All Chapters of 初恋と付き合ったら、車椅子の元夫が立ち上がった: Chapter 831 - Chapter 840

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第831話

綾は胡桃の気遣いに感激して、「もう大丈夫です。お気遣いいただきありがとうございます」と言った。胡桃は優しく綾の肩を支えて言った。「よかったわ。明里からあなたのおばあ様に電話して聞いてほしいと言われて、いてもたってもいられなくて。とりあえず今はゆっくり休んで。夜にまた明里を連れて様子を見に来るからね」その時、幸子が茶を運んできて、「後藤様、お茶でも召し上がって、一息つかれてはいかがでしょうか?」と引き留めた。だが、胡桃は「私まだ会社に行かないといけないの」と手を振り、足早に外へ向かって出て行った。ドアのところまで行くと、彼女はふと振り返り、まるで我が子を見つめるような優しい眼差しを向けた。「ゆっくり休むのよ。夜また来るわ」「はい、ではまた夜に」そう言って綾は一緒に外まで行き、胡桃の車が見えなくなるまで見送ってから、ようやく家の中へ戻った。再び、ベッドに戻って、彼女はまたスマホの画面をスクロールした。明里のほかにも、弘幸からいくつもメッセージが入っていた。【先生から聞いたよ。体調不良で休んでいるとか。どこの病院?見舞いに行きたいんだけど】【そんなに酷いの?どうして返信くれないんだ?】【メッセージを見たら返信して。心配で堪らないんだ】それに綾は、【もう退院したよ。気遣ってくれてありがとうね】とだけ返した。最後に、健吾からの未読メッセージがあった。内容は極めて簡潔だ。【無事なら、『はい』くらい言え】綾は冷淡なその一文をじっと見つめ、思わず呆れて溜息をついた。入院患者に対するメッセージだというのに。大丈夫かの一言すら言えないのか?そう思いながらも、彼女は暫く画面を見つめたまま動かなかった。心の中では妙なトキメキが湧き上がっていた。この男なりに、心配を表現しているのだろうか?でなければ、彼の性格上、わざわざ連絡なんてしてこないはずだ。そう考えると、彼女は意地を張っているかのように一言返した。【は~い!】メッセージを送った瞬間、青木家の書斎で健吾のスマホが軽く震えた。健吾は反射的にスマホを手に取り、メッセージを開いた。そして、そこに映る「は~い!」の文字を見たとき、健吾の、ずっと張り詰めていた神経が思わず緩んで、きつく寄せていた眉間の皺も消え、口元も無意識に緩んだ。綾の入院中、健吾
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第832話

翌日、放課後すぐに綾のスマホに健吾からノートが送られてきた。それは適当に撮った何枚かの写真などではなく、綺麗にまとめられたファイルで、要点ごとに分かりやすく色分けまでされていた。スマホの画面を数秒じっと見つめているうちに、綾の心に、いつの間にか次々と色とりどりの花が咲き乱れていったようだった。健吾にお礼のメッセージを送ると、彼女は自分のノートを開き、一筆一筆丁寧に書き写し始めた。ペン先が紙の上を走り、サラサラと音を立てる。湊が牛乳を持って部屋に入ってきた時、綾はちょうどタブレットを見て一生懸命書き写しているのだった。それを見た彼は何気なく聞いた。「友達から送られてきたのか?クラスに新しく友達ができてよかったな」そう言われ、綾はペンを止め、数秒考えてから「うん」と小さくうなずいた。健吾と一緒に放課後、地下鉄で帰ったこともあったし、こうして勉強も手伝ってくれているのだから、普通こういうのは友達と言ってもいいだろう。彼女は内心でその関係にこっそりと位置づけをした。そして、耳の端が少し火照ったように感じると、慌てて視線をノートに戻した。一方、湊は少しほっとした。なにせ、綾は昔から友達と呼べるのが明里くらいしかいなかったので、彼としてはできるだけ彼女に多くの人と接して、少しでも明るくなって欲しいものだ。そこで、一段落を書き終えるとペンを置き、綾は牛乳を一口で飲み干した。顔を上げ、彼女は湊を見た。「湊、もう体調はだいぶいいから。あなたも学校に戻って、自分のやるべきことをやってきていいのよ」「わかった。明日から戻るよ」と湊が答えた。自分が家にずっといると、どうやら綾はどうしても申し訳ないと感じて、気を使ってしまうようだ。それでは、逆に療養に差し障りが出るのだ。だから、早めに学校に戻ったほうが、綾も気が楽だろうというのは湊も分かっていた。翌日、綾が目を覚ますと、すでに湊は大学に向かっていた。彼女は和子が飼っている白い猫を抱き上げ、廊下に座り込んで勉強を始めた。ツタの隙間からこぼれる日差しが本の上で揺れ、猫が彼女の膝の上でゴロゴロとのどを鳴らし、しっぽを手首に何気なく絡めていた。健吾のノートはというと、すごく丁寧で分かりやすく、初めて読む内容であっても、理解には困らないほどだった。どうしても解けない難問に当た
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第833話

