跪くのはあなたです 流産の夜、私を選ばなかった夫は五年後、後悔する のすべてのチャプター: チャプター 271 - チャプター 280

319 チャプター

271話 記憶喪失

私たちは息を飲み、そして駆け寄った。そこに倒れていたのは紛れもなく愛沢くるみだった。「なんて事!」私はそう叫んで愛沢くるみを助け起こした。愛沢くるみは体から血を流して倒れていて、意識を失っている。このままでは死ぬかもしれないと一瞬、思う。けれど予想に反して、愛沢くるみが目を開けた。「……ここ、どこ……?」視線を彷徨わせ、天井を見ながら愛沢くるみはそう言った。「愛沢くるみ!」私が名を呼ぶと、愛沢くるみは私を見て、そして怪訝そうな顔で私を見る。「……あなた、誰?」衝撃だった。(今、あなた誰……って言った?)あまりの衝撃に私は言葉を失う。急激に体の芯が冷えて行く感覚がした。けれどそれに反するように、愛沢くるみの視線はハッキリして行き、助け起こしていた私を拒絶するように押し返し、言う。「あなたたち、何なんですか!」そう言いながら愛沢くるみは自身の手を見て、驚いて息を飲む。それもその筈だ。だって愛沢くるみの手は血に染まっていたから。「何? ……何なの? ……これ、何?」完全にパニック状態だった。そしてそれは私も一緒だった。「佐伯顧問、代わります」そう言ったのは賀神さんだった。「えぇ……お願い……」そう言って私は賀神さんとバトンタッチし、愛沢くるみから離れた。「何で私の手に血が……?」愛沢くるみはそう言いながら、タクティカルスーツを着ている私たちに怯えている。「あなたたちは何なんですか? 私はどうしてここに? ここはどこなの?」愛沢くるみのそんな声が耳の奥で聞こえる感覚。私は既にその時には悟っていた。愛沢くるみは記憶を失っている。演技の可能性も一瞬、考えた。けれど、あの怯えようは演技じゃない。「燈」呼ばれて私は遼大を見上げる。私を呼ぶ遼大の声は優しかった。「おいで」遼大はそう言って私を抱える。◇◇◇愛沢くるみはそのままベイサイド・パイロットプラントから運び出された。治療の為に聖カトリーナに運ぶ事にして、私たちはベイサイド・パイロットプラントを離れた。移動の車の中で湊に電話をかけ、事情を説明している遼大の声を耳の奥で感じながらも、私は現実を受け止めきれていなかった。愛沢くるみが記憶を失くしている……。今までの事、全てを覚えていない……?愛沢くるみがどこまでの事を覚えていて、そして何を覚えていないのか
last update最終更新日 : 2026-09-16
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272話 処置

サイレンを鳴らし、聖カトリーナに急行する。「大丈夫だ、愛沢くるみには賀神が付いてる」賀神さんなら愛沢くるみがどんな状況に瀕しても大丈夫だろう……それは分かっている。彼は天才外科医だもの。遼大は私の肩を抱き寄せる。◇◇◇聖カトリーナに到着し、愛沢くるみをERへ搬入する。「一体、どんな処置を受けたら、こんな状態になるんだ?」湊がそう口にしながら愛沢くるみを見る。愛沢くるみは疲弊していて、血の気が無かった。ここへ来るまでにもかなりの量の血を失っている。「まずは輸血だ!」湊がそう叫ぶ。私はその光景をERの入り口でただ立ち尽くし、呆然と眺めていた。鳴り響く警告音が私の遠くなっていた意識を引きずり戻す。(そうよ、私は救急救命医よ)だらんと下げた両手を握り締め、拳を握り締める。手に力が戻って来る。私にそっと並ぶ誰か。見上げるとそこには遼大が居た。「行けるか?」そう聞かれて私は微笑む。「えぇ、行けるわ」◇◇◇愛沢くるみの体の状態は最悪と言って良い程だった。強引に引き抜かれたであろうカテーテルの跡が痛々しい。「こんなに強引に引き抜くなんて、どうかしてるわ」私が処置をしながらそう言うと、私の隣で遼大も頷く。「あぁ、そうだな。イカれたマッドサイエンティストのやりそうな事だ」私と遼大は阿吽の呼吸で処置をしていく。その様子を見ていた湊が笑う。「藤堂氏の手術の時も感じていたが、本当に燈と高嶺さんは良いコンビネーションだな、しかも早い」そう言って湊が私たち二人のサポートをしてくれる。「患者さんの血液検査、それから抗生剤の準備、それから挿管セット」私が指示を出すと、看護師たちが一気に動き出す。愛沢くるみの口を開け、挿管する。私の手に狂いや迷いは無かった。誰であろうと、目の前の人間を救う。それが医師だ。「頸部からのカテーテルね」私はマスク越しにそう言う。「そのようだな」傷を覗き込んだ遼大がそう言う。「何をしようとしたのかしら」そう言いながら的確に処置をしていく。「さぁな、だが死なせる訳にはいかないからな」私は処置を施しながら冷静に処置の痕を観察した。「ある程度の止血処理はしてるのね」そう言うと私の向かい側で処置を手伝っていた賀神さんが言う。「そのようですね、通常、頸部のカテーテルをこんなふうに引き抜いたら、大量出血で死ぬ
last update最終更新日 : 2026-09-17
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273話 封書

