All Chapters of 元カレの宿敵の腕で幸せになります!: Chapter 711 - Chapter 720

906 Chapters

第711話

千暁は咲夜に答えた。「いや、いい。しばらく一人にしてやろう」そう言うと、千暁はしゃがみ込み、両手で咲夜の手を握った。「自分で受け止めなきゃならないことだから」掠れた声には、かすかな震えが滲んでいた。母親が亡くなったのだ。悲しくないはずがない。ただ、ここまで来てしまった以上、どれほど悲しくても、彼は一刻も早く気持ちを立て直すしかなかった。このあとには、絢子の葬儀の手配もしなければならない。何しろ今日、天志は絢子の救命措置を盾にして千暁を脅したのだ。そんな男が今さらまともな人間らしい振る舞いをするなど、千暁は端から期待していなかった。葬儀に顔を出し、絢子を一目見に来るだけでも奇跡に近いだろう。だが……千暁は自嘲するように唇を歪めた。むしろ母親のほうが、何十年ものあいだ自分を恐怖で縛りつけてきた夫の顔など、もう二度と見たくないのではないか。せめて最期くらい、あんな男に邪魔されたくはないだろう。千暁にそこまで言われてしまえば、咲夜もそれ以上何も言えなかった。ただ黙って彼のそばに寄り添いながら、ときおり霊安室のほうへ視線を向ける。中からは、途切れ途切れに瞳の泣き声が聞こえてきた。その泣き声が咲夜の耳に届くたび、彼女の眉間には深い皺が刻まれていった。心配でないと言えば嘘になる。だが、どう慰めればいいのか、本当に分からなかった。結局、最後には千暁が自ら中へ入り、瞳の腕を取って、半ば強引に霊安室から連れ出した。そこでようやく、瞳もあることに気づいた。泣き腫らした目を見開き、信じられないものを見るように千暁を見つめる。「お、お兄ちゃん……その脚……」動かなくなったんじゃなかったの?脊椎をひどく損傷し、もう一生立てないと聞いていた。それなのに今、千暁は何事もなかったかのように自分の目の前に立っている。瞳は、もはや今の自分の気持ちをどう表現すればいいのかさえ分からなかった。半分は悲しみ、もう半分は衝撃。頭の中は真っ白で、泣けばいいのか、それとも……自分でも分からなくなっていた。千暁は彼女の肩を軽く叩いた。「俺の脚は大丈夫だ。心配しなくていい」そう言われて初めて、瞳の視線が咲夜へ向けられた。無表情な顔とは裏腹に、その眼差しには明らかな非難が込められていた。「じゃあ、このこと……咲夜も知っ
Read more

第712話

千暁がこちらを見た瞬間、咲夜は小さく首を横に振った。何も言わないで、と目で合図する。今の瞳はつらくてたまらないのだ。感情をぶつけたくなるのも無理はない。それに、今回のことは確かに自分にも非があった。瞳が千暁のことをどれほど心配しているか知っていながら、その事実を隠す手助けをするべきではなかった。その点については、間違いなく自分が悪い。瞳が怒るのも当然だった。咲夜の意図は、その眼差しだけで十分すぎるほど伝わっていた。それを察した千暁は、言いかけた言葉を無理やり飲み込む。二人のそんなやり取りを見て、特に千暁が咲夜の目配せだけで大人しく引き下がったのを目にした瞳は、さっと視線を逸らした。もう二人を見る気にもなれないとばかりに、そのまま踵を返し、大股で立ち去ろうとする。「どこへ行く?」瞳の動きに気づいた千暁が、低い声で尋ねた。その声に、瞳の足がぴたりと止まる。ぎゅっと拳を握り締めたまま、瞳は千暁に背を向けて答えた。「疲れたから、帰って休みたい」嘘ではなかった。絢子に何かあったと知らされてから、瞳の心は激しく揺さぶられ続け、神経も限界まで張り詰めていた。そして絢子の死が、かろうじて彼女を支えていた最後の気力まで奪い去った。長い道のりを急いで戻ってきたうえ、精神的にもひどく消耗していた瞳は、今や空気の抜けた風船のようにぐったりとし、ひどく疲れ切っていた。その言葉を聞いて、千暁の表情もようやく少し和らいだ。だが、彼が何か言うより先に、瞳の体がふらりと傾いた。次の瞬間、彼女はふっと意識を失い、その場に崩れ落ちた。幸い、千暁が咄嗟に駆け寄って瞳を受け止め、その体を抱き上げると、そのまま救急外来へ駆けていった。瞳が倒れてしまった以上、千暁も今は咲夜にまで気を配っている余裕がない。あっという間に駆け去り、その姿は見えなくなった。あとに残された咲夜と恭介は、思わず顔を見合わせる。恭介は、どこか気まずそうな咲夜と目が合うと軽く頷き、その場の微妙な空気を和らげるように声をかけた。「手伝いましょうか?」恭介が言っているのは、咲夜の車椅子を押して、ひとまず霊安室の前から離れようかということだった。咲夜もその申し出を断らなかった。「いいの?じゃあ、お願いしてもいい?」霊安室から救急外来までは、
Read more