そう思うと、健吾と一緒に地下鉄に乗ったのも、多分他の生徒は大抵送り迎えがあって、地下鉄に一緒に乗るなんてことが滅多にないからだろう。綾は心の中で彼とのことを自分なりに解釈してみたが、そうするたびに胸の中にあった小さな希望はしぼんでいき、悲しみに包まれていくようだった。昼ご飯のときも、彼女はいつものように最後に食堂へ入った。相変わらず、弘幸と健吾は別々に座っていた。弘幸は綾を見つけると手を振ったが、健吾は視線さえくれず、まるで彼女が透明人間かのように無視を貫き通した。綾は少しだけ足を止め、それから自分のトレーを持って、弘幸の向かいに腰を下ろした。弘幸は嬉しそうに顔を綻ばせ、手を合わせて頼み込んできた。「綾ちゃん、今日のテストはギリギリで合格したんだ。お願いだから教えてくれない?放課後の10分だけでいいからさ」そして綾が答えるより早く、彼はこう続けた。「本当にお願い!親に成績を上げろって言われててさ。成績がダメなら外国へ送られるんだ。外国語はサッパリだから、海外なんて本当に行きたくないよ」綾はうなずいた。「いいわよ」以前、A組で孤立していたときも、最初に声をかけてきてくれたのは弘幸だった。だが、彼女も彼に勉強を教えてあげるのはその恩返しと、友人としての助け合いだと思った。それに、もし健吾の運転手がまだ休暇を取っていたら、また一緒に地下鉄に乗ることになってしまうかもしれない。だけど、健吾が誰にも自分との関係を知られたくないのなら、こっちから距離を置くのがいいのだろう。弘幸に勉強を教えれば帰宅時間もずれるし、健吾と顔を合わせる必要もなくなる。そう思って綾は少し意地になったように、もう自分から健吾に関わらないようにしようと決めた。向こうが人気者だとしても、自分だって学年1位の実力があるのだ。一方、少し離れた席で、注目の的である健吾が一人で食事をしていた。彼の周囲は独特の冷たいオーラに包まれ、声をかけようとした女子生徒たちも、その圧力に負けて誰一人として近づけない様子だった。新学期が始まって間もない頃、彼に勇気を振り絞って告白した女子生徒がいた。1回目の告白は彼も丁寧に断っていた。2度目にしつこく言い寄られたとき、彼は非常に冷淡な態度をとったという。それ以来、彼はそもそも女性に興味がないという噂まで
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第834話