「検査の結果はどうだ?」愛沢くるみの容態が安定し、モニターを付けて様々な事に注意しながら、愛沢くるみの全身の検査をしていく。あのラボで何が起こったのか、千堂弘は一体、愛沢くるみに何をしたのか。少しずつ全身の検査をする事で分かって来る。どうやら愛沢くるみは私たちの予想通り、カテーテルを入れられ、体内から何かを取り出されたようだった。「一体、千堂弘は何を取り出したの?」MRIの画像を見ながら遼大が言う。「見た感じ、体内や脳内から組織を取り出したようには見えないな……という事は」遼大がそこまで言うと今度は一緒に見ていた湊が言う。「おそらくはカテーテルによって取り出されたのは血液そのものなんだろう」そう言いながら湊はMRIの画像を見ながら言う。「心配なのはここ」そう言って湊が指差したのは海馬の付近だ。「無理やりのカテーテル挿入と抜去によって、ここに負荷がかかっている。そのせいで記憶に障害が出ているんだろう」ベイサイド・パイロットプラントのリネン室で愛沢くるみを発見した時、愛沢くるみは記憶を失っていた。「海馬に負荷がかかったから、なのね」私がそう言うと湊が頷く。「あぁ、そのせいだろうな」私は大きく溜息をついて、言う。「それ、記憶が戻る事はあるのかしら……」湊が腕を組んで考えながら言う。「脳の事はまだ未解明な部分も多い分野だ。損傷した部位に代わる働きをし出す症例もあるくらいだからな」ずっとMRI画像を見ていた賀神さんも言う。「そうですね。とりあえず、現状の把握と治療方針を決める為にも愛沢くるみに覚醒して貰わないと」◇◇◇愛沢くるみを病室に戻し、あとは本人の覚醒を待つだけになった。いつ、覚醒するのか分からない。一応、高気圧酸素療法と虚血に陥っている海馬の酸化ストレスを防ぐ為の薬液を投与する治療を開始する。「モニターを24時間監視、バイタルや状態に変化があったら報告を」湊がそう指示を出す。私たちはその場を後にし、今日のところはそれぞれ休む事にした。「帰ろう」そう遼大に言われて私は頷く。「えぇ、そうね」そう言って聖カトリーナを出る。車に乗り込み、息をつくと、疲労が襲って来る。「眠って良いよ……俺が運ぶから」そう言われて笑う。「寝たら運んでくれるの?」そう聞くと遼大は私の肩を抱き、言う。「あぁ、ベッドまで優しくゆっ
last update最終更新日 : 2026-09-17
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274話 チャージ

