All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 661 - Chapter 670

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第661話

綾は荷造りを終えて寝室から出てきた。リビングには、思わず笑みがこぼれるような、どこか間の抜けた光景が広がっていた。健吾が壮真を相手に積木をしている。二人の頭が、すぐ近くで寄り添い合っていた。一方で、湊は瑞希と一緒に座り、瑞希が積木を拾い上げては湊に手渡している。4人がそれぞれの世界で遊んでおり、妙な均衡を保っているようだった。心の中で溜息をつきつつも、綾は気持ちを切り替え、湊に声をかける。そして、夕飯を多めに作るよう、幸子に頼んだ。湊は答えた。「俺の分はいらないよ。済ませてきたから。ただ近くに来たから寄っただけなんだ」湊は綾が隅に置いていたスーツケースに視線を向けた。「どこか遠くへ行くのか?」と尋ねる。「うん。明日から西区へ出張なの」と、綾は特に隠すこともなく答えた。湊は深く納得したように頷き、持ってきたおもちゃを指さした。「これ、海斗がこの子たちに持っていけって」綾が一瞬ぽかんとしてから、海斗が誰だか思い出した。凪の事件以降、海斗は親戚の家に預けられていた。その後、彼のことについて詳しく耳にすることはなかった。時間が経った今でも、その名前を聞いて思い浮かぶのは、あの横柄で甘やかされた小太りな子供の顔だ。「海斗くん、中野家に引き取られたの?」綾はそう聞いた。「ああ」と湊は頷いた。「兄さんの子供だからな。兄さんが出所してすぐに連れ帰ったよ。背も伸びたし、性格もずいぶんと落ち着いて大人しくなった」それを聞き、綾は心から「それは良かったわ」と微笑んだ。海斗だってただの子供だ。親がしでかしたことで、彼を責めるわけにはいかない。まして自分自身が母親になった今、子供に対してはどうしても気持ちが優しくなってしまう。湊は少し黙った後、ふと言った。「出張中、この子たちを中野家で預かろうか?山下さんたちも一緒に来ればいい。家も広いし、使用人も多い」「駄目」「駄目だ」綾と健吾の言葉が、ほぼ同時に重なった。綾は健吾を一瞥してから湊の方を向き、真剣な口調で言った。「湊、壮真と瑞希は家から出さない。私がいない間、見ず知らずの人が関わることは望んでいないの」湊は慌てて言い訳をした。「お前が出張に行くから、家の中に山下さんたちだけでは心配だと思ったんだよ。他の意味はない」健吾がそのタイミングで言葉を挟んだ。
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第662話

湊は気持ちを整理しきれず、すぐに帰ることにした。彼は綾の家の下で長いこと立ち尽くし、タバコに連続して火をつけた。健吾が綾の生活に入り込み、そのすべてを受け入れているのは、綾の黙認があってのことだった。だからこそ、湊は自分の心臓を鈍いナイフで少しずつ削り取られているように感じていた。正直なところ、湊には怒る権利すらない。中野家の屋敷に戻ると、誠が海斗の囲碁の相手をしていた。盤を挟んで座る二人の間には会話がなく、碁石がカヤの盤に打ち付けられる乾いた音だけが響いていた。湊が入ってくるのを見て、海斗は顔を上げ、怯えた様子で、「叔父さん」と呼んだ。海斗を見て、湊はなんとも言えない複雑な思いに駆られた。かつては海斗を我が子のように慈しんでいたが、今となっては何もかもが変わってしまった。今では好きだとは思わないが、かといって憎むこともできない。やはり海斗には中野家の血が流れており、面差しにその面影があるからだ。湊は淡々と「ああ」とだけ返すと、窓際まで歩いてタバコを咥え、背を向けた。誠は湊の緊張した背中を一瞥し、つまんでいた黒石を碁笥へ無造作に置いた。「海斗、明日は学校だ。早めに寝ろ」海斗が返事をして、丁寧な動作で碁石を片付けていく。海斗が静かに部屋から退室したのを見届けてから、誠は湊のそばに歩み寄り、火をもらってタバコに火をつけた。兄弟が並んで掃き出し窓の前に立つ。冷気は厚いガラスで遮られ、そこには少し距離を置いた二人の背中が映り込んでいた。「機嫌が良くないのか?」誠が尋ねた。湊が目を細め、唇から吐き出された煙が薄暗がりに消えていった。「青木のやつが綾の家にまで入り込んでるんだ。面白いはずがないだろ」誠は鼻で笑った。「お前も未練たらたらだな。欲しけりゃ力づくで奪い取れよ。前にもやってたことじゃないか?」誠が指しているのは、かつて湊が身体の不自由を偽り、哀れみを誘って不本意な結婚を強要したことだった。しかし今は違う。綾は二度とそんな罠には引っかからないはずだ。湊は伏し目になり、低い声で言った。「これ以上、綾を傷つけることはできない。次は本当に失ってしまうから」がっくりと肩を落とす湊を見て、誠はその肩を叩いて言い放った。「何もしなければ、結局失うことになるぞ」綾が湊にとってどれほど重要
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第663話

