LOGIN川治が言いたかったのは、何を疑うにしても、千暁の能力だけは疑うべきではないということだった。千暁の能力を疑うなど、あまりにも愚かなことだった。何しろ彼は長年にわたって荻野グループを率いてきたが、その間、大きな失敗を犯したことは一度もない。川治の言葉を受け、剛は千暁に向けようとしていた皮肉をぐっと飲み込んだ。やがて視線を逸らし、口を開く。「わしが言いたいのは、咲夜が正式に鷹司家の人間として認められたあと、彼にも咲夜と一緒に鷹司グループで働いてもらえばいいということだ」この点に関しては、剛なりに公平に考えていた。咲夜を正式に鷹司家へ迎え入れたあとの配属先まで、すでに決めてあった。咲夜も千暁も、まずは下積みから始めさせるつもりだった。星奈も舟平も、今でこそ鷹司グループでそれなりの地位に就いているが、最初からそうだったわけではない。二人とも一番下から始め、一歩ずつ今の地位まで上がってきたのだ。だから咲夜についても、同じように扱うべきだと剛は考えていた。鷹司家の人間である以上、それくらいの経験は積むべきだということだ。その話を聞き、咲夜はわずかに目を見開いた。まさか剛が、自分だけでなく千暁まで鷹司グループに入れるつもりだとは思っていなかった。だが、すぐにその意図に気づいた。千暁の能力は誰もが認めるところだ。剛もなかなか抜け目がない。千暁ほどの実力があれば、どこへ行っても十分にやっていける。鷹司グループに入れば、間違いなく会社に大きな利益をもたらすだろう。剛に見つめられても、咲夜は淡々と答えた。「そのときになったら考えます」先のことなど、今の時点では誰にも分からない。咲夜はここで約束するつもりはなかった。それに、千暁には千暁のやるべきことがある。鷹司グループに縛られたせいで、それを後回しにしてほしくはなかった。千暁も咲夜の言葉を聞くと、すぐに同調した。「咲夜の考えに従います」咲夜が決めたことなら、彼に異論はない。剛や川治たちを前にしても、千暁はあくまで咲夜の言うことに従う姿勢を貫いた。咲夜は思わず千暁に微笑みかける。そこまで言われてしまえば、剛も内心どれほど不満があろうと、それ以上は何も言えなかった。食事を終えると、咲夜は千暁とともに席を立ち、剛に一声挨拶してその
川治と紗智子も二人と一緒に母屋へ向かった。咲夜たちに付き添ってきた川治と紗智子を見ても、剛は少しも意外そうな様子を見せなかった。咲夜は千暁に小声で紹介した。「あき、こちらがおじいちゃんよ」「おじいちゃん」千暁もそれに合わせて剛を呼んだ。剛は頷く。「座りなさい」全員が席に着いてから、ようやく料理を運ばせた。料理が並ぶまでの間に、剛は咲夜に言った。「礼儀作法の先生が二時半に来る。時間になったらお前がこちらへ来るか?それとも、先生をお前のところへ行かせようか?」それを聞いた紗智子は、たちまち不満そうな表情を浮かべた。「お義父さん、咲夜は今のままでも十分きちんとしていると思います。わざわざ何かを教えてもらう必要はないでしょう」わざわざ礼儀作法の先生を呼ぶなど、あまりにも大げさに思えたのだ。これでは咲夜と千暁の前で、咲夜の振る舞いに不満があると言っているようなものではないか。剛は紗智子を横目で見た。「すべて鷹司家のためだ。鷹司家の人間なら、それにふさわしい振る舞いを身につけなければならない。別に咲夜をわざと困らせようとしているわけではない。ただ、今の咲夜は鷹司家を代表する立場でもあるんだ」紗智子はさらに何か言い返そうとした。だが、その隣にいた咲夜がそっと彼女の袖を引き、それ以上言わないよう制した。それから咲夜は剛を見上げ、落ち着いた口調で答えた。「どちらでも構いません。おじいちゃんのご都合に合わせます」まだ数えるほどしか接していないとはいえ、咲夜にもすでに分かっていた。剛は、自分の意向に逆らわれることをひどく嫌う人間なのだ。自分も鷹司家に戻ってきたばかりなのだから、何から何まで彼と対立する必要はない。たとえこれが剛なりに自分を試すためのものだとしても、咲夜は受けて立つつもりだった。何が来ても、その都度対処すればいい。咲夜はそれほど気にしていなかった。剛は彼女の返事にずいぶん満足したようだった。「なら、お前がこちらへ来なさい」咲夜は素直に頷いた。咲夜の話がひと段落すると、剛の視線は自然と千暁へ向かった。軽く咳払いをしてから尋ねる。「それからお前、名前は何と言ったかな?」「荻野千暁です」千暁が答える。剛は「ああ」と声を漏らした。「今は仕事をしていないそうだな?咲夜について桜ノ宮市ま
