All Chapters of 不仲と噂された財閥夫婦ですが、今夜も愛されています: Chapter 121 - Chapter 130

184 Chapters

第122話

一条家の重厚な門の前に、タクシーが静かに停まった。叶翔が先に降り、続いて櫻羅が足を地面につける。夜の空気はひんやりとしていたが、櫻羅の胸の内は、それ以上に張り詰めていた。目の前には見慣れたはずの自宅の玄関。だが今は、そこがまるで別世界への入口のように感じられる。櫻羅は玄関のドアを見つめ、大きく息を吸った。胸の奥に溜まっていた不安や恐れを、無理やり押し込めるように。その背中に、そっと手が添えられる。叶翔だった。言葉はなかったが、その手の温もりが「大丈夫だ」と語っていた。櫻羅は小さく頷き、叶翔に支えられるようにして門の中へ入って行こうとした――その時だった。背後から、低く滑り込むようなエンジン音。振り返る間もなく、黒塗りの車が二人のすぐ後ろに停まった。ドアが乱暴に開き、複数の男たちが一斉に降りてくる。異様な気配。叶翔が反応するよりも早く――一人の男が背後から叶翔の頭部を拳で殴りつけた。鈍い衝撃が走り、視界が一瞬白く弾ける。「っ……!」意識が揺らぐ。それでも叶翔は膝をつかず、歯を食いしばって踏みとどまった。その揺れる視界の端で――櫻羅の腕が乱暴に掴まれ、車の方へ引きずられていくのが見えた。「やめろ……!」叶翔はふらつく足で一歩踏み出す。だが次の瞬間、目の前に立ちはだかった男の拳が、容赦なく左頬を打ち抜いた。衝撃で頭が揺れる。しかし――それが逆に叶翔の意識をはっきりとさせた。(倒れるな……!)叶翔は間髪入れず、自分の拳を振り抜いた。目の前の男の顔面を捉え、そのまま体勢を崩させる。道を開くと、すぐに櫻羅の方へ向かおうとした。だがその時。「――っ!」別の方向から駆け込んできた影があった。遅れてタクシーから降りてきた悠臣だった。悠臣は迷うことなく、櫻羅を車に押し込もうとしていた男の腕を掴み、そのまま勢いよく殴り倒した。「櫻羅ちゃん、こっち!」その声と同時に、悠臣は櫻羅を自分の背に庇う。だが、状況はさらに悪化していく。もう一台の黒い車が急停止し、追加の男たちが降りてきたのだ。その手には――鉄の棒。「……くそっ!」叶翔が構える間もなく、男たちは一斉に襲いかかってきた。鈍い音が夜に響く。鉄の棒が振り下ろされ、叶翔の肩や背中を容赦なく打ち据える。悠臣もまた同様に攻撃を受けながらも、決して櫻羅から手を離さ
last updateLast Updated : 2026-04-16
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第123話

夜の静寂を切り裂くように、救急搬入口の自動ドアが開いた。叶翔が運ばれた病院へ、英士と颯太は息を切らしながら飛び込んで行った。二人の顔には焦りと恐怖が色濃く浮かんでいる。警察から連絡が入ったのはつい先ほどだった。救急隊が叶翔のスマホを確認し、最終履歴から一ノ瀬英士へと連絡が来たのだ。「こちらです!」案内された救急室の中に入った瞬間――二人の足が止まった。ベッドの上に横たわる叶翔の姿。頭部には包帯が巻かれ、顔には殴打の痕が生々しく残っている。乾ききっていない血の跡が、どれほど激しい暴力を受けたかを物語っていた。「……っ」英士は息を呑み、颯太は言葉を失ったまま立ち尽くす。これまでどんな場面でも余裕を崩さなかった叶翔が、こんな姿で横たわっている――その現実が、二人の胸を強く締め付けていた。その後、レントゲン撮影のために一度運び出され、戻ってきた叶翔を見下ろしながら、医者から詳細な説明を受ける。命に別状はない。だが、頭部への強い衝撃により、しばらくは意識が戻らない可能性もある。その言葉を聞いた瞬間、英士はすぐにスマホを取り出した。迷うことなく、九条家へ電話を掛ける。コール音がやけに長く感じられた。やがて繋がる。電話口に出たのは綾乃だった。英士が状況を伝えると、受話器の向こうで息を呑む気配が伝わってくる。「……そんな……」今にも倒れそうな声。それでも気力を振り絞るように、綾乃は言葉を続けた。「玲司も今、そっちに向かっているわ」それだけを告げるのが精いっぱいだった。それから――長い時間が流れた。一昼夜。昏睡状態のまま、叶翔は眠り続けていた。そして。ゆっくりと、瞼が震える。ぼやけた視界の中、最初に映ったのは――ベッドの横で、額を揉みながら座る父の姿だった。九条玲司。いつも冷静で、隙のない男。だが今、その顔には明らかな疲労と、深い憔悴が刻まれていた。「と、父さん……」かすれた声で呼びかける。その声に、玲司は顔を上げた。一瞬、信じられないものを見るような目。そしてすぐに、確かな安堵が滲む。「叶翔……無事だったか……」その声は、いつもの冷たさを失っていた。叶翔は、その父の表情に驚いた。こんな顔を見るのは初めてだった。胸の奥が、じんわりと痛む。「心配かけて、ごめん」自然とこぼれた言葉。その瞬間――
last updateLast Updated : 2026-04-17
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第124話

