All Chapters of 元カレの宿敵の腕で幸せになります!: Chapter 701 - Chapter 710

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第701話

こんなことなら、最初からこの話を持ち出さなければよかった。星奈は後悔した。今にも泣き出しそうな顔をして、泣くに泣けないといった様子だった。智哉はさらに続けた。「景浦市から戻ったら、俺と一緒に今泉グループで働け。働いて借金を返して、全額返し終わるまでは辞めるな」以前の星奈なら、きっと大喜びしていただろう。これまでは、どうすれば智哉のそばにいられるのか、その口実が見つからず悩んでいたのだ。それが今では、ようやく堂々とこの男につきまとえるようになったというのに、星奈はどうしても喜ぶ気にはなれなかった。「うん……」気のない声で小さく返事をする。戻ったところで、本当に今泉グループに入れるかどうかさえ分からないのだ。この先に待ち受けていることを思うと、星奈の気分が晴れるはずもなかった。唇をきゅっと結び、沈んだ表情のまま、いっそ時間がもっとゆっくり流れてくれればいいのにとさえ思った。だが星奈自身、分かっていないわけではない。来るべきものは、いずれ必ずやって来る。逃げたところで何の意味もないのだ。智哉も、星奈の様子がいつもとどこか違うことには気づいていた。しかし、それほど深くは考えなかった。借金を作ってしまい、家族にどう顔向けすればいいのか分からず落ち込んでいるのだろうと思っただけだ。そう考えた智哉は、再び口を開いた。「お父さんには俺からちゃんと話しておく。ただ、お前も一度くらいお父さんにきつく叱られたほうがいい。そうすれば少しは懲りるだろ」星奈はこれまでにも、大小さまざまな騒ぎを起こしてきた。そのたびに、父親の川治が後始末をしてきたのだ。川治は幼い頃から娘の星奈を溺愛しており、筋金入りの親バカと言ってもいいほどだった。とはいえ、守るべき一線に関しては、川治も娘にかなり厳しかった。今では賭け事にまで手を出し、そのうえこれほどの借金まで作ったのだから、さすがに一度、川治からきっちり叱ってもらう必要があると智哉は思っていた。そうでもしなければ、今後また何をしでかすか分かったものではない。星奈は沈んだ声で答えた。「いいよ。智哉さんの言うとおり、私も一度ちゃんと痛い目を見て、懲りたほうがいいと思う」そう言ったあとも、彼女の顔から浮かない表情が消えることはなかった。智哉は、さっきの自分の言い方が少しき
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第702話

あの日、星奈は目を真っ赤にして、明らかに泣いたあとの顔で病室へ戻ってきた。咲夜は少し心配になり、声をかけて慰めたほうがいいのか迷ったものの、星奈のひどく落ち込んだ顔を見て、やはり少し時間を置いてから聞いたほうがいいだろうと思った。ところが意外なことに、星奈はたった一晩ですっかり元気を取り戻していた。翌日には花束を抱え、上機嫌で咲夜のところへおしゃべりをしにやって来たのだ。昨日とはまるで別人で、その変わりようは天と地ほどの差があった。「智哉さんから、咲夜さんはチューリップが好きだって聞きました」星奈は、丁寧に選んだチューリップの花束を咲夜へ差し出した。その顔には満面の笑みが浮かんでいる。咲夜は腕の中で瑞々しく咲き誇る花を見つめ、微笑みながら言った。「ありがとうございます。わざわざ選んでくださったんですね。すごく嬉しいです。本当に気に入りました」星奈が自分のために選んでくれた花束を、咲夜は心から気に入っていた。それが伝わったのか、星奈も嬉しそうに笑みを深めた。咲夜は朝にCT検査を受けており、傷の回復はかなり順調だった。午後からはリハビリを受ける予定になっている。足の傷はすでに抜糸を終え、ここ数日は毎日薬を塗り、それに加えて薬草を使った足浴も続けていた。そのため今では補助器具を使いながら、少しずつ立って歩く練習を始められるまでになっていた。長期間ほとんど体を動かさずにいるのは、怪我をしていないほうの足にとっても決してよくない。適度に体を動かすことで、血行の改善にもつながる。星奈は傍らに座り、良太が咲夜にリハビリ中の注意事項を説明しているのを聞いていたが、やがて興味津々といった様子で尋ねた。「咲夜さん、私もついていっていいですか?私も咲夜さんのお手伝いができますし」そう言って、お願いと言わんばかりの目で咲夜を見つめる。咲夜は、星奈にそんなふうに頼み込むような目で見つめられると、どうしても断れなくなってしまうのだった。結局、今回も小さく頷き、構わないと答えた。千暁は当然、咲夜のリハビリについていくことはできない。今の彼はまだ、下半身が動かないふりを続けているからだ。千雪も星奈の存在については知っていた。咲夜のリハビリに付き添う準備をしていた彼女は、星奈までついてくると知ると、たちまち警戒の色を浮かべた
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第703話