そして、昼ご飯を終えた綾にとって、秘密基地で休憩するのがいつもの日課だった。けれど、健吾のことを考えて、綾は初めて教室で過ごすことにした。何に意地を張っているのか自分でも分からなくて笑えて来るけど、それでも自分から頭を下げたくなかった。昼休みのチャイムが鳴るが早いか、弘幸は健吾の席にどっかりと腰を下ろし、綾の肩を指でつんつんと突いた。「今週の土曜、俺の誕生日なんだ。郊外にあるうちの別荘でパーティーやるから、おいでよ。詳しい場所はライン送るから」「うん、分かった」誘われて綾は快く承諾した。だって、これまで誕生日パーティーといえば、明里のにしか行ったことがなかったから。クラスも変わった今、彼女も周りと良好な関係を築きたいと考えていたし、他人の目に映る「群れることのない変わり者」のままでいたくはなかった。それから弘幸は住所を綾に送ると、こう言った。「タクシーで来なよ。その分のお金は俺が出すから」綾についてよく知らない彼は、毎日地下鉄で通学し、服装もどこのブランドか分からないほどシンプル、かつ勉強熱心な姿から、裕福な家ではないだろうと踏んでいたのだ。綾は住所を確認して「わかった。絶対行くね」と答えた。会話の途中で、健吾がいつの間にか教室に戻っていた。彼はうつむいたまま、弘幸に向かって、「俺は?誕生日パーティーに誘ってくれないのか?」と言った。「もちろん誘うつもりだよ!」と慌てる弘幸。誘わなかったのは、健吾なら断ってくるだろうと思ったからだ。しかし、クールで気高い健吾が自ら来たいとなれば話は別だ。弘幸は、この情報を流したらきっと、大勢の女子が押し寄せて来るに違いないと思った。一方、綾はスマホをしまい、無言で顔を教壇の方へ向けた。それから数日間、綾は弘幸に勉強を教えるのに専念し、健吾と一緒に地下鉄に乗ることはなかった。健吾からも何の言葉もなく、お互いの間に暗黙の了解でできた一線があった。土曜日当日、綾は服を何着か広げて悩んだ末、いつもの格好でいくことに決めた。彼女の服はすべて、和子が馴染みの仕立て屋を家に呼び、採寸から布選びまで全てお任せで誂えてくれたものだ。子供の頃から「高価なブランド物より、自分に合った快適なものこそ選ぶのが一番」だと、和子に教え込まれて育ったのだ。それどころか、「あなた
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第835話

綾は帰りたかったが、弘幸の機嫌を損ねるのも気が引けた。その時、すらりとした背の高い少年が現れ、居合わせた全員の目を奪った。金髪に青い瞳を持つその少年は、体にぴたりと合った黒いスーツに身を包んでいた。ジャケットのボタンを外し、中の白いシャツを見せた着こなしはラフでありながら気品を漂わせていた。彼は現れた瞬間、一気に注目の的になった。綾は、周りから息を呑む声さえ聞こえたような気がした。他の生徒たちもめかしこんではいたが、誰も大人びた服装が浮いていて、借り物のようだった。健吾のような、自然と滲み出るような落ち着いた気高い気品を持つ者はいなかった。綾は思った。それは彼の、深く吸い込まれそうな青い瞳が、そんな印象を作り上げているからに違いない。しばし驚いたあと綾は言った。「本当に来たの?」それに対して、弘幸は顔を輝かせて彼を迎え、上座に座るよう促した。「さあ、こっちへどうぞ」健吾はそれを無視して綾の前に歩み寄ると、冷たい口調で尋ねた。「なにをぼうっとしているんだ?いじめられても我慢し続けるつもり?」そして、綾の返事も待たずに、彼は弘幸を見下ろして言った。「高木が綾をいじめていたのは知ってるんだろう?なのに二人とも招待するなんて、仲裁でもする気なのか?」言葉に詰まった弘幸は、大勢の注目の中、ただただ恥じ入るばかりだった。彼はこの時、健吾を呼んだことを心底後悔した。綾は小声で言った。「もう、いいって。今日は大森くんの誕生日なんだから」「行くぞ」健吾は構わずそう言い放つと、振り返ることなく大股で歩き出した。綾は弘幸に「ごめん」と小さく告げるしかなく、それから慌てて健吾の後を追った。「青木くん、あんまりよ!」全くおかしな人だ。嫌なら来なきゃいいのに。自分で来ると言い出したくせに、人前で相手に恥をかかせるなんて。健吾は鼻で笑った。「お前の『教え子』か、ただのメシトモだか知らないが、友達ごっこをして守ってやっているつもりか?」意味が分からず、綾は聞き返した。「なんの話?」自分と弘幸は、ただ困った時に助け合うだけの友達だ。そんな深い意味なんてあるはずがない。そう考えていると、健吾はマイバッハのドアを開け、「乗れ」と言った。綾はなぜか抵抗できず、おとなしく座席に乗り込んでいた。シートベルト
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第836話

