Tous les chapitres de : Chapitre 471 - Chapitre 480

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第471話

ありふれた日常にすぎなかったはずが、今では湊にとって何度でも思い返したくなるような贅沢な記憶になっていた。綾が読書に疲れ、顔を上げて水を飲もうとした時、ふと湊がこちらを見ていることに気がついた。彼の眼差しは柔らかく、まるで春の朝一番の日差しのように、明るく優しかった。綾は少しからかいたくなり、わざと厳しい口調で聞いた。「湊、本当に私の朗読を聞いてた?」湊は頭をかいて、まるで居眠りが見つかった生徒のような顔をした。「もちろん聞いてたよ。誰かさんみたいに、聞いてる途中で寝落ちしたりしないからね」綾は言い返した。「あの時読んでくれたのは寝る前のお話だったからでしょ?私を眠らせるためじゃなかったの?」「だって綾、寝るのが早すぎるんだよ。一冊の童話も1年かけて読み終わらないんだから」二人はそんな昔話をしながら、まるであの時のような無邪気な少年少女に戻ったかのように笑い合っていた。窓の外がいつの間にか暗くなっているのを見て、綾は時間を確かめた。今の時間なら、健吾はもうI国へ向かう飛行機の中だろう。「湊、下の階にご飯を買いに行ってくるね」部屋を出てドアが閉まると、無理をしていた笑みがすっと消えた。夕食時で混み合うエレベーターの中、騒がしい声で頭がくらくらした。売店に着いて、湊に何を食べたいか聞き忘れたことに気がついた。無意識にポケットに手をやったが、スマホを病室に置いてきたことを思い出した。湊がいつも好んでいた、消化に良い軽めの食事を選んだ。一方、病室に残した綾のスマホが、何度も震えていた。湊がスクリーンを見ると、「健吾」の名前が眩いばかりに光っていた。呼び出しは長く続き、自動的に切れた。しかし数秒後、再び低く鳴り始め、静寂が破られた。湊は手を伸ばし、通話ボタンをスライドした。「青木社長、何ですか?」湊の口調は淡々としていた。電話の向こうで、健吾は息を飲んだ。しばしの沈黙の後、彼は素っ気なく言った。「綾と代わってください」「綾は今忙しいので、用件なら俺が預かりますよ」健吾は胸の中に嫌なものが居座るような、焦燥感に襲われた。彼はそれ以上何も言わず、捨て台詞だけを残した。「大したことじゃないです。ビアンカを連れて帰ると伝えておいてください」言い終わると、健吾は一方的に電話を
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第472話

健吾は機内でスマホを手に、何度も綾とのメッセージ画面を開いては閉じていた。返信を打ち込んでは消し、また打ち込んでは消す。隣に座るビアンカを一度見やってから、彼はスマホの画面を暗くし、ポケットに突っ込んだ。結局、一通も送ることはなかった。そして静かに目を閉じ、座席に深く身体を沈めた。眠る時間なのに、意識は冴えわたり、頭の中には綾と過ごした日々の光景が走馬灯のように駆け巡った。特に深く胸に残っているのは、二人が別れた夜のことだ。今になって思い返せば、綾に対して恨みなどこれっぽっちも感じない。今回は自分が綾を裏切ったんだ。彼女に憎まれて当然だ。長い時間が流れた気がして時計を見たが、まだ2時間しか経っていなかった。到着まではまだまだ時間がかかる。窓の外を覗くと、銀色に光る雲海が眼下に広がっていた。もし綾が隣にいれば、きっと夢中でカメラを向けていただろう。綾は誰も気づかないような些細なものを見つけ、ゴミ箱ひとつでもドラマチックな物語として切り取る力があった。健吾は、綾のカメラに収められた自分自身の様々な表情を思い出す。彼女のレンズを通した自分の方が、本物の自分よりも生き生きとして見えた。すると突然、激しい頭痛が襲い、健吾は眉間に皺を寄せながら、薬瓶から取り出した錠剤を飲み込んだ。綾を思うたび、こうして痛みがこみ上げてくる。ようやく到着し、マルスに連れられエステ家のお城へと向かった。リビングではカタリナが待ち構えており、その隣には、健吾の診察を担当する医師のジャックが座っていた。カタリナは立ち上がると、「チェッコ、ジャック先生が薬を持ってきたわ。書斎へ行きなさい」と告げた。健吾が婚約を受け入れたことで、カタリナの彼に対する期待は再び膨らんでいた。やはり実の息子だ。綾のような身分の女を本気で愛したわけではないと信じていた。若い男なら、可愛い遊び相手に夢中になることもあろう。カタリナの周囲のセレブ夫人たちも、みなそう考えていた。若い頃には身分の低い女と遊ぶこともあるが、結婚するなら相応しい相手を選ぶものだ、と。健吾はカタリナに目もくれず、黙ったまま上着を脱いで使用人に預けた。革靴がカーペットを踏むと、規則正しい音を響かせる。ジャックが後に続いて書斎に入り、背後のドアを静かに閉めた。
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第473話