第713話

まだどこか信じられない気持ちが残っていたのだろう。だが霊安室で、事故で傷だらけになった母親の姿を実際に目にした瞬間、瞳の張り詰めていた心は、一気に崩れた。「目が覚めたのね。どこか具合の悪いところはない?」物音に気づいた咲夜は、瞳が目を覚ましたのを確認すると、心配そうに声をかけた。瞳が意識を失ってからというもの、咲夜はずっと気が気ではなかった。それだけに、こうして無事に目を覚ました姿を見て、ようやく胸を撫で下ろした。瞳はひどく泣いたせいで、目が赤く腫れ上がり、じんじんと痛んでいた。咲夜に気遣われても、瞳は複雑な表情で彼女を見つめるだけだった。その視線に気づいた咲夜は、やはり心配になってもう一度尋ねた。「瞳、どこか具合が悪いの?」そうかもしれないと思った途端、咲夜の表情はいっそう心配そうになった。瞳は冷淡に視線を逸らした。「別に」その返事は、あまりにも素っ気なく、投げやりだった。咲夜にもそれは分かった。彼女は何とか説明しようと口を開く。「千暁のことをすぐに瞳に話さなくて、ずっと心配させたのは私が悪かった。本当にごめん。本当は最初から話そうと思ってたの。でも、そのあとあまりにもいろんなことが立て続けに起きて、ちゃんと説明する暇もないまま、瞳が景浦市を離れてしまって……」何より、あの頃はあまりにも多くのことが一度に起こり、咲夜自身も対応するだけで精一杯だった。それどころか今になっても、咲夜は事態がどう動いているのか、すべてを把握できているわけではない。千暁のさまざまな行動から、大まかな事情を推測できる程度だった。咲夜も何度か探りを入れたことはある。だが、千暁は頑として何も話そうとしなかったため、最後には諦めるしかなかった。ところが瞳は、まるで冗談でも聞かされたかのように、皮肉な目で咲夜を見た。「話す機会がなかったんじゃないでしょ。私にはっきり打ち明けられる機会なんて、何度もあった。でも、あなたは言わなかった」それこそが、瞳が何よりも引っかかっていることだった。自分と咲夜の仲なら、何とかして話してくれると思っていた。なのに友人であるはずの咲夜は何も言わず、最後まで隠すことを選んだ。瞳は今、胸の奥に溜め込んできた感情をすべて吐き出そうとしているかのようだった。咲夜を淡々と一瞥し、静か
Read more