誠は諭すように言った。「結局叩かれるのはお前だけだよ。俺なんて孫のうちに入ってないんだから」そう言い捨てると、誠は最後の一服を終え、吸い殻を押しつぶして部屋へと消えた。湊は一人、リビングに残された。古めかしい屋敷は他の場所よりもずっと静まり返り、老いさらばえた年寄りのように、どこにも生きる熱気を感じさせない。寝る前、湊はスマホを開き、西区行きの飛行機を予約した。……翌朝早く、綾は目を覚ました。起きた時には、もう健吾の姿はそこになかった。リビングを覗くと、健吾はソファに深々と腰掛け、長い足を組んで、タブレット端末で熱心にメールを処理していた。掃き出し窓から差し込む朝の光が、彼をふんわりと包み込んでいる。綾は笑って声をかけた。「健吾、子供の面倒をお願いしたけど、仕事の後で寄ってくれればよかったのよ。こんなに朝早くから来なくていいのに」健吾は画面を閉じ、立ち上がってキッチンから朝食を運ぶ綾を手伝った。「空港まで送るためだよ」綾は朝食のプレートを健吾に渡し、言い返した。「タクシーで行くから大丈夫よ。青菊グループの社長を専属ドライバーにするなんて、噂になったら笑われるわ」「笑われても構わない」と健吾は気だるげに言った。「世間が俺をお前のお抱え運転手だと知れば、みんながもっとお前を丁重に扱うはずだろ」健吾が口元に浮かべる、どこか悪ぶった笑み。綾はそんな健吾を冷たくあしらい、手元のゆで卵の殻を剥き、彼の皿に置いた。「送ってくれなくていいし、一日中ついて回らないで。もう、イライラしちゃうから」綾が本気でそう言うと、その穏やかな口調の奥にある揺るぎない意思に、健吾は従わざるを得なくなった。食後、綾は健吾に念入りに釘を刺した。壮真には水を飲ませること。瑞希がここ数日鼻水を出していること。乾燥する季節だから、加湿器を忘れないようにと。くどいほど細かく、何度も指示を出した。実は家に幸子と二人のベビーシッターがいて、子供たちは十分に守られている。それでも、綾はどうしても気がかりなのだ。健吾を呼んだのも、何かあった時のためだった。健吾は一つ一つ頷いて聞き、綾のスーツケースを持って玄関まで見送った。一人でタクシーに乗り込む綾は、空港で惜莉と待ち合わせをしていた。飛行機は10時半に離陸すると、綾
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第664話