健吾が口元に浮かべた笑みは、単なる脅しよりも恐ろしい緊張感を漂わせていた。ジャックは書斎のドアを横目で見やり、誰か入ってきて助けてくれないかと切実に願った。だがそんなことはなかった。健吾と二人きりの時は、決して邪魔が入らないことを誰よりも分かっていたからだ。健吾は若いが、ルカと渡り合えるほどの存在だ。甘い考えや愚かさとは無縁の人間であることは明白だった。ジャックは冷や汗を拭いながら、今すぐにでも土下座したい気持ちだった。「チェッコ様、私もやむを得なかったのです……」バンッ!健吾は銃を机に叩きつけ、凄味を利かせた声で命じた。「本題を話せ」「G国にて、チェッコ様に薬を注射し、昏睡状態にしました。そして意識が朦朧としている隙に、催眠術をかけました」ジャックは唾を飲み込み、続けた。「それ以降も、注射のたびに半昏睡状態にして催眠術を維持してきましたが、チェッコ様はただの薬だと思い込んでいたはずです」健吾は冷酷に追い詰める。「催眠術はどうすれば解ける?」「難しいことではありません。投薬を止めれば、3ヶ月ほどで自然に戻ります」健吾は少し沈黙してから、低く尋ねた。「最近、ひどい頭痛が頻繁にあるのはなぜだ?」「おそらく、チェッコ様の脳の深層に残っている意識が、外からの催眠術に抵抗しているのでしょう」ジャックは声を震わせ、隙を見て銃の行方を探った。「催眠術などの怪しいもの……カタリナ様のことが怖くなければ、決してチェッコ様に使ったりはしませんよ」残存する意識?健吾は眉をひそめ、小さく嘲るように笑った。「ここで話したことは母には黙ってろ。順調だとだけ伝えておけ。外で車が待っている。そいつらが君の一家の安全を確保する」健吾は拳銃を引き出しにしまい込み、目元を揉んで疲れをにじませた。「チェッコ様、本当にありがとうございます!」ジャックは心から感謝した。エステ家にも、ようやく本物の紳士が現れたのか、と。彼は書斎のドアを開け、努めて冷静さを装い外に出た。階下で待ち構えていたカタリナが声を潜めて聞く。「催眠は順調でしょうね?」ジャックは健吾に教えられた通りに答えた。「今まで通り、すべて順調です。どうぞご安心を」カタリナは満足げに頷く。「戻りなさい。来月また来るように。くれぐれも口を慎んで、秘密を墓場まで
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第474話

