ANMELDEN自分と一緒に街を歩き、楽しそうに笑う櫻羅の横顔を見つめながら、心春はふと足を止めた。ショッピングモールで買い物を楽しみ、かわいらしい雑貨を見つけては笑い合い、カフェでは甘いスイーツを食べながら他愛もない話をする。先ほどまで失恋の痛みで沈んでいた気持ちが、不思議なほど軽くなっていることに心春自身も気づいていた。櫻羅には、人の心を自然と明るくする力がある。計算も駆け引きもなく、ただ素直に笑って、素直に驚いて、素直に喜ぶ。そんな櫻羅を見ているだけで、心春もつられて笑顔になってしまうのだ。その笑顔を見つめながら、心春は突然何かを思いついたように目を輝かせた。「櫻羅ちゃん、温泉行かない?」あまりにも突然の誘いに、櫻羅は足を止める。ぱちぱちと瞬きを繰り返し、心春の顔を見つめると、不思議そうに首を傾げた。「温泉って? お風呂のこと?」その返答に、心春は思わず吹き出してしまう。「温泉、知らない? 確かにお風呂ってのは間違いじゃないけど」そう言われても、櫻羅にはやはりよく分からない。分からないことはすぐに調べる。それが櫻羅の癖だった。バッグからスマホを取り出し、慣れた手つきで検索画面を開く。「えっと……」小さくつぶやきながら文字を入力しようとした、その瞬間だった。「あっ、ちょっと待って」心春は笑いながら櫻羅のスマホをひょいと取り上げた。「もう、すぐ検索するんだから」いたずらっぽく笑いながら画面を見る。しかし、その表情は一瞬だけ固まった。画面には、櫻羅が入力しかけていた検索履歴や、海外仕様の検索画面が表示されている。心春はそこで初めて気づいた。確かに櫻羅は生まれも育ちも外国だ。温泉に入った経験などなくても不思議ではない。それでも、両親は日本人なのだから、小さい頃に一度くらい日本へ来て、温泉旅館に泊まった経験くらいあるのではないかと、どこかで勝手に思い込んでいた。だが、その検索画面を見れば分かる。櫻羅は、本当に「温泉」というもの自体を知らないのだ。心春は苦笑しながらスマホを櫻羅へ返した。「今夜は私と一緒に温泉に泊まりに行こう」突然の提案に、櫻羅は再びスマホへ目を落とす。今度こそ調べようと思い、「onsen」と入力して検索を実行した。しかし、イギリス語のスマホでは、「onsen」という言葉は日本の温泉文化として認識され
その頃。心春は櫻羅を誘って街へ出ていた。昨日は泣いてばかりいた心春だったが、家の中に閉じこもっていても気持ちが沈むだけだと綾乃にも言われ、気分転換を兼ねて外出することにしたのだ。もちろん一人ではない。声を掛けたのは義姉となった櫻羅だった。同い年でありながら性格は正反対。明るく行動的な心春と、穏やかで少し控えめな櫻羅。だが不思議と二人は気が合った。若い女性が二人揃えば、ショッピングにスイーツと相場は決まっている。二人は都内でも有名な大型ショッピングモールへやって来ていた。平日とはいえ館内は多くの人で賑わっている。ブランドショップの前を通れば華やかな香水の香りが漂い、吹き抜けの広場ではイベントが開かれ、楽しそうな笑い声が響いていた。そんな中を、心春は櫻羅の手を引くようにして歩いていく。「まずは一階から順番に制覇するわよ!」「制覇って……」櫻羅は苦笑しながらも付き合っていた。最初に入ったのはコスメショップだった。店内には色とりどりの口紅やアイシャドウが並んでいる。美容部員が新作を紹介すると、心春はすぐに興味を示した。「櫻羅ちゃん、ちょっとこっち向いて」そう言って口紅を手に取る。心春はなぜか櫻羅の唇に塗り、少し離れて眺める。「う~ん、櫻羅ちゃんにはこっちかな」そう言い、他の色を手に取り櫻羅の唇に塗る。櫻羅はされるがままだ。鏡を見ながら困ったように笑う。「心春ちゃん、私で遊んでない?」「遊んでないわよ。真剣に選んでるの」そう言いながらも楽しそうだった。美容部員も微笑ましそうに二人を見ている。結局、何本か購入することになり、紙袋を受け取ると次の店へ向かった。今度はランジェリーショップだった。櫻羅は店の看板を見た瞬間に足を止める。「ここも入るの?」「当然でしょ」心春は即答した。店内に並ぶ華やかなランジェリーを見て、櫻羅は顔を赤くする。そんな櫻羅を見て心春は楽しそうに笑った。ランジェリーショップでは「もう結婚したんだから」そう言い、セクシーな形のランジェリーを櫻羅の体に合わせ、「たまにはこういうのも大事よ」とウィンクして見せる。「む、無理だよ……」「叶翔が喜ぶかもしれないじゃない」「そ、そういう問題じゃ……」耳まで真っ赤にする櫻羅を見て、心春は声を上げて笑った。少し前まで泣いていたとは思えない
