不仲と噂された財閥夫婦ですが、今夜も愛されています のすべてのチャプター: チャプター 141 - チャプター 150

182 チャプター

第142話

一方、ノヴァ・テクノロジーズでは――。重厚な扉に守られた社長室の中で、レオン・クロフォードは自分のデスクの前にゆったりと腰を下ろしていた。室内は洗練された高級感に満ちており、壁一面のガラス窓からは都市の景色が一望できる。だがその贅沢な空間の中心にいる男の雰囲気は、どこか冷え切っていた。レオンは腕を組み、無言のまま時を待っていた。エージェントからの報告が入るはずの時間は、もうすぐそこまで迫っている。今回のロケット打ち上げプロジェクトの入札状況――その中間報告が届くことになっていた。先日、一条竜星が競合他社へ売ろうとした情報など、レオン・クロフォードにとっては取るに足らないものだった。あの程度の情報で揺らぐほど、自分の企業は脆弱ではない。だが――。一条竜星が、自分に楯突いた。その事実だけは、決して見過ごせなかった。だからこそ、レオンはあの時、「一億ドルを払え」と言い放ったのだ。もっとも、その金額自体に意味などない。レオン・クロフォードにとって、一億ドルなどという金額は、気まぐれな夜の遊びでさえ使い切れる程度のものに過ぎない。ふと、その時の一条竜星の表情が脳裏に蘇る。青ざめ、今にも泣き出しそうな顔。追い詰められ、必死に言葉を絞り出そうとする様子。それを思い出し、レオンは口の端をわずかに上げた。今のあの男にとって、一億ドルなど到底払える額ではない。だが同時に、それは命を絶つほど絶望的な金額でもない。だからこそ面白い。追い詰められながらも足掻き、どうにかしようとするだろう。その過程で、どんな醜態を晒すのか――。レオンにとっては、その“過程”こそが最大の娯楽だった。そしてもう一つ、興味を引く存在がある。一条竜星の娘、櫻羅。レオンは無意識に指で机を軽く叩きながら、その名を頭の中で反芻する。あの少女の姿を思い浮かべると、自然と薄い笑みが浮かんだ。日本人は英国人よりも小柄で華奢だ。壊れそうなほど繊細で、そのくせどこか芯がある。「しばらく自分の元に飼っておいて、飽きたら売ってしまおうか……」そんな考えが、何の躊躇もなく浮かぶ。そして、自分自身でその発想を楽しむように、低く呟いた。「それも面白い」レオン・クロフォードはゆっくりと立ち上がると、窓辺へと歩み寄った。眼下には、無数の人間たちが行き交っている。このビルのはるか下で、金も権力も持
last update最終更新日 : 2026-04-30
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第143話

レオン・クロフォードはゆっくりと椅子にもたれかかり、指先でデスクを軽く叩いた。その動作には、次の“遊び”を思いついたとき特有の、わずかな高揚がにじんでいる。やがて内線を取り、秘書を呼び出した。「一条櫻羅を連れて来い」短く、命令だけを告げる。呼び出された秘書はすぐに現れたものの、その言葉に一瞬だけ動きを止めた。わずかな沈黙のあと、恐る恐る口を開く。「社長、あの女はもういらないと仰っておられませんでしたか?」慎重に言葉を選びながらの問いだった。機嫌を損ねれば何が起こるかわからない。しかしレオンは、不敵な笑みを浮かべたまま、あっさりと答える。「私も久しく女が居ない。しばらく玩具にして、飽きたらどこかへ売ればいい」その言葉には、ためらいも躊躇も一切なかった。秘書は目を丸くし、ほんの一瞬だけ言葉を失う。だがすぐに表情を整えると、何も言わずに一礼した。「……かしこまりました」そうして静かに部屋を後にする。背中には、わずかな緊張と不安が張り付いていた。レオンは再び一人になると、葉巻を手に取り、火をつけた。ゆっくりと煙を吐き出しながら、思考を巡らせる。脳裏に浮かぶのは、一条櫻羅の姿だった。細く、しなやかな体。どこか儚げで、それでいて芯のある瞳。レオンは目を細める。いくら冷血漢と呼ばれようと、彼もまた一人の男だった。理性とは別の場所で、欲望が静かに膨らんでいく。たまには――。若い肢体を、自分の思いのままにしてみたい。そんな衝動が、ゆっくりと胸の奥から湧き上がっていた。煙が天井へと消えていく。レオンはそれを眺めながら、わずかに笑みを深めた。――その頃。ヴァルハイト国際医療センターを退院した櫻羅と悠臣は、病院に隣接するホテルへと案内されていた。このホテルは、入院患者を支える家族や関係者のために設けられた特別な施設であり、病院の三階部分と連結廊下でつながっている。医療と生活が一体化したような設計だ。三階の連結廊下を渡ると、すぐにホテルのロビーへと出る。そこは落ち着いた照明と上質な調度品に囲まれた、静かで洗練された空間だった。櫻羅と悠臣が歩いていくと、ロビーのソファに座っていた三人の姿が目に入る。叶翔、英士、颯太だ。三人ともどこか退屈そうに時間を潰していたが――櫻羅の姿を見つけた瞬間、空気が変わった。叶翔がすぐに立ち上がり、大股で歩み
last update最終更新日 : 2026-05-01
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第144話