健吾はメッセージの着信音を聞くと、慌てて確認した。画面の文字を読み終えた瞬間、彼の中にあった淡い期待は、砕け散ってしまった。自嘲気味に、ふっと息をもらす。こうなることは、分かっていたはずだ。窓辺に立つと、澄み渡った夜空に半月が浮かんでいた。月明かりは健吾の部屋を照らし、同じように綾の部屋をも照らしていた。しかし、綾には月を眺める余裕などない。机に向かい、必死で実験データの分析に没頭していた。仕事に忙殺されることだけが、孤独と痛みから逃れられる唯一の術だった。颯太が持ち込んできた大きなプロジェクトのリーダーを任されたが、今の自分にそれが務まるのか、まだ返答はできていない。ただ、胸の奥では挑戦してみたいと強く願っていた。絶えず鍛錬しなければ、成長できないから。眠りにつく前、綾は颯太にメッセージを送った。【颯太さん、プロジェクトに参加するわ。よろしくね】颯太から即座に返信が来た。【頼もしいな。これから一緒に頑張ろう】パソコンを閉じ、寝室のカーテンを閉めようとしたとき、綾は空に浮かぶ月を見上げた。澄んだ光が、真っ直ぐに心に差し込む。それからの綾の日々は、研究プロジェクトのことで頭がいっぱいだった。それ以外の時間は、病院へ行き、湊を見守ったり、明里の顔を見に行ったりしていた。湊は、達也チームの献身的な治療のおかげで、日ごとに回復していた。実家へ戻った明里は、両親に大切に世話をされており、すっかり健康的で、ふっくらとした顔立ちになっていた。綾もふと健吾のことを思い出し、つい最近の状況が気になってしまう。綾に時間さえあれば、ビアンカからビデオ通話がかかってくる。通話のほとんどは、ビアンカの身の上話だ。カタリナに叱られたことや、愛馬の成長、ルーサーが面白いものを持って遊びに来てくれた話など。ルーサーは何度も「東都に会いにいく」と言ってくるが、そのたびに綾は「忙しくて」と断っている。それは口実ではない。実際、毎日息をつく間もないほど多忙なのだ。ルーサーが来ても、まともに相手をしてやれる時間は到底ないだろう。ビアンカの周囲に誰もいない時を狙って、健吾の様子をそれとなく探ってみるが、ろくな情報は得られない。ビアンカいわく、健吾はとにかく忙しく、数日に一度しか顔を合わせられないらしい。そ
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第475話

容姿端麗な上に家柄も良く、世界トップクラスの名門大学を卒業している。ソフィアと比べると、綾なんて相手にもならない。カタリナは最近、健吾とソフィアが急速に親密になっていることに気づいていた。この先、健吾に催眠術を使わなかったとしても、彼が綾のことを忘れていくのは時間の問題だろう。ビアンカはソフィアを連れて座ると、楽しそうに話し始めた。健吾はリビングには留まらず、一人で2階へ上がってビアンカの部屋へ向かい、枕元に置かれた彼女のスマホを手に取った。直近の連絡先、一番上は綾だった。ビデオ通話だけでなく、二人は毎日メッセージのやり取りもしている。ビアンカが【綾は今何してる?】と聞くと、返ってくる答えはいつも代わり映えしないものだった。【研究所で仕事中。エネルギーチャージにアイスコーヒーを買った】【プロジェクトで大忙し。部下がまた誤ったデータを出してきて頭を抱えているの】【湊の付き添いで病院にいるの。彼、今日はずいぶん辛そう】【明里と電話中よ。彼女、もうすぐ出産なの】【……】綾の毎日は充実しているようだ。周囲にはいつも誰かの気配がある。一方で健吾も様々な仕事に忙殺され、いつの間にか綾との最後の連絡からどのくらいの時が経ったのかさえ忘れていた。そんな穏やかな日々の中で、二人はそれぞれ何事もなく過ごしている。本来ならば、それが一番の幸せかもしれない。それなのに、健吾の心のどこかにポッカリと穴が空いているような気分だった。食事の時も寝る時も、その穴からはいつも綾の声と姿が溢れてくる。マルスには、最近ずっと上の空だと指摘された。自分でさえ、本当の自分がよく分からない。日常に溢れた二人のチャット記録に目を通し、健吾はスマホを置いて書斎へと向かった。パソコンを起動して調べれば、綾が参加するプロジェクトの情報がすぐに見つかる。インタビュー映像まで出てきた。動画を再生しようとしたその時、開けっ放しのドアの先にソフィアが立っており、軽くドアを叩いた。「入ってもいい?」「何か用か?」ソフィアが入ってくると、そのままドアを閉めた。彼女は気にすることなく腰を下ろし、笑みを浮かべて健吾を見た。「カタリナさんが、結婚式の日を早めに決めなさいっておっしゃってるわ。どう思う?」健吾はパソコンをミュートに
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第476話