天志がここまで手を回してきたのも、結局のところ、自分の欲しいものを一刻も早く手に入れるためにほかならない。そのためには、遥斗が最適な駒だった。少なくとも天志のあの歪んだ教育を受け続けてきた以上、遥斗がまともな考え方を保つことなど、ほとんど不可能だろう。遥斗は所詮、天志が操るために用意した予備の傀儡にすぎない。だとすれば、自分の知らないところで遥斗が独自の力を蓄えることなど、天志が許すはずもなかった。そんなことは、最初からあり得ないのだ。少なくともこの点については、咲夜の読みが見事に当たっていた。彼女は千雪に目をやり、尋ねた。「荻野遥斗のほうは?」「そろそろだと思います。どうせ先に焦れて動くのは、私たちじゃありませんから」千雪は自信たっぷりに答えた。遥斗はあの日、三日という期限を自ら口にし、その場を去ったあと、必死になって金を借り集めていた。咲夜が持つ荻野グループの株について、遥斗には絶対的な自信があった。咲夜は自分に売るしかない――そう信じて疑っていなかったのだ。しかし彼は知らなかった。咲夜がその株を「売る」相手として最初から選んでいたのは、彼らだけだということを。ここまでの過程は決して完璧とは言えなかったが、狙った結果さえ得られるのなら、正攻法だろうと奇策だろうと、目的を果たせる手段こそが良策なのだ。咲夜は周囲を一度見回してから声を落とし、千雪に言い聞かせた。「荻野遥斗から電話がかかってきて、株の話を持ち出されたら、適当に話を合わせて、ひとまず応じておいて」咲夜には予感があった。遥斗が明日まで待ち、期限ぎりぎりになってから株の交渉を持ちかけてくるとは思えなかった。もしかすると、もうすぐ誰かがやって来るかもしれない。そんなことを考えていた矢先、本当に遥斗のほうから連絡が来た。咲夜が今日のリハビリを終えると、遥斗から時間があるかと尋ねる電話がかかってきたのだ。咲夜はわずかに眉を上げた。「病院の病室まで来て」その態度にも口調にも、どこか尊大な響きがあった。もちろん、わざとだ。電話の向こうにいる遥斗を苛立たせるためだった。「悪いけど、今は私も千暁も歩けないから、遥斗さんにこっちまで来てもらうしかないの」そう言い終えると、遥斗の返事も待たずに電話を切った。そして千雪に向か
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第704話

