「ゆっくり休んで。会いに来たのは、何かを求めてるわけじゃない。ただ……ただね……おやすみ、綾」健吾は手を伸ばしかけたが、綾を怒らせるのが怖くて、力なくその手を下ろした。ただ綾と一緒にいたいだけだった。たとえ毒づかれたとしても、それが嬉しかった。綾は、静かに閉まったドアを見つめていた。ずるずると膝を抱えて、床に座り込んだ。吐き出した言葉は諸刃の刃のように、健吾を傷つけると同時に、自分の心も深く切り刻んでいた。研究データはうまく扱えるのに、複雑な感情はちっとも分からなかった。幼い頃から今まで、普通の愛情を知っているのは両親の間だけだった。でも両親がいなくなったのは、綾がまだ8歳のときだ。当時の綾には、恋が何なのかさえ分からなかった。その後、叔母の千佳に引き取られた半年間は、暗闇のような苦痛の毎日だった。千佳は綾を叩くし、腹を立てれば叔父の透真までも罵り叩いた。綾は、千佳が自分と同じように、透真のことも憎んでいるのだと思っていた。なのに透真が亡くなったとき、千佳は一番ひどく泣き崩れたのだ。和子に中野家に連れて行かれると、そこには和子と3人の子供たちだけがいた。子供の多い家は活気に溢れていた。でも、家族関係の歪みまでは隠せなかった。彼らは家族というよりは、大切な人を失った者同士が集まる、孤独な集団に近かった。そう、綾が初めて愛を知った相手は健吾だった。高校の頃の無邪気な付き合い。大学での初恋。互いだけがいれば良かった。何も気にせず、ただ愛し合っていた。でも……自分たちだけの世界にはいられなかった。背負っている家族や、抱える立場があったから。家庭には責任があるし、立場には格差がある。綾は湊のために、健吾を捨てた。健吾はビアンカのために、他の女性と結婚した。これで二人は、ある意味「貸し借りなし」になったはずだ。なのに今の綾にとって、二人の関係はガタガタになった船のようで、荒波に耐えられるはずもなかった。一晩中降り続いた雪。誰かが一晩中、そのざわめきを聞いていた。夜が明けて、健吾がカーテンを開けると、雪は止んでいた。彼は電話をかけ、山道の除雪を指示した。一方の綾は、夢も見ずにぐっすりと眠った。朝食を済ませて、外の様子を覗いてみた。雪は止んでいたが、空模様
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