All Chapters of 元カレの宿敵の腕で幸せになります!: Chapter 681 - Chapter 690

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第681話

幸い、咲夜が今日着ていたのは黒いロングワンピースだったため、コーヒーをこぼされた跡はそれほど目立たなかった。ただ、アイスコーヒーだったうえに店内の冷房もかなり効いていたせいで、彼女は肌寒さを覚え、腕にはうっすらと鳥肌が立っていた。咲夜にコーヒーをかけてしまったのは、愛らしい雰囲気の若い女性だった。肩まであるふわりとした巻き髪をハーフアップにし、黒い小さなクリスタルのヘアピンを留めている。身にまとっているのは、膝丈の白いワンピースだった。女性は慌ててバッグからポケットティッシュを取り出すと、今にも泣きそうな顔で咲夜の服についたコーヒーを拭き始めた。目元まで赤くしながら、焦った声で言う。「本当にすみません!その服、いくらでしたか?弁償します!」あたふたしながら自分の服を拭く彼女に、咲夜のほうが少し戸惑ってしまった。咲夜は笑みを浮かべて相手を見る。「大丈夫ですよ。自分で拭きますから」そう言って差し出されたティッシュを受け取り、穏やかな笑みを浮かべたまま服を拭き始めた。「黒い服だから、そんなに目立ちませんし、帰って洗えば大丈夫です。本当に気にしないでください」咲夜は顔を上げ、目を赤くしている女性を見つめながら、落ち着いた口調で続けた。「本当に大したことじゃありませんから」そこまで言われて、女性はようやく胸を撫で下ろした。「よかった……でも、本当にごめんなさい。すみませんでした」そう言うなり、彼女は咲夜に向かって深々と頭を下げた。その勢いに驚き、咲夜は思わず後ろへ下がりそうになった。そこで初めて、咲夜は自分の車椅子が通路側へ少し出ていて、それに女性がつまずいたのだと気づいた。途端に申し訳ない気持ちになり、「よく考えたら、私も悪かったですね。私の車椅子が通路にはみ出してたから……どこかぶつけたりしてませんか?」と、逆に相手を気遣った。咲夜に心配され、女性は首を横に振った。「大丈夫です」そう答えたあと、彼女は咲夜の車椅子に目をやり、遠慮がちに尋ねた。「足、かなりひどい怪我なんですか?さっきぶつからなくて本当によかった……あっ、私、た……鷹司瀬里(たかつかさ せり)っていいます。よろしく!」瀬里は人懐っこく咲夜へ手を差し出した。咲夜もその手を軽く握る。「花江咲夜です。よろしくね」目の前の瀬里の明
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第682話

病室へ戻る途中、咲夜は絢子の様子について尋ねた。それを聞いた千雪は、「大したことはありません。ただ、もう若くないですから、ちょっと転んだだけでも堪えるのでしょう。帰って湿布でも貼っておけば大丈夫です」と答えた。絢子のあの厄介な振る舞いを思い出すだけで、千雪はどっと疲れを感じた。これ以上咲夜のところへ行って面倒を起こさせたくなかったから我慢していただけで、本当ならとっくに堪忍袋の緒が切れている。これ以上耐え続けたら、自分はそのうち本物の忍者にでもなってしまいそうだった。不満たっぷりの千雪の言葉を聞き、咲夜は思わず笑った。「お疲れさま。今月はお給料を上げてあげる。絶対に倍にするから」可愛いアシスタントをここまで怒らせるとは、絢子も大したものだ。今は千暁が千雪の給料を払っているとはいえ、昇給を決めるくらいの権限なら咲夜にもあった。そもそも智哉がわざわざ下まで咲夜を迎えに来たのは、絢子が咲夜のもとを訪ねてきたことを千暁が知ったからだった。千暁は自分で出向こうとしたものの、最後は智哉に止められ、代わりに智哉が下りてきたのだ。ところが来てみれば、咲夜のほうは、すでに事態を収めていた。そのため智哉は千雪と一緒にカフェへ向かい、そのまま咲夜を病室まで連れ帰った。病室に戻ると、咲夜は何も隠さず、香織が自分を訪ねてきたことも千暁に話した。もちろん、香織が「再起するために力を貸したい」と申し出てきたことも含めてだ。それが香織の言葉だと聞いた智哉は、少し意外そうに口を開いた。「本当にそんなことを言ったのか?」どう考えても、香織らしくない。桜ノ宮市で香織のやり方を知らない者などいない。それでなければ、彼女が「辣腕の女傑」と呼ばれるようになるはずもなかった。香織は何をするにしても、まず利益を基準に判断することで知られている。そんな彼女が採算も度外視して咲夜を助けようとするなど、どう考えても何か裏があるように思えた。咲夜は頷いた。「うん」千暁は智哉に目を向けた。「お前、鷹司星奈と婚約してるんだろ?鷹司家のこともそれなりに知ってるはずだ。鷹司香織はどうしてこんなことをすると思う?」そう問われ、智哉は返答に詰まった。確かに今泉家と鷹司家の間には縁談があり、世間では以前から智哉と星奈が婚約していると噂されている
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第683話