惜莉はそう聞くと、すぐ真剣な顔でこう正した。「違います!綾さんが成功したのは、紛れもなく自分自身の研究能力があってこそです。2回の結婚がなければ、今頃もっと高く羽ばたいていたはずです」綾は首をかしげて微笑んだ。「口がうまいわね。何か欲しいものがあったら言いなさい。プレゼントするわ」惜莉は歓声を上げた。「ありがとうございます!綾さん、大好きです!」その活力溢れる姿を見ていると、綾もつられて元気が出てきた。連日の仕事で張り詰めていた心がほぐれ、頭の中もすっきりとした気分だ。二人はタクシーで、SNSで話題のレストランへと向かった。惜莉が予約を入れてくれていたおかげで、待ち時間はほとんどなかった。惜莉はスマホを取り出し、店内の写真を撮りまくった。内装から美味しそうな料理、さらには自分自身の自撮りまで、手当たり次第に撮りまくる。「綾さん、一緒に撮りませんか?」「いいわよ」綾は指でピースサインを作り、少し惜莉の側に身を寄せた。写真を見直すと、惜莉は羨ましそうにつぶやいた。「綾さん、顔が本当に小さくて、隣に並ぶと私が頭の大きな人形みたいですよ」綾は笑った。「惜莉ちゃんの方こそ、あなたと一緒にいると、余計に年上に見えちゃうのに」周囲の人からは、出産後も変わらず20歳そこそこに見えると言われるが、実際の20歳の子と並ぶと、年の差は隠せない。よく見れば目尻にはうっすらと皺があり、顎のラインも昔ほどの鋭さはなかった。それでも綾は、この変化を悲しんではいない。歳を重ねていく自分が好きだし、刻まれた年齢の変化を自然なものとして受け入れている。綾にとって、年月の積み重ねは人生の厚みそのものだった。厚みがあれば、雨風にさらされても簡単に倒れることはない。ランチの後、二人は動物保護センターへ見学に向かった。夜の10時過ぎまで働き詰め、ようやくホテルへ戻ってきた。明日は担当者と打ち合わせがある。綾は惜莉を早く寝かせた。自分の部屋へ戻り、シャワーを浴びてベッドに飛び込んで、健吾にメッセージを送った。【子供たちはちゃんと良い子にしてた?】【今日、動物園に連れて行ったけど、二人は言うことを聞いていたよ。瑞希はウサギを飼いたいって言い張るし、壮真はアルパカを欲しがっているんだ】その返信を見て、綾は微笑んだ。スマホの向
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第665話

翌朝、ノックの音で目を覚ました。綾が身支度をしてドアを開けると、そこには焦った様子の惜莉が立っていた。「綾さん、遅れてしまいます」「アラーム、まだ鳴ってないのに」スマホを確認しようとしたが、充電切れで電源が落ちていた。「ごめんなさい、お待たせしちゃって」と綾は申し訳なさそうに肩をすくめる。「早く洗顔してください。あとの準備は私がしておきますから」惜莉はスマホを受け取ると手際よく充電器に繋ぎ、必要な荷物を素早くカバンにまとめた。綾が支度を終えて出てくると、惜莉は手慣れた様子で彼女の身支度をフォローした。ものの10分も経たないうちに、二人はそそくさと部屋を出た。惜莉の手際の良さと要領の良さ。これこそが、綾が彼女をアシスタントとして重用する理由だ。惜莉がいれば、細かい雑務に煩わされずに済む。一日がかりの仕事を終え、夕暮れ時。担当者との食事会を丁寧に断った綾は、惜莉を誘って現地の屋台が並ぶ通りへ向かった。惜莉は嬉しそうに綾と並び、言った。「綾さん、よく分かってますね!堅苦しい食事会より、こっちのほうが断然楽しいですよ」街中に漂う美味しそうな香りを嗅ぎながら、綾は笑って答えた。「社長をしていても、、実は私も付き合いの席はあまり好きじゃないの」通りを端から端まで歩き回り、あれこれ買い食いをしてお腹いっぱいになった二人は、徒歩でホテルへ戻った。頬をなでる夜風に、ほのかに活気が混じる。ホテルロビーへ入った途端、見覚えのある姿が視界に飛び込んできた。綾は少し歩みを止めると、ソファに座って時計を確認していた湊を見た。綾は眉をひそめ、そちらへ近づく。「湊、どうしてここに?」湊は顔を上げて微笑んだ。「こちらに少し用事があってね。まさか会えるなんて思わなかったよ」惜莉は二人を見ると、空気を察したように気を利かせた。「綾さん、私は先に部屋に戻っていますね」湊が何度か会社に綾を訪ねてきているため、惜莉も湊の顔を知っていた。綾の2人の元夫は、どっちも執着心が強くて困る。何とかして元に戻ろうという未練が見え見えだ。だが、綾の側にはヨリを戻すつもりなど微塵もない。特にこの湊に対しては、一見穏やかに接してはいるが、それ以上踏み込ませる気配はない。逆に、もう一人の健吾となら、綾も自然体で、時には軽口を叩
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第666話