「大変です」真澄はドアを閉めると、足早に千暁と咲夜の前までやって来た。「社長、大変です。お母様が事故に遭われました」どうやら絢子は、どこからか遥斗が咲夜との話をまとめ、病院へ株式譲渡契約を結びに来ることを知り、たちまち取り乱したらしい。家の使用人たちの制止も聞かず、遥斗につかみかかって激しく罵倒した。その言葉は聞くに堪えないほどひどいものだった。遥斗は顔を真っ青にし、絢子を振り払うと足早にその場を立ち去った。しかし絢子は遥斗のあとを追い、自ら車を運転して追跡した。やがてスピードを上げて追いつくと、アクセルを強く踏み込み、そのまま遥斗の車に突っ込んだのだ。遥斗が気づいてハンドルを切ったときには、すでに遅かった。二台の車は激しく衝突し、絢子の車はその場で爆発した。現在、絢子と遥斗は二人とも最寄りの病院へ搬送され、救命処置を受けているという。二人ともかなりの重傷らしい。真澄から一部始終を聞き終えた咲夜と千暁は、互いに顔を見合わせた。まさか途中で絢子が割って入り、こんな事態になるとは誰も予想していなかった。千暁の顔色は決してよくなかった。その深い目の奥には、一瞬、暗く険しい光がよぎった。咲夜は手を伸ばして彼の手を握った。掌がひどく冷えていることに気づき、胸が締めつけられた。表情には出していないものの、心の中では母親である絢子のことが心配でたまらないはずだ。そう思った咲夜は、小声で言った。「よかったら、病院へ様子を見に……」千暁に絢子のところへ行ってはどうかと言おうとした、そのときだった。咲夜が最後まで言い終える前に、真澄の携帯に向こうの病院から電話がかかってきた。電話を終えた真澄は勢いよく顔を上げ、千暁を見る。「社長、病院からです。お母様はもう非常に危険な状態で、最後に社長に会いたいと……」絢子は病院へ搬送された時点ですでに大量に出血しており、複数の臓器を損傷していた。肋骨も何本か折れており、そのうち二本が肺を傷つけたため、出血が止まらない状態だという。救命処置の最中、絢子は何度も千暁の名前を呼び続け、その間にも何度かショック状態に陥っていた。千暁は唇を引き結んだまま、何も言わなかった。咲夜は彼の手を握る力を少し強めた。「私も一緒に行く」その言葉に、千暁はようやく我に返っ
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第705話

天志は視界の端に千暁の姿を捉えた。咲夜と千暁が近づいてみると、手術室の外にはかなりの数のボディガードが待機していることに気づいた。咲夜の胸に疑問が浮かぶ。天志は、いったい何のためにこんなことをしているのだろう。その答えは、すぐに明らかになった。「来たか」天志は笑みを浮かべて千暁を見る。「まだその芝居を続けて、母親の生死さえ見届けに来ないつもりかと思っていたよ」その視線は、千暁の両脚にぴたりと据えられていた。「もう演技はやめろ。お前の脚が何ともないことも、海外にいるあの男がお前ではないことも、俺は知っている」いつから気づいていたのかといえば――天志は当初、何度も執拗に探りを入れていたものの、確かに一度は疑いを捨てていた。生来疑り深い性格ゆえに、完全に警戒を解いたわけではなく、その後も折に触れて探りを入れ続けてはいた。それでも実のところ、昨日までは天志もほとんど疑っていなかったのだ。千暁の両脚は本当に動かなくなったのだと、とうに信じ込んでいた。むしろ焦っていたのは絢子のほうだった。どこからか千暁の最近の検査報告書を何枚か手に入れ、何とか彼の脚を治せないかと、この分野の第一人者である専門医に連絡を取ろうとしていた。ところが、その検査結果のうち一枚に記載されていたある項目が、天志の疑念を呼び起こした。天志は手元の書類から、千暁が海外から荻野家へ戻ったあと、自宅で受けた検査の報告書を抜き出した。「半月板の不可逆的損傷」天志はその箇所を指で示した。「お前の毎年の健康診断の結果は、真っ先に俺のところへ届く。お前がいつ半月板を損傷したんだ?俺にはまったく覚えがないんだがな」つまり、この検査結果が千暁本人のものであるはずがない。天志はすぐさま、当日千暁の検査を担当した医師を捜し出させ、そのまま連れてこさせた。しかし医師は、この検査結果には何の問題もないと繰り返し主張した。自分の潔白を証明するため、当日の検査に関する防犯カメラの映像をすべて確認しても構わないとまで言ったのだ。咲夜の心臓がどきりと跳ねた。緊張した面持ちで隣にいる千暁を見つめる。千暁は何も答えず、ただ天志の視線を黙って受け止めていた。「それから、お前のじいちゃんの態度も妙だった」天志はさらに続ける。「お前が歩けなくな
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第706話

