جميع فصول : الفصل -الفصل 380

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第371話

咲夜はその言葉を聞いた瞬間、香織が先ほどあれこれ尋ねてきた理由を悟った。――びっくりした……!てっきり、自分が無意識のうちに何か失礼なことをしてしまい、香織が話題を変えるためにああ言ったのだと思っていたのだ。その言葉を聞いた千暁は、横目で香織をちらりと見た。その眼差しには、疑念と探るような色が宿っていた。香織は再び咲夜に視線を向ける。「さっき、必要な生地を探しているって言っていたわね。私のところには確かにいろいろコレクションがあるけれど……」そこで言葉を切る。咲夜が緊張した面持ちで自分を見つめているのを見届けてから、香織はゆっくりと言葉を続けた。「お金の話はなしよ。私が集めているのは、全部その時々の気分で選んだものなの。お金なんて、私の美意識を汚すだけだから」その一言に、咲夜の胸はすっと重くなった。つまり――断られた、ということなのだろうか。咲夜には、その真意がよく分からなかった。あるいは分かっていても、まだほんの少しだけ期待を捨てきれなかった。けれど、人の愛蔵品を無理に奪うつもりはない。香織のコレクションは、多額の費用をかけて集めたものだと聞いている。中には、すでに世界に一つしか残っていないような貴重な品もある。それに、自分と香織は特別な間柄でもない。突然訪ねてきたうえに、いきなり大切なコレクションを譲ってほしいと頼むなど、確かにあまりにも厚かましい話だった。そう思った咲夜は、笑みを崩さないまま、自分の無礼を詫びようと口を開きかけた。そのとき、香織が箸を置いた。彼女はスマートフォンを取り出し、咲夜に向ける。「どうしてなのか自分でも分からないけれど、あなたを見ると嬉しくなるの。すごく気に入ったわ。だから……まずは友達になりましょう」そう言ってスマートフォンを咲夜に差し出した。「LINE交換しよう」咲夜は言われるまま、香織のLINEを友達追加した。香織は咲夜のプロフィール画面を一目見た。咲夜のニックネームは、そのまま【SAKUYA】。香織はチャット画面を開き、【+】をタップしてアルバムを開くと、次々と大量の写真を送信していく。すると、咲夜のスマートフォンが、立て続けに通知音を鳴らした。チャット一覧を開くと、香織とのトークが三番目に表示されている。その上には、ピン留め
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第372話

咲夜は少し考えてから、香織に向かって言った。「本当にありがとうございます。もし気に入った生地が見つかったら、お手数ですが、スリーサイズを教えていただけませんか。私がスリットドレスを一着お仕立てして、お礼としてお贈りしたいんです。ほんの気持ちです。どうか断らないでください。今回は本当に大きな助けになりました。心から感謝しています」咲夜が思いついた、お礼の方法だった。香織はスリットドレスが好きだ。ちょうど今回、自分のデザインにもスリットドレスの要素を数多く取り入れている。ならば、香織のためだけに一着仕立てれば、感謝の気持ちを伝えられると思ったのだ。もちろん、香織には必要ないかもしれない。彼女自身もブランドを持っているのだから。それでも、咲夜にとっては、香織の好みに最も寄り添えるお礼の形だった。香織は少しもためらうことなく、自分のサイズを咲夜に伝えた。「それじゃ、遠慮なくお願いするわ。咲夜が作ってくれるスリットドレス、楽しみにしている」断られるのではないかと心配していた咲夜は、その言葉を聞いてようやく胸をなで下ろした。自然と笑みがこぼれる。香織は咲夜を見つめながら続けた。「ゆっくり選んでいいわ。決まったら教えて。アシスタントに届けさせるから」咲夜はすでに写真を詩乃に送っていた。今は、詩乃からの返事を待っているところだった。香織はさらに言葉を続ける。「それから、今回のショーの招待状を一枚もらえないかしら。見に行ってみたいの」こうしたイベントでは、主催者が各ブランドに一定数の関係者向け招待状を配布するのが通例だ。ブランド側が取引先や関係者を招待し、新たなビジネスにつなげるためだ。香織が観覧を希望するとは思っていなかった咲夜は、すぐに答えた。「もちろんです。アシスタントに招待状をお送りさせます」「そんな手間をかけなくても大丈夫よ。この用事が片付いたら景浦市に行く予定だから、そのときに咲夜のところに受け取りに行くわ」香織はすでに予定を立てていた。それなら問題ないと、咲夜は頷く。「では、いらっしゃる前にご連絡ください。お泊まりになるホテルはこちらで手配します」招待した以上、自分が迎える立場として、できる限りのおもてなしをしたい。それが咲夜の考えだった。香織は小さく頷いた。「ええ、それでお願い
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第373話