全員が一斉に振り返る中、櫻羅の姿に気づいた綾乃は、玲司の腕からすっと離れ、柔らかな足取りで近寄ってきた。その表情には警戒や威圧感は一切なく、むしろ安心させるような穏やかな笑みが浮かんでいる。「あなたが櫻羅ちゃんね?」優しくそう声をかけながら、綾乃はまっすぐに櫻羅を見つめた。突然のことに、櫻羅はわずかに肩を強張らせる。緊張した面持ちで、思わず叶翔の顔を見やり、どう応じればいいのかを確認するような視線を送る。だがすぐに意を決したように姿勢を正し、丁寧に頭を下げた。「一条櫻羅と申します。よろしくお願いいたします」その礼儀正しさに、綾乃はほんの少し目を細める。そして櫻羅の肩にそっと手を置き、優しく言った。「そんなにかしこまらないで、ソファに座って話しましょう」その言葉には、自然と人を安心させる力があった。促されるまま、櫻羅はソファへと腰を下ろす。まだ少し緊張は残っているものの、どこかほっとした様子も見える。綾乃はふと壁に掛けられた時計へと視線を向けた。「もう食事は済んだの?」そう言いながら時刻を確認し、小さく頷く。「ちょうどランチの時間ね、積もる話もあるし、何かテイクアウトしてきてちょうだい」そう言って、叶翔たちに視線を送る。その言葉に真っ先に反応したのは颯太と英士だった。二人は同時に手を挙げ、声を揃える。「僕らが行ってきます!!」勢いよくそう言うと、そのまま部屋を飛び出していった。扉が閉まる音が、少しだけ賑やかさを残して消える。部屋には、玲司と綾乃、そして叶翔、櫻羅、悠臣の五人が残された。自然とテーブルを挟む形で向かい合い、それぞれが席に着く。玲司はゆっくりと視線を動かし、叶翔と悠臣の顔を交互に見た。その目は鋭く、状況を正確に把握しようとする意思がはっきりと表れている。そして、低く落ち着いた声で口を開いた。「先日の夜、お前たちがケガをしたり連れ去られた時のことを、詳しく話してもらおう」その言葉を受け、叶翔と悠臣は顔を見合わせ、すぐに説明を始めた。あの夜の出来事――。突然現れた暴漢、激しい衝突、抵抗、そして連れ去られそうになった状況。二人は身振り手振りを交えながら、できるだけ正確に伝えようとする。時折、当時の緊迫した空気を思い出したのか、言葉に力がこもる。櫻羅はその様子を黙って聞いていた。自分の気づかなかった場面が語
last update最終更新日 : 2026-05-01
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第145話

