تسجيل الدخول琴葉は、マグカップに伸ばしかけていた手を空中で止めた。
(やってくれたわね、あの毛玉)
視線を伊吹の方へ向ける。
彼の目の前には、無惨に崩れ去った小銭の山。 床にはしわくちゃになったメモ用紙が落ちている。 完璧に構築されていた彼の小さな秩序が、たった1匹の猫の気まぐれによって完全に破壊されたのだ。かつて、タワーマンションにいた頃の伊吹ならどうしただろうか。
琴葉の脳裏に、昔の彼の姿がよぎる。自分の思い通りにならない事態。想定外のエラー。非合理的なノイズ。
そうしたものを、彼は極端に嫌悪していた。 大臣の娘、黒田詩織を「嘔吐リスクのある汚物」としてバルコニーへ運び出した時の、あの冷徹な顔が蘇る。 琴葉の些細な行動すら監視し、すべてを自分のコントロール下に置こうとした異常な執着も。(伊吹のやつ、キレるんじゃないかしら。それとも、エラー処理が追いつかなくてフリーズする?)
琴葉は身構えた。
も分厚い防弾ガラスの向こう側で、主軸が高速回転を始める。 高圧の切削液が白く勢いよく噴き出す中、刃物が特殊合金のブロックへと迫った。 ギィィィン、という硬い金属同士が削り合う鋭い音が工場に響き渡る。「主軸の負荷メーター、安定しています。ビビリもありません」 琴葉は操作盤の数値を食い入るように見つめた。 プログラムの真価が問われるのはここからだ。 荒加工が終わり、複雑な内部水路の仕上げ加工へと移る。 五軸加工機のテーブルが滑らかに傾斜し、同時に主軸が斜め方向から入り込んでいく。 機械全体がまるで生き物のように連動し、刃先を不可能と思われた奥の曲面へと送り届ける。 職人たちは固唾をのんでその動きを見守っていた。「すげえな……刃物の動きに一切の迷いがない。干渉ギリギリのところを、ミリ単位の隙間でかわして削っていきやがる」「特殊合金の熱も、上手く逃がせているみたいだ。切り粉の排出も完璧だぞ」「さすがはお嬢だ。ここまで見事にやってみせるとは」 小さく交わされる会話は、驚きを含んでいる。 切削加工はそれから数時間にわたって行われた。一瞬たりとも気の抜けない過酷な作業だった。 やがて主軸の回転が止まり、切削液の噴射が停止した。 エアブローが吹き付けられ、白く濁った液が吹き飛ばされると、そこには図面と寸分違わぬ、複雑で美しい曲面を持ったセンサーハウジングが姿を現した。「すぐに三次元測定機へ持って行って」 琴葉の指示で、完成した部品が検査室へと運ばれる。 三次元測定機は、恒温室に置かれている。 ルビーの球がついた細いプローブが、部品の各表面に正確に触れていく。 ピッ、ピッという電子音が鳴るたびに、モニターに測定結果の数値が弾き出された。 琴葉と工場長は、画面の数値を凝視した。「……信じられねえ」 工場長が感嘆の声を漏らした。驚きのあまり少し声が震えている。「
「やっぱり、この角度からの進入は駄目ね」 琴葉は舌打ちする代わりに、すぐさまパラメータの修正に取り掛かった。 刃物の傾斜角をわずか5度深くし、テーブルの旋回角を調整する。再計算を実行。 今度は干渉を回避できたが、工具の突き出し量が長くなりすぎていることに気づく。 この長さでは加工中に共振が発生し、表面がむしれて使い物にならなくなる。「工具を短くして、その分テーブルを傾ける……でも、そうすると今度は機械の主軸頭が材料にぶつかるわね。なら、別のアプローチからえぐり取るしかないか。一筋縄じゃいかないわ」 琴葉は独り言を呟きながら、キーボードを叩き続けた。 それは果てしない試行錯誤の連続だった。 金属の切削限界、特殊合金特有の排熱問題、五軸加工機の可動域。 すべての物理法則を網羅し、たった1つの矛盾も許されない数万行のコードを編み上げていく。 やがて窓の外が完全に暗くなり、工場の稼働音も途絶えた。 誰もいない事務所の中で、マウスのクリック音とキーボードの打鍵音だけが響き続ける。 手元のコーヒーはすっかり冷え切っていた。 琴葉の目には疲労の色がにじみ始めているが、そのタイピングの速度は全く落ちない。 外資系企業は、巨大な権力と資本の論理で盤面を支配しようとしている。 伊吹は今頃、眠ることも許されず、法と政治の網の目を縫って彼らとの折衝を続けているはずだ。(だったら、私も負けられないでしょ) 彼が必死に支えている盤面を、物理の世界からこじ開ける。 それが対等なパートナーとしての琴葉の役目だった。◇ 夜が明け始めた頃、最後のシミュレーションが完了した。 画面上の仮想工具は、複雑な水路の奥深くへと滑らかに進入し、干渉のエラーを一度も出すことなく、指定されたすべての面を削り出し終えた。「……完璧よ」 琴葉は背もたれに深く寄りか