すぐに駆け付けて来た部下の人たちに、遼大は保管バッグを渡す。「何が仕掛けられているか分からない。慎重に調べてくれ」遼大はそう言い、部下の人にそれを預ける。部下の人が頷き、それを持って歩き去って行く。「何だったのかしら」そう言うと遼大が微笑む。「そのうち、分かるさ」そう言って私を部屋に促す。「総帥」呼び止められて足を止める。部下の一人が戻って来ていて、遼大に言う。「千堂の捜索ですが」そう言われて遼大と顔を見合わせる。「どうなった?」遼大がそう聞くと部下の人が言う。「ベイサイド・パイロットプラントをくまなく探しましたが、発見には至りませんでした」そう言われて溜息をつく。「逃げられたか……」完全に千堂弘には手を読まれている。こちらがどう動くかを、千堂弘は知っているのだ。「手を尽くして探せ」遼大がそう言うと部下の人が言う。「ベイサイド・パイロットプラントから少し離れた場所からヘリが飛び立ったとの報告を受けています。追跡します」そう言って部下の人は頭を下げ、歩き去る。部屋に入って、遼大に聞く。「どうして千堂弘は私たちの何手も先に居るのかしら」そう言うと遼大が笑う。「アイツは俺たち医師の事を良く知っているんだ。だから目の前に患者が居れば見捨てられないのを分かっているんだろうな」ジャケットを脱ぎ、ハンガーに掛ける遼大はそう言って苦笑する。「何か騒ぎを起こせば、俺たちの足止めにはなるからな。しかも今までの聖カトリーナでの事も、EMSOでの事も、全て、俺たちじゃ無いと解決出来ないレベルの事態だったんだ」そう言われて私は納得する。「確かにそうね。特にEMSOでのレプリトール・ヴェノムが良い例ね」あの毒に関しては賀神さんと遼大が学生時代に研究していたから知っていた。それゆえに解毒剤もすぐに調合出来たのだ。他の誰かでは不可能だった。「今日のところはここまでにしよう。何を考えてもここから先はまた明日」遼大はそう言って私を抱き寄せる。「線を引いて、睡眠をとる。きちんとチャージしてまた明日だ」◇◇◇俺は聖カトリーナに残った。愛沢くるみが記憶喪失と聞いて、それを信じられなかった。MRI画像も見たし、海馬に負荷がかかっていただろうという事も分かっている。けれどどうしても信じられなかったのだ。愛沢くるみの病室に入る。ピッ、ピッ、
last update最終更新日 : 2026-09-18
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275話 残酷

翌朝、目を覚ました私と遼大は朝食をとり、聖カトリーナへ向かう。聖カトリーナに向かう車中で、遼大の部下の人から報告を聞く。「昨夜、飛び立ったヘリは近くの空港へ入ったそうです。その後、どの便に乗ったのかは、今、捜索中です」そう報告を受けて遼大は短く息をつく。「そうか。海外へ離脱か……?」確かにそう考えるのがごく自然な事だろう。けれど私は違うと思った。「……私は違うと思うの」そう言うと遼大が私を見る。「燈はどう思う?」そう聞かれて私は言う。「あの千堂弘が海外へ行くとは思えない。何を持っているにせよ、海外へ行くのはリスクが高いわ。それこそ、入国ともなれば持ち物の検査は避けられないもの」私がそう言うと遼大が腕を組む。「確かにな」流れ行く景色を見ながら私は少し考える。「実はずっともっと近い所に居そうな気はしてるのよ」そう言うと遼大が聞く。「どうして?」そう聞かれて私は苦笑する。「だって愛沢くるみから抜き出したものが何であれ、それは大量には持ち出せなかった筈だわ。そして止血処理が完璧だったのを見るに、きっと愛沢くるみに死なれては困るのよ。そう考えると、千堂弘は愛沢くるみから抜き出せる何かをきっとこれからも求めて来る筈じゃないかしら……」私がそう言うと遼大が私を見て微笑む。「さすがは燈だな。俺は逃げる事の方へフォーカスしていたけど、研究を重要視しているとなると、そうなるよな」遼大はそこで溜息をつき、言う。「いずれにせよ、愛沢くるみをこれ以上奪わせる訳にはいかないからな。奇しくも重要人物になってしまった訳だが」そう言って遼大が苦笑する。「今の愛沢くるみはそんな事、求めていないかもしれないな」そう言われて私も苦笑する。「そうかもしれないわね」◇◇◇聖カトリーナに到着する。私たちが正面玄関へ入ると、湊が駆け寄って来た。「燈! 高嶺さん!」湊は寝ていないのだろうか、顔色があまり良くなかった。「湊、おはよう。どうしたの?」そう聞くと湊が私たちを歩くよう促しながら言う。「昨晩、愛沢くるみが一度、覚醒した」そう言われて私は遼大と顔を見合わせる。「それで?」遼大が先を促す。「いや、覚醒しただけで、大した事は話してない。だが」湊はそこで言葉を切って、短く息を吐くと言う。「記憶喪失っていうのは、虚偽では無いと思ったよ」その
last update最終更新日 : 2026-09-18
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276話 悪趣味