香織に視線で促され、咲夜はその場でギフトボックスを開けた。中に入っていたのは、清楚で上品なシルクのスカーフだった。天然シルクで織られた生地は、やわらかな光沢をまとい、軽やかで通気性にも優れている。肌触りはなめらかで、静電気も起こりにくい。スカーフの片隅には、小さなチューリップが一輪、繊細な刺繍であしらわれていた。その贈り物は、まさに咲夜の好みにぴったりだった。咲夜は顔を上げ、心から礼を言う。「とても素敵です。本当にありがとうございます」香織は、咲夜が社交辞令ではなく本当に喜んでいることを見て取り、ほっとしたように微笑んだ。「気に入ってもらえなかったらどうしようって少し心配していたの。でも、喜んでもらえてよかったわ」「本当に気に入りました」咲夜は何度もスカーフを眺め、手放すのが惜しいほどだった。その様子を見た香織は腕時計に目を落とし、ゆっくりと立ち上がる。「今日は遠くから来てくれたから、この食事は私にご馳走させてちょうだい。景浦市に行ったときに、そのときはご馳走してもらうわ。ごめんね。このあと会議が入っているから、先に失礼するわね。十分なおもてなしができなくて申し訳ないけれど、許してちょうだい」香織は、仕事の合間を縫って咲夜と千暁に会いに来ていたのだ。このあと会社に戻り、自ら出席しなければならない会議が控えている。咲夜と二、三言交わすと、香織は足早に店を後にした。香織の姿が見えなくなってから、咲夜は隣にいる千暁に振り向く。「よかった。思った以上に順調だったね」少なくとも、必要な生地は手に入った。千暁も頷いた。「また雨が強くなってきた。ひとまず部屋に戻ろう」二人はホテルの部屋に戻った。咲夜は窓際のビーズクッションに腰を下ろし、スマートフォンで翌朝の帰りの新幹線のチケットを検索する。しかし、天気予報では今夜も台風を伴う豪雨になると報じられており、新幹線の駅ではすでに乗車券の販売が見合わせられていた。咲夜は小さくため息をつく。せっかく生地は手に入ったのに、景浦市に戻れなければ何も始まらない。どうして次から次へと問題ばかり起きるのだろう。本当に困り果てていた。離れたところからその様子を見ていた千暁は、咲夜のもとに歩み寄った。「どうした?」隣に腰を下ろし、そっと身を寄せる。咲夜は
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第374話

