ログイン沈黙が落ちた。あやめが提示した【愛人】という言葉は、冗談の皮を多少は被りつつも、場の中心に本気として居座っていた。笑って流すことはできない。怒って否定することはできない。あやめの話を聞いたいまでも、冬弥には【愛人】が必要だと思っている。標的が楓一人に絞られるのを防ぐためだ。そのための警告だった。(ここで否定すれば、警告が成り立たなくなる。それは、俺の主旨に反する)龍神会のため。それが迅の生きる理由で、前を向く意味だった。「……その金額、俳優としての金とは別だよな?」迅が言った。樹が固まる。冬弥がゆっくりと迅を見る。あやめは、にこりと微笑んだ。「もちろん、本業は本業で別に支払います」「……そうか」迅はグラスを傾け、赤い液体を一口飲んだ。深い味わいを舌の上で転がしながら、考える。(冗談だと思っていたが……こいつは本気だな)あやめの表情は楽しげだが、目は笑っていない。龍神会のため。冬弥のため。その行動が、あくまでも高見の見物であったことを知らしめる目線。「どうですか?」「どうって……」迅は冬弥を見る。冬弥の表情は、複雑そうではあるが、完全に否定していない。つまりこれは——(選択を迫っているのではない)選択肢は一つ。迅はグラスを置いた。「……俺は何をすればいい?」「迅!?」樹が思わず声を上げる。だが迅は気にしない。その視線はまっすぐに、あやめへ向けられていた。あやめは一瞬だけ目を細め、すぐにいつもの柔らかな笑みに戻る。
「……あやめ、落ち着け」冬弥の声に、あやめは首を傾げた。「落ち着いていますよ」「……そうだな。落ち着いていないのは、俺だ」冬弥は珍しく動揺を認め、大きく深呼吸した。本来無表情で隠して内心で行うその動作を、このメンバーでなら見せられるのだからと、あやめは自分の提案が間違っていないことを確信した。「あやめ、迅は男だぞ?」「冬弥さん、いまの時代に何を言っているのです?」「常識で考えろ。結婚して妻のいる男が、男を愛人を持てるか」「……女ならOKという、その考えが甚だ不快なのですけれど」「そういうことではない! ほら……その……」冬弥がチラチラと樹や迅に援護を求める。「姐さん。流石に、女も男もいける夫というのは外聞が悪いのでは……」「愛人五人もいる夫の妻っていうだけで十分に外聞は悪いですよ」「……ぐっ」樹は黙ったが、愛人候補となった迅は果敢に反論を試みた。「愛人なんて、俺は嫌だぞ」真っ当な意見ではあったが、あやめはそれを笑い飛ばした。「嫌も、いいも、組の拡大のために【愛人】の有用性を、爆発物まで使って説明してくださったのは今宮さんではありませんか。ここに来て、感情論でそれを拒否しますの?」あやめの目が厳しくなる。「それとも……ご自分が当事者になることはないからと、軽く考えていましたか?」「……ぐっ」あやめはぽんっと拳で手を打った。とても白々しい。「本命ができたら、きちんと手切れ金を払ってお別れしますわ。ねえ、冬弥さん」「あ、ああ……そうだな……ん? 俺が払うのか?」「冬弥さんの【愛人】でしょう?」冬弥が、他の五人は何だという顔をする。「彼女たちは私の手足ですから、私がケアする責任があります。でも今宮さんは完全に冬弥さんの【愛人】なので私の管轄外です」「ああ、そうか……」「そうか、じゃない。冬