咲夜は傍らで話を聞きながら、内心ひやひやしていた。認めざるを得ない。自分はこれまで、天志という男を甘く見ていた。たった一枚の検査結果から、千暁の偽装をいとも簡単に見破ってしまったのだ。そして今、天志の口から真相が明かされたことで、目に見えないところで続いていたこの争いは、さらに激しい局面へと突入した。咲夜は確信していた。手術室の外にこれだけのボディガードが配置されている以上、このあと必ず何かが起きる。内心では緊張していたものの、咲夜はできる限り平静を装った。一方、嘘を見破られた千暁には、これといった動揺は見られなかった。ただ冷たい目で周囲を一瞥すると、薄い唇を開いた。「何が望みだ?」天志がわざわざ人を遣って自分をここまで呼び出した以上、何か目的があるに決まっている。単に自分の嘘を暴くためだけに、これほど大掛かりなことをする必要などない。実際、天志は今日、意図的に千暁をここへ呼び出したのだ。今なお車椅子に座っている千暁を眺めながら、天志は冷たく鼻を鳴らした。「お前の母親があの中で救命処置を受けられるかどうかは、お前の決断次第だ」そう言うと、手にしていた血まみれの書類袋を開け、中から書類を取り出して引き裂き、そのまま千暁の前へ投げ捨てた。株式譲渡契約書だった。以前、咲夜が遥斗に渡し、今日署名する予定だったあの契約書だ。それが今、無残に引き裂かれ、咲夜の目の前に捨てられている。先ほど天志が口にした言葉と結びつけた瞬間、咲夜の心は一気に冷え切った。その目には、信じられないという思いがありありと表れていた。何があったにせよ、絢子は天志の妻なのだ。それなのに今、天志はその絢子の命を使って千暁を脅している。世の中に、こんな夫が、こんな父親がいるのだろうか。咲夜はただ驚愕するしかなかった。一方の千暁は、「こんなのは見慣れている」とでも言わんばかりに、平然としていた。先ほど天志に自分の芝居を見破られた時点で、すでにこの可能性を考えていたのだ。そして、これこそが天志のやり方だった。目的を果たすためなら手段を選ばない。たとえ長年そばに寄り添い、従順になるまで飼い慣らした妻であろうと、彼にとっては例外ではない。手術室の外にいるボディガードたちも、千暁たちが強引に中へ押し入り、絢子のも
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第707話

あとは、息子である千暁が、実の母親の安否さえ顧みない父親の非情さを、ほんのわずかでも受け継いでいるかどうかだ。咲夜は父子が睨み合っている隙に、千暁の手から株式譲渡契約書を受け取り、中身に目を通した。読み進めれば進めるほど、その顔色は険しくなっていく。あまりにも一方的な契約だった。どの条項を見ても、千暁にとって不利なことしか書かれていない。最後まで読み終えた咲夜は、あまりのひどさに怒りを通り越して笑いそうになった。彼女は顔を上げ、千暁をちらりと見る。すると千暁から、焦るなと言うような視線が返ってきた。咲夜は契約書を千暁に返した。この件は千暁ならきちんと対処できる。そう信じていた。そう思うと、咲夜はいったん余計なことを考えるのをやめた。天志が十分な準備を整えたうえでここへ来ていることは明らかだ。妻に対してさえここまで冷酷になれる男なのだから、息子に対してならなおさらだろう。そう考えると、千暁がこれまで天志の支配下で過ごしてきた日々が脳裏に浮かび、咲夜の胸がじわりと痛んだ。天志は何食わぬ顔で答えた。「助けるかどうかは、お前の良心次第だ」一見すれば、選択権を千暁に委ねているように聞こえる。しかし実際には、千暁に選択肢など最初からなかった。千暁は冷たい表情のまま、契約書を握る手にわずかに力を込めた。感情をあまりにも深く押し殺しているため、表情からは何も読み取れなかったが、それでも咲夜には分かった。千暁は今にも爆発しそうな感情を、必死に押し殺している。この契約書に署名することは、事実上の敗北を認めるも同然だった。千暁と天志は、冷え切った表情のまま無言で睨み合った。咲夜は手を伸ばして千暁の手を握った。千暁が顔を上げて彼女を見ると、咲夜は静かに言った。「お金や財産なんて、なくなっても取り戻せる。でも、人の命はそうじゃない」千暁が実の母親の命をどうでもいいと思えるはずがない。誰だって、こんな状況を目の前にして見殺しになどできないだろう。それに、咲夜も分かっていた。株を荻野家へ返すこと自体は、もともと二人の計画の範囲内だった。ただ当初は、天志からその対価をたっぷり搾り取るつもりだったのだ。まさか天志のほうが一枚上手で、絢子の命を盾にするという卑劣な手段で、すべての株をただ同然
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第708話