綾がエレベーターに乗り込み、ドアを閉めようとした時、湊が滑り込んできた。「綾、俺をそんなに遠ざけなければいけないのか?この世界に、俺にはもうお前という身内しかいないんだ」湊は潤んだ瞳で途方に暮れたように呟き、その声は微かに震えていた。綾は壊れそうな湊の姿を見て胸を締め付けられ、指先を丸めた。「湊、私たちはこれからも家族よ。それに今は誠さんと海斗くんもいるわ」湊は俯いて小さく笑うと、一筋の涙が頬を伝い床に落ちた。「兄さんたちとは血が繋がっているだけだ。俺にとっては、綾だけが心から繋がっている家族なんだ。彼らとは違うんだよ」エレベーターがチンと鳴り、綾の泊まる階に到着した。綾は少し迷いながら湊を振り返り、小さく尋ねた。「部屋でお茶でも飲んでいく?」湊は首を横に振った。「いいや。周囲に変な誤解をさせたくないから。綾が幸せでいてくれるなら、俺は適度な距離で構わない」綾は何かを言おうと口を開いたが、言葉は喉の奥で詰まってしまった。湊の痩せ細った体と蒼白な顔を見ていると、彼を傷つけるようなことは到底言えなかった。「湊、私たちはいつまでも家族よ」繊細な神経を持つ湊は、数々の出来事を経て心が壊れてはいないものの、綾への執着は常軌を逸していた。湊は無理やり微笑みを作った。「おやすみ、綾。良い旅を」「おやすみなさい、湊」綾は小さく手を振り、自分の部屋へ歩き出した。ドアを開ける直前、どうしても気になって後ろを振り返った。廊下の薄暗い照明の中、湊は立ち尽くしていて、そのか細い背中は今にも闇に飲み込まれそうに見えた。世界に取り残された影のように、孤独だった。綾の心がずきりと痛んだ。湊が自分を心配してのことだと分かりつつ、負担に感じて遠ざけてきたのは酷すぎたかもしれない。寝る前、スマホの通知が鳴り、湊からのメッセージが立て続けに届いた。【綾、幼い頃から一緒にいて、多くのものを失うたびに俺はお前に依存するようになったんだ。だから青木のことが気に食わなかった】【それに俺は体が弱くて、精神も安定しないことがあるんだ。取り乱すのは決して本意じゃない】【俺の言動で綾を傷つけたのなら、謝らせてほしい】【これからも家族として、綾と子供たちを守り抜くよ。それ以上のことは望まないから】それらの一行一行を読
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第667話

翌日、惜莉が計画したのは山へのハイキングイベントだった。綾は、できるだけ屋外で過ごし、自然に触れる時間を増やしてほしいと念を押していた。この辺りに広がる山々は、そのためにはうってつけの場所だった。綾は日頃から鍛えていたため、ハイキングといっても疲れを感じることはなかった。二人は観光客の列に混じり、一般に開放された遊歩道を木々に囲まれて歩いていった。山間の空気はしっとりとして心地よく、目に映るものすべてが深い緑に包まれている。幾重にも重なった緑は、まるで生きているかのように枝先から滴り落ちそうだった。その間を歩きながら、綾は心が解き放たれるような心地がした。山からの風が魂を吹き抜けていくようで、心の中にあった澱のようなものが消えていくようだ。惜莉はカメラを掲げて何度もシャッターを切り、声を弾ませて感嘆していた。「綾さん、ようやくわかりました。『緑滴る』って、こういうことなんですね。この深い緑、今にも頭から滴り落ちてきそうですよ」その興奮した声が、静かな森に明るく響く。綾はスマホの地図アプリを開き、終点を指差して言った。「もうちょっと先に行けば山頂だよ。あそこからは視界が開けて、最高の眺めだから」「ちょっとトイレに行ってきます、すぐに戻りますから。それから一気に終点まで歩きましょう」惜莉は持っていたリュックとカメラを綾に預けた。このルートにトイレはない。惜莉は少し離れた茂みの陰に入り、用を足すことにした。幸い撮影しながらゆっくり歩いていたので、周りには誰もいなかった。静寂の中、木々の葉を揺らす風の音だけが聞こえていた。綾はその場にとどまり、ついでにインスタを更新した。【大自然に癒やされる一日】添えたのはハイキング中に撮った写真の数々。子育てに追われる健吾へのシェア代わりだ。唇に微笑みを浮かべたまま、スマホをリュックに入れようとしたその時、背後でごく小さな足音がした。「惜莉ちゃん、もう戻ったの?」振り返るより早く、背後から伸びてきた手にハンカチで口元を覆われ、強く鼻と口を押さえつけられる。ツンとした刺激臭が鼻を突き抜けた瞬間、綾は全身の力が抜けた。視界が一瞬にして歪み、犯人の顔を確かめる間もなく、漆黒の闇に飲み込まれて意識を失った。「綾さん!」惜莉が戻ってきたが、そこに綾の姿はなか
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第668話

