LOGINその頃、主治医の診察室から出てきた星歌の顔には、氷のような冷酷さが張り付いていた。外では、啓介が手配したボディガードたちとグロが待機していた。星歌が出てくると、グロが素早く車椅子を引き寄せ、彼女を座らせた。星歌は手元のスマートフォンを操作し、たった今録音したばかりの音声データをグロに送信した。データを受け取ったグロは、軽く画面に目を落としてから星歌に尋ねた。「医者は認めたのですね?」「ええ。認めたわ」それにしても、夏蓮と陽子の母娘が自分を陥れるために費やした執念と手間には、ほとほと感心するほどだ。「では、直ちに司法手続きに移行し、彼女を罰しますか?」星歌は静かに首を横に振った。「いいえ。あの程度の罪でただ刑務所に打ち込むなんて、安上がりすぎるわ」「私がY国に戻る時に……まとめて片付ける」それまでの間は――陽子には、権力の頂点から泥沼へと転がり落ちる、その絶望感と無力感をたっぷりと味わってもらわなければならない。そして、夏蓮にも。あいつはいつも、「母親」という強大な後ろ盾を笠に着て生きてきた。彼女たちは他人の弱みにつけ込み、権力で踏み躙るのが大好きなのだから。だったら今回は、絶対に手の届かない力で上から押し潰され、身動き一つとれなくなる感覚がどんなものか、骨の髄まで教えてやる。星歌の意図を正確に読み取ったグロは、恭しく頷いた。「承知いたしました」星歌はグロが押す車椅子に乗り、地下駐車場へと向かった。エレベーターの扉が開いた瞬間。そこには、顔に大きなガーゼを当てた亜季の姿があった。星歌の顔を見た途端、亜季の目は憎悪に燃え上がり、今にも食いつかんばかりに睨みつけてきた。「私の顔をこんなにして、満足なわけ!?」亜季はギリッと歯を食いしばりながら吐き捨てた。星歌は涼しい顔で答えた。「勘違いしないで。あなたのその顔の傷は、私がやったものじゃないわ」昨夜、飛鳥が亜季に手を上げたことは、星歌にとっても完全に予想外だった。だが、顔にそんな痛々しいガーゼを貼ってまでその減らず口が治らないところを見ると、結局何も反省していないらしい。亜季は肩を上下させて息を荒くした。「あんたが直接やってなくても、原因はあんたでしょうが!それに、今までのもの全部返せって?冴島家の財産なんて興味ないって顔
税関本局から「輸入を全面禁止する」という電話があった直後に、これほどタイミング良くすべての取引先が一斉に「納品できないなら提诉する」と騒ぎ立てるなどあり得ない。どう考えても、裏で誰かが手を回し、情報を一斉に流したとしか思えなかった。宗大は絶望的な顔で頷いた。「はい。期日までに契約通りの品を納められないなら、違約金を請求すると……」違約金。その額は、到底払いきれるものではない。次から次へと息つく暇も与えられず、首を絞め上げられていくのが分かった。そこへ、車椅子に乗せられた夏蓮が涙目で病室に入ってきた。「お母さん!お願い、どうにかしてよ!いくらなんでもあの星歌、私をコケにしすぎだわ!」ただでさえ頭を抱えたい状況の陽子は、ギャアギャアと騒ぎ立てる娘に苛立ちを露わにした。「今度は何なの!」「あの女、私のものを奪いに来たのよ!さっき一真が書類の束を持ってきて、無理やりサインさせられたの!全部、財産の名義変更と返還リストよ!」夏蓮はヒステリーを起こしてわめき散らした。「やりすぎじゃない!?この数日、散々私に恥をかかせておいて、まだ足りないって言うの!?私、出産したばかりなのよ?これじゃ産後の肥立ちも最悪だわ!」まくし立てるうちに夏蓮の怒りは頂点に達し、ついには声を上げて泣きわめき始めた。陽子の顔色が一層険悪になる。「そんなちっぽけなこと、さっさと返してやれば済む話でしょう!」今の陽子に、そんな些細な小競り合いにかまっている余裕など一秒たりともなかった。海外のビジネスが壊滅状態にある今、夏蓮がわめいている問題など、取るに足らない戯れ言に等しい。しかし、その冷酷な言葉に、夏蓮は呆然と泣き止んだ。「……お母さん、何言ってるの?」返してやれば済む?夏蓮は信じられないものを見る目で母親を見つめた。「ただ返すだけの問題じゃないわ!あいつは私に恥をかかせてるのよ!お母さんがちゃんと仕返ししてよ!」普段なら母親を恐れてここまで逆らうことはないが、星歌から受けた屈辱のせいで、今の夏蓮は完全に理性を失っていた。陽子は苛立たしげに吐き捨てた。「仕返しだの何だのって、相手は後ろ盾一つないただの小娘でしょう!?自分でどうにもできないからって、私に泣きつくなんてどういうつもり!」「だ、だって……」「さっき自分で