健吾はビデオを閉じると、淡々と口を開いた。「もう遅い、早めに帰ったほうがいい」「教えてくれないのね。ならビアンカに聞くからいいわ」ソフィアは茶化すように笑うと、くるりと身を翻して出て行った。健吾は片手をマウスに置いたまま、先ほどのソフィアの言葉を思い返していた。綾とは、一体どんな人間なのか?健吾は口を開きかけたものの、綾を表現する言葉がなかなか見つからなかった。それに今は催眠術の影響も残っているため、客観的に評価することは難しい。すると、書斎の扉が再び開き、ビアンカが入ってきた。「チェッコ、ソフィアと結婚するの?」健吾は期待に満ちたビアンカを見て尋ねた。「そんなに嬉しいのか?」「ええ!」ビアンカは何度も頷く。「ソフィアはとっても優しいの。ソフィアがいれば、ママも私を叱らないから」健吾は眉をひそめた。「綾とは親友じゃなかったのか?俺がソフィアと結婚したら、綾はどうなる?」ビアンカは頭を掻いた。ソフィアのことも、綾のことも大好きだ。しかし、綾はここにいると虐げられるが、ソフィアはそうではない。「綾はルーサーと結婚させればいいよ。そうすれば、私も綾に会えるもの。ちょうどルーサーも綾を気に入ってるし。それにチェッコは綾が嫌いだし、いつも意地悪するでしょ?」そう言い終えると、功績でも挙げたかのように得意げな顔をした。だが、健吾の顔色は途端に険しくなった。「二度とそんな口を利くな。綾をルーサーに嫁がせることは絶対にない」ビアンカは不満そうにぶつぶつ言った。「二人とも私の大事な友達なのに」健吾は言い聞かせる。「戻って休め。綾と連絡を取るときも、ソフィアの話は絶対にするな、いいな?」ビアンカは不本意そうに頷くと、ゆっくりと部屋を出た。だが、ルーサーと綾のことは諦めていなかった。次のビデオ通話の時、綾と相談してみようと考えていた。健吾がソフィアの話をするなと言っただけで、ルーサーについては何も禁じていないのだから。しかし、綾にはそんな私事にかまけている余裕はなかった。翌日、明里が産気づき入院したからだ。すっかり叔母気分の綾は、仕事が終わるたびに病院へ駆けつけた。あんなに好きだった残業さえ切り上げた。明里と共に赤ちゃんの性別を予想したり、ネットでベビー用品を選んだり。期待と緊張でいっぱい
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第477話

ユズちゃんとしばらく遊んだ後、雅也は持参したバッグを胡桃に手渡した。「お義母さん、これ、子供のために用意したものです」胡桃は受け取らず、微笑みながら丁寧に断った。「ベビー用品は一通り揃えてあるの。服や生活に必要なものにも困ってないから」胡桃は、子供の父親なのだからと義理で顔を見に来るよう連絡こそしたものの、雅也に金銭的な何かを期待しているわけではなかった。「分かっています。でもユズちゃんの父親として、心ばかりの気持ちです。どうか受け取ってください」それでも受け取らない胡桃は、明里の方に視線を移した。胡桃が困惑している様子を見て、明里は冷淡に告げた。「持って帰って。ユズちゃんには必要ないから」雅也は諦めきれず、「明里、離婚したとしても、僕とユズちゃんの親子関係は消えないんだぞ」と食い下がった。明里は少し考えてから言った。「荷物は置いていっていいから、もう帰って。休みたいの」「そうか。しっかり体を休めろよ。何かあったらすぐ電話しろ」雅也は中身が重そうなバッグを置くと、しばらくユズちゃんの顔を見てから出ていった。彼が去った後、胡桃が中身を確認すると、高級な宝飾品があり、その下には金塊が敷き詰められていた。「こんな高価なものを受け取って、あとで縁を切るのが難しくならない?」「雅也さんの人柄は良いけれど、あのお母さんは厄介だものね。今日は顔を見せなかったのも、生まれたのが女の子だったからに決まってる。そうね。これはタイミングを見て返しておこう」だが明里は気に留めなかった。雅也の言った通り、ユズちゃんとの親子関係までは消せないのだから。千葉家は財力もある。将来的に、ユズちゃんの助けになる可能性だってある。実の父親として、子供に何かしてやるのは当然の権利だ。「お母さん、ユズちゃん専用の金庫を作ったでしょ?そこに入れて保管して。使うか使わないかは、ユズちゃんが大きくなってから決めればいいわ」「そうね。明里の言う通りにするわ」胡桃は中身をしまい、綾の手を握った。「綾ちゃん、ちょっとここで面倒を見ててくれない?私は家に戻って栄養のあるものを作ってくるから」「はい、安心してください。私がここで様子を見ていますから」綾が胡桃をエレベーターまで見送って戻ると、ユズちゃんはすでに眠りについていた。「
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第478話