九条コーポレーション最上階。叶翔と瑛士が去った後の会長執務室には、張り詰めた空気が漂っていた。巨大な窓の外には東京の街並みが広がり、無数のビル群が朝日に照らされて輝いている。しかし、その景色を楽しむ者はこの部屋には誰一人としていなかった。執務室の中央に置かれた重厚な会議テーブルの前には、玲司直属のアシスタントたちが整列していた。全員が背筋を伸ばし、余計な言葉を発することなく九条玲司の指示を待っている。九条グループの中でも特に優秀な人材だけが配属される玲司直属のチーム。財務分析の専門家。企業買収のスペシャリスト。海外情報網を担当する調査員。元官僚や元警察関係者まで所属している。彼らは玲司が動けば即座に動き、玲司が止まれと言えば瞬時に止まる。それほどまでに統率された精鋭集団だった。玲司は静かに椅子へ腰掛けたまま、目の前のアシスタントたちを見渡した。誰一人として視線を逸らさない。その様子を確認すると、玲司はデスクの上に置かれていた分厚い書類の束を手に取った。先ほど叶翔と瑛士に渡した資料とは別物だった。あちらが和真の隠し子騒動についてまとめた資料ならば、こちらはさらに踏み込んだ内容が記載されている。玲司は書類を机の上へ滑らせるように差し出した。一番前に立っていたアシスタントが受け取る。彼は数ページをめくり、内容を確認した。そしてすぐに顔を上げる。「会長。今回は神崎財閥の件ですが、あちらの『神崎壮真』が何やら不穏な動きを見せているとの情報がはいっております」その言葉に周囲のアシスタントたちも表情を引き締めた。神崎壮真。神崎財閥現当主。そして和真の実兄。近年の神崎財閥の業績悪化の中心人物とも噂されている男だった。そう言い、そのアシスタントは自分のタブレットを手に玲司に近寄って行った。足音一つ立てない。慣れた動きだった。玲司は無言でタブレットを受け取る。画面に表示された情報へ目を落とした。そこには最近の神崎財閥の資金移動や、壮真の周辺人物に関する報告が並んでいた。玲司は数秒で内容を読み終える。普通の人間なら十分以上かかる量だったが、玲司にとっては長年の習慣だった。目を通しただけで要点を把握する。そしてタブレットを閉じると、静かにテーブルへ置いた。その顔には感情らしい感情は浮かんでいない。だがアシスタント
九条コーポレーションの最上階。都内の超高層ビル群を見下ろすそのフロアは、九条グループの中枢とも言える場所だった。重厚な扉の向こうにある会長室は、広さも設備も一流ホテルのスイートルームを思わせる。床から天井まで続く大きなガラス窓の向こうには、東京の街並みが一望できた。しかし、その絶景を楽しむ者は今ここにはいない。窓際に立つ九条玲司は、腕を組みながら遥か遠くのビル群を見つめていた。その横顔には感情らしい感情は見えない。だが長年玲司を知る者なら分かる。これは玲司が何かを深く考えている時の癖だった。心春の件。和真の隠し子騒動。そして、その背後にいるかもしれない人間たち。玲司の頭の中ではすでにいくつもの仮説が組み立てられていた。やがて静かな室内にノックの音が響く。コンコン――。秘書の許可を得てドアが開かれた。玲司の一人息子の叶翔と、叶翔の親友の一ノ瀬瑛士が恐る恐る部屋へ入ってきた。二人とも朝一番で呼び出されたため、まだ状況を完全には把握していない。特に瑛士は困惑していた。「出社したらすぐに来い。その際、瑛士も連れて来い」玲司からそう言われ、朝っぱらから叶翔に呼び出された瑛士は、玲司からの呼び出しが何の用なのかさっぱりわからなかった。九条玲司が直々に呼ぶ時は、大抵ろくでもない案件である。しかも今回は自分まで名指しだ。嫌な予感しかしない。ひとつ心当たりがあるとすれば……瑛士は歩きながら横目で叶翔を見る。だが叶翔も真面目な顔をしているだけだった。玲司は窓際から振り返る。その鋭い視線が二人を捉えた。叶翔と瑛士の姿を見ると、玲司は"ソファに座れ"と目だけで合図した。声は出さない。それでも十分伝わる。叶翔と瑛士は玲司から目を離さずにソファに腰かける。まるで面接を受ける学生のようだった。普段なら軽口の一つも飛ばす瑛士だったが、今日ばかりはそんな余裕はない。瑛士は小さな声で叶翔に話しかける。「なぁ、こんな朝っぱらから呼び出しって、アレのことか?」叶翔は瑛士の顔を見たが、何も答えなかった。というより、何を指しているのか分からなかった。叶翔には瑛士の言う「アレ」が何のことかわからなかった。玲司が朝から呼び出すといったら、今の九条家の唯一の問題、「和真の隠し子騒動」に違いない。叶翔はそう考えている。だが瑛士にはま