重たい沈黙に包まれた部屋だった。厚手のカーテンは閉ざされ、外の光も音も遮断されている。広さだけ見れば高級ホテルの一室であることは明らかだが、その静けさはどこか異様で、まるで時間が止まってしまったかのようだった。櫻羅はベッドの脇に座り、じっと悠臣の顔を見つめていた。眠っている――いや、気を失っている悠臣の顔には、殴打の痕がはっきりと残っている。頬は腫れ、唇の端には乾いた血の跡があった。その姿を見るたびに、胸の奥が締めつけられる。(私を庇ったせいで……)あの瞬間が、何度も脳裏に蘇る。自分を守ろうとして、何度も殴られ、それでも手を離さなかった悠臣の姿。櫻羅はそっと手を伸ばし、悠臣の指先に触れた。温かい。その温もりに、少しだけ安心する。その時だった。不意に、悠臣の指が微かに動いた。「……っ!」櫻羅は思わず身を乗り出す。悠臣のまぶたがゆっくりと震え、かすかに開いた。「悠臣くん!」思わず声が漏れる。悠臣はぼんやりとした視線で天井を見つめ、やがて焦点が合っていく。「櫻羅……ちゃん?」その声はかすれていたが、確かに意識が戻っていた。櫻羅は何度も頷いた。「うん、うん……!」その目には涙が溢れている。「よかった……もう目が覚めないかと思って……」堪えていた感情が一気に溢れ出す。悠臣はそんな櫻羅の様子を見て、ゆっくりと手を上げると、彼女の腕をポンポンと軽く叩いた。「大丈夫だよ」そう言って、いつものように柔らかく笑う。だが次の瞬間――「イテッ」顔をしかめる。その表情に、櫻羅は慌てた。「だ、大丈夫?」悠臣は自分の頬に手を当て、腫れた部分に触れる。「いい男が台無しじゃん」少しふくれたように言うその様子に、櫻羅は思わずクスっと笑ってしまった。張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。悠臣もその笑顔につられるように、小さく笑った。そして、ゆっくりと視線を巡らせる。見慣れない部屋。閉ざされた空間。「ここはどこ?」悠臣がそう問いかける。櫻羅は小さく首を振った。「ホテルの部屋だけど、どこかはわからない」その言葉には、不安が滲んでいた。悠臣は顔をしかめながら、体を起こそうとする。「っ……」痛みに顔を歪める。櫻羅は慌てて支え、背中に枕を当ててやる。「ゆっくり……」慎重に体勢を整え、悠臣を座らせた。「あり
last updateLast Updated : 2026-04-17
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第125話