「組の安定や拡大のために愛人を持てというのは、一つの意見でしかない。俺の妻と息子を脅すというやり方で無理やり押し通すことは許さない」迅が驚いたように冬弥を見る。迅はしばらく黙り、やがて苦笑した。「……相変わらず頑固だな、お前は」「お前が言うな」二人の間に、幼馴染としての空気が戻った。だが、迅の視線があやめに向けられると、その奥にある複雑な感情は消えていなかった。「あやめ?」複雑そうな視線の迅とは対照的に、あやめは何かを思いついたような表情をする。「どうした?」「……考えがまとまったら、お話ししますね。お料理の追加を言ってまいります」あやめはにこりと笑うと、立ち上がった。その所作は美しく、一切の揺るぎない。 今回の迅の暴挙を『行き過ぎた行動』で片づけさせることに納得したのは、冬弥と組のため。あやめ個人としては、経済制裁とこのような場で皮肉を言う程度ではおさまらないだろう。しかし、あやめは今宮迅の海外での活動を労うことに賛成し、今日の席を完璧に整えた。冬弥は胸の奥に、静かな誇りが満ちていくのを感じた。(だから、俺はあやめを唯一に選んだ)あやめの強さも、優しさも、冬弥は誰よりも深く理解している。 周りが何と言おうと、あやめは冬弥にとって『神崎の女』としても『妻』としても唯一無二の存在だった。.食事が進むにつれ、迅とあやめの間の緊張は完全には解けないまでも、冬弥が間に立つことで、なんとか穏やかな空気が保たれていた。樹が話題を変え、迅がアメリカでの撮影裏話を語り、あやめがそれに相槌を打つ。その光景を見ながら、冬弥は思う。(これを守るのが、俺だ)迅の考えも、冬弥は理解できる。組を大きくするための合理性もわかる。だが、冬弥はあやめと決めた未来を築きたい。あやめと共に。その決意は揺るぎなかった。「冬弥さん? お酒が足りませんか?」あやめがふと冬弥を見る。その瞳には理解と、冬弥に寄り添うような温かさが宿っていた。冬弥は静かに微笑む。(この女と共に生きるためなら、何だってできる)ふと、あやめの目の奥にも強い光が灯っていることに気づく。あやめも冬弥とともに戦う意志があることが読み取れた。そのことに、冬弥も嬉しくなる。情けない話だが、冬弥はあやめに一度は見捨てられかけた。神崎の女でいるため、あやめは冬弥への
料理が運ばれる。あやめが今日のために用意したのは、季節の和食を中心とした献立だった。前菜は、春の山菜を使った白和えと、薄味で仕上げた筍の土佐煮。椀物は、蛤の潮汁。主菜は、鰆の西京焼き。そして締めには、桜海老の炊き込みご飯。どれも派手さはない。だが、素材の味を最大限に引き出した、丁寧で誠実な料理だった。迅は箸を取りながら、ふっと笑う。「ずいぶんと、家庭的だな」その言葉は褒め言葉にも聞こえるが、迅の声色には微かな皮肉が混じっていた。 組の妻としての華やかさが足りないとでも、言いたげだ。「随分と、愉快なことを仰るのですね」あやめは笑う。(しかし、それは『神崎の女』にいうべき言葉ではない)「それは私に求められているものではありませんでしょう?」あやめは微笑みを崩さず、静かに答える。。家の中に閉じ込める我慢をさせた上で、着飾って男のご機嫌取りまでさせるのか。そんな意図を含ませた言い方だった。迅の目がわずかに細くなる。その瞬間、空気がピリッと張り詰めた。冬弥は箸を置き、静かに口を開く。「迅。神崎の者として、神崎の女として求めることなら好きに発言して構わない。しかし、俺の妻としての振る舞いは俺たちが決めることだ」迅が冬弥を見る。その視線には、組の未来を背負う者としての意見があるが、幼馴染としての甘えがあることに気づいた。「冬弥。お前の『妻』という立場はそう簡単には――」「お前は、あやめに『それ』が分かっていないというのか?」(ああ、分かった)「迅、あやめはあやめだ。俺の母親とは違うんだ」冬弥の声は低く、揺るぎなかった。迅が言葉を飲み込み、目をそらす。樹も静かに目をそらしていた。そんな中で、あやめの笑い声が場違いなほど軽やかに響いた。「無自覚な殺人たちが、雁首を揃えて何を仰っているのやら」誰かを追い詰める、やっている本人は自覚のない支配・無関心・放置。やっている本人は何気ないことでも、やられたほうは確実に死に追いやられていく。「ああ、無自覚ではありませんでしたね」あやめは、にこりと笑ってお茶を飲む。「檻の中で私が退屈しないようにと、愛人を寄越してくださったのですもの」ねえ、とあやめが笑う。冬弥の背に、ゾッと寒気が走る。「見当違いの気遣い、自分の浮気を正当化したいために私を共犯にしようという