「見つけました、ここです!」惜莉が声を上げ、スマホを健太郎たちのほうへ突き出した。位置を確認した健太郎が険しい表情で言った。「ここから2キロ先、すぐに向かいましょう」健太郎に続き、惜莉と他の仲間たちは位置情報が示した場所へと急ぎ足で向かった。1キロ先には鬱蒼とした森があり、枝が絶えず頬を掠めていく。進むごとに惜莉の不安は募り、心臓が今にも破裂しそうだった。ようやく到着した場所は切り立った崖の縁で、それを見た瞬間、惜莉は背筋が凍るような思いに襲われた。足元から力が抜け、そのまま崩れ落ちるように座り込んだ。頭が真っ白になり、全身の力が抜けていく。崖の下を覗き込んだが、濃い霧が視界を遮り、何も見えなかった。「嘘でしょう……こんなことになるなんて……」惜莉は震える声で呟き、夢中で髪をかきむしった。そして健太郎からスマホを借り、震える指先で綾に電話をかけた。耳元で聞こえてくるのは、冷淡なアナウンスばかりだった。「お繋ぎできません……」健太郎が分析するように言った。「昨日雨が降ったし、道もぬかるんでいるはずです。この霧だし、プロの救助チームを呼びましょう」惜莉は涙を浮かべながら何度も頷いた。「お願いします、最高の救助隊を呼んでください。どれだけお金がかかっても構いません!」健太郎たちがいくつか電話をかけ、1時間ほどして専門の救助チームが到着した。しかし険しい山道のせいで、崖の下へ降りるのには時間がかかる。惜莉にできるのはただ待つことだけだった。冷や汗で服がぐっしょりと濡れ、一分一秒が果てしなく長く感じられた。ご本人さんのご家族に連絡したほうがいいのでは?雇われの身で一人で抱えられる責任じゃないでしょう惜莉は嗚咽をこらえきれず、震える手で明里の番号を押した。繋がるなり、惜莉の声は震えていた。「社長、綾さんが……行方不明なんです……」あらましを詳しく話しているうちに、惜莉の声はすっかり擦り切れてしまった。電話の向こうの明里の手から、スマホが落ちそうになった。彼女はグッと拳を握りしめ、自分を奮い立たせた。「渡辺さん、落ち着いて。全力を尽くして綾を探して。費用はいくらでも出すから」惜莉が涙ながらに告げた。「昨晩ホテルで中野社長に会いました。相談したほうがいいでしょうか?」明里はなぜ湊がそ
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第669話