九条玲司と南條圭がノヴァ・テクノロジーズの社屋に到着したのは、その日の午後だった。空はどこまでも青く澄み渡り、街の喧騒とは切り離されたかのように、その巨大なビルは静かにそびえ立っている。まるで、この場所そのものが異質な権力の象徴であるかのようだった。重厚なガラス扉をくぐり、二人はフロントで名を告げる。受付の女性は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに営業用の微笑みに戻り、丁寧に頭を下げた。そして何も余計なことは聞かず、最上階へと続く専用エレベーターへ案内する。密閉された空間の中、エレベーターは音もなく上昇していく。圭は横目で玲司を見た。彼の表情はいつも通り無機質で、感情の揺れを一切見せていない。だが、その静けさの奥にある圧倒的な威圧感は、隣に立つ圭ですら息を詰めるほどだった。やがて最上階に到着し、重厚な扉が開く。社長室へと通された瞬間――玲司の視線が鋭く前方へ向けられた。そこにいたのは、レオン・クロフォード。その瞳は、まるで人間を見る目ではない。冷たく、鋭く、そして底の見えない深淵のような光を宿していた。レオンは何も言わず、ゆっくりと手を動かし、ソファに座るよう促す。玲司と圭は無言で向かいのソファに腰を下ろした。空気が張り詰める。まるでこの部屋の温度だけが、数度下がったかのようだった。レオンが対面に腰を落ち着けた瞬間――玲司が口を開いた。「目的はなんだ?」その声音は低く、冷静で、そして一切の揺らぎがない。圭は思わず玲司の横顔を見た。普通ならば、相手の出方を探る場面だ。しかし玲司は一歩も引かない。最初から主導権を奪いに行っている。レオン・クロフォードはその言葉に、口元をわずかに歪めた。「九条さん、いきなり現れてその言い草はないだろう。私は花嫁を奪われた被害者だぞ」わざとらしい物言いだった。玲司はその言葉に、鼻で笑うように口端を上げた。「レオン・クロフォード、お前が被害者だなどと……笑わせるな。すぐに目的を言え」その一言には、相手の虚勢を完全に見抜いた者の確信があった。レオンの瞳が一瞬だけ細くなる。だがすぐに視線を外し、あえて玲司の顔を見ずに話し始めた。「私はロケットの開発に携わりたいだけだ。九条が引いてくれるなら、今回の件は穏便に済ませてもいい」取引――いや、脅しに近い提案だった。玲司は小さく息を吐き、フッと笑った。「九
last updateLast Updated : 2026-04-18
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第126話

櫻羅と悠臣が監禁されている部屋に、ノックもなくドアが開き、次々と高級な料理が運び込まれてきた。銀のトレーに乗せられたそれらは、まるで一流レストランのコース料理そのものだった。肉料理、魚料理、色鮮やかな前菜に、湯気を立てるスープ、さらにはデザートまで揃っている。廊下で見張りをしていた男たちは、その光景に思わず目を見張った。「誰が注文したんだ?」一人の男が、怪訝そうに周囲を見渡しながら呟く。だが、誰も答えない。皆一様に顔を見合わせ、首を傾げるばかりだった。やがて、別の男が面倒くさそうに口を開いた。「ボスだろ」その一言で、場の空気はあっさりと落ち着いた。「ああ、なるほどな」男たちはそれ以上深く考えることもなく、興味を失ったように壁に背中を預け、再び無機質な見張りへと戻っていった。一方、部屋の中では――運ばれてきた料理の数々に、櫻羅が思わず目を丸くしていた。テーブルの上に並べられた料理は、二人分とは思えない量で、どれも香りだけで食欲を刺激するようなものばかりだった。「……すごい……」思わず漏れたその一言には、戸惑いと驚きが混じっていた。ベッドの上で横になっていた悠臣は、ゆっくりと身を起こす。まだ痛む体を庇うようにしながら、それでも無理やり上半身を起こし、軽く息を吐いた。「イテテ……でも、ちょうどいいね」そう言うと、櫻羅の方を見て穏やかに笑った。「体力が無いと、いざという時に逃げられないよ、さあ、しっかり食べよう」その言葉には、軽い調子の裏に確かな現実感があった。悠臣はフォークとナイフを手に取り、もう一組を櫻羅に差し出す。櫻羅は少し戸惑いながらも、それを受け取った。そして静かに椅子に腰を下ろし、目の前の料理の中から、比較的食べやすそうなものを選んで口へ運ぶ。味は確かだった。こんな状況でなければ、素直に「美味しい」と言えただろう。悠臣はそんな櫻羅の様子を見て、軽く笑う。「監禁って言うよりも軟禁かもね、食事がオーダーできるんだから、何でも頼めるってことだよ」そう言って、いたずらっぽくウィンクをした。櫻羅はその言葉の意味を完全には理解できなかったが、それでも悠臣がわざと明るく振る舞っていることだけは伝わってきた。少しでもこの重苦しい空気を和らげようとしているのだと。櫻羅は立ち上がり、テーブルの上のポットからコーヒーをカッ
last updateLast Updated : 2026-04-18
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第127話