「迅が、来たようですね」樹の言葉に、冬弥は部屋の外に意識を向ける。聞こえてくるのは、帰郷を労う言葉。組員が迅を歓迎する様子に冬弥は口元を緩めつつも、左側に座るあやめを見る。冬弥の視線に気づいたあやめは、ふわりも笑った。(可愛らしいのに、ゾッとするのはなぜなのか)扉が開く音がした瞬間、冬弥は自然と背筋を伸ばした。 海外での長い撮影を終えて帰国した看板俳優の今宮迅を労うための夕食会だが、実際にはもっと複雑な意味を孕んでいる。迅と冬弥は幼馴染であり、互いの人生の節目を何度も共有してきた。 だが、迅と冬弥の妻・あやめの仲は『よい』とは言えない。迅は組の拡大と神崎家の永続のためには愛人制度が必要であると考え、あやめに対して脅しをかけた。その脅しがあやめに対するものならここまでにはならなかっただろうが、迅は楓に向けて脅しをかけた。冬弥の跡取りがあやめの生んだ楓一人では心もとないことを示すためとはいえ……。(言葉で話せ、ということなのだろう)組という組織と、神崎家という家族は切り離して考えることはできない。しかし、過去の当主夫妻はさておき、冬弥とあやめの関係においては、極道の世界の当然だと自分たちの常識を勝手に押し付けないと決まった。愛人の件で痛い目に遭い、冬弥が学んだともいう。これまではどうであれ、自分たちはこうしていくと冬弥とあやめが決めた。だからこれは、迅にとっては価値観の衝突で、あやめにとっては……。(越権行為というか、夫婦のやり方に口出しされたようなものだから……不快)表面上の穏やかさすらなく、いつでも火種になり得る緊張はむき出しだった。今回の労いの宴は、宿なしになった迅の救済措置であやふやになりつつはあったが、あやめが準備し招くことは決まっていた。夫の友人ではなく所属俳優を招くのだからと、席次も料理にも、あやめは冬弥に手を出させなかった。 ドアノブが動いたので冬弥が立ち上がると、あやめも静かに後を追う。 あやめの所作はいつも通り落ち着いているが、 ほんのわずかに肩が張った。その緊張を、冬弥は誰よりも敏感に感じ取っていた。扉を開けると、迅が笑顔で立っていた。 俳優としての華やかさを纏いながらも、幼馴染の前ではどこか少年の面影を残す表情だ。(こちらも、こちらで……)迅は軽く手土産を掲げ、あやめに向けて微笑
「お帰りなさい」にこやかに出迎えたあやめに、冬弥はため息を吐き、その華奢な体を抱きしめた。「……疲れた」「お疲れ様です」“何で”疲れたのか分かっているくせに、分からない振りをするあやめに冬弥は苦笑する。「楓は?」「よく眠っています」あやめの髪ごしに、周りを見た冬弥は早苗がこの場にいないことに苦笑する。「楓に、早苗をつけたのか」冬弥の肩越しに、あやめは後ろの二人を見る。苦笑する樹と、渋々であることを隠さない迅。「必要だと思ったので」「それでお前が安心できるならいい……樹、迅を連れていけ」冬弥の言葉に肩を竦めた樹が、先導する形で迅を客間のある方角に先導する。勝手知ったる屋敷なので迅も客間の場所を把握していたが、迅も黙って案内された。いまの屋敷の管理人はあやめ。ここはもう、勝手知ったるではないことを迅は遅ればせながらも理解しつつあった。(いや、理解させられたというほうが正しいか)「……いいのか?」冬弥の問いに、あやめは笑う。「私を害しても、今宮さんに何の得もないですからね」あやめの言う通りだ。あやめを害しても、沈んでいくあやめに引き摺られて龍神会全てが沈んでいくことになる。