結局、愛沢くるみには何も言えずに、私たちは病室を出る。誰も言葉を紡がなかった。「昨日、俺が見た時も、愛沢くるみは俺を認識していなかったんだ」湊が不意に言う。「あの感じではそうでしょうね」諦めにも似た空気が流れる中、私たちは一度、オフィスに戻る事にした。自然と私のオフィスに集まり、そしてそこに賀神さんも合流し、私たちは自分たちが見たものそのままを賀神さんに伝えた。誰もが黙り込み、各々が考えている。その時、私のオフィスの扉がノックされた。「はい」返事をするとそこに顔を出したのは一条和輝だった。「和輝」遼大がそう言って微笑む。一条和輝はその場に居る皆に軽く会釈して、言う。「千堂理を診ていたんだ……それからこれ」そう言いながら一条和輝が何かを差し出す。「それは?」遼大がそう聞く。「これは千堂理が遼大たちにって、ここ数日で仕上げてくれた彼の研究結果だよ」そう言われて私たちは顔を見合わせる。急いでその研究結果を見る。「千堂理は自身が愛欲の女王に晒されていた。だから自身の体に起こる変化とその兆候、そして経過を全て覚えていたんだ」一条和輝がそう言う。「その全てを整理し、自身で考え、組み立てた仮説がある」一条和輝はそう言いながら、私たちを見る。「愛沢くるみの長年の愛欲の女王使用と、その兆候の出方が違うのは何故なのか」渡されたタブレットを見る。「……愛沢くるみには特別なタンパク質を体内で生成出来ている可能性……」それを読みながら私はやっと千堂弘が何故、愛沢くるみを狙うのか、分かった気がした。「そうか、愛沢くるみは長年、愛欲の女王を使用して来た。だがその体内に蓄積はほぼ感じられなかった。それは愛沢くるみ自身の体質だと思ったが……特異なタンパク質を生成出来ているとしたら……」遼大がそう言う。「そうね、そうだとするなら、千堂弘はそれを取り出し、研究に利用しようと考え、実行に移した」タブレットを覗いていた賀神さんが頷く。「それなら愛沢くるみを生かしておいた方が自身の為にもなる……」私が予想した通り、愛沢くるみを生かしておいたのは、千堂弘の計画のうちだったのだ。扉がまたノックされ、返事をすると、入って来たのは遼大の部下の人だった。「昨夜、お預かりした封書です。検査が終わりましたが、何も仕掛けられてはいませんでした」そう言いな
last update最終更新日 : 2026-09-19
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277話 難攻不落

「まずは千堂弘の潜伏先を割り出さないといけないな」遼大がそう言う。封書を持って来た部下の人に聞く。「目星は付いたか?」そう聞くと部下の人が言う。「千堂家はかなりの数の会社に出資し、更にペーパーカンパニーも複数所有していました。すべて調査や監査から逃げる為のものでしょう」そう言われて賀神さんが言う。「つまり、そのどれに千堂弘が潜伏しているのか、見当がつかないという事……」深く溜息をつき、私は様々な事を合わせて考える。このままここで愛沢くるみを治療していれば、いつか、千堂弘は抽出したサンプルの枯渇に伴い、愛沢くるみを奪還しに来るだろう。それを待つか、それとも複数ある潜伏先をコツコツと割り出すか。重苦しい空気が私たちを包む。その時、遼大のスマホが鳴った。遼大は短く息を吐いて、スマホを見る。そしてその表情が引き締まった。「悪い、ちょっと外す」そう言って遼大はオフィスの外に出て行った。「何の電話だ?」湊がそう聞く。私にもさっぱり分からなかった。遼大のあんなに引き締まった表情を見た事が無かった。数分して、遼大が戻って来る。皆が遼大を見ている。遼大は苦笑して言う。「お祖母様からだった」そう言われて驚く。「お祖母様?」私がそう聞くと遼大は疲れたように椅子に座り、言う。「ちょっとした問題が持ち上がってる」そう言って苦笑する遼大はさっきよりも少しだけ肩の力が抜けている。「問題って?」そう聞くと遼大は苦笑したまま言う。「お祖母様が俺に見合いをさせようとしてる」その瞬間、周囲の空気がピタッと止まる。それを破ったのは湊だった。「それはどういう事ですか? 高嶺さん」その声には少しの怒りと苛立ちが混ざっている。遼大は溜息をついて言う。「千堂弘の追跡や愛沢くるみの問題が持ち上がってる中、申し訳ない。これは高嶺家の問題なんだ」遼大のお祖母様にはお会いした事が無かった。もっと言えば、高嶺家には一度も行った事が無い。高嶺家は国内にもお屋敷はあると聞くけれど、本宅は国外だ。「高嶺家の問題と一言で片づけるつもりか? 高嶺」そう言ったのは賀神さんだ。賀神さんの声にも苛立ちが混ざっている。皆が何を気にしているかは分かる。私の存在がここにあるからだろう。遼大は少し溜息をついて言う。「説明するよ」そう言って遼大が話し始める。「お祖母様は
last update最終更新日 : 2026-09-19
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278話 トリガー