少しして、ようやく呼吸を整えた綾乃は、抱きしめていた叶翔の体をゆっくりと離した。名残惜しそうに一瞬だけ腕に力が残ったが、すぐにそれをほどき、静かに椅子へ腰を下ろす。そして、まっすぐに息子の顔を見つめた。その視線には、先ほどまでの安堵とは別の、鋭さが宿っていた。「叶翔。何が合ったのか話して」落ち着いた声音だったが、その奥には有無を言わせぬ威圧感があった。英士と颯太も、自然と叶翔の近くへと寄ってくる。二人とも、ただならぬ空気を感じ取っていた。叶翔は一瞬、視線を逸らし、俯いた。どこか居心地の悪そうな表情を浮かべる。だが、逃げることはできないと覚悟を決めたのか、小さく息を吐き――ゆっくりと話し始めた。断片的に語られる出来事。一条家へ向かったこと、櫻羅のこと、そして襲撃――。話を聞き終えた綾乃は、腕を組み、わずかに目を細めた。「それで、その櫻羅ちゃんを助けようとしてケガをしたってことね?」静かだが、まるで核心を突き刺すような言い方だった。問い詰められるようなその口調に、叶翔は一瞬言葉を失い、やがて観念したように頷く。「……ああ」短い返事。そして、少し苦笑するように肩をすくめた。「二十四にもなって、母さんに心配かけるようなことをして申し訳ないと思ってるよ」その言葉に、空気がわずかに緩むかと思われたが――「おばさんすみません。僕らが叶翔を巻き込んだんです!!」颯太が慌てたように割って入った。その隣で英士も強く頷く。「そうです。全部、僕たちの判断が甘かったせいで……」二人とも必死だった。自分たちの責任を少しでも引き受けようとしているのが伝わってくる。綾乃はそんな三人の様子を、ゆっくりと見回した。一人ひとりの顔を確かめるように。そして最後に、再び叶翔へ視線を戻す。「お母さんに隠していることは何?」その一言は、まるで静かに突きつけられた刃のようだった。叶翔の肩がビクッと跳ねる。英士と颯太も思わず顔を見合わせた。――バレている。そう感じざるを得なかった。叶翔は小さく息を吐く。この人から隠し通せたことなど、一度もない。昔からそうだった。勘が鋭く、そして何より――怖い。逃げ場はない。観念した叶翔は、ベッド脇に置いてあった封筒から、一枚の紙を取り出した。そして無言で綾乃に差し出す。それは――一条竜星と櫻羅、そし
last updateLast Updated : 2026-04-19
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第128話

――昔の因縁……?その言葉が、重く空気の中に残ったまま、誰もすぐには口を開けなかった。叶翔もまた眉を上げ、わずかに息を詰める。だが次の瞬間、何かを思い出したようにハッと顔を上げ、勢いよく綾乃を振り返った。「母さん!!櫻羅と悠臣は!?」その声は、叫びに近かった。綾乃は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに落ち着きを取り戻し、叶翔の目を真っ直ぐに見て答えた。「まだ、どこに連れていかれたかわからないの」その一言で、叶翔の表情が一変する。次の瞬間、彼は布団を蹴飛ばし、無理やり体を起こそうとした。「くそっ……!」痛みを無視してでも立ち上がろうとするその姿に、英士と颯太が慌てて飛びつく。「叶翔ダメだ!お前はまだ動いたら傷が開くぞ!!」必死に肩を押さえ、ベッドへと押し戻そうとする。だが、叶翔はそれでもなお抵抗した。「離せ!!」血走った目で二人を睨みつけ、突き飛ばそうと力を込める。その姿は、もはや理性ではなく、本能で動いているようだった。櫻羅を助けなければならない――ただそれだけが、彼を突き動かしている。その光景を見ていた綾乃は、静かに立ち上がった。そして、低く、しかしよく通る声で言った。「叶翔。今のあなたに何ができるの?」その一言で、空気が凍りつく。「それよりも、今、お父さんがレオンに会いに行っているから、そこでの結果を待つくらいの度量を持ちなさい」厳しく、だが冷静な言葉だった。その言葉に、英士と颯太の手が止まる。そして、叶翔自身も――はっとしたように動きを止めた。荒くなっていた呼吸が、少しずつ落ち着いていく。拳を握りしめたまま、やがて力を抜いた。「……やっぱりレオン・クロフォードの差し金なのか?」絞り出すような声で問う。綾乃はその顔をじっと見つめていたが、やがて大きくため息をつき、静かに話し始めた。「レオン・クロフォードから電話が掛かって来たのよ、『お前の息子に花嫁を攫われた』って。」その言葉に、英士と颯太も顔を強張らせる。綾乃は続ける。「玲司はそれを聞いて、あなたの身に何かが起こるんじゃないかと、圭さんと一緒に駆け付けたの」そして、叶翔の頭に巻かれた包帯へ視線を落とした。その白さが、かえって痛々しい。「もしも当たり所が悪かったり、すぐに病院に運んでもらえなかったら……」そこまで言って、綾乃は言葉を
last updateLast Updated : 2026-04-19
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第129話

