が差し出されたティッシュで手についた油を拭き取り、健吾の氷のような無表情を見て、ふふと笑いを漏らした。健吾は煩わしげに立ち上がった。「ゆっくり食え。俺は帰る。
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第409話

ルーサーの声を聞き、綾は顔を上げた。「もう大丈夫ですよ。どうして来たのですか?」ルーサーは笑って説明した。「夜はエステ家で食事をしていてね。チェッコが戻ったと聞いたから、退屈してるんじゃないかと思って様子を見に来たんだ」「平気です。映画を見ていました。ルーサーさんはもう帰って休んでください」ルーサーはベッドサイドまで歩み寄り、横から綾のタブレットを覗き込んだ。「帰ってもすることはないんだ。何を見てるんだい?一緒に見ようよ」「これで、I国語を勉強してました」「この映画は好きだ。一緒に見よう」ルーサーの真っすぐで誠実な眼差しに、断りかけていた言葉を綾は飲み込んだ。タブレットをテーブルに置き、ルーサーが椅子を引いてくれると、二人は肩を並べて座り、話をしながら映画を見た。あまりに見入っていたせいで、健吾が来たことにすら気づかなかった。健吾はドアの前に立ち、二人並んで映画を見る様子を黙って見つめていた。その表情は次第に険しくなった。わざとらしく咳払いをすると、「ルーサー、帰ったんじゃなかったのか?」と尋ねた。ルーサーは慌てて立ち上がった。「綾の様子を見に来たんだ。退屈しないように映画に付き合っててね。チェッコが来たなら、俺は先に帰るよ」そして綾に向かって笑いかけ、「また明日」と告げた。健吾は横に退いて道を譲ると、ルーサーが去った後に綾の部屋へ入った。彼は画面を横目で見て、淡々と言った。「この映画、随分ロマンチックだな。そんなに楽しいなら、ブランデーでも持ってくるべきだったか」綾はふっと微笑んだ。「明日は忘れないでね。あなたはルーサーさんの友達でしょ、好みの酒くらい知っているはずよ」自分から浮気される側に回る人なんて、初めて見たわ。案の定、健吾は苛立った。「お前が離婚届にサインしさえすれば、何をしていても口は出さない。だが今はまだ、言動には注意しろ!」綾は呆れて白い目で見た。嫌なら、最初から言わなきゃいいのに「ルーサーさんはあなたの友達よ。わざわざお見舞いに来てくれた人に、出て行けと言える?まさか、彼が私を狙っているなんて疑っているの?」健吾は鼻で笑った。「あいつの眼は非常に厳しいからな」「私もそれなりよ」綾はタブレットを閉じると、ふてくされたように布団を被って寝てしまった。しばらく
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第410話

医師と看護師が入ってくると、健吾は横に退いた。診察を終えた医師が告げた。「解熱剤を注射しておきます。明日の朝までに熱が下がらなければ、追加検査が必要です」健吾の目に一抹の不安がよぎる。「ありがとうございます」医師たちが去り、病室は再び静まり返った。健吾はベッドで休むことなく、綾のベッドサイドに椅子を運ぶと、照明を落としてそこに腰を下ろした。長い夜、彼は何度も手を伸ばし、綾の額に触れて熱を確認した。綾が夢の中でまであんなに湊の名を呼ぶなんて、きっと湊にそばにいてほしいのだろう。綾が目を覚ますと、腕に鈍い痛みを感じた。持ち上げてみると、白い肌に小さな注射跡があった。「起きたのか?」隣から枯れた声が響いた。振り返ると、健吾の目の下に濃い隈ができているのが見えた。「昨日、あまり眠れなかったの?」綾が眉をひそめる。「ずっとうわ言を言っていたからな。おかげで眠れなかった」と健吾は淡々と言った。綾は腕の跡を見て「何を打たれたの?」と聞いた。「解熱剤だよ。他にどこか痛むところは?」「体が痛いし、頭が少しふらつくの」綾はベッドサイドのマグカップを持ち、中身の水を一口飲んで喉を潤した。「私、大丈夫かな?」健吾は何も言わず、ベッドの呼び出しボタンを押した。すぐに看護師がドアを開けた。「検温をお願いします」「かしこまりました」看護師は体温計で綾の熱を測った。「まだ微熱ですね。でも処方された薬をきちんと飲んでいれば大丈夫ですよ」綾は胸をなでおろした。昨夜はかなり熱が高かったはずで、注射の痛みさえ感じなかったのだ。「付き添ってくれてありがとう。もう休んでいいよ」言葉を終えるか終えないかのうちに、廊下から足音が聞こえ、ビアンカが入ってきた。「綾、大丈夫なの?」「だいぶ良くなったわ」と綾は口角を上げた。ビアンカの後ろにはルーサーもいて、花束とチョコレートの箱をテーブルに置いた。「綾、昨夜はよく眠れたか?」「昨日は高熱で、一晩中うなされていたみたいです。でも今は微熱だから、すぐに退院できると思います」と綾は笑った。それを聞いたビアンカは、綾の額に手を当て、不満そうに言った。「あの蛇、本当にひどいことをするわ」綾はくすりと笑った。「仕方ないよ、勝手に巣に踏み込んだのは私な
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