叶翔たち五人が押し黙る中、重く沈んだ空気を破るように、櫻羅がゆっくりと口を開いた。「みんなが私を助けようとしてくれたんです」その声は決して大きくはなかったが、はっきりとした意志が込められていた。玲司は静かに櫻羅へと視線を向ける。その眼差しは鋭く、まるで真実を見抜こうとする刃のようだった。櫻羅はその視線を真正面から受け止めた瞬間、胸が締め付けられるような感覚に襲われ、思わず俯いてしまう。鼓動が速くなるのが自分でもわかる。だが――。逃げてはいけない。そう自分に言い聞かせるように、再び顔を上げた。「ノヴァ・テクノロジーズのパーティーで、久しぶりに颯太に会いました。私たちはいとこですが、子どもの頃以降、ほぼ会ったことがありませんでした。でも、私がレオン・クロフォードの婚約者と聞いて、颯太が私をレオンの所から逃がしてくれたんです」言葉を選びながらも、途切れることなく話し続ける。その姿には、必死さと、どこか覚悟のようなものがにじんでいた。そのとき――。「オジサン、俺はレオン・クロフォードに聞いたんだ。本当に櫻羅を妻にする気があるのかって。アイツはいらないから連れて帰れと言った。なのに、後になってから、連れ去られたと俺たちを追い始めたんだよ」颯太が堪えきれずに口を挟んだ。声には苛立ちが混じっている。あの時の理不尽さを思い出したのか、拳を軽く握りしめていた。櫻羅はその言葉に一瞬だけ颯太の方を見たが、すぐに視線を戻し、再び話を続ける。「私の父、一条竜星の事業は行き詰っています。資金繰りに苦しみ、私をレオンに嫁がせることで、レオンと親戚関係を結び、資金援助をさせようとしていました。でも、私は……」そこまで言って、言葉が途切れた。喉の奥に何かが引っかかるような感覚。続けようとしても、声が出ない。部屋の空気が一層重くなる。玲司はゆっくりと身を乗り出した。膝の上に肘を置き、組んだ両手で顎を支えながら、じっと櫻羅を見据える。その姿勢は一見穏やかだが、内に秘めた圧力は強い。「お前は一人娘だ。一条竜星が、あの冷酷な『レオン・クロフォード』に嫁がせようとするとは、よほど追い詰められているとしか考えられないが、親子関係が良好ではなかったのか?」その問いは、核心に触れていた。櫻羅の肩がわずかに震える。視線を落とし、唇を噛むが、言葉は出てこない。胸の奥にあ
last update最終更新日 : 2026-05-02
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第146話

綾乃は、ふと玲司と視線が合うと、そのままゆっくりと玲司の腕に手を伸ばした。触れた指先には迷いがなく、まるで確信をそのまま形にしたような仕草だった。そして柔らかな微笑みを浮かべながら、何も言わずに想いを伝える。――「あなたを疑ったことは一度もないわ」そう語りかけているかのような、穏やかで揺るぎない表情だった。その空気に、わずかに張り詰めていた場の緊張が、ほんの少しだけ緩む。すると、それまで黙っていた英士が、意を決したように口を開いた。「オジサン、すみません。でも、櫻羅のお父さんはずっと櫻羅を虐げていました。しかも、DNA検査をすれば解決するのに、二十四年間、検査には同意しなかったそうなんです。だから、櫻羅と一条竜星、櫻羅と叶翔のDNAの比較テストをうちの関係の研究所で行いました」その言葉には、どこか悔しさと怒りが混じっていた。英士はそう言いながら、二枚の書類を取り出し、静かに玲司の前へ差し出す。玲司は無言でそれを受け取ると、視線を落とし、ゆっくりと内容を確認した。紙に記された結果は、明確だった。一条竜星と櫻羅は、99.99% 親子であろう。一方、叶翔と櫻羅の肉親関係である可能性は0%だった。しばしの沈黙。玲司はその紙を静かにテーブルへ置くと、小さく息を吐いた。遠い記憶が、ゆっくりと蘇る。ずいぶん昔のことになるが――玲司と沙耶は、結婚するものだと周囲に思われていた時期があった。正式に婚約したわけではない。だが、財閥や政界の間では、九条家と南條家の婚姻は既定路線のように語られていた。しかし、玲司の中でその未来は最初から存在していなかった。彼の中で、自分の妻になるのはただ一人――『鷹宮綾乃』だけだと決めていたからだ。南條沙耶がどれほど近づこうと、どれほど誘惑しようと、玲司は一切心を動かさなかった。あの日のことも、はっきりと覚えている。綾乃の件で、一条竜星に会うため、この国へやって来たとき。あの時、竜星に対しても、はっきりと告げたはずだった。「俺は綾乃のためにしか動かない」と。玲司はその記憶を辿りながら、ゆっくりと綾乃の顔を見た。その表情は、どこか沈んでいる。普段のような余裕や柔らかさがわずかに影を潜めていた。それに気づいた綾乃は、そっと玲司の手を取り、優しく微笑んだ。その微笑みは、過去も現在も、そしてこれからも変わら
last update最終更新日 : 2026-05-03
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第147話