綾が戻ってきた時、目の縁を赤くして、妊娠検査結果をぎゅっと握りしめていた。ベッドで休んでいた明里は、綾が憔悴しきった様子で部屋に入ってくるのを見て、心臓が跳ねた。「綾、一体どうしたの?」綾は口を開こうとしたが、喉に何かがつかえたように声が出なかった。綾はこわばった手つきで、検査結果を差し出した。明里はそれをひったくるように受け取ると、老眼になったのかと焦りながら何度も読み返した。結果を確認するやいなや、明里は息を呑んだ。「妊娠?しかも双子?」興奮のあまり腹の傷口に力が入り、明里は「痛っ……」と顔を歪めた。けれど、そんな痛みなどどうでもよくなるほどの驚きだった。綾は頷き、駆け寄って明里を抱きしめようとしたが、傷口に気づいて手を止めた。明里の方から手を伸ばし、綾を胸に抱き寄せた。綾は明里の肩で、堰を切ったように涙を流し始めた。そう、子供ができたのだ。これからはもう、孤独じゃない。命がけで守るべき存在ができるのだ。検査結果を見た瞬間、ずっと骨の髄まで侵食していた孤独感が消え、胸いっぱいに温かな幸せが広がった。明里は綾の背中を優しくさすりながら、目を潤ませて言った。「おめでとう。本当に良かった」この子が綾にとってどんな意味を持つのか、明里は誰よりも知っている。だから自分のことのように嬉しかった。二人はしばらくの間、涙を流しながら笑い合っていた。少し落ち着いてから、明里がこそっと囁いた。「で、父親は?」計算上、健吾とはとうに別れているはずの時期だったからだ。綾は声を潜めて答えた。「健吾よ」そう言って、指を唇に当てた。「彼に隠し通すつもり?」明里が目を見開く。綾はお腹をそっと撫で、淡々と告げた。「私の子供だから彼には関係ないわ」意地を張っているように見えて、実は何度も熟考した末の決意だった。健吾は近々結婚を控えている。もう、これ以上関わるのはごめんだ。蓄えも、時間もある。昔から母親になる準備だけはできていたのだ。健吾がいなくても、絶対に立派に育ててみせる自信があった。「大丈夫。私に頼りなよ」明里が強く握りしめた。「出産なら先輩なんだから、何でも教えるよ」静かに聞いていた胡桃が優しく言った。「これからは皆で育てよう。綾ちゃんも忙しいでしょうし、ここをいつでも実家だと
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第479話