しかし、悪夢はこれで終わりではなかった。潰されたプロジェクトの対応策すらまとまらないうちに、再び海外から着信が入った。画面の番号を見た宗大の顔から、さっと血の気が引く。その顔色に気づいた陽子は、嫌な予感に眉をひそめた。「……今度は何?」「そ、それが……Y国の税関からです」「税関?うちの輸出貨物に何か問題でもあったって言うの?」Y国第一税関から直々の電話。間違いなく、現地に輸出している貨物に関する何らかのトラブルだ。『輸出貨物の問題』という言葉を聞き、陽子の顔はさらに険しさを増した。Y国の当局には、これまで十分すぎるほど手を回し、完璧に話をまとめてあったはずだ。通常なら、こんな直接的な電話がかかってくることなどあり得ないのだ。それが、なぜ今になって……?胸の奥底から、どうしようもない焦燥と嫌な予感がせり上がってくる。「……出なさい」陽子は絞り出すように命じた。かかってきた以上、無視するわけにはいかないのだ。宗大は頷き、陽子の目の前で電話に応答すると、流暢なY国語で向こうと話し始めた。通話の内容は分からないが、言葉を交わすにつれ、宗大の顔色がみるみるうちに蒼白になっていく。その尋常ではない様子に、ベッドで聞いている陽子の心臓も嫌な音を立てて跳ねた。およそ二十分後。重苦しい表情で電話を切った宗大に、陽子は焦燥に駆られて食ってかかった。「どうだった!?向こうは何て!?」「……かかってきたのは、Y国税関の本局からでした」「それで!?」本局から直接?まさか……陽子はそれ以上最悪の可能性を考えることを拒絶し、引きつった顔で宗大を睨みつけた。宗大の表情は絶望に染まっていた。「本局からの通達です。今後、我が社の輸出品は……一切Y国への持ち込みを許可しない、と」「なっ……!?」その言葉に、陽子の理性が吹き飛んだ。そんな馬鹿な話があるものか。「理由は!?何だって言うのよ!」「我が社の資材から基準値を超える化学物質が検出され、Y国の定める国際基準を満たしていない、とのことです」「どの品目が!?」「……『すべて』です」「……っ」『すべて』。その言葉を聞いた瞬間、陽子は足元から世界が崩れ落ちるような感覚に襲われた。本港市で陽子の名を知る者は皆、彼女
「当然だ。夏蓮が絡んでいるからな、サインせざるを得ないだろう」「これから、夏蓮様のところへ向かいます」かつて星歌の手に渡るはずだった、あるいは彼女から奪われた資産。今それが誰の元にあろうとも、飛鳥はすべて星歌の名義に戻すよう命じていた。本来であれば、夏蓮の件は産後の肥立ちを待ってから対応するつもりだった。だが、今の星歌の頑なな態度を前にしては、これ以上後回しにするわけにはいかない。飛鳥は静かに目を閉じた。「ああ、行け。それから、もう一つ指示がある」「なんでしょうか?」不思議そうな一真の声に、飛鳥は低く答えた。「星歌が今、地下駐車場へ向かった。人をやって、彼女の足止めをしろ」今回こそは絶対に、啓介のヤツに星歌を奪わせたりはしない。「病院にはすでに配置しています。すぐに向かわせましょう」飛鳥はそれ以上何も言わず、通話を切った。だが、画面が切り替わった直後、今度は母親の都子から着信が入った。電話に出るなり、ヒステリックな声が耳をつんざく。「あの子、本当にどこまで厚かましいの!?私や亜季がサインしてやって、もう全部手に入れたでしょうに!それなのに、どうしてまだ陽子さんを攻撃してるのよ!」どうやら、海外の事業に大打撃を受けて逆上した陽子が都子に泣きつき、その結果、都子がこちらへ当たり散らしているらしかった。電話口で声を荒らげる都子のヒステリーに、飛鳥は頭痛を覚えてこめかみを押さえた。