「それから、もう1つ重要な変更があるわ」 琴葉はモニターの表示を切り替えて、材質指定の欄を拡大した。 そこには見慣れたアルミ合金が表示されている。「先方から渡された図面では、汎用のアルミ合金が指定されている。でも、今回はこれを使わない。うちで配合のノウハウを持っている『高排熱特殊合金』を使って削り出すわ」 その言葉に、工場長が目を見開いた。「おいおい、あの特殊合金を使うのか? あいつは熱に強いが、とにかく硬くて粘る。アルミの何倍も削りにくい難削材だぞ。刃物の消耗が激しいだろう」「分かっているわ。でも、あの合金は熱膨張率が極めて低く、熱伝導率が高い。半導体製造装置のセンサー部のように、極限の温度管理が求められる場所にはうってつけの素材よ」 琴葉は職人たちの懸念を真っ向から受け止めて、技術的な根拠を提示した。「純正のアルミ部品をそのまま真似して作っても、相手は特許侵害や仕様の違いを理由に難癖をつけてくるかもしれない。外資の連中を黙らせるには、代用品じゃ駄目なの。純正品をはるかに凌駕する、完全な上位互換品を叩きつける必要があるわ」 琴葉の技術者としての凄みが、その場の空気を完全に支配した。 伊吹は圧倒的な資本力を持つ外資と政府を相手に、孤独な時間稼ぎの交渉を行っている。 彼女がここで妥協する理由は1つもなかった。「……分かったよ、お嬢。あんたがそこまで言うなら、現場は最高の段取りで応えるだけだ」「やってやるぜ。土井精機の技術を見せつけてやろうじゃねえか」 工場長が腹を括ったように笑った。職人たちも同意して散っていく。「みんな、頼んだからね!」「おうよ、任せとけ!」 職人たちが工場に戻るのを横目で見送った後、琴葉は自身のデスクに向かった。 鋭い瞳でモニタを睨む。 本格的な加工プログラム(CAM)の構築に入るための作業が始まった。◇ デュアルモニターの右画面には三次元C
土井精機の事務所に置かれた会議用の大型モニターに、複雑な形状をした部品の三次元モデルが映し出されている。 琴葉は手元のタブレットを操作して、その立体図面をよく見えるようにゆっくりと回転させた。 部品の内部を透過表示に切り替えると、血管のように入り組んだ冷却水路の構造が露わになる。 画面を食い入るように見つめていた工場長が、深く息を吐き出して頭を掻いた。「お嬢、こりゃあ冗談キツいぜ。半導体製造装置のセンサーハウジングってのは分かるが、この内部構造はどう見ても切削加工で作るもんじゃない。普通は特殊な金型を作って、精密鋳造で抜く形状だ」 隣で腕を組んでいたベテラン職人も、渋い顔で頷く。「工場長の言う通りだ。外側を削るのは問題ないが、この湾曲した深い水路には刃物が届かない。無理に長い刃物を使えばビビリ(振動)が出て寸法が出ないし、そもそも奥の方で干渉して刃が折れる。物理的に不可能ってやつだ」 職人たちの見立ては完全に正しい。 図面通りのものを金属のブロックから直接削り出すことは、一般的な三軸の工作機械では絶対に不可能だった。「ええ、通常のやり方ならね」 琴葉はタブレットを机に置くと、職人たちを見回した。「でも、私たちには鋳造用の金型を半年かけて作っている時間はないの。世良のラインを止めないためには、3週間以内にこの部品の量産体制を整える必要があるわ」「3週間!? 無茶苦茶だ。絶対に無理だろ。どうしてそんな納期になったんだ? 世良の若旦那がまた何か無茶を言ったのか?」 工場長が驚きの声を上げる。「まあね。ざっくり言うと、世良グループが外資企業から攻撃を受けている。この部品の納入元を買収されて、供給源を絶たれたのよ」 琴葉の言葉に、職人たちがざわめいた。「何だって……。外資はえぐいことしやがる」「それで、うちにお鉢が回ってきたのか」「ええ、そう。だから、土井精機にある五軸加工機を使って、金属の塊から直接これを削り出す」 琴葉が宣言すると、事務所の空気が
