三度の流産を越え、極悪セレブ界を完全制圧 のすべてのチャプター: チャプター 31 - チャプター 40

104 チャプター

第31話

星墨山の別荘へ移ってからの星歌は、至れり尽くせりの環境に身を置き、ひたすら美味しいものを味わいながらのんびりと過ごしていた。夕食の時間が近づいた頃、江里子が様子を見にやってきた。「いいもの食べてるじゃない。ちゃんと世話してくれる人がいて安心したよ」江里子自身も、今は会社の仕事で頭を抱えている時期だった。最近になって父親から事業を引き継ぐよう命じられ、目の回るような忙しさが続いている。星歌にとてつもない権力を持つ実の兄がいると知らなかった頃は、江里子が実家の家政婦を派遣して面倒を見させようと手配までしていたのだ。だが、こうして何不自由なく過ごしている姿を見れば、もう心配はいらないだろう。「一日中食べてばかりだから、今は全然お腹が空いてないのよね」「お腹が空いてなくても食べなきゃダメ。流産後の体は徹底的に休ませないといけないんだから、しっかり養生しなよ。……まあ、あんたはこうしてゆっくり休める状況にあるだけマシだわ。ある人なんて、休むどころの騒ぎじゃないみたいだからね」その『ある人』とは、もちろん夏蓮のことだ。今日一日、夏蓮は一滴の水すら口にしていないという。普段なら過保護なまでに彼女を甘やかす都子でさえ、今は食事の心配などする余裕を完全に失っていた。冴島家の人間たちは、世間を巻き込んだあの大炎上騒動をどうやって鎮火させるか、ただそれだけで頭がいっぱいなのだ。何しろ、夏蓮には『既婚の義弟にすがりつく泥棒猫』という最低のレッテルが貼られてしまった。そんな彼女を総出で庇い続けてきた冴島家もまた、世間の冷たい目に晒され、今や体裁も何もあったものではなかった。「一緒にどう?」星歌が促すと、本当に腹を空かせていた江里子は、向かいの席に腰を下ろしてさっそく箸をとった。お椀に口をつけ、お吸い物を一口すすると、パッと目を輝かせた。「わあっ、なにこれ。すっごく美味しい!」「それ、鯛の潮汁よ」と星歌が答えると、江里子は一瞬動きを止めた。「……もしかして、夏蓮が飲みたがってたやつ?」夏蓮の話題を出すだけで反吐が出そうになる。この半年間、実家で飛鳥を独占し続けただけでも大概なのに、自分が出産した後は星歌に自分のための潮汁を作らせようとしていたのだ。一体どの口が言っているのか。典型的な厚顔無恥。金持ちの実母や
続きを読む

第32話

その夜。飛鳥は墨霞邸へ帰るつもりだったが、母の都子から「どうしても本家へ顔を出しなさい」と強硬に呼び出されていた。電話越しの都子の声は明らかに怒気を孕んでいた。一真の手配が早かったのだろう。すでに顧問弁護士から連絡が入り、要求を突きつけられたに違いない。本家の玄関に足を踏み入れるなり、リビングから都子のヒステリックな声が響いてきた。「あの女に謝罪しろですって!?あの子、一体なにを考えてるの!」どうやら怒りの矛先は飛鳥に向いているらしい。「その上、あの女のものを全部返せだなんて、馬鹿げてるわ!あの品々が星歌となんの関係があるっていうのよ!」「ほんと、謝罪だけじゃないわよ」腕を組んだ亜季が苛立たしげに同調する。「わざわざ弁護士から連絡してきて、元の星歌の名義だったものは全部返上しろって言ってきたのよ。ありえない!」思い出すだけで腹の虫が治まらないといった様子の亜季だったが、リビングに姿を現した飛鳥を見た瞬間、サッと顔色を変えて慌てて怒りを引っ込めた。「兄様……」飛鳥は眉根を寄せた冷ややかな顔で部屋へ入り、亜季の向かいのソファに無言で腰を下ろした。全身から放たれる凍てつくような威圧感が、室内の空気を一瞬で氷点下に下げる。亜季はすっかり縮み上がり、文句の続きを飲み込んだ。それもそのはずだ。現在、冴島グループの全権を掌握しているのは飛鳥であり、冴島家の家計もすべて、彼の下にいる専任スタッフが管理している。毎年の配当金を除けば、日常の支出すら一つ残らず飛鳥の監査を通さなければならない仕組みになっているのだ。浪費家の亜季は、すでに昨年の配当金をすべて使い果たしている。つまり、今年があと数ヶ月残っているというのに、これから彼女が自由にお金を使うためには、どうしても飛鳥の機嫌をとり、会社から特別に資金を引き出してもらうしかないのだ。飛鳥がジロリと亜季を睨みつける。その視線に射すくめられ、亜季はびくっと肩を揺らし、慌てて弁解した。「あ、あのね、謝れって言われたからちゃんと謝ったわよ!スクリーンショットも送ったじゃない!」一方の都子は、まだ怒りの熱がおさまらない様子だ。「飛鳥、あなた一体どういうつもりなの?今、なにが一番重要なのか分かってないの!?」よりによって、あの世間を騒がせている大炎上の
続きを読む