圭も思わず息を呑み、驚いたように玲司の顔を見た。「調査していたのか?」低く問いかける声には、半信半疑と、どこか納得しかけている響きが混じっている。玲司はその視線を受け止め、静かに頷いた。「ああ。昨日、アシスタントが報告してきた。竜星は、今回のロケットプロジェクトの調査結果、数字データなどを、ノヴァ・テクノロジーズの競合企業『セレスティア・ディープスペース・インダストリーズ』へ、売ろうとしていたんだ」淡々と語られるその内容に、部屋の空気が一瞬で変わった。全員の視線が、一斉に玲司へと向けられる。英士も颯太も、悠臣も、そして叶翔も――言葉を失ったように固まっていた。櫻羅もまた例外ではなかった。目を見開き、信じられないものを見るかのように玲司を見つめている。やがて、かすれるような声で問いかけた。「私のことだけじゃなかったんですか……」その言葉には、どこか安堵と絶望が入り混じっていた。玲司はその問いに対して、迷うことなく頷いた。「櫻羅のことだけじゃない。このデータをノヴァ・テクノロジーズに提供せず、セレスティアへ提出し、大金で買ってもらおうとしていた。それがレオン・クロフォードの耳に入り、裏切ったと思われたんだ。だが、たかが一億ドル……日本円で105億円ちょっとの金すら、今の一条には用意できない。レオン・クロフォードの性格からして、一条竜星を弄んでいるだけにしか見えんな。データをノヴァ・テクノロジーズから盗んだわけでもなく、結婚しても無い櫻羅が逃げたくらいで金銭の要求など、普通はできないだろう」理路整然とした説明だった。だがその一つひとつが、竜星の置かれている状況の深刻さを物語っている。玲司はそこでわずかに口の端を上げ、冷ややかな笑みを浮かべた。「レオン・クロフォード。ただの歪んだ思想の持主だということだな」その言葉には、軽蔑がはっきりと込められていた。誰もすぐには言葉を返せない。櫻羅は俯き、膝の上で手を握りしめる。父のこと、そして自分のこと――様々な感情が胸の中で渦巻いていた。――その頃。レオン・クロフォードの配下にあるボディーガードたちは、一条櫻羅の行方を必死に追っていた。しかし、その捜索は難航している。レオンの秘書には三日前の時点で、櫻羅と悠臣が何者かに奪還されたことは報告されていた。だが、その情報はレオン本人には伝え
last update最終更新日 : 2026-05-03
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第148話

一条邸の重厚な書斎では、落ち着きのない足音が途切れることなく響いていた。一条竜星は、苛立ちを隠そうともせず、部屋の中を行ったり来たりしている。分厚い絨毯が足音を吸収しているはずなのに、その動きには焦燥がにじみ出ていた。机の上には書類が山積みになっているが、どれも手につかない。思考はひとつのことに支配されていた。――櫻羅はどこだ。その感情が限界に達したとき、竜星は近くに控えていた秘書に怒鳴りつけた。「櫻羅は見つかったのか!?」突然の怒声に、秘書は一瞬身をすくませる。「い、いえ……現在も捜索を――」言い終える前に、竜星は机の上の書類を掴み、次々と床へ投げつけた。紙が宙を舞い、バラバラと散らばる。それでも怒りは収まらない。手当たり次第に物を投げることで、どうにか内側の苛立ちを吐き出そうとしているようだった。そんな荒れた空気の中、書斎のドアが静かに開く。入ってきたのは沙耶だった。その姿に気づいた竜星は、苦虫を噛み潰したような顔のまま視線を向ける。「何か言いたいことでもあるのか?」刺すような言い方だった。だが沙耶は、その言葉に対してわずかに苦笑を浮かべる。「言いたいことだらけなのは、あなたが一番よくわかっているんじゃないの?」落ち着いた声音でそう返しながら、ゆっくりとソファへ腰を下ろした。竜星の怒りに歪んだ表情を、真正面から見据える。しばしの沈黙のあと、沙耶は口を開いた。「竜星、櫻羅は本当にあなたの子供よ。いつになったら私の言うことを信じるのよ」その言葉には、長年積み重なった疲れと諦めが滲んでいた。沙耶は竜星の顔を見つめながら、小さく息を吐く。そして言葉を続ける。「レオン・クロフォードは業界でも有名な冷血漢なのよ。櫻羅をお嫁にやったら、あの子がどんな目に合うか、想像するだけで恐ろしいわ。それよりも、レオン・クロフォードに渡さなくてはならないお金が居るのなら、兄さんが言ったように、私たちの資産をお金に替えましょう」その提案は現実的で、逃げ道を示すものだった。だが――。竜星は一瞬、何を言われたのか理解できないという顔をした。そして、唖然としたまま口を開く。「お前が家も土地も、宝石も売らないと頑固に言っていたから、俺は苦労して………」その言葉には、これまでの不満と苛立ちが込められていた。しかし沙耶は、その言葉を遮るよ
last update最終更新日 : 2026-05-04
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第149話