今泉家の老当主でさえ、生前は舟平という後輩のことを何度も口にしていたほどだった。今泉家の老当主は一度ならず、自分の末息子も舟平のように手のかからない子に育ってくれればいいのに、とぼやいていた。智哉は至って真面目な顔で千暁を見る。「いや、本当に冗談じゃないって。奥さんみたいなタイプは、まさに鷹司香織の好みだ。あの人、奥さんのことを相当気に入ってると思うぞ。そうじゃなきゃ、何の縁もないのに、どうして奥さんの再起を手伝おうとするんだ?狙いがあるとしたら、奥さんのその美貌だろ?」口にすればするほど、自分の推測が正しいような気がしてきたらしい。智哉はもっともらしく筋道を立てて分析しながら、最後には自分で納得したように何度も頷いた。その結果、とうとう我慢の限界に達した千暁から容赦なく脇腹を肘で小突かれることになった。智哉は二歩ほど後ずさりし、痛む腹を押さえた。「親友を殺す気かよ。少しは良心ってものがないのか?」「黙れ」千暁は冷たい視線を向けた。その目は、これ以上気に入らないことを口にしたら本気で始末するぞ、と無言で警告している。その殺気を敏感に察した智哉は、瞬時に真面目な顔へ戻った。咲夜はふと疑問に思い、尋ねた。「でも、どうして鷹司舟平の苗字は鷹司なの?」以前、香織について調べたとき、夫が婿入りしたという話はなかったはずだ。智哉は「ああ、そのことか」と声を上げた。「鷹司香織が旦那と結婚したとき、婿入りって形にはしなかったけど、結婚後はずっと二人で鷹司家に住んでたんだ。それで、第一子には父親の姓を継がせ、第二子には鷹司の姓を継がせると、結婚前から両家で決めていたらしい」これは桜ノ宮市では公然の秘密だった。香織が産んだのは男女の双子で、先に生まれたのは姉のほうだった。娘は生まれつき体が弱く、出生直後から保育器に入れられたという。退院したあとも、しょっちゅう病院に通っていたらしい。長女は父親の姓である新垣を名乗り、息子の舟平は鷹司家の姓を継ぐことになった。だが幸せは長く続かなかった。双子の姉である新垣伊織(あらがき いおり)は、三歳のとき、心臓病の発作で亡くなってしまったのだ。その後、香織は舟平にも父親と同じ新垣姓を名乗らせようと提案したこともあったが、夫はそれを断った。結婚当初に交わした
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第684話