夕食はホテルで済ませることにした。千暁がルームサービスを頼み、料理を部屋まで運んでもらったのだ。食事を終えて間もなく、窓の外では稲妻が空を裂き、雷鳴が轟き始める。その頃、咲夜はソファに座り、千暁の肩にもたれながらスマートフォンを眺めていた。突然、鋭い稲妻が夜空を切り裂く。次の瞬間――ゴロゴロッ!耳をつんざくような雷鳴とともに、部屋の明かりが一斉に消え、辺りは真っ暗になった。ほどなくして、再び稲妻が夜空を照らす。咲夜は思わず肩を震わせた。その瞬間、隣にいる千暁の体が強張ったのを敏感に感じ取る。再び閃光が走る。その一瞬の光の中で、咲夜は彼の横顔を見た。気のせいかもしれない。けれど、稲妻に照らされた千暁の顔色は、どこか青白く見えた。唇は固く結ばれ、表情はひどく張り詰めている。雷鳴が響くたび、千暁の脳裏には断片的な記憶がよみがえっていた。「あき、怖い……!」咲夜は小さく悲鳴を上げると、そのまま千暁の胸に勢いよく飛び込んだ。わざと体を震わせながら彼にしがみつき、腕も脚も絡めるようにして彼に抱きついた。顔を彼の胸元に深く埋め、甘えるように声を漏らした。「すごく怖い……」その声を聞いた千暁は、ほとんど反射的に彼女を抱き寄せた。腕の中に伝わる柔らかなぬくもり。その温かな存在が、彼の脳裏を埋め尽くそうとしていた忌まわしい記憶を一瞬で押し流していく。彼は咲夜の背中を優しく撫でながら、穏やかな声で言った。「大丈夫。雷で停電しただけだろう。ホテルには非常用電源があるから、すぐ復旧するよ。俺がいる。だから怖がらなくていい」張り詰めていた千暁の神経は、少しずつ緩んでいく。ほんの数秒前――稲妻が走り、部屋が闇に包まれた瞬間、彼の精神は限界まで追い詰められていた。千暁は、雷雨という天候を心の底から嫌っていた。雷鳴を耳にするたび、思い出したくもない過去が蘇る。こうした荒天の日には決まって悪夢にうなされ、家の中では一晩中、灯りを消せないほどだった。もし先ほど咲夜の悲鳴が自分を現実に引き戻してくれなければ、自分は彼女の目の前でパニックに陥っていたかもしれない。千暁は幼い頃、まさにこんな雷雨の夜に、天志によって狭い屋根裏部屋に閉じ込められたことがあった。外では稲妻が何度も空を裂き
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第375話

ホテル側によれば、停電の復旧作業は急ピッチで進めているものの、非常用電源でホテル全体に電力を供給できるようになるまでには、あと三十分ほどかかるという。その時間を聞いた途端、千暁の呼吸は徐々に速くなった。闇に閉ざされた空間への強い恐怖が、呼吸のリズムまで乱していく。咲夜の前では平静を装おうと必死だった。だがそれも、もう限界に近かった。息苦しさははっきりと増し、周囲の空気までもが薄くなったように感じられる。彼にしがみついていた咲夜も、その異変に気づいた。小さな声で囁く。「あき……怖いよ。少しお話しして……」彼女が最後まで言い終えるより早く、窓の外で再び幾筋もの稲妻が夜空を切り裂いた。その閃光が、一瞬だけ千暁の青ざめた顔を浮かび上がらせた。全身の筋肉は強張り、精神は限界寸前まで追い詰められている。千暁は咲夜をそっと離し、立ち上がろうとした。――これ以上ここにいたら、きっと咲夜の前で取り乱してしまう。それだけは、絶対に見せたくなかった。だから今すぐ、この場を離れなければならない。しかし、彼が立ち上がった瞬間だった。「あき、どこへ行くの?」咲夜は勢いよく立ち上がり、そのまま千暁の前に回り込む。彼が反応するより早く、その胸を押してベッドに倒した。「行っちゃダメ」その声には、わずかな怒りが滲んでいた。咲夜には分かっていた。千暁が雷や稲妻を極端に恐れていることを。理由までは知らない。けれど、彼が自分から逃げるように離れようとしたことが、どうしても許せなかった。何かを隠そうとしている。一人で抱え込み、一人で耐えようとしている。だからこそ、彼を一人にはしたくなかった。千暁は、驚いたように目を見開く。いつの間にか咲夜は彼の上にまたがり、その腰を両脚でしっかりと挟んでいた。ゆっくりと身を屈めると、そのまま彼に近づく。そして、そっと唇を重ねた。「逃げちゃダメ……」唇を離さないまま、小さく囁く。「私、本当に怖いんだから」甘えるような口調でそう訴えながら、咲夜は何度も彼に口づけを落とした。もちろん、本当に雷が怖いわけではない。彼をここに引き留めるための口実だった。逃げ道を与えないように。彼が一人で苦しまないように。そのためなら、自分から抱きつくことだって
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第376話