その頃、一条櫻羅と神無月悠臣は、豪奢でありながらどこか息苦しさの漂うホテルの一室に監禁されたまま、テーブルいっぱいに並べられた料理を前にしていた。磨き上げられた銀のカトラリー、香り立つ温かなスープ、艶やかなソースをまとった肉料理――どれも一流のものばかりだが、その贅沢さは二人の置かれた状況とあまりにも不釣り合いだった。櫻羅がベッドの下に隠していた悠臣のスマホで、悠臣はすぐに父親へ電話を掛け、SOSを出していた。短く要点だけを伝えたその声には、普段の軽薄さはなく、冷静で鋭い判断力が滲んでいた。電話を切ったあとも、悠臣は平然とした様子でフォークを手に取り、「せっかくだから食べとこう」と軽く笑ったが、その視線は常にドアの方へ向けられていた。櫻羅も彼に促されるまま、ぎこちない動きで口に食事を運ぶ。味などほとんど感じなかったが、それでも悠臣の言葉通り、体力を維持しなければならないと自分に言い聞かせていた。ほどなくして、部屋の外、廊下から怒声と大きな音が鈍く響いてきた。鈍い衝撃音。何かが倒れる音。短く荒い叫び声。櫻羅は驚愕の表情で部屋の隅へ隠れるように小さく座り、ドアを凝視した。胸が激しく上下し、喉が乾ききっているのがわかる。何が起きているのか分からない恐怖が、じわじわと全身を侵食していった。悠臣は体を起こし、櫻羅を背中で守るように部屋の隅へ後退し、悠臣もまたドアを凝視していた。その表情は険しく、軽口を叩いていた時とは別人のようだった。手近にあったフォークを持つと、一本を櫻羅に渡し、「何かあったら相手を刺して」と櫻羅に言った。その声音は低く、冗談ではないことがはっきりと伝わってくる。櫻羅は青い顔をして頷くと、フォークを服の中に隠した。震える指先を押さえ込みながら、必死に息を整える。しばらく続いた大きな音の最後に、部屋のドアが蹴破られる。轟音とともにドアが内側へ吹き飛び、木片が床に散らばった。悠臣と櫻羅は体を固くしてそちらを見つめていた。ドアが倒れ、体の大きな外国人が体を横に向けると、その後ろから部屋に入ってきたのは………。――その正体を確認するよりも先に、空気が一変した。それまでの暴力的な気配とは違う、圧倒的な「支配」の気配が、部屋の中へ流れ込んできた。一方その頃。一条竜星はノヴァ・テクノロジーズの社長秘書の控える部屋のガラス窓から、九条玲司
last updateLast Updated : 2026-04-20
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第130話

