LOGIN一条竜星は、ノヴァ・テクノロジーズへの道を急いでいた。普段なら、邸のエントランスには専属の運転手が待機しており、行き先を告げるだけで後部座席に腰を下ろせば済む。だが、この日の竜星には、そんな余裕など一切なかった。「車を出せ」と言われ、すでにエンジンをかけて待っていた運転手が恭しく頭を下げたが、竜星は苛立ったように手を振った。「いい、今日は俺が運転する」突然の言葉に運転手は目を丸くしたが、主人の険しい顔を見ると、それ以上何も言えずに一歩下がった。竜星は乱暴に車のドアを開け、自ら運転席へ滑り込む。ドアを強く閉めた瞬間、密閉された車内に鈍い音が響いた。エンジンをかけると同時にアクセルを踏み込み、タイヤが小さく悲鳴を上げる。車は邸の門を飛び出し、そのままレオン・クロフォードの待つ、あの巨塔へ向かって一直線に走り出した。竜星の頭の中では、レオン・クロフォードを怒らせたという思いだけが渦巻いていた。ノヴァ・テクノロジーズ。英国の空にそびえ立つ巨大企業。その最上階で、自分を待ち構えているであろう男の顔が、何度も脳裏に浮かぶ。あの冷たい笑み。人を人とも思わない視線。あの男に睨まれた瞬間、背筋が凍りついたあの日の感覚が、今も身体に染みついていた。要求された金も用意できず、嫁にやるといった娘の櫻羅の行方すらわからず、レオン・クロフォードに対し、どう言い訳をしようかといったことだけを考えていた。何を言えば許されるのか。いや、そもそも許されるのか。言い訳で済む話なのか。次々と浮かぶ不安に、竜星の呼吸は浅くなっていった。ハンドルを握る手には、じっとりと汗が滲んでいる。気づけば、自分でも驚くほど強くアクセルを踏み込んでいた。メーターの針が、ぐんぐんと上がっていく。だが、竜星にはそれを気にする余裕すらなかった。やがて前方の信号が黄色から赤へ変わる。竜星は舌打ちをしながら急ブレーキを踏んだ。キィッ――というタイヤの音とともに、車体が大きく揺れて停止する。赤信号の光がフロントガラス越しに差し込み、竜星の顔を不気味に照らしていた。停止したことで、激しく打っていた心臓も少しずつ落ち着きを取り戻していく。荒かった呼吸も、ようやく整い始めた。だが、心が静まる代わりに、別の感情がふつふつと湧き上がってきた。怒りだった。その怒りの矛先は、自然と
沙耶はその答えに、思わず息を呑んだ。竜星の口から力なく零れ落ちた「俺にもわからないんだ」という言葉が、まるで重たい鉛のように胸の奥へ沈んでいく。――わからない?それは、これまで二十四年もの間、自分たちが櫻羅にしてきたことさえ、何一つ理解していないということなのだろうか。沙耶はその場に立ち尽くしたまま、自分の両手をぼんやりと見つめた。櫻羅が産まれてからずっと、竜星は「あの子は本当に俺の子か?」という疑念を口にし続けてきた。そして、自分は……。「玲司の子供ではないのか?」という竜星の疑惑を、自分の手で晴らそうともしなかった。櫻羅を抱きしめることも、庇うことも、かわいがることもしなかった。それなのに今になって、なぜこんな感情が胸の奥から湧き上がってくるのか。沙耶自身にもわからなかった。ただ、胸の奥がひどくざわつく。まるで、今まで閉ざしていた何かが、少しずつ音を立てて崩れていくようだった。――先日、玲司に責められたからだろうか。沙耶の脳裏に、あの時の玲司の冷たい眼差しが鮮明に蘇る。氷のように温度を感じさせない瞳。そして、心臓を貫くように放たれたあの言葉。「それでお前は、“娘を冷遇すること”に賛成したということか?」沙耶は無意識に肩を震わせた。あの時は腹立たしいとしか思わなかった。だが今、その言葉が何度も何度も頭の中で反響する。確かに沙耶は、竜星の疑いを晴らそうともしなかった。櫻羅を庇うこともしなかった。周りの子どもたちが親に抱きしめられ、慈しまれ、笑顔の中で育っていく姿を見ても、何も感じないふりをしてきた。櫻羅が泣いていても、目を逸らした。傷ついていても、気づかないふりをした。ただ、竜星が櫻羅を冷遇するのを、黙って見ていただけだった。沙耶はふらりと歩き出した。まるで何かに引き寄せられるように、廊下を進んでいく。この一条邸の中で、最も日当たりの悪い場所。そこにある一室の前で、沙耶は足を止めた。櫻羅の部屋――そう呼ばれてはいたが、実際には使用人用に用意された狭い部屋だった。豪奢な一条邸の中で、その部屋だけが異質だった。沙耶はゆっくりと扉に手をかけた。きぃ……と小さな音を立てて扉が開く。中には、小さなベッド。最低限の家具。そして、少女が必死に生きてきた痕跡。沙耶の胸が締めつけられた。ここに櫻羅を住まわ