このホテルの一階と二階には、入院患者やその家族の生活を支えるための商業施設が整っており、三階以上が宿泊フロアとなっていた。過度な華やかさはないが、清潔で落ち着いた空間が広がっている。エレベーターでゆっくりと階下へ降りると、扉が開いた瞬間に、柔らかな照明と穏やかな音楽が迎えてくれた。綾乃は迷うことなく櫻羅の手を軽く引き、ブティックへと入っていく。そこに並んでいるのは、いわゆる高級ブランドではなく、日常的に使えるシンプルで機能的な衣類ばかりだった。病院に隣接していることもあり、利用者の多くが「すぐに必要なものを揃える」ことを目的としているからだ。だが――。櫻羅にとっては、それでも十分に新鮮だった。店内を見渡しながら、目を輝かせる。ハンガーに掛けられた洋服を一着手に取り、そっと広げてみる。その仕草には、どこか遠慮がちな慎重さがあった。「櫻羅ちゃん。当面、家に戻れないかもしれないから、何着か買っておきましょう。気に入ったのがあれば、言ってね」綾乃は優しく声をかける。櫻羅は小さく頷いた。だが――どれを選べばいいのか、わからなかった。これまで自分の意思で何かを選ぶ機会が、ほとんどなかったのだ。幼い頃から、身につけるものはすべて使用人が用意していた。好き嫌いを問われることもなく、ただ与えられたものを着るだけの毎日。だから「選んでいい」と言われても、どうしていいのか分からない。手に取った服を戻し、また別のものを見るが、結局決められずにいる。そんな櫻羅の様子を見て、綾乃はすぐに察した。何も言わずに数着の服を選び取り、そのまま櫻羅の手を引いて試着室の前へと連れていく。「中に入って着替えてみなさい」その言葉に、櫻羅は少し戸惑いながらも頷き、試着室へ入った。静かな空間の中で服を着替え、鏡の前に立つ。――驚いた。ただ服を変えただけなのに、そこに映っている自分は、まるで違う人間のように見えた。胸の奥が、少しだけ温かくなる。試着室のドアを開けると、すぐ目の前で綾乃が待っていた。櫻羅の姿を見ると、綾乃は嬉しそうに笑みを浮かべて言った。「櫻羅ちゃん、とってもきれいよ。さぁ、こっちの服も着てみて」そう言って、また一着、優しく手渡してくれる。櫻羅はそのたびに試着室へ戻り、何度も着替えた。一着ごとに違う自分に出会うようで、不思議な気持ちになる。やがて
last update最終更新日 : 2026-05-04
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第150話