「一体どういうつもりなの!?あの陽子さんの海外ビジネスまでぶち壊しにするなんて!あんたが手伝ったの!?それとも高峰啓介!?」都子の怒声は止まらない。ただでさえプライドの高い陽子と、これまで長年かけて築き上げてきた良好な関係が、ここ数日で星歌のせいでズタズタに引き裂かれてしまったのだから、都子が腹を立てるのも無理はなかった。飛鳥は何も答えず、そのまま無言で通話を切った。そしてすぐさま、啓介の番号にダイヤルする。しかし出ない。二度かけても、二度ともコール音の末に自動で切断されてしまった。飛鳥は怒りでスマートフォンを叩き割りそうになった。忌々しい。なぜ啓介が、ここまでして星歌に肩入れするんだ……?......その頃、陽子は発狂寸前だった。墨霞邸でグロに叩きのめされ、ベッドから動けない身体になっ
どうにかできる?いや、今回の件は陽子には到底対処できない。これはほんの始まりに過ぎず、これから息もつけないほどの破滅が怒涛のように押し寄せるのだから。星歌はスマートフォンを無造作にバッグへ放り込んだ。視線を戻すと、飛鳥がじっとこちらを睨みつけていた。「また何をやった?」声に感情はこもっていなかったが、その眼差しにはかつてないほどの冷気が漂っていた。星歌は男の氷のような瞳を真正面から見据え、軽く肩をすくめた。「何って?今朝の落とし前を、ほんの少しだけ取り立ててやっただけよ。墨霞邸であんな目に遭ったんだもの。『ごめんなさい』の一言で済まされてたまるもんですか」『ごめんなさい』という言葉を、星歌は殊更強く、皮肉たっぷりに強調した。飛鳥は病室で「必ずけじめをつける」と言った。だが結局、彼が陽子たちに要求したのはただの謝罪だけ。そんなものが『けじめ』だなんて、思い出すだけで吐き気がする。星歌は挑発的に眉を跳ね上げた。「私の命がいくら安っぽくても、その半分が謝罪の一言で買えるほど安売りはしてないのよ」「……ッ」彼女の嘲笑に、飛鳥の呼吸は完全に乱れた。星歌は飛鳥に背を向け、病室のドアへと歩き出した。飛鳥の全身から、凍てつくような冷気が立ち昇る。星歌が彼の横をすり抜けようとした瞬間、飛鳥は彼女の手首を力任せに掴んだ。「つまり、俺のつけたけじめが不満だと言いたいんだな?」「いいえ。とても素晴らしいけじめだわ。ただ残念なことに、私がそれをありがたく受け取れない性分なだけ」冷たく言い放ち、手首を振り払おうとする。しかし、飛鳥はさらに強く握り込み、決して離そうとはしなかった。星歌は掴まれた腕に視線を落とした。「……離して」「どこへ行く気だ!」飛鳥は歯噛みした。前回、彼女が病院から姿を消した時、一真の調査能力をもってしても行き先を突き止められなかったのだ。これ以上、絶対に自分の目の前から逃がすわけにはいかない。「私が行くべき場所へ。だから、あなたも手放すべきものを放してちょうだい」「……ッ」手放すべきもの――その言葉に、飛鳥の忍耐はついに限界を迎えた。彼は強引に星歌の体を引き寄せ、背後からその細い体をきつく抱きすくめた。星歌は息を呑んだ。抵抗しようと身をよじるが、彼女を閉じ込め
「二度とあんなことにはならない」「あなたみたいな男に自分の命を預けろって?無理よ。信じられないわ」「……ッ」彼が何を言おうと、今の星歌からは的確で容赦のない反論しか返ってこない。それがひどく苛立たしいのに、言い返す言葉が見つからない。飛鳥は怒りを宥めるように、深く何度も息を吐き出した。彼が口を開くより早く、星歌が淡々と続ける。「だってそうでしょう?私が半分命を落としかけても、あなたは『ごめんなさい』の一言で片付けられると思ってるんだから。もし本当に命を落としていたら、誰かに文句を言う機会すら残されなかったわ」「だから、あんなことはもう二度と……!」「だから、あなたを信じないと言っているの!」焦りと怒りで声を荒げた飛鳥の言葉を、星歌が冷ややかに叩き切った。「……」断固とした『信じない』という拒絶が、病室の空気を再び重く凍りつかせた。「じゃあ、お前は一体どうしたいんだ!」荒い息を吐きながら、飛鳥は歯を食いしばって怒鳴った。