翌日、咲夜は眩しい光に包まれながら、ゆっくりと目を覚ました。昨日まで暴風雨に見舞われていた窓の外では、いつの間にか太陽が顔をのぞかせている。薄いレースのカーテンを透かした朝日が、やわらかく咲夜の体を照らしていた。腰には大きな手が回され、抱き寄せられている。胸元まで掛け布団がかかっているものの、空気にさらされた肌には、濃淡さまざまな赤い痕があちこちに残っていた。昨夜、千暁と交わした甘く濃密な時間が、一気に脳裏によみがえる。その瞬間、咲夜はようやく、自分の腰が悲鳴を上げるほど痛むことに気づいた。頬を真っ赤に染めながら顔を横に向けると、隣では自分を離そうとしない男が眠っている。千暁は頬を咲夜の肩口に埋め、右腕で彼女を離すまいとするように抱きしめていた。肌と肌がぴたりと触れ合っている感触に、昨夜の甘い記憶が再び頭を巡る。咲夜はまばたきをし、熱く火照る頬を意識した。思い返せば、昨夜千暁にしがみついて離さなかったのは、自分のほうだった気がする。ただ彼のそばにいてあげたい、寄り添っていたい。そんなつもりだったのに、気づけば自分までその甘い時間へと引き込まれていた。咲夜は思わず黙り込む。……今さら後悔したところでもう遅い。それに、千暁とこうして親密な時間を過ごしたことを、嫌だとは少しも思っていなかった。「……今、何時?」千暁が寝返りを打ちながら、さらに咲夜を抱き寄せる。顔を彼女の肩に埋めたまま、くぐもった声で尋ねた。昨夜、いつ停電が復旧したのかは、咲夜も千暁もまったく気づかなかった。二人はホテルのベッドで長い時間を共に過ごし、咲夜は時計を見ることさえ忘れてしまっていた。ようやくひと段落したころには、指一本動かしたくないほど疲れ切っていた。最後は千暁が片腕で彼女を抱き上げて浴室に連れて行き、手早く体を流したあと、背負うようにして再びベッドに運んでくれたのだった。そんな昨夜の出来事が、一場面ずつ脳裏をよぎる。千暁の声に、咲夜は我に返った。スマートフォンを手に取り、時間を確認する。「七時半よ」それを聞いた千暁は、小さくつぶやいた。「……もう少し寝よう」昨夜は二時過ぎまで咲夜を離さず、一緒に起きていた。これだけしか眠っていないのだから、彼女はきっと疲れ切っているはずだ。咲夜は
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第377話

咲夜は頷き、分かったと返事をした。身支度を終えて洗面所から出ると、ベッドの上にはきれいに畳まれた着替えが置かれていた。部屋の中には、もう千暁の姿はない。着替えを済ませると、脱いだ服を旅行バッグにしまい、部屋を出る。隣の寝室のドアが開いていたことで、千暁がそちらの浴室を使っていたのだと気づいた。ちょうどそのタイミングで、彼が頼んでいたルームサービスの朝食が運ばれてくる。咲夜は「ありがとう」と礼を言って受け取り、テーブルに並べた。ほどなくして、シャワーを手早く済ませた千暁が身支度を整えて出てきた。荷物をきちんとまとめ終えてから、ようやくテーブルにつき、朝食を口にした。……景浦市に戻ると、迎えに来ていたのは真澄だった。千暁の指示で、真澄はまず咲夜を彼女の会社まで送り届ける。会社に着いた咲夜は、真っ先に香織から譲り受けた生地を詩乃に手渡した。その後、自分のオフィスに戻ると、千雪がすでに待っていた。「森崎晴南と鈴村清治が真っ向から対立しています。あのスタジオも、鈴村清治に潰されかけました。でも森崎晴南は半ばやけになって、社長が手放した株を五倍の値段で鈴村清治から買い戻したそうです」報告を終えると、千雪は呆れたように吐き捨てた。「森崎晴南は頭がおかしいんじゃないですか。それとも、終わった恋に未練でもあるんでしょうか。本当に意味が分かりません」ここ数日、晴南は何度も咲夜に会いに来ていたが、そのたびに千雪が追い返していた。自分には咲夜の代わりに口を出す立場ではないから、我慢しているものの、そうでなければ、とっくに「二度と来るな」と言い放っていたに違いない。晴南の名前を聞いた咲夜は、露骨に嫌そうな表情を浮かべた。「森崎英樹は、まだ隠し子を連れ戻してないの?」ずいぶん遅い。今の状況なら、英樹はもう開き直っているはずだ。たとえ静香がどれほど反対しても、その子を森崎家に連れ戻すつもりでいるはずだった。千雪は冷笑を浮かべる。「それが次の話なんですけど、その隠し子、多分白羽洸に匿われています。森崎英樹は居場所すらつかめていません」思わず笑ってしまう話だった。もともと英樹は、その子をあくまで保険程度にしか考えていなかった。自分の醜聞を隠すため、普段は生活費を振り込むだけで、一度も面倒を見ようとはしなか
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第378話