第714話

瞳の言葉を受け、咲夜は彼女へ視線を向けた。瞳はじっと咲夜を見つめ、一語一語噛みしめるように問いかけた。「本当に、株を遥斗兄ちゃんに売るつもりなの?」そのことは、景浦市へ戻る途中で耳にしていた。最初、瞳は咲夜が本当に株を遥斗へ売るなど信じていなかった。だが今となっては、疑わずにはいられない。咲夜は驚いた顔で瞳を見つめ、慌てて説明しようとした。「あなたが思ってるようなことじゃないの。ちゃんと説明すれば……」「じゃあ、本当なのね?」瞳は最後まで言わせなかった。咲夜を見るその目には、二人の仲が良かった頃のような親しみはもうなかった。その表情は徐々に冷え切っていく。咲夜はその冷たい眼差しを受けながら、覚悟を決めて答えた。「……そうよ」その瞬間、瞳は勢いよくベッドから飛び降り、車椅子に座る咲夜を見下ろしながら睨みつけた。「あなたが遥斗兄ちゃんに株を売ろうとしたから、母は必死になって止めようとしたのよ。そのせいであの事故が起きたの。咲夜、あなたのせいで母は死んだのよ。全部あなたのせい!」一気に感情が昂ぶり、声を荒らげた。瞳から浴びせられた非難に、咲夜は信じられない思いで彼女を見つめた。まさか、親友だった瞳が絢子の死の責任を自分に押しつけてくるとは思ってもみなかった。母親を失った瞳の苦しみは理解できる。だが、だからといって今の言い分まで受け入れることはできなかった。咲夜はできるだけ穏やかな声で言った。「その言い方は受け入れられない。絢子さんが事故に遭ったのは、私がそうさせたわけじゃない。それを私のせいにするのは違うわ」何とか冷静に話し合おうとしていた。しかし、母親を失った悲しみに沈んでいる今の瞳に、そんな理屈が通じるはずもなかった。今の彼女には、胸の内に溜まりきった苦しみをぶつける相手が必要だったのだ。そして今、病床のそばにいる咲夜が真っ先にその標的となり、瞳の怒りを一身に受けることになった。瞳は咲夜の言葉をただの言い逃れとしか受け取らず、その眼差しには、ますます強い嘲りが滲んでいった。「私が株を譲ってほしいって頼んだとき、あなたは無理だって言った。私はあなたを信じたのよ。なのに、あなたを信じた結果、私は母を失った。あなたが母を死なせたのよ。……本当に『最高の友達』ね」「友達」という言葉を口にし
Read more

第715話

瞳が今それを受け入れられるかどうかはともかく、咲夜は改めて、はっきりとそう言い切った。すると瞳は、嘲るように笑った。「人殺しが、自分から人を殺したなんて認めるわけないでしょ」その一言で、咲夜はもう何を言っても無駄だと悟った。今ここでどれほど言葉を尽くしたところで、瞳は信じてくれないだろう。咲夜は仕方なく視線を逸らし、静かな声で言った。「今のあなたは冷静じゃない。何か話すにしても、もう少し気持ちが落ち着いてからにしましょう」今の瞳はあまりにも感情的になっている。これ以上話しても仕方がないと咲夜は判断し、この話はひとまずここで終わらせるつもりだった。これ以上ぶつかり合い、長年築いてきた二人の友情に取り返しのつかない傷をつけることだけは避けたかったのだ。咲夜は二人の間に漂う険悪な空気を和らげようとしたが、瞳にその気はなかった。彼女は唇を吊り上げ、鼻で笑った。「私は十分冷静よ。私が冷静じゃないことにして逃げようとしないで。咲夜、こんなことになるって分かってたら、あのとき何があってもあなたに協力なんかしなかった。たとえ花江グループを犠牲にしてでも、お兄ちゃんを助けたいから力を貸してくれって言ったわよね。それで、結果はどうなったの?」千暁のことに触れたところで、瞳はわずかに言葉を止め、その眼差しには明らかな不満が滲んだ。そして冷たく笑い、皮肉たっぷりに続ける。「お兄ちゃんの脚は何ともなかった。それなのに二人して平然と芝居を続けて、私を騙してた。私が心配して焦ってるのを見て、さぞ楽しかったでしょうね。二人で私を笑いものにしてたんでしょ?」自分だけがまるで道化のように、何も知らず必死になっていたのだと思うと、瞳は拳を強く握り締め、その目には悔しさと怒りが溢れた。自分はあまりにも馬鹿で、あまりにも人を信じすぎていたのだ。本当に信じてしまったのだから。瞳は、そんな自分の愚かさを嘲るように笑った。その言葉は、咲夜の胸にも重く突き刺さった。どうして自分と瞳の関係が、こんなところまで来てしまったのか分からない。何より、瞳がここまで自分を疑うようになるとは、咲夜は思ってもみなかった。二人は何年も友情を育んできたはずなのに。まるで見えない手で喉を強く締めつけられているようで、咲夜は息苦しさすら覚えた。説明した
Read more