ほどなくして、桜ノ宮市の二大名家がそろって咲夜の保有する株式に興味を示しているという噂が、再び広まり始めた。そのニュースを目にした咲夜は、またしても呆気に取られた。隣にいる男へ顔を向ける。「あきが流した情報?」だが、考えてみればその可能性は低い。千暁は首を横に振った。「俺じゃない」実際、この件は千暁が仕組んだものではなかった。彼が人を使って情報を流したのは、天志の耳に入るようにするためだけで、それと併せて自分の怪我の状態についても知らせていた。千暁は脊椎をひどく損傷しており、現時点ではまだ手術方針すら決められない状態にある。治療が遅れれば遅れるほど、回復できる可能性は低くなっていく――そういう筋書きだ。この数日、天志の側も千暁の怪我について探りを入れていないわけではなかった。そのため千暁は、いっそのこと最後まで演じ切ることにした。それを聞いた咲夜は、千暁でないのならいったい誰なのだろうと考え込んだ。すると、そばにいた智哉がゆっくりと口元を吊り上げた。「鷹司家だ」そう言って、スマートフォンを差し出した。画面には香織から智哉に送られてきたメッセージが表示されていた。その内容は実に単刀直入で、荻野グループの株式が欲しいとはっきり書かれている。もし智哉がその株を手に入れたなら、両家の付き合いもあることだし、咲夜を全力で支援してほしいというのだ。そのメッセージを見た千暁は、どうにも胸の奥がざわついた。頭に浮かぶのは、先ほど智哉が口にしていた話だ。香織は息子の舟平にふさわしい結婚相手を探しているという。まさか本当に咲夜を気に入って、息子の嫁にしようとしているんじゃないだろうな?その可能性を考えた瞬間、千暁の顔が目に見えて険しくなった。咲夜は彼の不機嫌そうな様子に気づき、不思議そうに尋ねた。「どうしたの?」言い終わるや否や、千暁はスマートフォンを彼女に差し出した。内容を読んだ咲夜も、再び驚きに目を見開いた。そしてすぐに、千暁が何に腹を立てているのかも理解した。しかし、それにしても香織はなぜここまで自分を助けようとするのだろう。咲夜はスマートフォンを智哉に返すと、自嘲気味に冗談を飛ばした。「いっそ実家に帰って、私が本当に両親の実の娘なのか聞いてみようかな?まさか拾われた子で、本当は鷹司さ
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第685話

智哉は二人を見ながら言った。「まあ、今のところを見る限り、鷹司香織はこっち側に立ってる。少なくとも敵じゃない」香織までこの件に加わったことで、思わぬ成果につながる可能性もある。そして智哉の予想どおり、噂が広まると、本当に思わぬ動きがあった。今度は天志のほうから咲夜に連絡を入れ、話がしたいと持ちかけてきたのだ。だが、咲夜は考えるまでもなく即座に断った。自分と話をしたいと言っておきながら、相変わらず上から目線の態度を崩そうともしない。そんな天志に、わざわざ付き合ってやるつもりなど咲夜にはなかった。そして、その結果――天志自ら咲夜の病室までやって来ることになった。彼も怪我を負ってはいたものの、見たところ顔色は悪くなく、かなり元気そうだった。病室へ入った天志は、咲夜と千暁が同じ病室で過ごしているのを見るなり、鼻を鳴らした。――情けない。自分が手塩にかけて育て上げた後継者が、咲夜の前ではこんなにも締まりのない男になってしまったと思うと、天志は無性に腹が立った。今すぐ近寄って千暁の頬を何発かひっぱたき、目を覚まさせてやりたいほどだった。千暁も当然、天志から向けられる視線には気づいていた。しかしまるで意に介さず、ベッドに悠然と横たわったまま、父親の存在そのものを無視していた。そのとき咲夜は車椅子に座り、千暁のベッドのそばにいた。天志の姿を見るなり、単刀直入に尋ねる。「天志さん、株を買いに来たんですか?」聞くまでもなく、今日天志が自分を訪ねてきた目的が株式であることくらい、咲夜にも分かっていた。天志はわずかに目を細め、咲夜を値踏みするように見つめた。「言ってみろ。いくらなら手放す?」咲夜がここまで率直に切り出した以上、天志も遠回しな言い方をするつもりはなかった。咲夜はただ彼を見つめた。「天志さん、私と商談をするつもりなら、もう少し誠意を見せていただかないと」天志と視線を合わせたまま、咲夜はゆっくりと続ける。「あきの治療のために医師を呼ぶことを、これ以上妨害しないでください。親子なんですから、そこまで徹底的に追い詰める必要はないでしょう?」天志を前にして、咲夜はまず一つ目の条件を突きつけた。千暁が怪我を負い、このまま医師の診察すら受けられなければ、両脚が回復する可能性はますます低くなる。それを
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第686話