咲夜が千暁を連れて鷹司家へやって来たとき、剛はすでに外出していた。剛がいないと知り、咲夜は内心ほっとした。剛が彼女のために用意した屋敷は決して小さくなく、母屋からもそれほど離れていなかった。剛は不在だったものの、川治と紗智子はすでに屋敷で二人を待っていた。紗智子は咲夜と千暁を連れて、屋敷の中をひと通り案内した。「ほかに必要なものがないか見てみて。足りないものがあったら、使用人に用意させるから」とはいえ、屋敷には生活に必要なものが一通り揃っており、ほとんど不足はなかった。よく見ると、日用品もすべて新品だった。自分と千暁の服まで、紗智子があらかじめ用意してくれていた。「大丈夫よ。もう十分すぎるくらい」咲夜は小さな声で答えた。屋敷の内装を見れば、川治と紗智子がどれほど心を配ってくれたのかは一目瞭然だった。ほとんどすべて、自分の好みに合わせて整えられていた。それを聞いた紗智子は、ようやく安心したように息をついた。「向こうのお父さんとお母さんのことも心配しなくていいのよ。しばらくは私とパパもあの二人の隣に住むことにしたから。普段から時間があれば顔を出して、一緒に過ごすつもりよ」雅紀と真奈美は桜ノ宮市へ来たばかりで、慣れない土地での暮らしに戸惑うことも多いだろう。そのため川治と紗智子は、咲夜が二人を桜ノ宮市へ呼び寄せると聞いたときから、その考えに賛成していた。さらに、雅紀たちの家の隣に自分たちの住まいまで購入した。近くに住んでいれば何かと助け合えるし、四人で気軽に話し相手にもなれるだろうと思ったからだ。咲夜はすぐに二人の気遣いを理解し、心から感謝した。「ありがとう」紗智子は慈しむように咲夜の頭を撫でた。「家族なんだから、そんなこと言わなくていいの。星奈もこっちへ引っ越して、私たちと一緒に暮らしたいって言ってるわ。あの子も実の両親ともっとゆっくり過ごしたいみたい」剛が咲夜を正式に一族に迎えようと本家の屋敷へ呼び戻さなければ、紗智子はむしろ、花江家の両親と一緒に暮らしてほしいと思っていた。そうすれば、お互いに行き来するにも何かと便利だからだ。川治は咲夜を見つめた。「本当なら、俺たちもこっちに住んでお前のそばにいるべきなんだ。やっぱり俺だけでも残ろうか?俺たちの屋敷はすぐ隣だから」その屋敷は剛が、川治と紗
千暁は片手で咲夜の後頭部を押さえ、もう片方の手でその腰を抱き寄せると、彼女を抱えたままくるりと体勢を入れ替えた。それまで彼の上に覆いかぶさっていた咲夜は、一瞬にして下になり、彼の大きな体に閉じ込められた。千暁は咲夜の唇を深く奪い、低い声で言った。「どこへ逃げるつもりだ?逃げるな」掠れた声には、すでに不機嫌さが滲んでいた。咲夜に逃げられかけたことが、よほど気に入らなかったらしい。まるで腕の中の獲物を逃すまいとするかのように、彼女を抱く腕にさらに力を込めた。咲夜もようやく、自分が咄嗟に逃れようとしたことが千暁の逆鱗に触れてしまったことに気づいた。今の彼は獰猛な獣と化し、今にも自分を食らい尽くそうとしているかのようだった。それでも咲夜には、千暁が必死に自制し、耐えていることも分かった。目の前の男は、感情が高ぶって自分を傷つけないよう気遣っているのだ。そのことに気づいた咲夜は、自ら千暁の腕の中に身を委ね、心も体もすべて彼に預けた。千暁の首に両腕を回して顔を上げ、自分から彼の唇を求めた。彼女が応えるにつれ、千暁の眼差しには抑えきれない激しさが滲んだ。咲夜がゆっくりと目を閉じると、彼の腕にもさらに力がこもった。二人の体は隙間もないほどぴったりと重なり、高まり続ける熱が二人を包み込んでいった。やがて咲夜は、千暁の愛情を全身で受け止めた。