第716話

千暁と恭介が戻ってくると、目に入ったのは病室の外でじっと待っている咲夜の姿だった。千暁は足早に近づき、咲夜の前でゆっくりとしゃがみ込んだ。「どうして外にいるんだ?」咲夜の顔色は、あまりよくなかった。心配そうに見つめてくる千暁と目が合っても、咲夜はただ首を横に振るだけだった。そのとき、病室にいた瞳も外の物音に気づいた。勢いよくドアを開けると、冷淡な目で千暁を見た。「私が追い出したの」その口調には、少しの遠慮もなかった。千暁は勢いよく立ち上がったものの、瞳のひどく腫れ上がった両目を見た途端、口元まで出かかっていた叱責の言葉をすべて飲み込んだ。母親を亡くしたばかりで、気持ちが荒れているだけだと思ったのだ。もし瞳が絢子の死まで咲夜のせいにしていると知ったなら、千暁は怒りを抑えられなかったかもしれない。長兄が自分を責めようとしているのを察した瞳は、彼を見る目まで冷たくした。「悪いけど、お兄ちゃん、この人を連れて帰って。これからはこの人とは赤の他人。お互い知らない者同士ってことでいいから」その言葉に、千暁は怪訝そうに妹を見た。「瞳、お前いったいどうしたんだ?」ここでようやく、千暁も瞳の言葉に咲夜への強い恨みが込められていることに気づいた。なぜここまで咲夜を憎んでいるのか。長年の友情まで捨てるようなことを、なぜ平然と言えるのか。「私は何ともない」瞳の声は、先ほどまで泣いていたうえに再び感情が昂ぶっているせいで、聞いているほうがつらくなるほど掠れていた。恨めしそうな目で咲夜を睨みつけ、言い放つ。「お母さんがどうして死んだのか、もう知ってる。この人が株を遥斗兄ちゃんに売ろうとしなかったら、お母さんは死ななかった!」必死に怒りを抑えようとしていたものの、瞳の声は次第に大きくなっていった。咲夜を追い返すだけで済ませていること自体、今の瞳にとっては精いっぱいの自制だった。今は本当に咲夜の顔など見たくなかった。ほんの一目さえも。咲夜がここにいるだけで、彼女の決断によって自分の母親が死んだのだと思い知らされる。そして瞳自身も、咲夜に手を貸したあの日から、すでに共犯者の一人となっていた。瞳は自分自身を憎み、それ以上に咲夜を憎んでいた。千暁は顔を険しくし、瞳を叱りつけた。「株は俺が彼女に好きに処分し
Read more

第717話

ただ、まだ瞳に話す機会がなかっただけだ。「もう黙れ」畳みかけるように責め立てる瞳に、千暁は鋭い視線を向けた。苛立ちを滲ませたその目には、明らかな警告が込められている。「そんなことしか言えないなら、もう何も言うな。瞳、もう一度言っておく。母さんの死と咲夜には何の関係もない。母さんを亡くしたばかりのお前がつらいのは分かってる。だが、この件を咲夜のせいにするのは筋違いだ。これから先、彼女を悪く言うのは一言たりとも許さない。もしまた言ったら……」その先をどうするのか、千暁は最後まで口にしなかった。だが、その眼差しに宿る凍てつくような冷たさを、瞳ははっきりと感じ取った。あまりの冷たさに、瞳は思わず目を逸らした。千暁もそんな瞳の反応に気づいていたが、表情を緩めることはなかった。実際、千暁が険しい顔で黙り込むと、それだけで周囲の空気まで重苦しくなる。その変化を誰よりもはっきり感じ取っていたのは咲夜だった。唇を固く結び、何も言わずにいる千暁は、咲夜でさえ少し怖いと感じるほどだった。そう思った咲夜は手を伸ばし、千暁の大きな手をそっと包み込んだ。そして指先で彼の掌をそっとなぞった。千暁が自分を見たのに気づき、咲夜は小さく首を横に振った。その仕草だけで、千暁には咲夜の言いたいことが分かった。咲夜に無言で宥められ、千暁の怒りも少しずつ収まっていった。瞳は、そんな二人をただ黙って見つめていた。しばらく見ていたあと、瞳は歯を食いしばって口を開いた。「お兄ちゃんが彼女を庇うことに、私は何も言わない。それはお兄ちゃんの自由だから。でも同じように、誰がお母さんを死なせたと思うかは私の自由よ。お兄ちゃんに止める権利はない」瞳が言いたいことは、その言葉だけで十分伝わった。千暁がこれほど咲夜を庇う姿を見て、瞳の中ではすでに答えが出ていた。母親が死んでもなお、千暁は迷うことなく咲夜の側に立つことを選んだのだ。そう思うと、ただただ可笑しかった。そして瞳は、本当に笑った。その笑い声は、ひどく皮肉めいていた。「お兄ちゃんが咲夜を選ぶなら、もう私たちの間に話すことなんて何もない。荻野グループから身を引いてまで、咲夜を信じることを選んだんだものね。ふふ……」瞳は冷笑を浮かべた。「お兄ちゃん、これから先も
Read more