第33話

星歌と江里子が夕食を終えた直後のことだった。突然、夏蓮の母親である陽子から電話がかかってきた。耳元から聞こえてくる声には、ギリギリと歯噛みするような怒りが滲んでいた。「小娘……まさかこれほど手間取らされるとは、見くびっていたわ」バックボーンを持たないただの孤児が、これほどの騒ぎを起こすとは。しかも、冴島家と夏目家の両家が総力を挙げて火消しに走っているというのに、世間の炎上は一向に収まる気配がない。その苛立ちに満ちた声を聞き、星歌は鼻で笑った。「天下の夏目陽子夫人にそこまで言わせたのなら、今回の私の手腕はまずまず成功だったってことかしら?」相手を小馬鹿にしたようなその態度は、陽子の神経を逆撫でするには十分すぎるほどの効果があった。「……ある旧友の姿を見れば、きっと懐かしく思うはずよ」「……」「これからSNSでフレンド申請を送るから、承認しなさい。動画を送ってあげるわ」言うだけ言って、陽子は一方的に電話を切った。直後、星歌のスマホにフレンド申請の通知が届く。星歌は眉をひそめながらも、要求通りに承認を済ませた。すぐに送られてきた一つの動画ファイル。それをタップした瞬間――目に飛び込んできたあまりに残酷な光景に、星歌の息が止まった。『孤児を育てたのはいいですが、ろくに躾もしなかったようですねぇ。外でデカい顔をして厄介事を引き起こした落とし前は、アンタに払ってもらいましょうか』動画の中で、全身血まみれの女性が椅子に縛り付けられていた。星歌の頭から、サッと血の気が引く。心臓が握り潰されたように苦しい。さらに動画の後半では、どこかの建物が猛火に包まれている映像が映し出された。それは間違いなく、星歌が幼い頃から育った最愛の児童養護施設だった。星歌が呆然としている間に、送られた動画は素早く送信取り消しされた。なるほど。夏蓮が何かとすぐにメッセージを取り消す癖があるのは、この母親の入れ知恵だったというわけか。すかさず、陽子から再び着信が入る。「どう?この警告の味は」電話口から響く横暴で傲慢な声に、星歌はスマホを握りしめる手にギリッと力を込めた。「夏蓮は私のたった一人の大切な娘よ。あの子をここまでコケにして、ただで済むと思ってるの?相応の代償はきっちり払ってもらうわよ!」「……この代償
続きを読む