「1時間くらい」明里の言葉が途切れる前に、電話は切れた。明里はすぐさま後藤家に連絡を入れ、西区へ向かう最も早い便を手配した。明里は綾のことを誰よりも理解している。綾が勝手に惜莉を置き去りにしてどこかへ行くなんてありえないし、ましてや理由もなく崖っぷちへ行くはずなどない。綾のスマホが崖下で見つかったということは、誰かによる作為的なものかもしれない。もしそうなら、綾自身が単に姿を消したことより、何百倍も恐ろしい事態だ。余計なことを考える余裕などなく、明里は急いで空港へと車を走らせた。真相がどうであれ、東都でただ待つことなんてできなかった。同じ頃、もう一機のプライベートジェットが緊急航路を申請し、空港で待機していた。機内の空気は痛々しいほど張り詰め、健吾の沈鬱な表情がそれを物語っていた。西区の現場では、無人偵察機が何度も崖の周辺を旋回していたが、未だ綾の姿を捉えることはできていない。湊が現場に到着し、超一流の専門捜索隊を連れてきた。崖っぷちに立ち、鬱蒼とした原生林と、わき上がる濃い霧に視界を完全に遮られていた。湊は手で胸を押さえ、そっと目を閉じた。その青白い顔色が、かすかに灰色に変わっていた。5つの捜索隊が同時に動き出し、ようやく惜莉のバッグとスマホが見つかった。バッグには血痕がこびりついていた。それを見た惜莉は、気を失いそうになった。警察がバッグを検査に回し、血痕が綾のものかどうかを確認することにした。午後の4時を過ぎても、綾の行方は依然として掴めない。さらに厄介なことに、山では急な雨が降り出した。滝のような雨が視界を奪い、ドローンも飛ばせなくなったうえ、捜索隊の活動も大きく制限されてしまう。秘書が傘を差し出し、湊の頭上にかざす。湊はそれを激しく突き返し、冷たい雨に全身をさらした。雨水が青白い顎を伝い、服はべっとりと胸元にまとわりつき、凍りつく冷気が心まで蝕んだ。秘書が焦りながら諫めた。「社長、お体に障ります。綾さんのためにも、ここで倒れるわけにはいきません」湊は動じず、しゃがれた声で言った。「綾がいなくなってしまったら、俺の体が健康であることに何の意味がある?」雨足は強まり、空も次第に暗くなっていき、事態は刻一刻と危険な方へ向かっていた。捜索隊の一部はこれ以上の捜索が不可能
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第670話

「綾!綾どこにいる!」健吾はライトを強く握り締め、部隊の先頭に立って何度も名前を叫び続けた。捜索隊はこの山林を午後の間ずっと徹底的に調べていた。しかし、ここで綾を見つけられる可能性は限りなく低いことを、健吾も頭では理解していた。けれど、理解していればしているほど、恐怖は増していく。綾はまだこの近くにいるのに、自分たちがただ見つけられていないだけなのではないかと、恐れていた。叫び声は激しい雨にかき消され、健吾たちは小道を通って山頂まで辿り着いたが、何の痕跡もなかった。マルスが息を切らして駆け寄る。「健吾様!もうびしょ濡れです。このままでは体温が下がって危険ですよ。一度車に戻りましょう!」雨音があまりに大きく、マルスは喉が裂けんばかりの大声を出さなければならなかった。健吾は足を止め、雨の中を見渡した。真っ白な雨のカーテンと、黒く沈む山林が広がるばかりで、何も見えない。もし、綾がまだこの山の中で孤立していたら……そんな考えが鋭利な刃物のように胸をえぐった。考えたくはなかった。健吾は混乱したまま、ふらつく足取りでまた暗闇の中へ足を踏み入れ、何度も何度も綾の名前を呼び続けた。マルスもぬかるみに足を取られながら必死に追いかける。泥水が靴に入り込む中、この酷い雨が早く止むことだけを祈っていた。山林を彷徨ってどれくらい経ったか、突然マルスのスマホが震えた。警察からだ。電話を切ると、マルスは健吾に言った。「健吾様。山道の下の防犯カメラをすべて確認しましたが、綾さんの姿はありませんでした」健吾の足から力が抜け、身体が大きく揺れた。立っていられず、前へと倒れ込む。すぐ隣が険しい崖になっていた。マルスが間一髪で健吾の腕を掴み、自分も半分泥にまみれながら、必死に彼を引き止めた。「一度車に戻りましょう。健吾様が倒れたら、誰が綾さんを探すんですか?」耳鳴りが酷く、健吾はマルスの声さえろくに聞こえなくなっていた。マルスの支えを借りて無理やり立ち上がり、重い鉛のような足を一歩ずつ引きずりながら、ベースキャンプへと向かった。キャンプに戻ってきた捜索隊の面々は、誰もが疲れ果て、焦った顔をしていた。雨具を着て駆けつけた明里が、必死の様子で状況を聞いて回っている。健吾の姿を見つけた明里が、そのまま彼のもとへ走り寄った
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