20分後、綾が顔を上げ、嬉しそうに言った。「解けたわ!」同じ頃、マイバッハが路肩に停まった。健吾が笑みを浮かべ、綾に車から降りるよう促した。車を降りて見回すと、そこは以前健吾と偶然出会ったフェンシング館だった。振り返ると、健吾はすでにガラスドアを押して中に入っていた。受付スタッフは彼を見るなり、笑顔で挨拶をした。「青木様、本日はお連れ様とご一緒ですか?」健吾は軽く頷いた。「貸し切りで頼む。それと、彼女に一式用意してくれ」綾は目を見開いた。「私、できないわ」そう言って、綾は少し不安になった。自分はただちょっと臆病なだけなんだから、まさか、彼は自分に剣を突き立てるほど嫌っているわけじゃないよね……「教えてやる」それから健吾は自分の着替えをするのに更衣室へ向かい、綾をスタッフに任せた。こうして明るい館内で、スタッフが防具一式を綾に渡した。綾は受け取ったものの、どうすればいいか分からない。健吾が準備を終えて戻ってきた時、彼女はまだその場に立ち尽くしていた。「どうして着ない?」健吾が尋ねる。綾は茫然として首を横に振った。「どうしたらいいかが分からないの」「教えてやる」健吾が近づき、手から防具を受け取ると、手際よく綾の装着の手伝いをしてあげた。まずは手先。彼女に手を開かせて、指先を守るガードを一つずつ丁寧に調整する。続いて腕。面ファスナーをギュッと締めた。胸の防具を留める時は、背後に回り込み、ベルトをきつく締めてあげた。綾はただされるがまま動けず、全身を強張らせ、息をするのさえ忘れるほどだった。最後に健吾は綾にマスクを渡すと、剣を一本手に取り、ピストに立った。「それを自分で被れ」そう言われ、我に返り、綾がマスクを被ると、目の前の世界が金網で格子状に切り取られた。対面に立つ健吾の姿は、まるで鞘に収まる一本の剣のように、真っ直ぐで凛としていた。こうして、綾はよく分からないまま連れてこられ、防具まで着せられ、気づけば剣を向け合う場所に立たされてしまった。家を出る前に今日の運勢でも見ておくべきだったかも。多分「外出に不向き」だったのだろう。「一つだけ教える。誰かが向かってきたら」健吾が剣先を綾に向ける。「後ろに退くな」彼の迫力に気圧されつつ、綾は剣をしっかりと握りしめた。
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第837話

健吾はマスクを外すと、「よし、5分休憩だ」と言った。綾は壁にもたれて息を整えた。フェンシングは想像以上にハードで、腕はすでに上がらないほどパンパンになっていた。それでも面白い。意識を剣先だけに集中すればいいからだ。防具であるマスクは、体を守るだけでなく、胸の奥で荒ぶる感情までも隠してくれた。綾はマスク越しなら、本当の自分をさらけ出せる気がした。それがなんとも心地いい。健吾は彼女の向かいに立ち、マスクを外さぬまま、金網越しに声をかけてきた。「なぜ俺がお前をここに連れてきたか、わかるか?」綾は首を横に振った。「いいえ、分からない」まさか、健吾が説教をするつもりじゃないかとはさすがに言えなかった。だってこの場でそれを口にするのはなんだか危険な気がしたから。「高木がお前の隣に座ったとき、お前が真っ先に取った行動は、立ち上がって離れることだったな」綾は目を伏せ、黙って聞いていた。「だが、お前が避けても、高木がお前を追いかけてこないという保証はあるのか?」健吾がさらに突っ込む。綾は何も言わなかった。答えなんて分かっていた。何度も経験してきたことだ。避けようとすればするほど、我慢すればするほど、相手はもっとつけ上がってくるだけだった。「逃げれば、お前はますますいじめやすい対象になる。次はもっと酷い目に遭うだけだぞ」健吾の声は小さいけれど、その言葉一つひとつが耳に突き刺さる。綾は剣の柄を強く握りしめ、指の関節が白く浮き出た。「みんなに好かれる必要なんてない。ただ、時として自分はそう簡単にいじめられる相手じゃないということを示さないといけないんだ」そう言って、健吾は剣を掲げた。「来い。その、反抗的な一面を見せてみろ」こうして彼の口車に乗せられた綾は思わず納得してしまい、マスクを再び被った。すると、健吾が大きく一歩前に出て、切っ先を向けてきた。今度は、彼の動きは速かった。綾は本能的に後ろに引こうと、かかとを浮かせた。だがそこで踏みとどまった。さっき言われた言葉を思い出し、彼女は歯を食いしばって一歩前に踏み込み、突きを繰り出した。剣同士がぶつかり、金属の鋭い音が室内に響いた。そして、健吾は剣を引き戻し、口元が微かに動いた。それは微かに微笑んでいるようにも見えた。そこからまた30分間、健吾は
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第838話