第718話

千暁には、咲夜が落ち込んでいることがはっきりと分かった。先ほどの咲夜と瞳の一触即発の雰囲気を思い出し、わずかに眉を寄せる。千暁は声を落ち着けると、咲夜に言った。「瞳が何を言っても気にするな。今はあいつも気が立ってるんだ」二人の間でどんな話をしたのかまでは分からないが、決して愉快な内容ではなかったのだろう。しかも先ほどの瞳の言葉や表情を見る限り、母親の死に関係することのようだった。彼の言葉を聞き、咲夜は唇を引き結んだまま考え込んだ。しばらくして、ようやく小さく頷く。「うん」絢子が亡くなった以上、千暁にはこれからやらなければならないことが山ほどある。咲夜も、自分のことで彼を煩わせるつもりはなかった。そもそも瞳との間に生じた問題は、一朝一夕に解決できるようなものでもない。それなら今は、千暁には絢子の葬儀やその後の手続きに専念してもらったほうがいい。咲夜が予想したとおり、それから数日間、千暁は絢子の葬儀の準備に追われ続けた。咲夜と瞳の連絡も途絶えた。咲夜が知っているのは、あの日のあと瞳が退院手続きを済ませ、千暁のそばで葬儀の準備に奔走しているということだけだった。その間、兄妹の間ではかなり激しい口論もあったらしい。瞳が感情に任せてひどい言葉を口にし、普段は彼女をとても可愛がっている千暁が、とうとう瞳の頬を平手で打ったという。しかも咲夜が聞いたところでは、その喧嘩の原因はどうやら自分にあるらしい。咲夜はスマートフォンを手にしたまま、千暁にメッセージを送るべきか、それとも電話をかけるべきか迷っていた。もう二日半も彼に会っていない。病室には星奈が付き添っていた。スマートフォンを見つめたまま悩んでいる咲夜を見て、星奈がそっと声をかける。「千暁さんにメッセージを送るか、電話しようか迷ってるの?」ここ数日、咲夜を見舞いに来るたび、星奈は彼女がずっと上の空でいることに気づいていた。咲夜はスマートフォンをしまうと、星奈に小さく笑いかけた。「ううん、何でもない」それを聞いた星奈は、咲夜のそばに腰を下ろした。「だったら、最近あったことを私に話してみない?毎日そんなに落ち込んでるのを見てると、私までつらくなるよ」その言葉に、咲夜は驚いたように彼女を見た。まさか星奈が、自分の気持ちの変化に気づいていたと
Read more