天志が怒りで顔を引きつらせているのを見ても、咲夜の顔には淡い笑みが浮かんだままだった。その様子からは、少しも譲歩する気がないことがはっきりと伝わってくる。天志も、咲夜を説得するなど到底不可能だと悟ったのだろう。冷たい視線を彼女に向けると、そのまま踵を返して病室を出ていった。その間、千暁は最初から最後まで一言も口を挟まなかった。天志が立ち去ってから、ようやく咲夜に声をかけた。「退職の手続きは、あとは祖父の承認だけだ。遥斗からはまだ連絡がないのか?」ここまで餌を撒いたというのに、遥斗はずいぶん辛抱強い。咲夜は自分のスマートフォンを千暁に差し出した。「K.T社の責任者なら、今ちょうど私に連絡してきてるよ」数日前、千暁と智哉はすでに咲夜に一つの資料を渡していた。遥斗はこの数年、ずっと海外を拠点に活動していたが、決して何もせずに過ごしていたわけではない。裏では数多くのプロジェクトに投資しており、それらの投資会社を辿っていくと、いずれもK.T社の存在が見え隠れしていた。K.T社は極めて目立たない会社だったが、資金力はかなりのものだった。遥斗は巧妙に自分の存在を隠しており、表向きのK.T社の代表者をいくら調べても、彼との間にこれといった繋がりは見つからなかった。しかし実際には、K.T社の裏にいる投資家こそ遥斗だった。K.T社は金融業を主軸とし、特にベンチャー投資や入札案件を得意としている。景浦市ではほとんど無名に近いが、本拠地を置く地方都市ではそれなりに名の知られた会社だった。咲夜は荻野グループの株式を売却すると情報を流したその瞬間から、遥斗という水面下に潜んでいる魚が餌に食いつくのを待っていた。そもそも彼女は最初から、荻野家の傍系一族に株を売るつもりなどなかった。それは天志に対しても同じだ。ここまで大きな騒ぎを起こしたのは、ずっと裏に身を潜めている人物を表舞台へ引きずり出すためだった。実のところ、咲夜は当初、その人物が天志だと思っていた。しかし千暁から、そうではないと聞かされた。そこで咲夜が真っ先に思い浮かべたのが、遥斗だった。考えてみれば、荻野家の次男でありながら、物心がついた頃から海外へ追いやられ、ほとんど顧みられることもなく、帰国して一族の中枢事業に関わることすら許されなかった。
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第687話

そうなれば、咲夜がいずれもう一度事業を始めようと思ったときにも、十分すぎるほどの資金になる。咲夜は千暁と目を合わせた。「啓介おじいちゃんは、まだ納得してくれないの?」あの日の会議で、千暁がその場で荻野グループを辞めると宣言して以来、啓介は腹を立て、病院にすら顔を出さなくなっていた。一方、秀子は毎日のように電話をかけて千暁の様子を気遣い、そのついでに、感情に任せて軽率な決断をしないよう諭していた。啓介はよく分かっていた。千暁がグループを去れば、荻野グループはこの先、衰退の一途を辿ることになる。彼は昔から、この孫を高く評価していた。それだけに、千暁があまりにもあっさりとすべてを手放そうとしたことは、啓介にとって大きなショックだった。もちろん啓介自身、千暁の今の体では、このままグループに残ったところで周囲を納得させるのは難しいと分かっている。そこに息子の天志が意図的に追い打ちをかけているのだから、千暁にのしかかる重圧は誰よりも大きかった。啓介が望んでいるのは、ただ千暁にもう一度立ち直ってもらうことだった。自分を哀れみ、天志に打ちのめされるままになってほしいわけではない。千暁は困ったように口元を緩めた。「そのうち、ちゃんと分かってもらえるよ」少なくとも秀子のほうは、千暁がどうにか説得することに成功していた。途中から完全に千暁側に寝返り、彼の決断を尊重すると言ってくれたのだ。今では秀子が、頑として譲ろうとしない夫を代わりに説得してくれている。千暁の話を聞きながら、咲夜は二人の老人が言い争っている光景を想像し、思わず笑った。「啓介おじいちゃんは秀子おばあちゃんを叱ったりできないでしょうね。せいぜい一人で拗ねてるくらいじゃない?」啓介の愛妻家ぶりは、景浦市でも有名だった。彼の座右の銘である――「妻を大切にする男には、運も味方する」――という言葉は、今でも広く知られているほどだ。千暁は気にする様子もなく肩をすくめた。「どうせ祖母なら、祖父をうまく抑えられるから」そして実際、千暁の言うとおり、このとき啓介は秀子にすっかりやり込められていた。二人はもともと、千暁の退職を巡って口論していた。啓介は険しい顔をしたまま、怒りを隠そうともしない。最初は妻も自分と同じ意見だったというのに、千暁と何度か電話
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第688話