「ごめん」その瞬間、綾は胸の鼓動が高鳴り、一歩あとずさりした。彼女は深く息を吸い、勇気を出して尋ねた。「この前、私の勉強を手伝っていることを先生に言わないでと言ったのは、他の人に私たちが親しくしているのを知られたくないからなの?」それを聞いて、健吾は眉をひそめ、すぐに小さく笑った。「そんなふうに思っていたのか?」「違うの?」と、綾は問い返す。健吾は片手を壁につき、身を乗り出して綾に近づいた。「中野家は一体どんな教育をしてきたんだ。お前を弱くて卑屈な人間にしてしまうなんて」その言葉に綾は強がって言い返した。「それは私個人の問題で、中野家とは関係ない。質問に答えて」健吾はフッと笑う。「ただ面倒なだけだ。分かっていることを、いちいち他人に説明する必要はない」綾は立ち尽くした。まるでフェンシングの試合で胸を突かれたように、傷はつかないはずなのに、なぜかズキリと痛んだ。自分はすぐに物事を悪い方向に考えて、期待が外れるのを防ごうとしていたのだと彼女は改めて気づいた。一方、健吾は朗らかな声で言った。「腹が減ったな、行こう」すると、綾は思わず笑顔になった。「じゃあ、たっぷりご馳走させてもらうわね」デパートの4階で、綾は家庭料理の店を選んだ。メニューを健吾に渡そうとしたが、彼は「何でもいい」と返してきた。仕方なく、彼女は料理3品とご飯ものを一つ注文した。健吾の好みに合わせ、あっさりしたものばかりを選んだ。料理を待つ間、二人とも特に会話を交わさなかった。だが、その沈黙は決して気まずいものではなかった。綾は手元にあるナプキンで船や飛行機を折り、たまに顔を上げると、健吾もこちらを見ていた。料理が届くと、綾はゆっくりと味わって食べた。健吾は食事中にあまり話すのを好まないようで、綾も特に話しかけなかった。会計を済ませて店を出た綾は、店の前でカフェラテを手に待っている健吾を見つけた。「何がいいか分からなかったから、適当に買ってきた」と言って手渡された。カフェラテをひと口飲むと、とてもいい香りがした。二人でデパートの通路をのんびり歩いている途中、ふと通りかかった雑貨屋に綾がふらりと足を踏み入れ、棚に並ぶ可愛らしい小物を眺め始めた。健吾は両手をポケットに入れて、隣に立っていた。すると、綾は飲み
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第839話