「離婚よ」星歌の答えは、揺るぎなく真っ直ぐだった。その確固たる響きに、飛鳥はようやく思い知らされた。彼女は決して、当てつけや軽い気持ちで『離婚』を口にしているわけではないのだと。同時に、彼の頭に黒い疑惑がもたげた。やはり啓介と深い仲になっているに違いない、と。胸が激しく上下する。飛鳥は全身を怒りで震わせ、両手を固く握りしめた。「離婚だと?そんなこと絶対に認めないからな!」「例の条件は、今一真に手配させている。これ以上騒ぎ立てるのはいい加減にしろ!」この言葉に対し、星歌は何も言い返さず、ただ静かに彼の顔を見つめるだけだった。その時、星歌のスマートフォンが鳴った。画面を確認すると、陽子からの着信だ。星歌が電話に出るよりも早く、飛鳥が横からスマートフォンを奪い取った。啓介からの電話だと勘違いしたのだ。そのまま相手に向かって怒鳴りつけようとした飛鳥の耳に、陽子の声が飛び込んできた。「あんたの仕業ね?」画面越しでも、陽子が怒りを必死に押し殺しているのがはっきりと伝わってくる。飛鳥は眉をひそめ、思わず星歌に視線を向けた。陽子の声だと気づいた星歌は、一歩前へ出て、飛鳥の手からあっさりとスマートフォンを抜き取った。そして耳に当て、ふふっと軽く笑う。「なんのこ
バツの悪さを誤魔化すように、飛鳥は苛立たしげに再びボトルを手に取り、グラスに酒を注ぐ。「二年前のあれが故意かどうかなんて関係ない。私の子は、確実にあの女のせいで死んだのよ!」星歌の語気が強まる。「数日前の本家でも、私を突き飛ばしたのはあの女。飛鳥、あいつのやってきた数々の所業を――」「要するに、本家で夏蓮さんに突き飛ばされたから流産したって言いたいんだろ?」飛鳥が遮った。その不埒で投げやりな口調には、明らかな嘲りが混じっていた。そのデザインが、夏蓮自身の手で描かれたものだと本気で信じているのか――そう追及しようとした星歌だったが、飛鳥のあからさまな不信と嘲笑に満ちた声を聞い
車がどうにか路肩に停車するや否や、星歌は転がるようにして外へ飛び出し、道端で激しく嘔吐した。苛立ちに任せて髪を掻きむしり、飛鳥は車を降りるとミネラルウォーターのボトルを星歌に差し出した。だが星歌は、その手を思いきり払いのけた。弾き飛ばされたボトルは地面に落ち、蓋が外れて中の水が芝生の上へドクドクと流れ出していく。飛鳥は顔をしかめたが、無言で車に戻り、もう一本ボトルを取ってきた。しかし振り返ると、星歌は自分のバッグから水を取り出して口をゆすぎ、そのままこちらを一瞥もせずに道路沿いを歩き出していた。最近の星歌は、飛鳥に対して常にこういう態度だ。隙あらば彼を拒絶し、徹底的に冷徹な
冴島グループの本社を辞した星歌は、その足で「ライフソース・バイオテック」へと向かった。昼食はグロが手配してくれた。星歌が会社にいると聞きつけ、親友の江里子も一緒にランチを食べにやって来た。「あんたさ、あんな凄いお兄さんがいるのに、どうしてそこまで身を粉にして働いてるのよ。今の身体、一番休めなきゃいけない時でしょ?」呆れたように言う江里子に、星歌は箸を進めながら答える。「具合が悪いわけじゃないし、もし体調が悪かったらちゃんと休むわよ」それに、と星歌は続ける。「ここまできて休むわけにいかないの。ずっと注ぎ込んできた心血が、今まさに実を結ぼうとしてる大事な時期。放棄なんて絶対にで
節子は、失望もあらわに都子を見つめ返した。「お母さん……いつからそんなに嫌な人間になっちゃったの?」「はあ!?あんた、親に向かって嫌な人間って……!」実の娘からの容赦ない言葉に、都子の顔が怒りで青ざめる。だが節子は怯まなかった。「星歌さんへの態度、本当に酷いじゃない。家柄で彼女を見下して、疑って、侮蔑して」「あんた……私を責める前に、あの女がやってる事を見なさいよ!夏蓮はただでさえ帝王切開で大変なのに、あの女のせいで何度も傷口が開いてるのよ!」都子は怒りで震えながら声を荒らげた。「あのね、飛鳥兄さんが夏蓮さんにつきっきりで出産を待ってる間に、星歌さんはお腹の子を失ったの