第719話

「瞳さんはしばらくの間、悲しみでいっぱいだろうし、気持ちの整理がつかないのも無理ないよ。もう少し時間が経って、気持ちが落ち着けばきっと大丈夫。もちろん、これはあくまで私の意見だからね。咲夜さんと瞳さんがどんな関係を築いてきたのか、私にはそこまで詳しく分からないし」そこまで言うと、星奈は少し気まずそうに咲夜を見た。咲夜と瞳は長い付き合いだ。そんな二人の友情について、星奈があれこれ口を挟むのは気が引けた。星奈の助言を、咲夜は素直に受け止めた。互いにこの友情を大切に思っているからこそ、相手から投げつけられたきつい言葉が気になってしまうのだ。もしかすると星奈の言うとおり、今は少し時間を置き、互いに距離を取ることも、この友情にとって決して悪いことではないのかもしれない。咲夜は感謝を込めて星奈を見た。「ありがとう」そう言われると、今度は星奈のほうが照れくさそうな顔をした。結局、咲夜は瞳に電話をかけなかった。夕方近くになり、リハビリを終えて病室へ戻った咲夜は、思いがけず千暁の姿を見つけた。黒いスーツに身を包んでいた。その後ろ姿を見ただけで、咲夜には千暁がひどく疲れていることが分かった。ほとんど同時に、千暁も咲夜が戻ってきたことに気づいた。振り返り、咲夜を見た。目はひどく充血しており、一目見ただけで、ここ数日まともに眠っていないことが分かる。そんな千暁の姿を見て、咲夜は胸が痛んだ。車椅子を動かし、千暁のそばまで近づいた。すると彼は咲夜の前でゆっくりとしゃがみ込み、そのまま頭を彼女の膝の上に預けた。何も言わない。この数日、絢子が亡くなったあとのさまざまな手続きに追われ、そのうえ時折、感情を爆発させる瞳にも対応しなければならず、千暁は心身ともにかなり疲れ切っていた。咲夜は手を伸ばし、彼の髪を優しく撫でた。「少しは落ち着いたの?今日はどうしてここに来る時間があった?」千暁が忙しいことは分かっていた。忙しすぎて、ときには咲夜からのメッセージに返信することさえ忘れてしまうほどだった。思い出して返信する頃には、すでに深夜か明け方になっていることも珍しくない。毎朝目を覚まして彼からの返信を見つけ、その送信時刻を確認するたび、咲夜は今返信して彼を起こしてしまわないかと迷っていた。千暁は手を伸ばし
Read more

第720話

咲夜は不思議そうに目を瞬かせた。「遺言?」絢子は、ずっと前から遺言を用意していたということだろうか。千暁は頷いた。「かなり前に作ってあったらしい」絢子名義の事業はそれほど多くなく、その大半はすでに天志の名義に移されていた。それでも、彼女が保有しているファンドや信託財産だけでも相当な価値がある。ほかにも本人名義の不動産や車、配当収入のある投資資産などがあり、すべて合わせれば決して小さな額ではなかった。咲夜は千暁の話を聞いても、それ以上尋ねなかった。絢子の遺言に何が書かれていようと、咲夜にとっては特に関心のあることではない。今の彼女が心配しているのは、千暁のことだけだった。咲夜は千暁の体を少し離すと、両手で彼の頬を包み込み、血走った目をじっと見つめた。「何日もちゃんと寝てないんじゃない?目が真っ赤だよ」そう言いながら、また胸が痛んだ。心配そうな咲夜の眼差しを受け、千暁は正直に答えた。「毎日少しは仮眠してる。ただ、やることが多すぎて」しかも、どれも頭を悩ませることばかりだった。絢子が亡くなると、すぐに絢子の実家である黒澤家にも知らせを入れた。だが、誰一人として来ようとはしなかった。かつて絢子は、天志から長年にわたって精神的な虐待を受ける中で黒澤家とも激しく対立し、すでに縁を切っていた。そのため、黒澤家からは今に至るまで誰一人として姿を見せておらず、黒澤家側も絢子とは何の関係もないとはっきり言い切っている。千暁が何度人を介して連絡を取ろうとしても、返ってくる答えは一貫して同じだった。人が亡くなれば、すべてはそこで終わる。黒澤家からは誰一人として姿を見せず、絢子の見送りはどこか寂しいものとなった。だが千暁にも、黒澤家の人間の気持ちまで変えることはできない。結局、この件については諦めるしかなかった。そして、もう一つの悩みの種が瞳だった。絢子が亡くなってからというもの、瞳の精神状態はずっと不安定なままだ。千暁と顔を合わせるたびに取り乱し、彼を指差して怒鳴りつける。母親を死に追いやった人間を庇っている、と。一方の天志は、顔すら見せなかった。まるで亡くなったのが、自分とは何の関係もない赤の他人であるかのように。何十年も連れ添ってきた妻が亡くなったというのに、その態度はあまりにも
Read more
PREV
1
...
7071727374
...
91
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status