竜星が社長室に入って行くと、レオン・クロフォードの苦虫をかみつぶしたような顔を見た。重厚な扉が閉まる音が背後で鈍く響く。室内にはいつもと変わらぬ静寂が広がっているはずなのに、その空気はどこか張り詰め、わずかな違和感を孕んでいた。この男にも、こんな顔をさせる奴がいるとは。それも、それが『九条玲司』だとは。つい先ほどまでこの部屋にいたであろう玲司の存在が、まだ空気の中に残っているように感じられる。あの男は、確かにこの絶対的支配者に「揺らぎ」を与えたのだ。竜星はレオンに見られないように、口端を少しだけ上げた。ほんの一瞬だけ浮かんだその歪んだ笑みは、劣等感と嫉妬、そしてわずかな優越感が混じったものだった。だが――。レオン・クロフォードが振り返った時、竜星はすぐに平静を装った顔でレオンを見た。「一条竜星。お前の娘を私に押し付けようとした挙句、他の男が連れ去り、私に恥をかかせ、ノヴァ・テクノロジーズの競合会社に情報を売った罪は重い。だが、私は警察に届けるようなことはしない」レオン・クロフォードはいつもの冷淡な顏で竜星を見た。その声には感情の起伏が一切なく、まるで既に結論の出ている取引を読み上げているかのようだった。竜星は怯えたような眼でレオン・クロフォードを見つめた。背筋に冷たいものが走る。逃げ場のない場所に立たされているという実感が、遅れて全身を支配していく。レオンは竜星の怯えた目を見て、満足したように続けた。「私は金でしか解決しない。一条竜星、一億だ。それだけ持って来れば、これらのことは無かったことにしてやろう」竜星は目を見開いた。一億――その数字が現実のものとして理解されるまで、数秒の空白があった。そしてレオン・クロフォードの足に縋り付くように、レオンの目の前に跪いた。床に膝をつく音が、やけに大きく響いた。「そ、そんな!!今の私にそんな金が用意できるわけないことは、あなたはご存じではないですか!!」声は震え、言葉は崩れ、かつての威厳など欠片も残っていない。レオン・クロフォードは、一歩下がると、一条竜星をバカにしたような眼で見下した。その視線には、同情も憐れみもなく、ただ価値のないものを見る冷たさだけがあった。「それならば死ね。死で私に償うんだな」あまりにもあっさりと、あまりにも軽く告げられた言葉だった。まるで「不要な書
last updateLast Updated : 2026-04-20
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第131話

九条玲司と南條圭は、一条邸に訪れていた。重厚な門をくぐり、整えられた庭園を抜けて邸内へと案内される。静まり返った空気の中には、どこか張り詰めた気配が漂っていた。格式あるはずのその屋敷は、どこか冷たく、温もりを感じさせない。リビングに通され、執事にソファに座って待つよう言われたが、玲司は立ったまま窓の外を見ていた。大きな窓の向こうには、手入れの行き届いた庭が広がっている。だが玲司の視線は景色など映していない。ただ静かに、何かを見据えるように外を見ているだけだった。圭は一度玲司に目を向けたが、何も言わずソファに腰を下ろした。旧知の仲であるからこそ分かる。今の玲司は、余計な言葉を挟むべき状態ではない。しばらくすると、掛けるような足音が聞こえ、リビングのドアが開け放たれた。「兄さん!!………玲司…?」一条沙耶の見開かれた眼は、実の兄である圭を見るより先に、九条玲司の姿を捉えて放さなかった。その視線には、驚きと戸惑い、そして拭いきれない感情が入り混じっている。「沙耶、久しぶりだな」圭は近づいて沙耶とハグを交わした。久々に会う妹の体は、以前よりもどこか細く感じられた。圭は一瞬だけ眉をひそめたが、それを表には出さない。その後、沙耶は玲司の方を見ると、懐かしそうな顔で言った。「玲司、あなた変わらないわね」その声には、過去に置いてきた想いが微かに滲んでいた。玲司が振り向き沙耶を見ると、その眼は以前に増して鋭く、沙耶の胸の内を貫くようだった。一切の感傷を許さない、冷徹な視線。「沙耶。お前の娘はなぜ竜星に疎まれている?」挨拶も無しに直球を突き付けて来るのも、昔と変わらなかった。その言葉はあまりにも唐突で、容赦がなかった。沙耶は一瞬だけ息を詰めたが、すぐにフッと笑うと、「そのことで来たの?」そう聞いた。まるで予想していたかのように、あるいはその話題から逃げられないと知っているかのように。玲司は沙耶を見たまま答える。「他に何がある?」その言葉は冷たく、余計な感情を一切含んでいなかった。その答えに沙耶はある種の虚脱感を覚えたが、兄の顔を見ると、淡々と答えた。「竜星は、櫻羅のことを、玲司と私の子供だと思ってるのよ」その一言で、部屋の空気が凍りついた。この答えに圭は驚いて声を上げた。「バカな!!」思わず立ち上がりそうになるほどの衝撃だっ
last updateLast Updated : 2026-04-22
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