その頃――。巨大企業、ノヴァ・テクノロジーズ本社ビルの最上階では、朝の光が一面ガラス張りの窓から差し込み、豪奢な社長室を静かに照らしていた。磨き上げられた黒い大理石の床。重厚なデスク。壁一面に並ぶ美術品やアンティークの数々。普通の人間なら一生かかっても手にすることのできないような調度品に囲まれながら、その部屋の主であるレオン・クロフォードの表情だけが、異様なほど冷え切っていた。いや――冷えているように見えるだけだった。その内側では、煮えたぎるような怒りが渦巻いている。レオン・クロフォードは、自分のデスクチェアに深く腰掛けたまま、一本の電話を受けていた。相手は今回のロケットプロジェクトに関する選考委員会。本来であれば、自分に有利な報告が入るはずだった。金も使った。根回しもした。過去の問題も、これまで通り金で押し流せると信じて疑わなかった。だが、受話器の向こうから告げられた内容は、彼の予想を根底から覆すものだった。レオン・クロフォードは怒りを押し殺したような顔で電話を受けていた。返事はほとんどしない。ただ低く、「そうか」「なるほど」とだけ返していたが、その青い瞳だけは、徐々に冷たい殺意にも似た光を帯びていく。そして――。通話が切れた瞬間。レオン・クロフォードはスマホを投げつけ、デスクの上にあったコーヒーカップが砕け散った。激しい破砕音が社長室いっぱいに響き渡る。高価なカップは床に散乱し、黒いコーヒーが白いカーペットへ染みを広げていった。その大きな音に驚いた秘書が駆けこんで来る。ドアを開けた瞬間、部屋の惨状に息を呑んだ。だが、それ以上に恐ろしかったのは、レオンの表情だった。「社長、どうしました?」恐る恐る聞く秘書を、レオン・クロフォードは睨みつけて言った。「一条竜星とその娘を今すぐ連れて来い!!」怒号にも近い声だった。社長室の空気そのものが震えたように感じられる。レオン・クロフォードの剣幕に驚いた秘書は、「イエス・サー!!」と言い、慌てて事務所をとび出して行った。その背中は、まるで猛獣の檻から逃げ出す人間のようだった。レオン・クロフォードは秘書が逃げるように飛び出していく後姿を見送り、自分は立ち上がり、窓から眼下に広がる朝の街を見下ろす。街では、何も知らない人々が出勤し、店が開き、車が流れ始めている。いつもなら
翌朝――。まだ空が白み始めたばかりの早い時間。ヴァルハイト・レジデンス ホスピタリティスイートのロイヤルスイートは、昨夜遅くまで話し声や笑い声が響いていたとは思えないほど静まり返っていた。大きな窓の向こうでは、夜の名残を残した街並みが少しずつ朝の光に照らされ始めている。遠くを走る車のライトも、夜ほど目立たなくなり、街そのものがゆっくりと目覚めようとしていた。そんな静寂を破るように、一室に電子音が響いた。ベッドサイドに置かれていたスマートフォンが、何度も着信を知らせている。ベッドの中で眠っていた叶翔は、眉をひそめながらゆっくりと目を開けた。昨夜は櫻羅との出来事もあり、なかなか寝つけなかったせいで、いつも以上に眠気が残っている。半分閉じたような目のまま、枕元のスマートフォンへ手を伸ばし、画面を見る。知らない番号だった。だが、この国に来てからは仕事関係の連絡も多い。叶翔は大きくあくびを噛み殺しながら通話ボタンを押した。「……もしもし」寝ぼけ眼で電話に出た叶翔だったが、今回この国に来た本当の目的である、ロケットプロジェクトの選考委員会からだった。受話口から聞こえてくる落ち着いた声に、叶翔の意識は徐々にはっきりしていく。最初はぼんやり聞いていた内容だったが、委員会の者の話す内容に、驚きと共に目が覚めていった。「……はい」「……わかりました」短く返事をしながらも、その表情はみるみる変わっていく。