第34話

先ほどあの動画を見た時、星歌は本当に心臓が止まるかと思った。もし院長先生になにかあれば、陽子のことを八つ裂きにしてやると本気で考えていた。「ごめんよ。グロに伝えてくれないか。ベリィの連絡先を、着信拒否リストから外しておくようにって」「ベリィ?誰なの、それ」「グロと組んで動いてる人間だよ」現在、ベリィも本港市に滞在している。グロが星歌の身の回りの世話や表の処理を担当しているのに対し、ベリィは裏で標的の監視や工作を担っていた。だが、この二人は昔から犬猿の仲なのだ。先ほどベリィからの報告をグロが着信拒否でシャットアウトしていたせいで、状況伝達が遅れ、星歌に無用な心労をかけてしまっていた。星歌は少しだけ鼻をすすり、こっくりと頷く。「うん、わかった」通話を切り、星歌は前の座席にいるグロに声をかけた。「お兄ちゃんが、ベリィの連絡先を着信拒否から外しておきなさいって」「……」ルームミラー越しに見えたグロの顔が、その名を聞いた途端に引きつっていた。よほどその女が嫌いなのだろう。「それで、このまま養護施設には向かわれますか?」「ええ、一応様子を見ておきたいわ」もうすぐ到着する距離まで来ているのだから。江里子がそっと星歌の横手を握りしめる。「よかったね、無事で」「うん」と、星歌は小さく頷いた。......ブルーバードに到着した頃には、大粒の雨が激しく降りしきっていた。江里子は星歌の肩に厚手の上着をかけ、グロが開いた黒い大きな傘が星歌の頭上を覆う。車を降りると、少し離れた場所で院長が大声で指示を出し、荒らされた現場の片付けに追われているのが見えた。院長が腕を伸ばした拍子に、その手首にくっきりと残る縄の擦れ跡が目に飛び込んでくる。星歌は胸を締め付けられる思いで、グロに低い声で告げた。「この施設の警備、もっと厳重にお願い」ここは、彼女が育った大切な場所だ。大好きな院長先生から受けた恩も数え切れない。「ご心配なく。移転先の新しい施設はすでにベリィが手配を済ませております。いつでも引っ越せる状態です」着信拒否を解除した直後、ベリィからその報告メッセージが届いていたのだ。星歌は安堵して小さく頷いた。その時、星歌の姿に気づいた院長が、足早に駆け寄ってきた。「星歌ちゃん」「院長先
続きを読む

第35話

星歌は軽く顎を引き、飛鳥からスッと視線を外した。隣のグロに視線を送ると、グロもまた飛鳥をねめつけていた視線を切り上げる。「参りましょうか、星歌様」星歌は無言で頷いた。二人が車へと歩み寄る。飛鳥は、助手席側のドアに寄りかかるようにして立ち塞がっていた。傘もささず、降りしきる雨に打たれるがままの飛鳥の髪から、水滴が冷たく滴り落ちている。星歌は飛鳥を一瞥しただけで何食わぬ顔で素通りし、グロが開けたドアから車に乗り込もうとした。だが次の瞬間、飛鳥が乱暴に星歌の腕を掴んだ。「……」雨に濡れた鬱陶しい空気が、一瞬にして凍りつく。飛鳥が星歌を捕まえたと同時に、グロの分厚い手が飛鳥の手首を万力のように掴み上げていた。二人から凄まじい覇気が放たれ、飛鳥は殺意の籠った目でグロを睨みつける。グロもまた、鋭い眼光で飛鳥を射抜いていた。男たちの放つ威圧感が空気中で激突し、息の詰まるような一触即発の事態となる。「冴島飛鳥さん。こんな場所でさらに見苦しい真似を晒すおつもりですか?」グロの発音は完璧だった。声に潜む危険な警告のトーンすら、見事なまでに計算し尽くされている。相手が自分の名を正確に呼んだことで、飛鳥の眼差しはさらに危険な色を帯びた。「俺の目の前で、俺の妻を連れ去ろうってのか?俺が黙って見過ごすような安い男にでも見えるかよ」「あなたがどういう男かなど、私には欠片も興味がありませんので」「……殺されたいのか、てめえ」今日一日、飛鳥の腹の中では数え切れないほどの業火が燃え盛っていたのだ。怒りが頂点に達した飛鳥は、空いた方の手を握り締め、グロの顔面めがけて拳を振り上げた。グロの目に、冷酷な光が走る。次の瞬間――冷たく硬い銃口が、飛鳥の顎下へピタリと押し当てられた。その場の空気が、完全に氷結した。怒りに燃えていた飛鳥の目から、一瞬だけ感情が消えた。顎元に突きつけられた冷たい金属を一瞥する。だが、退くどころか、彼の全身から放たれる危険なオーラはさらに勢いを増していった。少し離れた場所で待機していた一真が、その光景を目の当たりにして咄嗟に動いた。腰から黒い鉄の塊を抜き放ち、一足飛びに駆け寄ると、グロのこめかみにピタリと銃口を突きつけた。「武器を下ろせ」一真が低い声で威嚇する。飛鳥はグロ
続きを読む