綾は微笑んだ。「分かったわ。じゃあ、作ったら持っていく」それから、彼女はカフェラテを一口飲むと、ほのかな温かさが胸の奥まで染み渡るように感じた。二人がデパートを出る頃には日は完全に沈み、街灯に照らされた影が長く伸びていた。帰る時綾が道路脇で迎えの車を待っていた。本当は、健吾がついでだから送っていくよと言ったのだが、和子がすでに運転手を向かわせているとのことだったから、綾は断ることにした。こうして隣り合わせで立った二人の、地面に落ちた影がちょうど重なっていた。ほどなくして車が到着し、健吾がドアを開けてあげると、綾はそっと乗り込んだ。ドアが閉まる直前、健吾はこう言い添えた。「帰ったらストレッチしろよ。じゃないと明日の朝、筋肉痛で起きられなくなるぞ」綾は頷くと彼に手を振って別れを告げた。やがて、窓が上がっていった。車のシートにもたれ、綾は全身に心地よい疲労感があるものの、気分は晴れやかだった。彼女は自分の手を見つめた。剣の持ち手を握っていた指の間が、少しだけ赤くなっていた。彼女はその手を軽く握りしめた。まるでまだ剣の感触を確かめるかのように。車の窓から外を覗くと、健吾がまだその場所に立って、スマホを見ていた。綾は思わずくすりと笑った。彼がカエルのカチューシャをつけた姿が、今も脳裏にチラついているのだった。夜、寝支度をしていた綾のスマホが震えた。弘幸からメッセージが届いていた。【綾ちゃん、今日のことはあまり気にしないで】返信しようとすると、すぐに次の通知が入った。【高木って、本当は悪い奴じゃないんだよ。ちょっとバカなだけで、何も考えずに動いてるんだ。悪気があるわけじゃないんだ】綾は画面を見つめたまま、指先が宙で止まってしまった。そしてすぐに、3通目が届いた。【もう彼には注意しておいたからさ。みんな同じ学校なんだから水に流そうよ。俺の顔を立ててくれないか?】それを見た綾は苛立ちを感じ、スマホを机に伏せた。充に理不尽な目にあわされた身としては、悪気がないと言われても到底納得がいかないものだ。それなのに、他人である弘幸がどうこう言ってくるなんて。自分は夜も眠れないほど嫌な思いをして、クラスを変えるまで追い詰められたのだから、弘幸のたった一言のメッセージで消せるはずもないのだ。八方美人の態度
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第840話

月曜日の朝、綾は校門の前で弘幸に出くわした。自転車に乗った彼は、遠くから「綾ちゃん、おはよう」と声をかけてきた。「おはよう」綾は礼儀として軽く微笑み、会釈をしたが、足を止めることはなかった。一方、弘幸は自転車を停めると、綾を追いかけてきた。「昨夜のメッセージ読んだ?本当にお前を思って言ってるんだから」「読んだよ」綾は答えた。「もうすぐチャイムが鳴るから、急ごう」彼女が足早に校舎へ入ると、何かを言いかけようとしていた弘幸に構うことなく、階段の方へ進んでいった。午前中の授業中、弘幸が何度も振り返るのを感じたが、綾はひたすらノートをとることに集中した。休み時間、弘幸が話しかけようと近づいてきた時、綾は避けるようにしてコップを手に給水機へと向かった。席に戻ると、ちょうどチャイムが鳴り響いた。すると、綾は心の中でほっと息をついた。弘幸に対してキツイ言葉を口にするのは、やはり気が引けた。昼休み、綾はいつも通り10分遅れて食堂へ行き、トレーを持って料理を選んだ。弘幸がいつもの席で手招きしている。彼の周りに他の生徒はいなかった。綾がふと食堂全体を見渡すと、健吾の姿が目に留まった。彼女は弘幸に向かって、健吾がいる方を指さし、そっちに行くという合図をした。健吾は相変わらず隅の席に一人で座っていて、向かいの席は空いていた。綾が近づいてくるのを見て、健吾の手元が一瞬止まった。「ここ、空いてる?」と綾は尋ねた。聞くまでもないことだ。健吾はいつも一人で食事をしているのだから。どうやら彼も食事を受け取ったばかりのようで、食器トレーにはまだ手つかずの料理が並んでいた。彼は顔を上げて言った。「早く食べないと、冷めるよ」綾は笑みを浮かべて座り、二人の食器トレーを隣り合わせた。彼のトレーには焼肉とサラダ、綾の皿にはオムレツとポテトサラダがそれぞれ乗せられていた。食事の時二人はほとんど会話を交わさなかったが、健吾はまだ手つかずだった自分の分の焼肉を半分、あたかも当たり前かのように綾に分けてあげた。綾は呆然と彼を見たが、彼は黙って食事を続けていて、まるで何事もなかったかのようだった。いつもクールな健吾がこんな気遣いをするなんて。綾は驚いてやまなかった。二人の仲がそれなりでなかったら、この焼肉は本当はまずい
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