秀子がどうしても譲らなかったため、啓介も結局は彼女に連れられるようにして、病院までやって来た。千暁が咲夜と同じ病室で過ごすようになってからというもの、咲夜の足の傷は良太が自ら診るようになっていた。ちょうどこのときも、良太は咲夜の傷口の処置を始めようとしており、千暁は彼女のベッドのそばに立っていた。そのとき、不意にドアをノックする音が響いた。千暁は反射的に自分のベッドに戻って横になると、掛け布団を引き寄せて体にかけた。「どうぞ」良太は顔を上げ、開かれていく病室のドアに目を向けた。てっきり看護師だと思っていたが、そこに啓介と秀子の姿を見つけると、良太は笑みを浮かべた。「おじいちゃん、おばあちゃん」千暁と親しいこともあり、良太は普段から彼にならって二人のことをおじいちゃん、おばあちゃんと呼んでいた。千暁も二人を見て声をかける。「おじいちゃん、おばあちゃん」啓介は険しい顔のまま、「ああ」と低く返事をした。その表情を見る限り、どう見ても自分から進んで来たわけではなさそうだった。秀子はそんな啓介の腕を軽く叩くと、「私もおじいちゃんも心配だったから、様子を見に来たのよ」そう言って、まず咲夜のほうへ歩み寄った。彼女の足首にある傷を目にした途端、秀子は思わず目を赤くした。「可哀想に……つらかったでしょう」「啓介おじいちゃん、秀子おばあちゃん」咲夜はいつものように二人へ挨拶した。すると、そばにいた良太が軽く咳払いする。「奥さん、もう結婚したんだから、おじいちゃん、おばあちゃんって呼ばないと」咲夜の呼び方をすかさず訂正した。咲夜はわずかに気まずそうな表情を浮かべた。秀子は慌てて助け舟を出す。「いいのよ。好きなように呼べばいいの。無理に変えなくたって構わないわ。それに、せっかく初めて『おじいちゃん、おばあちゃん』って呼んでもらうのに、今日は私もこの人も何も用意してこなかったでしょう?これじゃ格好がつかないわ」秀子は内心、後悔していた。どうして忘れていたのだろう。今の咲夜は、もう荻野家の嫁なのだ。それなのに自分も夫も手ぶらでやって来てしまった。これでは祖父母として格好がつかない。そんな秀子の言葉を聞き、咲夜はにこやかに呼び直した。「おじいちゃん、おばあちゃん」秀子は嬉しそうに咲夜の
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第689話