「動き出したプロジェクトは、様々な利権がからみますから。当初の理念だけでは進めません」 伊吹は手元の資料に視線を落としながら、現在の対抗策を素早く説明した。「既存契約の不履行に対する仮処分申請と、独占禁止法違反の疑いで、オライオン側および政府に対して徹底的な時間稼ぎの折衝に入りました。あらゆる法律の網の目を使って、期限の引き延ばしを図ります」「でも法的な手続きで引き延ばしたところで、手元に部品が湧いてくるわけじゃないわ」「ええ。政治と法律の盤面は僕が押さえます。ですが、物理的な解決策がなければチェックメイトです」 伊吹の言葉と同時に、琴葉の端末に重いファイルの受信通知が届いた。「今、供給を絶たれたセンサーハウジングの三次元CADデータを送りました」 琴葉はファイルを開き、サブモニターに図面を表示させた。 マウスを操作して立体モデルを回転させ、内部構造を拡大していく。 数秒間図面を見つめた琴葉は、小さく息を吐いた。「……なるほど、これは厄介ね。極めて複雑な内部の冷却水路に加えて、公差の指定が厳しすぎるわ。本来なら、特殊な金型を使った精密鋳造と専用の大型プラントでなければ量産できない形状よ」「僕が政治と法律で時間を稼ぐ間に、土井精機の技術でこれを代替できませんか」 伊吹は画面越しに、琴葉の目を正面から見つめた。 その眼差しは、親会社からの無茶な要求ではない。 巨大な資本による暴力的な分断に対し、世良グループの命運を完全に琴葉の技術力へ託すという、対等なパートナーとしての真摯な問いかけだった。 琴葉の胸の奥で、技術者としてのプライドに火がついた。「鋳造用の金型を今から作っていたら、どう急いでも半年はかかるわね」「やはり、3週間では厳しいですか」「誰に言っているの。金型が間に合わないなら、金属の塊から直接削り出せばいいだけよ」 琴葉の迷いのない即答に、伊吹がわずかに目を見開く。「直接削り出す……? この複雑
昼下がりの土井精機は、活気に満ちた稼働音と職人たちの声に包まれていた。 世良グループと対等な技術提携契約を結んでから数週間。 土井精機には、半導体製造装置の初期発注分の部品加工という大きな仕事が安定して入り始めていた。 琴葉は事務所のデスクに座り、デュアルモニターの片方で現場の進捗状況を確認しながら、もう片方の画面で次なる加工プログラムの構築に取り掛かっている。(これでよし、と。作業は順調ね) 仕事に一区切りをつけて、コーヒーを飲もうとマグカップに手を付ける。 と。 不意に、手元のタブレットから鋭い通知音が鳴った。 画面を見ると、世良グループの専用回線からの着信表示が出ている。発信元は伊吹だ。 琴葉はマグカップに伸ばしかけた手を止めて、通話ボタンをタップした。 モニターに映し出された伊吹は、世良ブループ本社の執務室にいた。 その顔には、先日実家を訪れて茶白の猫を撫でていた時の穏やかさは既にない。 数万人の従業員を抱える巨大企業のトップとして、予期せぬ危機に直面し、即座に迎撃態勢に入った冷徹で鋭い表情をしていた。「琴葉さん、今いいですか」「ええ、ちょうどひと段落ついたところよ。どうしたの、ひどく険しい顔をして」 琴葉の問いかけに、伊吹は単刀直入に本題を切り出した。「アメリカの巨大テック企業、オライオン・システムズが動きました。彼らが、ヨーロッパにあるメーヤー・インダストリー社を電撃的に買収したんです」「メーヤー・インダストリーって……半導体製造装置のセンサーハウジングを専門に作っているメーカーね。世良のラインでもあそこの部品を使っていたはずだけど」「ええ。オライオン側は買収手続きが完了した直後、組織再編を理由に世良グループへの部品供給の即時停止を通告してきました」 琴葉は画面越しに眉をひそめた。「あからさまな妨害ね。自分たちで部品を独占して世良の製造ラインを物理的に止め、日本の半導体プロジェクトから世良を完全に排除する気だわ」