「大病院のお嬢様?」湊がそう聞く。「どこの大病院だ?」続けて聞いた湊に遼大が苦笑する。「東都メディカルだよ」そう言われて皆が驚く。「東都メディカルって、あの御堂院家が経営している……?」ここ、聖カトリーナから少し離れた競合しない立地に建っている東都メディカル病院。民間の病院ながらかなり大きく、そして事業としても拡大をしている病院だ。「東都メディカルの令嬢って事は……御堂院静香か」そう言ったのは賀神さんだ。遼大が聞く。「賀神、知っているのか?」そう聞かれた賀神さんが苦笑する。「学生時代にちょっと、な」何だか含みのある言い方だった。「家柄だけだったら佐伯家も負けてはいないだろう?」湊がそう言う。「あぁ、そうなんだ」遼大がそう言って私を見て微笑む。「だから大丈夫だ」遼大がそこで短く息を吐くと、立ち上がる。「とにかく俺は一度、家に戻って話を聞いて来るよ」私も微笑んで言う。「そうね、その方が良いわ」◇◇◇遼大は一度、家へ戻り、残された私たちで再検討する。「愛欲の女王については千堂理に聞いた方が話が早いだろう」一条和輝がそう言う。「そうね、私もそう思う」私がそう言うと湊も微笑む。「皆で病室に行きましょうか」賀神さんがそう言い、私たちは千堂理の病室へ向かう事にした。私たちが病室に入って行くと千堂理は私たちを迎え入れ、そして自身が研究して来た愛欲の女王について話してくれる。「それで、今の愛沢くるみの状態だけど」私はそう言って愛沢くるみの現状を千堂理に見せる。「無茶な抽出プログラムで海馬に負担がかかったようで、記憶を失くしているの」私がそう言うと千堂理がタブレットを見ながら言う。「なるほど……」千堂理はいつの間にか手に入れていた自身のノートPCを操りながら言う。「これは僕の推測になりますが」そう前置きして、千堂理が言う。「愛沢くるみの記憶を戻すためには呼び水が必要かと」そう言われて私は聞く。「呼び水?」私にそう聞かれた千堂理が頷く。「そうです。何か記憶を失くす前の匂いや出来事、記憶に残っていそうな言葉などがトリガーになって記憶が戻る場合も有り得ます」千堂理にそう言われた湊が言う。「そうか……!」湊は私たちを見ながら言う。「俺は海馬に負担を掛けたそのもの自体を排除しなければならないと思って
last update最終更新日 : 2026-09-20
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279話 お祖母様