翌朝、咲夜が目を覚ましたときには、隣に千暁の姿はなかった。ベッドの上で身を起こすと、いつの間にかきれいな寝間着に着替えさせられている。彼女はベッドを降り、そのままバスルームへ向かった。まだ眠そうな目をしたまま鏡の前に立ち、首筋から鎖骨にかけて残るいくつもの痕を目にした瞬間、昨夜の千暁との激しいひとときが脳裏に蘇った。たちまち頬が真っ赤になる。咲夜は大きく息を吸い、呆れたように天井を仰ぐと、心の中で固く誓った。――もう二度と、自分から千暁を煽ったりしない。少し煽っただけであそこまでなる男は、恐ろしすぎる。昨夜だって何度も「もう無理」と訴えたというのに、それで千暁が手加減してくれるどころか、ますます勢いづいただけだった。咲夜は慌てて、次々と浮かんできた昨夜の刺激的な光景を頭から追い払った。それでも、顔はまだ真っ赤だった。蛇口をひねり、両手ですくった冷
「星奈の記憶を元に戻す方法はないの?」咲夜は尋ねた。千暁の話では、もう一年以上もこの状態が続いているという。一年以上経っても、まだ有効な治療法は見つかっていないのだろうか。星奈が経験したことを考えるだけで、咲夜まで胸が痛くなった。子供を失い、その出来事を思い出すことすらできず、智哉に関する記憶まであれほど滅茶苦茶になってしまった。星奈も辛いだろうが、おそらく智哉はそれ以上に辛いはずだ。愛する女性に自分のことを忘れられたうえ、ほかに忘れられない女性がいると思い込まれ、もう自分を愛してもくれず、それどころか離れようとまでされている。それらすべてを、智哉は一人で黙って受け止めてきたのだ。もし自分が智哉の立場だったら、いつか耐えきれなくなる気がした。千暁は真剣な表情で答えた。「医者の話では、強い精神的ショックに加えて、投与された薬物の影響も今なお残ってるらしい。失った記憶を取り戻すのは、そう簡単じゃないそうだ」咲夜は唇を引き結び、黙り込んだ。つまり、今のところすぐにどうにかできるものではないのだ。そう思うと、胸の奥が鈍く痛んだ。今度は自分が星奈の立場だったらと、咲夜は考えてみた。あまりのショックで記憶を失い、千暁のことを忘れてしまう。それだけではなく、彼にはほかに愛する女がいて、自分のことなどもう好きではないと思い込んでしまう――想像しただけで息が詰まりそうだった。まして、いつか記憶を取り戻し、その間に千暁へしてきたことを思い返したら、耐えきれなくなってしまうのではないだろうか。きっとそうなる。辛くないはずがなかった。もっとも、これらはすべて咲夜の想像にすぎない。本当の意味で星奈の気持ちを理解することはできなかった。実際にそれを経験したのは、自分ではないのだから。自分には、星奈の代わりにその苦しみを背負うこともできない。千暁は咲夜の辛そうな表情を見て、優しく慰めた。「人にはそれぞれ違う人生がある。あまり考えすぎるな」深く考えれば考えるほど、咲夜が辛くなるだけだ。千暁の言葉を聞き、咲夜は素直に頷いた。家へ戻ったあとも、彼女はまだそのことを引きずっていた。考えているうちに、次第に怖くなってきた。どうしてなのか、自分でも分からない。ただ突然、どうしようもなく不安
そこまで済ませると、千暁は智哉と一緒に料理を運び、キッチンからダイニングへやって来た。「鷹司星奈、飯だぞ」智哉がわざわざフルネームで呼ぶ。星奈は抱えていたクッションを放り出し、勢いよく立ち上がった。「はーい」そして咲夜の手を引くと、まるで百メートル走でもするかのような勢いでダイニングテーブルまで駆けていき、席に着いた。咲夜は千暁の隣に座る。一方、星奈は当然のように智哉の隣に座った。目の前にあるガーリックシュリンプを指さして言う。「エビ食べたい」そう言うなり、星奈は俯き、スープを飲み始めた。隣にいた智哉は呆れたように彼女を一瞥したものの、素直に手袋をはめ、エビの殻を剥き始めた。まずは手早く一尾剥くと、手袋をしたまま星奈の口元へ差し出した。星奈もごく自然に口を開け、そのまま食べた。咲夜は、智哉が慣れた手つきでエビの殻を剥いていく様子を眺めていた。