「それに、今宮さんは宿なしですからね」「……そうだな」しばらく滞在する予定だったホテルから、館内設備の故障を理由に追い出された迅。その後、どこのホテルを予約しようとしても断られた。大臣経験もある政治家の娘であるあやめは、手際よく都内の一流と言われるホテルに手を回していた。「ビジネスホテルまでは、手を回していませんよ?」「ビジネスホテルの泊まるのは、負けたような気がするらしい」「注目される立場は大変ですね」くすくす笑うあやめに、冬弥は苦笑して抱きしめる腕の力を強める。そんな冬弥の腕を、あやめはポンポンと叩いた。「いい加減に放してください」「嫌だ」あやめは少しだけ困ったように笑った。「疲れているのは分かりますが、いつまでも玄関でこうしているのもどうかと思いますよ」「問題はない。俺たちは夫婦だ」冬弥は顔をあやめの肩に埋める。「しばらく、帰ってこられなかった」「そうですね」「塩沢からの文句が煩い」「存じております」「全部お前のせいだ」「あら、私なんかに何ができますの?」私なんか。それは自分を卑下する言葉なのに、あやめに
人間は、環境に慣れる。 時間が経てば、心も身体も環境に順応していく。あやめは、神崎邸の中庭に面した縁側に腰を下ろし、雨上がりの空を見上げていた。梅雨は明け、空は夏らしく蒼かった。「暑くなってきたわね」誰にともなく呟いたあやめの声は、庭の緑に吸い込まれていった。冬弥に初めて会ったのは梅雨の最中。いまは夏。この屋敷に来てから、時は経っている。そして、この環境にすでに順応しているわが身にあやめは呆れる。自分は意外と図太い人間だったのだ、と。この結婚を、あやめは最初は檻に例えた。自由を奪われ、名前を変えられ、知らない男の妻にされた、いわば被害者のような心境で、この結婚は、あや
神崎芸能の本社ビルは、都心の一等地にそびえるガラス張りの高層ビルだった。 あやめは、週に数回このビルを訪れていた。 冬弥の日程調整や文書確認、広報部と連携して戦略の立案など、あやめの仕事は多岐に渡っていた。 「神崎様、次の会議は十時から。その後、広報部長との面談が十一時半。午後は新規プロジェクトの契約締結式がございます」そう告げるのは、冬弥の秘書の一人である水原玲奈。分家の娘だと、あやめは冬弥から聞いていた。いま彼女は冬弥の指示で、あやめが来るときはあやめの秘書のような立場になっている。 二十七歳、二十五歳のあやめと二歳違い。スレンダーな体型に黒のスーツを纏い、知的な眼
顔合わせの会場は、神崎家の最も広い和室だった。 広い部屋に煌びやかな女性たちが、キレイな配列で並んでいた。あやめが入ると、一斉に視線が集まった。興味、値踏み、嫉妬。視線の種類は様々だが、あやめのすることは決まっている。微笑む。 「初めまして。神崎あやめと申します」あやめは、深く頭を下げた。媚びない、でも、礼儀は尽くす。その所作は、政治家の娘として身につけたものだった。 表だろうと裏だろうと、同じ人付き合いだとあやめは腹をくくっていた。「まあまあ、若いのにしっかりしていらっしゃるわ」あやめの次に上座にいた女性、分家頭の組長の妻の麗香がにこやかに笑った。 「流石
神崎邸で「神崎」の姓をもつのは冬弥とあやめだけだが、神崎邸には龍神会の組員たちや住み込みの家政婦など大勢の人間がいる。広い神崎邸は「神崎」のプライベート空間と、その他のエリアがある。あやめは毎朝身支度を整えると、「神崎」のプライベート空間から出てダイニングに向かう。廊下に差し込む光は柔らかく、庭の緑はよく手入れされていて、空気は澄んでいる。何もかもが整っていて、何もかもが満たされている――はずだった。しかし、最近のあやめの胸の奥には、言葉にできない“空白”がある。---「おはようございます」早苗さんがあやめの朝食の準備を整えながら、いつものように声をかけてくる。 「おはよう