最後には完全に眠気など吹き飛び、目を見開いたまま通話を終えた。電話を切り、一旦顔を洗って気持ちを落ち着けた。冷たい水が顔にかかり、さらに頭が冴えていく。鏡に映った自分の顔を見ながら、小さく息を吐いた。「マジかよ……」思わずそんな言葉が漏れる。だが同時に、胸の奥から高揚感が込み上げてきていた。急いで着替えを済ませ、リビングへ行くと、すでに皆が集まり朝食の準備が整っていた。広々としたダイニングには、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、淹れたてのコーヒーの香りが漂っている。スクランブルエッグ、サラダ、フルーツ、スープ――ホテルの朝食とは思えないほど豪華な食卓だった。キッチンの方から振り返った綾乃が、叶翔の姿を見るなり呆れたように言う。「叶翔、遅いわよ」その言葉に目を向けると、ふと違和感に気づく。いつもなら真っ先に座っているはずの玲司
その晩――。ヴァルハイト・レジデンス ホスピタリティスイートのロイヤルスイートでは、昼間までの賑やかさが嘘のように静まり返っていた。広々とした室内には、間接照明の柔らかな光だけが灯されている。天井まで届く大きな窓の向こうには、無数の明かりが宝石のように瞬き、街全体が夜のヴェールに包まれていた。遠くには車のライトが流れるように走り、時折ヘリポートの誘導灯がゆっくりと点滅している。一条櫻羅は、その大きな窓の前に静かに立っていた。昼間、叶翔の母親である綾乃に買ってもらったパジャマを身にまとい、両手を胸の前でそっと重ねながら、ただ夜景を見つめている。ふわりと柔らかな生地は肌触りも良く、今まで着たことのないような心地よさだった。だが、その心地よさとは裏腹に、櫻羅の胸の内は静まるどころか、ますます落ち着かなくなっていた。皆が寝静まっても、櫻羅は眠りにつくことができなかった。昼間の出来事が、何度も頭の中で繰り返されていたのだ。綾乃と一緒に買い物をしたこと。服を選んでもらったこと。似合うと笑ってもらえたこと。下着売り場で恥ずかしくなりながらも、女同士だからと笑われたこと。どれも櫻羅にとっては、生まれて初めて経験することばかりだった。昼間、綾乃と買い物をしたことは、櫻羅にとって衝撃的な出来事といっても過言でなかった。櫻羅は子どもの頃から、自分の母親である沙耶と買い物に出かけたことすらなかった。沙耶はいつも自分を冷ややかに見つめるだけで、綾乃のように、優しく声を掛けてくれることもなかった。思い出すだけで、胸の奥がじくりと痛む。そして、櫻羅の頭には、玲司の姿が浮かんだ。玲司が綾乃に向ける優しい視線。玲司が、冷たく言い放ったとしても、自分の息子である叶翔を突き放しているわけでは決してないこと。言葉は厳しくても、その奥に深い愛情があることは、今日一日一緒に過ごしただけでも十分伝わってきた。櫻羅は自分の両親と、九条の家族関係を比べてみると、やるせない思いに駆られ、目の端に涙が浮かんだ。自分にも、こんな家族があったなら――。そんな叶うはずもない願いが、ふと胸をよぎる。その時だった。「眠れないのか?」背後から聞こえた低く落ち着いた声に、櫻羅の肩が小さく震えた。驚いて振り向くと、そこには叶翔が立っていた。薄暗い照明の中、寝間着姿の叶翔が、優しい
その日の夜――。一行は、街でも指折りの高級レストランの一角に設けられたテーブルを囲んでいた。落ち着いた照明が店内を柔らかく包み込み、磨き上げられたグラスやカトラリーが静かに光を反射している。窓の外には夜景が広がり、昼間とはまるで別世界のような雰囲気だった。昼間、ハンバーガーセットを食べさせられた玲司が「夜はちゃんとした物を食べる」と言い、アシスタントが慌てて予約した店だったが、その甲斐あって料理もサービスも一流だった。テーブルに並べられた料理はどれも美しく、香りだけでも食欲を刺激する。英士や颯太はすでにフォークを手に取り、悠臣も無理のない範囲で食事を楽しんでいた。皆は一様に満足していた。――ただ一人を除いて。一条櫻羅だけが、目の前に並ぶ料理を前にして、手を出せずにいた。その表情には戸惑いが浮かび、どうしていいのか分からないといった様子で、ただ静かに座っている。