一尾剥いては星奈に食べさせ、また次の一尾に手を伸ばしていた。ほどなくして、目の前の小鉢には殻を剥いたエビが山盛りになった。その間にも、星奈は智哉の手から何尾もエビを食べている。おそらく星奈本人さえ、自分と智哉のやり取りが、傍からどれほど親密に見えるのか、気づいていないのだろう。星奈にとっては、それがあまりにも当たり前のことになっているようだった。これは彼女から聞かされた「智哉は自分のことなど好きではない」という話と、まるで辻褄が合わない。咲夜の胸に、わずかな疑問が浮かんだ。そのとき、目の前の器に突然、小松菜とツナのにんにく塩炒めが入れられた。顔を上げると、千暁が取り分けてくれたものだった。咲夜は小さく笑い、それ以上何も言わずに食事を続けた。食事が終わると、智哉は咲夜に星奈と庭を散歩して、少し腹ごなしをしてくるよう勧めた。自分は千暁と一緒に食器を片づけるという。智哉の屋敷には広大な裏庭があり、そこには色とりどりの花が咲き乱れていた。大きなガジュマルの木の下には、花や蔓で美しく飾られたブランコもある。ブランコはかなり大きく、二人並んで座っても十分な広さがあった。星奈は咲夜の手を引き、二人でそこに腰を下ろした。つま先で軽く地面を蹴り、ブランコをゆったりと揺らす。咲夜は何度か横目で星奈を見た。心から楽しそうに笑って
実家へ向かう帰路の途中、咲夜のスマートフォンに晴南から着信が入った。受話器越しに響いてきたのは、怒りに我を失った彼の声だった。「咲夜、今すぐ病院に来い。這いつくばってでも洸に謝るんだ」背後では、洸のすすり泣く声がかすかに混じっている。想像するまでもない。晴南は洸を不憫に思うあまり、怒りの矛先をすべて自分へ向けようとしているのだ。咲夜は深く考えることもなく、電話口から浴びせられる怒号を無視し、そのまま通話を切った。しかし晴南は執拗だった。すぐさま何度もかけ直してくる。病院へ来て謝罪するまで決して許さない――そんな執念すら感じさせる勢いだった。苛立ちが限界に達した咲夜は
洸は、咲夜が手にしていたコーヒーを奪い取ると、そのまま自分の顔へとぶちまけた。続けざまに、自らの頬を思いきりひっぱたく。華奢な身体は、計算し尽くされた絶妙なタイミングで床へと倒れ込んだ。額がテーブルの角にぶつかり、生温かい液体が視界を滲ませる。「ごめんなさい……私が悪かったわ。晴南さんに付きまとったりして、本当にごめんなさい。私を打って気が済むのなら、いくらでも打って。抵抗なんてしないから」床に座り込んだ洸は、首を振りながら、しゃくり上げるような声で泣き叫んだ。晴南は、かなり離れた場所にいながらも、ダイニングルームの騒ぎを聞きつけていた。慌てて階段を駆け下りた彼の目
「晴南さん、一人だと……少し怖いの」背後から、震える洸の声が追いかけてきた。晴南はすぐさま手を伸ばし、洸の手をしっかりと握り締めると、宥めるように優しく声をかけた。「どうした?慣れない環境で落ち着かないのか?」洸はただ、消え入りそうな様子で小さく頷いた。その痛々しい姿に、晴南の胸は締め付けられた。「俺がそばにいる。何も怖いことはないよ」「……ごめんなさい。私、あなたと咲夜さんの邪魔をしてしまったかしら」洸の視線が咲夜へと向けられる。それはまるで、今この瞬間に初めて彼女の存在を認識したかのような、白々しいまでの素振りだった。洸は緊張に声を震わせながら言葉を継いだ。
「あなたと結婚するわ」区役所の前。閉庁時間を過ぎ、もはや人の出入りのないガラスの自動ドアを見つめながら、花江咲夜(はなえ さくや)はスマートフォンを取り出し、ある番号へ電話をかけた。今日は、森崎晴南(もりさき せな)と入籍する約束の日だった。それなのに、彼女は朝九時から午後五時半まで待ち続け、手元には十数枚もの整理券が溜まっていた。結局、晴南が姿を現すことはなかった。入籍を言い出したのは晴南の方なのに、すっぽかしたのも彼だった。これで、咲夜が彼に約束を破られたのは三度目になる。咲夜はもう使い物にならない整理券をゴミ箱に捨て、背を向けると、晴南の宿敵である荻野千暁(お