良太は、まるでそれが当然だと言わんばかりの顔をしていた。秀子の言葉を聞いた咲夜は、ますます申し訳ない気持ちになった。しかし秀子はそこで話題を変え、良太に早く咲夜の傷の手当てをするよう促した。その一方で、傷はまだ痛むのかと心配そうに尋ねた。咲夜は笑顔で首を横に振った。「もう痛くありません」啓介は横目で、咲夜をじっと見つめている孫をちらりと見やると、ふんと鼻を鳴らし、少し声を落として言った。「お前のばあちゃんがどうしても来いと言うから来ただけだ。あいつに言われなければ、わざわざ来るつもりなんてなかったからな」その顔には、どこか意地を張っているような様子が浮かんでいた。千暁は困ったように笑った。「はいはい、分かってるよ。おじいちゃんがおばあちゃんに頭が上がらないのは。おばあちゃんが右を向けと言えば、左なんて向けない。筋金入りの愛妻家だからね」「馬鹿を言うな」啓介は千暁を睨みつけた。「妻を大切にする男には運も味方するんだ。お前に何が分かる。お前もこれからは咲夜を大切にしろ。人の真心を踏みにじるような奴には、いつか必ず罰が当たる」その言葉に込められた意味を、千暁もきちんと察していた。つまり祖父は、天志のように偏執的で、まるで常軌を逸した人間にはなるなと遠回しに言っているのだ。少なくとも二人の老人からすれば、天志の独善的で支配的な性格は、それだけで立派な病気だった。啓介は以前、天志に一度頭を診てもらうか、カウンセリングでも受けてみたらどうだと勧めたことさえある。ところが、当の息子は頑固そのものだった。啓介の忠告に耳を貸さないどころか、逆に病院へ行くべきなのは父親のほうだと思っている始末だ。今も会社の重要事項に対する拒否権を啓介が握っていなければ、天志は父親まで精神科病院へ送り込もうと考えていたかもしれない。千暁は祖父のもっともらしい教えを聞きながら、素直に頷いた。「分かってる」それから話を切り替えるように続けた。「それで、今日はどういう風の吹き回しで、おじいちゃんがわざわざ病院まで?何か言いたいことがあるなら、遠回しにせずそのまま言ってよ」千暁もこれ以上前置きを重ねるつもりはなく、率直に本題を切り出した。実のところ、祖父がいまだに腹を立てている理由くらい、千暁には誰よりもよく分かっていた。自分が何の
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第690話

啓介が帰ってからというもの、千暁の表情はどこか重苦しかった。そんな彼を見た良太は、軽く咳払いしてから尋ねた。「おじいちゃん、何か気づいたんじゃないか?」先ほどの啓介と千暁のやり取りは、どうにも表面どおりの単純な話には思えなかった。啓介は、おそらく何かを察している。良太の言葉を聞き、咲夜も心配そうな眼差しを千暁へ向けた。彼女もまた、良太と同じことを感じていたのだ。千暁は良太を横目で見た。「祖父は今、あまり経営に口を出してないだけだ。別に耄碌したわけじゃない」啓介もかつては名の知れた実業家だった。そうでなければ荻野グループを任されることも、あれほどの繁栄を築き上げることもできなかっただろう。実際、啓介はすべてを理解したうえで静観している。千暁が今やっている一連の行動が何を意味するのか、見抜けないはずがなかった。だからこそ、啓介はなかなか首を縦に振ろうとしないのだ。表向きは、ただ孫を荻野グループから手放したくないように見える。だが実際には、そういう形を取ることで千暁を止めようとしているだけだった。啓介は、千暁にその先へ進んでほしくない。そして千暁なら、自分がなぜ止めようとしているのか、その意味まで理解しているはずだと信じていた。しかし千暁は、最初から何かを諦めるつもりなどなかった。自分で選んだ道を、最後まで貫くつもりだった。それを聞いた良太は、はっとして自分の額を叩いた。「そうだった。なんで忘れてたんだ、俺。お前んちのおじいちゃん、昔から食えない古狸で有名だったじゃないか。こんな分かりやすいこと、見抜けないわけないよな」啓介もかつては、荻野家一族を率いて繁栄へ導いた中心人物だった。啓介がビジネスの世界で辣腕を振るい、容赦なく決断を下していた頃など、良太も千暁もまだ生まれてすらいない。心配しすぎて、そんな当たり前のことまで忘れていたらしい。良太の言葉に、咲夜は思わず笑った。それから千暁を見つめる。「じゃあ……おじいちゃんは最終的に認めてくれるの?」もしおじいちゃんが最後まで同意しなかったら、自分たちはどうすればいいのだろう。それでも予定どおり計画を進めるのか。咲夜としては、千暁の考えを聞くしかなかった。千暁は安心させるような眼差しを彼女に向けた。「君はこのまま
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