そんな櫻羅の様子に気づいた颯太が、軽い調子で声をかけた。「櫻羅、ちゃんと食っとけよ。今日は玲司オジサンの驕りだぞ」からかうような口調で言いながら、横目で玲司を見る。玲司は特に気にした様子もなく、グラスを傾けていた。しかし、その言葉で視線が櫻羅に集まる。叶翔はすぐに異変に気づいた。静かに櫻羅の方へ身を乗り出し、優しく問いかける。「食べられない物だったか?」その声に、櫻羅は顔を上げた。一瞬だけ叶翔と目が合う。そして慌てて首を横に振り、小さく言った。「ごめんなさい。食べ方が、わからないの……」その言葉を口にした瞬間、頬が一気に赤く染まる。皆の視線を浴びて、さらに恥ずかしさが増したのだろう。テーブルの空気が、一瞬止まった。英士も颯太も悠臣も、思わず手を止める。誰もがその言葉の意味を理解し――そして、これまでの櫻羅の境遇を思い浮かべていた。だが、その沈黙を柔らかく破ったのは叶翔だった。叶翔は優しく微笑むと、何も気にしていないような自然な動作でフォークとナイフを手に取る。「櫻羅、俺と同じようにしてみろ。これから毎日訓練すればいい。しかも、食事はおいしく楽しく食べられたら、それでいいんだ」その言葉には、押しつけも見下しもなかった。ただ、寄り添うような優しさだけがあった。そう言うと、目の前に置かれていた大きなエビにフォークを突き刺す。「グサッ」と音がしそうな勢いで
和真と別れた帰り道。夜風は思いのほかやわらかく、ビルの谷間を抜けていく空気さえ、どこか軽やかに感じられた。綾乃は、自分でも驚くほど足取りが軽くなっていることに気づいた。ヒールの音が、いつもより高く、規則正しく響いている。(……気を抜きすぎね)小さく息を吐き、わざと歩幅を落とす。だが、胸の奥に広がる解放感までは抑えきれなかった。頭の中では、彼の言葉が何度も反芻されていた。――「神崎グループとして、裏から情報を集めることもできる」表で動けない今の自分にとって、それは、あまりにも都合のいい申し出だった。九条ホールディングスの立場上、彼女は不用意に動けない。一歩間違えば、政治的
九条ホールディングス本社。最上階の大会議室には、異様な緊張が漂っていた。取締役全員。主要株主。法務、内部監査、情報セキュリティ責任者。玲司は、会議の中央席に座り、資料も見ずに静かに口を開いた。「本日は、九条ホールディングスに対して行われた組織的な信用毀損行為について、事実確認と、対応方針を決定するための場です」スクリーンが点灯する。最初に映し出されたのは――音声データの解析結果だった。「こちらは、外部に流出した“九条に不正献金を示唆する音声”です」専門部署の責任者が説明を引き継ぐ。「改ざんは、非常に高度です。単なる切り貼りではありません」波形が拡大される。「実際には
九条ホールディングス本社。役員フロアの一室で、玲司は無言のまま音声を聞いていた。――『資金は、海外口座を通せ』――『表の契約書は、後で差し替えればいい』低く、落ち着いた声。自分のものだ。「……もう一度」玲司の指示で、音声は巻き戻される。法務顧問、内部監査責任者、情報セキュリティ部門の責任者。誰も、口を挟まない。三度目の再生が終わったところで、玲司はようやく口を開いた。「この音声、違和感がある」「違和感、ですか?」法務顧問が慎重に言葉を選ぶ。「内容自体は、確かに問題がありますが……声紋解析でも、ご本人と高い一致率が出ています」「声の“質”じゃない」玲司は、静
異変は、朝の定例報告から始まった。神崎財閥本社――高層ビルの上層階、いつもと同じ時刻、同じ顔ぶれ。役員たちはコーヒーを手に、形式的な数字の確認をするだけのはずだった。だが、経営企画部の若い社員が、資料を手に硬直したまま立っている。視線は泳ぎ、唇はわずかに震えていた。「……九条ホールディングスからの契約解除通知です」その一言で、会議室の空気が変わった。ひとつではない。資料をめくるたびに、ページの端に並ぶ「解除」「終了」「見直し」の文字。資本提携、共同開発、物流ライン、海外ファンドを介した取引――一斉に、しかも例外なく。理由はどれも同じ文言だった。《経営判断による契約見直