千暁は手術室のほうをじっと見つめていた。表情は強張り、その目には無意識のうちに不安が滲んでいる。絢子は感情の起伏が激しく、ほとんどの時間を天志に支配されるようにして生きてきた。だが、絢子の言葉が正しかったことも、一つだけあった。彼女自身、長年にわたって天志から精神的に支配され続けていた。だからこそ彼女は、自分を反面教師にするように、千暁には「決して天志に屈してはいけない」と何度も何度も叩き込んできたのだ。どれほど傷つき、満身創痍になろうとも、何度も命の危機に瀕しようとも、絢子は狂ったように千暁に、自分の言葉を絶対に忘れるなと言い聞かせた。千暁は、幼い子供が本来背負う必要のない苦痛と絶望を味わってきた。天志と絢子の双方から追い詰められるような環境の中で、精神を壊さずにいられたこと自体、奇跡と言ってもいいほどだった。それでも千暁は認めざるを得なかった。母親としての絢子は、決してすべてを投げ出していたわけではない。そもそも、絢子自身にも自分の感情の暴走を抑えられないことが多かったのだ。千暁や瞳を傷つけてしまわないようにするため、自ら距離を取ろうとしたことも何度かあり、そのたびに天志によって、精神を病んだという名目で精神科病院へ送られ、治療を受けさせられていた。千暁に対しても瞳に対しても、絢子が二人を守ろうとした気持ちだけは本物だった。だから千暁は、絢子に死んでほしいとは思っていなかった。両手を強く握り締める。そのとき、ふいに手の甲に柔らかな温もりが重なった。咲夜が手を伸ばし、千暁の手をそっと包み込んだ。「きっと大丈夫。だから、あまり……」咲夜は、まだ結果が出たわけじゃないから、あまり悲観しないでと慰めるつもりだった。しかし、その言葉を最後まで口にする前に、手術室のドアが開いた。担当医が沈痛な面持ちで千暁と咲夜の前まで来る。「申し訳ありません。できる限りの処置はしましたが……残念ながら、救命することができませんでした。お悔やみ申し上げます」事故による負傷が、あまりにも重かったのだ。絢子は病院へ搬送されたとき、外見上はそれほど目立った外傷があるようには見えなかった。しかし実際には、体内の損傷は想像以上に深刻だった。折れた二本の肋骨が肺に突き刺さっていただけでなく、複数の臓器にも重大な損
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第709話