第36話

星歌が逃れようと身をよじればよじるほど、飛鳥のキスは凶暴さを増していった。どれくらい時間が経っただろうか。星歌が息も絶え絶えになり、酸欠で意識が遠のきかけたところで、ようやく彼は唇を離した。自由になった瞬間、星歌は大きくあえぎ、新鮮な空気をむさぼるように肺に吸い込んだ。次の瞬間――思い切り腕を振り上げ、「パァンッ!」と飛鳥の頬を平手打ちした。彼女の目は、今にも飛鳥を食い殺しそうなほど激しい憎悪に満ちていた。飛鳥の口の端から、一筋の血がにじみ出た。しかし彼は怒るどころか、血に飢えた獣のような笑みを浮かべ、ゆっくりと顔を戻すと、星歌の顎を指でつまみ上げた。「一真に手配させた。あいつらに奪われたものは、すべてお前の名義に戻す」情欲と執着が入り混じったような声で、ねっとりと囁く。しかし、星歌の澄んだ瞳の中には、ただ冷え切った軽蔑だけがあった。「……私がそんなもの、欲しいと思ってるの?」その言葉が終わるか終わらないかといううちに、飛鳥は再び強引に彼女の唇を奪った。怒りに駆られた星歌がもう一度平手打ちを食らわそうと手を振り上げるが、飛鳥は難なくその手首を掴み、自分の胸元へ押し付けた。逃げ場などどこにもなかった。飛鳥の放つ圧倒的な熱と匂いが、星歌の全身を覆い尽くす。以前なら愛しいと思えたその抱擁に、今は吐き気すら催すほど嫌悪していた。飛鳥が自分に触れること自体が、耐えられないほど気持ち悪かった。やがて――「……うっ」と、星歌の喉の奥からえずくような音が漏れた。その音を聞いた瞬間、飛鳥は弾かれたように彼女を離した。その顔は、墨を流したようにドス黒く濁っている。「……俺に触られるのが、そこまで嫌か?」信じられないことに、星歌は彼に触れられて本当に吐き気をもよおしたのだ。飛鳥の自尊心をズタズタに引き裂くには、これ以上ない反応だった。「ええ、反吐が出るわ」星歌は冷たく吐き捨てた。飛鳥の目が、今すぐ彼女を殺しかねないほど険しく眇められる。だが次の瞬間、彼はその怒りを無理やり笑いに変え、再び星歌の首根っこを引き寄せた。「……俺を怒らせるために、わざとやってるんだろう?」「自意識過剰ね」彼女は今、心の底からこの男を嫌悪しているのだ。彼のキスも、腕も、手も、その胸の中も。夏蓮に触れたであろうその身
続きを読む

第37話

飛鳥は内心苛立っていた。だが、必死にそれを押し殺し、努めて穏やかな声を作った。「この半年間、俺はただ翼兄さんの子供が無事に産まれてくることだけを優先してたんだ。お前が俺を責める気持ちも分かるし、腹を立てるのも無理はない。でも……」ブーッ、ブーッ……飛鳥が言い終わる前に、スマホのバイブレーションが鬱陶しく鳴り響いた。画面を見ると、母の都子からだ。考えるまでもなく、また夏蓮のことで呼び出そうとしているに決まっている。舌打ちを一つし、飛鳥は迷いなく通話を切った。しかし数秒後、再びスマホが震え出した。まるで飛鳥が出るまで永遠にかけ続けるような執念を感じる。星歌の口元に浮かぶ嘲笑の色が、さらに深くなった。「出たらどう?夏蓮がまた、『翼さんがいないなら死んでやる』って病院の屋上で騒いでるかもしれないわよ」「兄さんと瓜二つの顔を持つあなたが一言なだめれば、一発でおとなしくなるんでしょうから」産後うつというのは、本当に便利な言い訳だ。周囲の同情を引き、彼女の異常な行動を正当化してしまう。冴島家の人間は、騒ぎ立てる夏蓮が自分と子供を傷つけるのではないかと恐れ、そのたびに飛鳥を呼び出しては『亡き夫の身代わり』をさせてきたのだ。飛鳥は深く息を吸い込むと、警戒を露わにする子猫をなだめるように、星歌の柔らかな髪へそっと手を伸ばして撫でた。そして通話ボタンを押し、冷たすぎる声で短く応える。「……なんだ」「飛鳥、早く来て頂戴!夏蓮が病院の屋上にいるの。彼女……飛び降りるって!!」スピーカー越しに、都子の切羽詰まった叫び声が車内に響き渡った。星歌の口元に浮かんでいた嘲りの笑みが、さらに深くなる。……ほらね。今の私は、夏蓮が次にどんなくだらない手を使ってくるか、手に取るように分かる。あの女はいつだってこうなのだ。飛鳥が私と一緒にいると知れば、必ず絶妙なタイミングで命を盾に取り、彼を呼び出そうとする。飛鳥の顔がスッと険しくなった。彼が何か言う前に、電話口の都子がまくし立てる。「子供が生まれたらもう関わらないってあなたが言ってたのは分かってる。でも、あの子はまだ産まれて間もないのよ!もし夏蓮が本当に死んでしまったら、あの世にいる翼にどう顔向けするつもり!?」「……」その言葉に、飛鳥の顔色はさらに陰惨なほど
続きを読む