退勤時間が近づき、咲夜はデザイン部に足を運んだ。ショーに出品する作品に問題がないことを一つひとつ確認し終えると、ようやく胸をなで下ろす。ちょうど退社しようとしていたところ、千雪がやって来て言った。「下に向井という男性がお見えです。予約がなかったので、受付から連絡が入りました」その瞬間、咲夜の脳裏に浮かんだのは、琉安の顔だった。咲夜は眉をひそめる。「会わないわ。そのまま帰らせて」彼女には、琉安と会うつもりなど最初からなかった。彼が自分を訪ねてきた理由など、瞳のこと以外にあり得ない。二人の問題に首を突っ込む気はないし、何があっても自分は親友である瞳の味方だった。面倒事を避けるため、咲夜は少し早めに退社することにした。ちょうどワールドトレードタワーに立ち寄り、千暁へのプレゼントを選ぶつもりでもあった。以前から何か贈りたいと思っていたものの、仕事に追われているうちに、いつの間にかそのままになってしまっていたのだ。咲夜は、琉安は受付で断られた以上、たとえ帰らなくてもロビーで待っている程度だろうと思っていた。まさか駐車場で彼の姿を見ることになるとは。彼女はその場で、表情を一気に冷たくした。「花江さん」咲夜を見つけた琉安は、姿勢を正して立った。もともと会えるかどうかは半ば運任せだった。受付で断られた時点で、それは覚悟していたのだ。琉安と瞳が別れて以来、咲夜は彼と顔を合わせていなかった。以前と比べると、彼はずいぶん痩せて見える。その目には不安の色が浮かび、咲夜の視線をどう受け止めればいいのか分からない様子だった。咲夜は静かに視線を外し、淡々と言い放つ。「あなたと話すことなんて何もないわ」彼が何のために来たのかなど、知る気もなかった。琉安は気まずそうに口を開く。「瞳に何度も電話したんです。でも一度も出てくれなくて……そのうえブロックされてしまった。だから花江さんを頼るしかなくて」「あなたたち、もう別れたでしょう」咲夜は途中で彼の言葉を遮った。「別れた相手なんだから、もう他人として距離を置くのが最低限の礼儀よ。あなた、もう結婚するんでしょう?それなのに、今さら瞳に何の用があるの?まさか、あのとき彼女につけた傷が、まだ足りないとでも思ってるの?」二人の別れを思い出せば、琉安に対して何の
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第379話