死んでしまえば、もう何もできないんだから、怖がることなんてない。それに、絢子は千暁の母親なのだ。千暁が目を伏せて咲夜を見ると、ちょうど咲夜も顔を上げて彼を見つめていた。視線が重なった瞬間、咲夜は千暁の冷たく震える手を握った。何も言わず、ただその手を包み込むことで、自分はずっとそばにいると伝えた。千暁はゆっくりと視線を戻すと、その場に立ったまま、静かに絢子を見つめ続けた。やがて一歩前へ出た。そして手を伸ばして絢子の両目を覆い、そっと瞼を閉じてやった。もしその手が激しく震えていなければ、千暁の内側で荒れ狂う感情が外に漏れることもなかっただろう。何も知らない人間が、無表情で何の反応も見せない千暁だけを見れば、また好き勝手なことを言ったかもしれない。千暁はそれ以上長く留まることなく、ほどなくして咲夜の車椅子を押し、手術室を出た。智哉はそのとき、廊下の壁にもたれて待っていた。千暁が咲夜を押して出てくるのを見ると、二人のほうへ歩み寄る。「お前……」智哉はそこまで言いかけたものの、千暁の目が真っ赤になっていることに気づき、思わず口を閉ざした。千暁はひどく掠れた声で言った。「咲夜を病院に連れて帰ってくれ。頼む」「私は帰らない」咲夜は首を振って拒んだ。こんなときに千暁を一人にして帰れるはずがない。智哉も千暁の考えには賛成せず、口を開いた。「お前の妹もまだ戻ってくる途中だろ。こっちでもいろいろ動く人間が必要になる。俺たちも残るよ」その言葉が終わった直後、絢子が白い布をかけられた状態で手術室から運び出されてきた。死亡確認や必要な手続きが済むと、千暁は病院側に一室を用意してもらい、絢子をそこへ移してもらった。瞳はまだ到着していない。妹にも、母親の顔をもう一度見る権利がある。そして千暁には、これから絢子の葬儀についても手配しなければならないことが山ほど残っていた。絢子は天志と結婚して以来、彼の支配のもとで実家とは完全に疎遠になっていた特に絢子の両親が亡くなってからは、実家との連絡を完全に断たれていた。それでも、実家の親族にはきちんと知らせなければならない。千暁と咲夜は、そのまま絢子のいる部屋に残った。千暁は水を張った洗面器を用意すると、絢子の顔に乾いてこびりついた血を拭き始めた。
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第710話

瞳が景浦市へ戻ってきたのは、すでに夕方になってからだった。その頃には、絢子の遺体はすでに霊安室へ移されていた。瞳は顔を真っ青にし、両目は泣き腫らして真っ赤になっていた。ここへ戻ってくるまでの間、どれほど泣き続けていたのかは、その姿を見れば一目瞭然だった。彼女の後ろには恭介もついてきていた。絢子の遺体が霊安室へ運ばれてからというもの、千暁はずっとその外で待っていた。咲夜も彼のそばに付き添っていた。瞳は足元もおぼつかないまま、よろめくようにして駆けてきた。そして千暁の姿を見つけた途端、その胸に飛び込み、声を上げて泣き出した。「お兄ちゃん、お母さんがどうして……」その先は、どうしても言葉にならなかった。千暁にしがみついた瞳は、全身を激しく震わせていた。母親を失った悲しみで頭がいっぱいだった瞳は、千暁が自分の足で立っていることにさえ、まったく気づいていなかった。千暁は、わずか半日でどうにか自分の感情を立て直していた。瞳が声を上げて泣くに任せ、背中を優しく叩きながら、掠れた声で慰める。「泣いていい」千暁は長男だったこともあり、幼い頃から天志に非常に厳しく育てられてきた。母親である絢子も、普段は千暁の教育にあまり口を挟むことができなかった。しかし、瞳は違う。家で一番年下の子供であり、しかも女の子だったため、天志も千暁や遥斗に対するほど厳しくはなかった。千暁も遥斗も、生後一か月を過ぎた頃には絢子のもとを離され、幼い頃から専属の世話係に育てられ、食事や栄養面は専属の栄養士に管理されてきた。一方、瞳だけは絢子が自らそばに置いて育てた。そのため、瞳が母親に抱く愛情は、千暁や遥斗よりもはるかに強く、深かった。千暁から絢子が交通事故に遭い、救命処置を受けていると電話で知らされた瞬間、瞳は完全に取り乱した。すぐに恭介に頼み、景浦市まで送ってもらうことにした。しかし帰る途中、再び電話がかかってきた。そこで絢子が亡くなったことを知らされたのだ。瞳はその場で人目もはばからず、声を上げて泣き崩れた。あまりの泣きように、恭介もどう慰めればいいのか分からなくなったほどだった。しかも途中で何度も泣き疲れて意識を失いかけ、そのたびに恭介が慰めようとすると、かえってさらに激しく泣いてしまった。そのた
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