お祖母様の声の方へ向かう。そこは応接間で、俺は入る前に立ち止まり、短く息を吐く。意を決して扉を開ける。広がった懐かしい風景。(ここは変わらないな……)そう思い苦笑しながらソファーに座っているお祖母様を見る。お祖母様は俺を見て微笑み、そして言う。「こっちに戻って来ているなら、どうして私の元に顔を出しに来ないの?」そう聞かれて俺は苦笑したまま言う。「色々と忙しかったんです」俺がそう言うとお祖母様は諦めたように微笑み、そして手を差し伸べる。「可愛い孫の顔を見せて」そう言われて俺はお祖母様の元に行く。お祖母様は俺を見て言う。「座りなさい」そう言われて俺はお祖母様のすぐ隣に座る。「私からの連絡ですぐに来た、という事は縁談の件で来たのよね?」そう聞かれて俺は頷く。「そうです」お祖母様はテーブルの上に置かれたファイルを指差す。「それが御堂院家の令嬢の写真よ」そう言われたが俺はそれを見ずに言う。「俺にはもう相手が居ます」俺にそう言われたお祖母様は溜息をつき、言う。「えぇ、知っているわ。佐伯燈でしょう?」そう聞かれて俺は頷く。「そうです」お祖母様はまた溜息をつき、そして手を差し出す。差し出されたその手の上に別のファイルが載せられる。高嶺家の執事、篠山がお祖母様の手に載せたのだ。「佐伯燈の事は調べたわ」お祖母様はそう言って、俺にそのファイルを差し出す。俺はそれを受け取り、開いてみる。中には燈の基本的な情報から、今までの人生の記録が載っていた。「佐伯燈はあなたには相応しくないわ」お祖母様がそう言う。「家柄は問題ない、けれど、その後が問題よ」お祖母様は俺を見て、その強い光を瞳に走らせる。「医療過誤の問題に離婚歴、流産までしているじゃないの」そう言われて俺は笑ってファイルを閉じる。「それが何です?」そう聞くとお祖母様は俺に鋭い視線を投げて来る。「高嶺家は由緒正しい家柄よ。家門に傷をつけるような女は高嶺家には相応しくないの」そう言われて俺は肩をすくめる。「それなら俺が高嶺を出れば、問題解決ですね」俺にそう言われたお祖母様は息を飲む。「……本気で言っているの!」そう言われて俺は笑う。「誰にこれを見せられたのかは知りませんが、これは真実ではありません。燈は嵌められたんです。医療過誤も罠だった。今はその件について、問
last update最終更新日 : 2026-09-21
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280話 フラッシュバック

愛沢くるみの病室に行く前に、私たちはすり替え用に調合した偽の香水を用意する。まずは嗅覚を刺激する事にしたのだ。(これで何か反応が出ると良いけれど……)そう思いながら私は賀神さんや一条和輝、湊と共に愛沢くるみの病室を訪れる。「先生! 今日はたくさん、お医者様が集まってるんですね」愛沢くるみは屈託のない笑みでそう言う。(どの程度、近付けばこの香水の匂いが届くのかしら)そう思いながら私は愛沢くるみに近付き、その間も愛沢くるみの様子を注意深く観察する。「一条先生よ」私がそう言って一条和輝を愛沢くるみに紹介する。愛沢くるみは一条和輝を見て微笑み、小さく会釈した。「はじめまして、愛沢といいます」愛沢くるみの記憶が確かなら、一条和輝を見て、何らかの反応がある筈だ。それは演技をしていても見抜けるくらいの経験が私にはある。けれど愛沢くるみは本当に初めて出会ったような顔をしている。「一条です」一条和輝はそう言って完璧に微笑み、動揺を見せない。そう言う意味では一条和輝は肝が据わっている。(やはり“人”ではダメなのね)そう思いながら私は一歩、愛沢くるみに近付く。ふわっと甘い香りが周囲を包む。その香りが愛沢くるみにまで届いたのだろう。愛沢くるみが一瞬、微笑む。「この香り、すごく甘いですね……」そう言った次の瞬間には、顔を歪める。愛沢くるみは目を強く閉じ、眉間に皺を寄せて何かを呟く。「何、何なの……何……」(効果があったようね……)やはり嗅覚の刺激が一番、記憶を呼び覚ますのに有効だった。「どうしました?」私が近付きながらそう言うと私の差し出した手を愛沢くるみが払う。「近付かないで!」そう言われて私は注意深く愛沢くるみを観察する。(思い出したの?)そう思いながら私は愛沢くるみの反応を待つ。愛沢くるみは眉間に皺を寄せたまま、こめかみを抑えている。◇◇◇甘い香りが鼻をつく。最初は甘くて良い香りだと思った。けれどそれを嗅いだ次の瞬間には頭痛がして、頭の中に映像がよぎる。最初に見えたのはどこかの工場のような場所で私が寝かされていて、拘束されているところだった。嫌がる私に真っ白な髪の男が何かしようと手を伸ばしている。次に見えたのはどこかの家の中で同じように拘束され、何かを点滴され、幸せな夢を見ているような感覚になった事……。次々に変わる場面。
last update最終更新日 : 2026-09-22
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