「じゃあ、どうして瞳が僕に会いたくないって言い切れるんですか?」咲夜の言葉に込められた皮肉に、琉安が気づかないはずがなかった。彼自身も認めている。自分はまだ瞳のことを諦めきれていない。許しを請いたい。今度こそ、もう二度と手放さないと伝えたい。だが、瞳とはまったく連絡が取れなかった。咲夜は足を止め、振り返って冷たく彼を見つめる。「誰だって、いつまでも一人の人を待ち続けたりなんてしないわ。それはあなたも同じでしょう。自分が何様だと思ってるの?瞳があなたじゃなきゃ駄目だとでも?教えてあげる。瞳はもう完全にあなたを吹っ切ってる。だから消えて。もう二度と彼女に近づかないで」今の咲夜は、本気で琉安を何発か殴ってやりたい気分だった。とにかく、瞳から遠ざけたかった。琉安は納得できないというように咲夜を睨みつける。「花江さんは瞳ではありません。一体どのようなお立場で、そのようなことを僕におっしゃるのですか?」本当は咲夜なら味方してくれると、どこかで期待していた。――結局、自分を買いかぶりすぎていただけだった。咲夜は呆れたように笑う。「瞳の義姉になる人間として。それで十分?」その瞬間、咲夜はもう我慢の限界だった。本気で琉安を殴ろうとした、そのときだった。そのとき、本来ならまだ出張先にいるはずの瞳が駆け込んできた。瞳は景浦市に戻るなり、咲夜を訪ねていた。兄と咲夜の交際公表の件について、直接本人に聞きたかったのだ。会社に着くと千雪と鉢合わせになり、咲夜はつい先ほど退社して、今なら駐車場にいるはずだと教えられた。瞳はすぐさまエレベーターで駐車場に向かった。そしてちょうど、琉安と咲夜のやり取りを耳にしたのだった。とりわけ、「瞳の義姉になる人間として」という咲夜の一言を聞いた瞬間、瞳はあまりの衝撃に口をぽかんと開けた。だが、怒りをあらわにした咲夜の横顔を見た途端、考えるより先に体が動いていた。手にしていたバッグを振り上げ、そのまま琉安の顔面に勢いよく叩きつける。「この最低男!さっさと消えなさい!何様のつもりでうちの咲夜につきまとってんのよ!被害者ぶるんじゃないわよ!」一千万円以上する高級バッグを容赦なく振り回し、かつて心から愛した男を思い切り殴りつける。「いい加減にしなさいよ!人の友達にい
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第380話

咲夜は、怒りに満ちた親友の横顔を見つめていた。瞳が琉安に対してここまで激怒している姿を見るのは、これが初めてだった。二人の間で、きっと何かがあったのだろう。そう思った咲夜は、静かに尋ねる。「……あの人、瞳のところにも来たの?」もちろん、指しているのは琉安のことだ。瞳の表情がわずかに強張る。ハンドルを握る手にも思わず力がこもった。「……うん」本当は、琉安が自分を訪ねてきたことは誰にも話すつもりはなかった。まさかあの厚かましい男が、今度は咲夜にまで自分の居場所を聞きに来るとは思ってもいなかったのだ。さっき咲夜が自分をかばってくれた言葉は、すべて聞いていた。胸が熱くなるほど嬉しかった。その一方で、そんな男を好きになっていた自分が、滑稽でたまらなかった。付き合い始めた頃の琉安は、こんな人ではなかった。彼の気持ちは本物だったと、瞳は今でも思っている。別れてはヨリを戻すことを繰り返すたびに、彼の行動はどんどんひどくなっていった。――もしかしたら、確かに愛していた時期はあったのかもしれない。でも、人の心なんて、一瞬で変わってしまうものだ。そして、その歪んだ恋の後始末を背負わされることになったのは、結局自分だった。咲夜は遠回しに問いかける。「……話せるなら聞かせてくれない?二人の間で何があったのか」これほど怒るのには、きっと相応の理由があるはずだった。瞳はハンドルを切って車を路肩に寄せる。ハザードランプを点けると、大きく息を吐き、力なく笑った。「あのバカね……結婚資金が足りないから、お金貸してくれって言ってきたの」琉安の理解しがたい行動には、本気で笑うしかなかった。あんな男に金を貸すくらいなら、ドブに捨てたほうがまだましだった。咲夜は思わず聞き返す。「……頭でもおかしくなったの?」さすがに、それは琉安らしくない。もっとも、瞳がそう言うのなら疑うつもりはなかった。それでも、まともな神経とは思えない。瞳は冷笑を浮かべる。「信じられないでしょ?でも、もっとひどい話があるの。その婚約者まで私に連絡してきて、『琉安と付き合ってたときに使ったお金を全部返せ』って請求してきたのよ」琉安が婚約者にどんな話を吹き込んだのかは知らない。だが、その女性が自分に金を請求してきたこ
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