ロイヤルスイートの部屋に残された男たちは、それぞれソファや椅子に腰かけながらも、誰一人として気を緩める様子はなかった。先ほどまでの穏やかな空気とは打って変わり、室内には重く張り詰めた緊張感が漂っている。テーブルの上には飲みかけのコーヒーやバーガーの包み紙が残っているが、それに手を伸ばす者はいない。誰もが、これからどう動くべきかを考えていた。その沈黙を破ったのは、神無月悠臣だった。「父がノヴァ・テクノロジーズへの融資を止めました。今後、レオン・クロフォードから報復をされる恐れがあるのはうちではないかと思っています」静かながらも、はっきりとした口調だった。その言葉に、場の空気がさらに引き締まる。一ノ瀬英士は、少し姿勢を正すと、玲司へ向けて報告するように続けた。「ノヴァ・テクノロジーズのロケットプロジェクトへの参加資格が危ぶまれています。ノヴァ・テクノロジーズには輸出管理・安全保障関連法違反の履歴があり、 Export Control Order 2008 に基づく違反歴が取りざたされています。そして、その違反に関し、Space Industry Act 2018 に基づくライセンス取得に対する、安全基準の遵守違反を問われる可能性があり、今回の入札から外されるのではないかと懸念されているようです」淡々とした説明だったが、その内容は決して軽いものではなかった。玲司は英士の顔をじっと見つめ、低く問いかける。「それは、この前のプレゼンの時からわかっていたことなのか?」英士はすぐに首を横に振った。「いえ、プロジェクト委員会がプレゼンが終わってから調べだした情報のようです。最近になって、ノヴァ・テクノロジーズが外されるかもしれないと、知人から情報が入ってきました」その説明を聞くと、南條圭が腕を組みながら満足そうに頷いた。「ノヴァ・テクノロジーズがコンプライアンス違反で外されれば、九条が落札できる可能性が高まるな」現実的な見方だった。だが――玲司の表情は、それほど明るくはならなかった。そもそも今回のロケットプロジェクトについて、玲司は最初から「必ず落札するべき案件」とは考えていなかった。仮に取れなくても、叶翔たち若い世代にとっては大きな経験になる。それだけで十分な価値があると考えていた。しかし状況は変わりつつある。ノヴァ・テクノロジーズが脱落す
last update最終更新日 : 2026-05-05
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第151話

レオン・クロフォードのボディーガードたちは、ホテル内の人の流れに紛れながら、周囲に気を配っていた。視線をあからさまに向けることなく、しかし確実に目的の人物を探し続ける――その動きは訓練された者のそれだった。やがて、その一人がわずかに目を細める。エスカレーター近く、ブティックの前。そこに見覚えのある顔があった。九条綾乃――そして、その隣にいる少女。「見つけた……」低く呟いた男は、すぐに仲間へ合図を送り、さりげなく位置を調整する。完全に包囲するわけではない。ただ“監視”の形を保ったまま、距離を取る。その中の一人が、静かに携帯電話を取り出した。レオンの秘書へと繋ぐ。「一条櫻羅を見つけました。しかし……九条の妻と一緒です。ここは一旦、様子を見ます」それだけを伝えると、相手の返答を待たずに通話を切った。余計な言葉は不要だった。状況は十分に伝わっている。ボディーガードたちが静かに見守る中、エレベーターの扉が開き、一人の青年が姿を現す。九条叶翔だった。まっすぐに綾乃と櫻羅のもとへ歩み寄り、自然な動きで二人のそばに立つ。その立ち位置には、明確な“守る意思”があった。それを見たリーダー格の男は、わずかに眉をひそめる。「九条が一緒では手出しができないな……」低くそう言うと、周囲に気づかれないように静かに体の向きを変えた。無理に動けば、確実に衝突になる。そしてそれは、今の状況では得策ではない。だが――。一条櫻羅がこのホテルに滞在していることは、これで確実になった。あとは機会を待つだけだ。しかし、叶翔があれほどまでに張り付くように側にいる以上、容易に攫える相手ではない。リーダーは短く息を吐いた。「一旦撤収するぞ」その言葉に、他のボディーガードたちも無言で頷く。彼らは人目を避けるようにして移動し、数人ずつに分かれながら、自然な流れでホテルの出口へ向かった。屈強な男たちが何人か、一階へ降りる階段を降りていく。その姿を、綾乃はさりげなく目の端で追っていた。視線は一瞬だけ。だが確実に“異質”な存在として捉えていた。一方で、叶翔も櫻羅も、その異変には気づいていない。追いついてきた英士と颯太と合流し、何気ない冗談を交わしながら笑っている。その光景は、どこか穏やかで――だからこそ、綾乃の中にある警戒心が際立った。綾乃は静かにスマートフォ
last update最終更新日 : 2026-05-05
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