第38話

星歌がスマートフォンを取り出し、グロに連絡しようとしたその時だった。重厚なマイバッハが静かに滑り込み、彼女の目の前で停まった。開いた後部ドアから、見上げるような長身の男が車外へ降り立つ。完璧に着こなされたスーツ。隙のない立ち振る舞い。高峰啓介は、顔にかかる金縁の眼鏡によって、彼特有の冷徹で威圧的な空気にほんのわずかな理知を纏わせていた。だが、その向こうにある双眸はひどく冷めきっている。まるで下界を無感情に見下ろす神のようだ。これほど完璧な男が、もし女によってその神座から引きずり落とされたら、一体どんな無様な顔をするのだろう。ふと、星歌の胸の内にそんな意地の悪い想像が浮かんだ。――それにしても、なぜ彼がこんなところにいるのか。「高峰さん」内心の邪悪な妄想は微塵も顔に出さず、星歌はあくまで儀礼的に声をかけた。彼女から見て、飛鳥の取り巻きの中で最も得体が知れず、つき合いにくいのがこの男だった。飛鳥のような傍若無人で感情的な人間が、氷のように静かな啓介と親友になれたこと自体が不思議でならない。雨のしずくが、男の髪を伝ってスーツの肩へと落ちる。啓介は無言のまま、ゆっくりと一歩踏み出した。星歌の差している傘は大きい。その一歩で、冷たい雨から彼の体を守る形になった。だが、突然距離が縮まったことに警戒し、星歌は無意識のうちに一歩後ずさっていた。「高峰さん、何か……」「また置いて行かれたのか」「…………」その短く放たれた『また』という響きに、星歌はかすかな苛立ちを覚えた。別の女のために雨の中で置き去りにされるなど、女としてはあまりにも面目の潰れる滑稽な状況だ。それを見透かされるのは、決して気分のいいものではなかった。「送ろう」啓介は短く告げると、身を翻して後部ドアをさらに大きく開けた。星歌は首を振った。「お気遣いなく。迎えを呼んでいるので」その言葉に、男は振り返った。冷ややかな瞳の奥で、得体の知れない光が微かに揺らいだように見えた。星歌はグロに電話をかけたが、なぜか繋がらない。その時、冷たい夜風が雨粒とともに容赦なく吹き付けた。「……それでは、お言葉に甘えますわ」流産して間もないせいか、風に吹かれただけで頭の芯が痛む。意地を張るよりも、一刻も早く落ち着ける場所へ帰りたかった。啓介の
続きを読む