部屋の前で、妊娠のことを湊に言うべきか、綾はまだ迷っていた。ところが、部屋に入ったとたん、湊が顔を上げて、優しい笑みを浮かべた。「綾、おめでとう。ようやく願いが叶ったな」結婚していた数年間、綾は子供が欲しくてたまらなかった。でも自分は試す機会すら与えず、頑なに綾を拒絶した。今思い返すと、後悔がないと言えば嘘になる。でも、構わない。綾にとって結果が幸せなら、それで十分だ。「達也さんから聞いたの?それって患者の秘密を守っていないんじゃ……」湊は笑った。「検査をしている姿を見て、どこか悪いのかと達也が思って聞いたんだよ。そしたら、とんでもなく嬉しいニュースを聞かされたんだ」湊は、座るようにと穏やかに促した。「妊娠したなら研究所の仕事は辞めて、体を休めるべきだ。双子ならなおさら負担が大きい。しっかり休養しないと」「大丈夫だよ。先生からも健康な体だと言われているし、研究所の仕事も無理はしていないから」綾は辞めるつもりはなかった。やっとこのプロジェクトに参加できたのだから、簡単に諦めたくなかった。湊は綾を見て、ため息をついた。「その頑固な性格、昔から全然変わっていないな」「私って頑固なの?」と綾は聞き返した。自分では頑固だとは思っていない。いつも成り行きに任せ、やるべきことをやっているだけだ。「子供の頃の試験、ほとんど1番だったな。時々2番になると、ずっと引きずって、食事中も問題のことばかり考えていただろう」「1番でいられる実力があるのに、ミスをしただけだもん」と綾は言い返した。勉強に励んだのは、将来のためだけではない。中野家で育てられた恩義があるから、早く自立して「この子を引き取って良かった」と思われたかった。懸命に学び、どこまでもいい子でいれば、愛してもらえると思っていたから。湊は生き生きとした綾の顔を見て、目を細めた。「綾、何事もミスをしてもいいんだよ」湊は二度の事故で生死の境を彷徨い、死ぬこと以外、大したことではないと学んだのだ。以前の綾にはそれが分からなかった。頼れる場所がなかったからだ。でも今は違う。自分で自分の身を支えられる。綾は少し照れて、目に柔らかい光を浮かべた。「これからは子供のためにも、もっと強く生きたいの」将来、子供たちが母親はどんな人だったかと尋ねた
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第480話

綾は少し驚いた表情を見せたが、すぐにふふっと笑った。「あなたは子供たちの伯父になるのよね。これからいろいろと頼らせてもらうと思うわ」その言葉は丁寧だったけれど、そこには拒絶ともとれるような、一線を引いた冷たさがあった。予想通りの返答に、湊の瞳には寂しげな色が浮かんだ。だが、時間はまだある。決して諦めるつもりはなかった。妊娠中ということもあり、綾は長居はせずに、湊と少しだけ雑談をして帰宅した。家に戻ってから、綾は幸子に電話をかけた。妊娠していることを伝えて、幸子にしばらく世話をしてくれないかと相談した。綾が以前海外へ行く際、幸子にまとまったお金を渡し、地元でのんびり暮らしてもらうように手配していたのだ。今は子供を授かったし、近くに信頼できる人が必要だった。考え抜いた結果、やはり幸子が一番安心だと思ったのだ。電話の向こうから、幸子の嬉しそうな声が聞こえた。翌日の朝早く、綾が目を覚ますと、玄関からチャイムが聞こえてきた。ドアを開けると、大きな荷物をいくつも抱えた幸子が立っていた。寒い風で頬は赤く染まっていたが、その表情は笑顔でいっぱいだった。綾が幸子を家の中へ招き入れると、「山下さん、そんなに急がなくてもよかったよ」と声をかけた。荷物を運ぶ幸子は、「昨晩のうちに来たかったくらいですよ。一刻も早く、綾様に会いたかったんです」と笑った。荷物を床に置くと、幸子は綾のお腹を優しく見つめた。「双子ちゃん、いいですね。和子様が天国で知ったら、きっと小躍りするんでしょうね」綾の返事も待たずに、幸子はテキパキと荷解きを始めた。「これは田舎の親戚にもらったもの、新鮮な卵ですよ。山で採れたキノコもあるから、後で料理しましょう」「ありがとう、山下さん。わざわざ休暇のところを呼んでしまって……」「まだ若いんだから、じっとなんてしてられないです。それに、ここにいる方が、実家にいるよりずっと気楽ですよ」そう言いながら幸子は手際よく荷物を片付け、すぐに朝食の準備を始めた。綾が外で買ってくるからいいと言うと、幸子は首を振った。「出来合いのものより、私が作るほうが体にもいいです。わざわざ朝早くに来たのは、綾様の朝食を作るためなんですから」綾は甘えることにした。キッチンからは調理の音と美味しそうな匂い、そして幸子の鼻歌が聞こえて
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