第39話

星墨山の別荘へ戻ると、星歌はすぐに熱いシャワーを浴びた。ベッドに身を沈めた直後、登録のない番号から一通のメッセージが届く。添付されていたのは、一枚の画像だった。病院の屋上で、飛鳥が夏蓮をしっかりと抱きしめ、安全な場所へ下ろしてやっている場面が写っていた。星歌は無表情のままスマートフォンの電源を切った。わざわざ見知らぬ番号を使ってこんなものを送りつけてくるなんて、どうせ夏蓮の仕業だろう。せいぜい今のうちに得意になっていればいい。今夜どれだけ勝利の美酒に酔おうとも、明日からは地獄のような日々が待っているのだから。......一方、病院では。屋上から救出された夏蓮だったが、状態は決して良くなかった。無理に動いたせいで傷口が激しく痛み、顔面は蒼白だった。病室には都子と亜季も駆けつけていた。「夏蓮……あなた、どうしてあんな馬鹿なことを……!」都子はしきりにハンカチで涙を拭っていた。「子供たちのことも少しは考えなさいな。あの子たち、まだあんなに小さいのに……」今夜は本当に生きた心地がしなかった。あんな高いビルの屋上の縁に立って、もしあのまま落ちていれば間違いなく即死だっただろう。夏蓮はボロボロと涙をこぼした。「私……私、どうしてあんなところにいたのか、全然分からなくて……」彼女はか弱く震える声で言い訳めいた言葉を並べた。「本当に何も覚えてないの。ただ、ただ……翼さんに会いたくて……」その弱々しくしゃくりあげる声を聞いて、都子は胸が張り裂けそうになった。「全部星歌のせいよ!」と亜季が憤慨して吐き捨てる。「あいつがこの何日か、お義姉様をどれだけいじめたか。そのせいでこんなに追い詰められて……!」夏蓮の目から、さらに大粒の涙がこぼれ落ちる。「私が一体何をしたっていうの?どうしてみんな、束になって私を罵るの……」「本港市中の人が私を泥棒猫だって……私、どうしたらいいの……」絶望に満ちたその泣き声を聞いて、亜季はたまらなくなり夏蓮を抱きしめた。「お義姉様、もう大丈夫ですから、どうか泣かないでください。今夜はゆっくり休んで……明日の朝になれば、何もかも終わっていますから」都子も慌てて同調した。「そうよ、亜季の言う通り。ゆっくり休めば、嫌なことも全部消えてなくなるわ」夏蓮は亜季の腕の中で、息も絶え絶え
続きを読む

第40話

「…………」都子は言葉に詰まった。「俺は精神科医じゃない。鬱病の治し方なんて知らない」飛鳥の胸の奥で、どす黒い怒りが抑えきれないほどに膨れ上がりかけていた。彼の脳裏に焼き付いているのは、冷たい土砂降りの雨の中、黒い傘を差したままたった一人で置き去りにされた星歌の孤独な姿だけだ。「でも、でもね、夏蓮はあなたの顔を見ないと、落ち着かないのよ!」確かに飛鳥は医者ではない。だが、死んだ兄・翼と瓜二つであるその顔は、夏蓮にとってどんな名医よりも効果がある特効薬なのだ。「だから俺に、四六時中その顔を見せてやれと?それを一体いつまで続けろって言うんだ!」地を這うような低い声に、都子は思わず身をすくませた。それでも、自分の考えを必死に押し通そうとする。「せめて、子供たちがもう少し大きくなるまでよ。その間に専門の先生に少しずつ治療してもらって……今夜のあれを見たでしょう?パニックになったら、あの子は本当に命まで投げ出そうとするのよ!」「なら、勝手に死なせればいい!」飛鳥はついに怒声を張り上げた。「自分から命を捨てるような女の面倒を、誰が一生見続けられるって言うんだ!」その時の飛鳥は、恐ろしいほどに冷酷で無慈悲だった。都子は顔を青ざめさせた。「なんてことを言うの……!その子たちは翼が残してくれた血筋なのよ。どうしてそんな血も涙もないことが言えるの!?」息子のあまりの冷たさに、都子も完全に余裕を失っていた。「はっ、翼兄さんの残した子供?だったらそれこそ、ベビーシッターや家政婦を百人雇って面倒を見させれば十分じゃないか!」飛鳥は吐き捨てるように嘲笑した。「四六時中死にたがってるような母親が傍にいるより、よっぽど子供の教育にいいだろうが!」情緒不安定ですぐに自殺未遂を起こすような母親が、子供にまともな影響を与えるわけがないのだ。都子は屈辱と怒りで全身をわななかせた。「あなた……あなた、本当にあの人が死んでもいいって本気で言ってるの!?」ポン、と冷たい電子音が鳴り、エレベーターの扉が開いた。飛鳥は凍てつくような威圧感を放ちながら、躊躇うことなく箱の中へ足を踏み入れる。取り残された都子はエレベーターホールの前で地団駄を踏んだが、どうすることもできなかった。......病院を出た飛鳥は、車に乗り込むとすぐに
続きを読む
前へ
123456
...
11
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status