朝の静かなダイニング。磨き上げられた長いテーブルの上には、湯気の立つ朝食が並んでいる。しかし、その場の空気は決して穏やかとは言えなかった。鷹宮正隆は、長年財界の第一線に立ち続けてきた男である。相手のわずかな表情の変化や声の揺らぎから本音を見抜くことに長けていた。そんな正隆の前で、和真は朝食にも手を付けずに座っている。昨夜から続く問題が頭から離れないのだろう。疲労の色は隠しきれなかった。やがて和真は静かに口を開いた。「昨日、ボクの子供だと言って、見知らぬ女が男の子を連れてここへ来たそうです」その言葉を聞いた瞬間、正隆の表情からわずかに笑みが消えた。持っていた新聞をゆっくりと畳み、テーブルの上に置く。そして椅子に深く腰掛け直すと、和真を正面から見据えた。「キミの子供?キミは知っていたのか?」正隆は和真の目を凝視して聞く。その視線には重みがあった。長年、大きな取引での相手の様子を見据えてきた目が、和真の瞳を射抜く。一流の経営者同士が向かい合った時の空気。そこには言葉以上の駆け引きが存在する。嘘をつけば見抜かれる。ごまかせば信用を失う。和真も正隆の目を見て言った。「知りません。全く心当たりがないのです。ただ……」そこで言葉を切る。正隆の眉がわずかに動いた。「ただ、何だ?」正隆は微動だにせず和真の答えを待った。焦らない。急かさない。相手が自分で答えを口にするのを待つ。それが正隆のやり方だった。和真は一瞬目を伏せた。頭の中で考えを整理する。そして顔をあげて正隆を見ると正直に言った。「神崎家が、ボクが鷹宮の当主を継ぐのを、今か今かと待ち構えていることは確かです。そんな理由から、こういったことを仕掛けてきているのではないかと考えています」その言葉に正隆は黙った。視線だけが和真を観察している。神崎家。その名前を聞けば、今回の件が単なる男女問題では済まない可能性が見えてくる。財閥同士の思惑。後継者争い。権力。利権。そういったものが絡めば、どんな手段を使う人間がいても不思議ではない。正隆もその答えを聞くと、納得したようだった。ゆっくりと息を吐く。そして和真に向かってフッと微笑むと、言った。「キミはその歳でも魅力的だからな。今までもいろいろな女が放っておかなかっただろう。まさかとは思うが、その男
翌朝。九条家のダイニングには、穏やかな朝の光が差し込んでいた。大きな窓から見える庭は朝露に濡れ、色とりどりの花々が静かに揺れている。昨夜はほとんど眠れなかった心春だったが、それでも綾乃に言われて朝食の席についていた。何も食べたくなかったが、母に心配をかけたくなかった。綾乃もそんな娘の気持ちを察しているのか、無理に明るく振る舞うことはせず、いつも通りの穏やかな態度で向かいに座っている。テーブルには和食中心の朝食が並んでいた。焼き魚に出汁巻き卵。炊き立ての白米。湯気の立つ味噌汁。どれも使用人たちが丁寧に用意したものだった。心春は静かに箸を動かしていた。少しずつではあるが、昨日よりは気持ちも落ち着いている。綾乃と過ごした夜。玲司の言葉。それらが心春を支えていた。そんな時だった。ダイニングの外から慌ただしい足音が近付いてくる。ドタドタと廊下を走る音に、綾乃は思わず眉をひそめた。そして次の瞬間。ダイニングの扉が勢いよく開かれた。そこには息を切らせた叶翔と櫻羅の姿があった。どうやら急いで駆け付けたらしい。二人ともまだ朝の支度を終えたばかりといった様子だった。心春の姿を見た叶翔は、「心春!!お前大丈夫か!?」と大きな声で聞いた。朝の静かなダイニングにその声が響き渡る。ちょうど味噌汁を啜っていた心春が顔をあげると、焦った様子の叶翔と目が合った。まるで事件現場に駆け付けた刑事のような勢いだった。心春は思わず呆れた顔になる。「叶翔、朝からうるさいよ」心春が言うと、叶翔は呆気にとられたような顔で櫻羅と目を見合わせた。二人とも昨夜遅くに事情を聞いたのだ。心春が泣きながら実家へ戻ったこと。和真の隠し子騒動。DNA鑑定書の存在。叶翔は一晩中気になって仕方がなかった。朝になるや否や櫻羅を連れて飛んできたのである。だが当の本人は普通に味噌汁を飲んでいる。その光景に拍子抜けしたのだった。櫻羅が心春のそばに近づき、心春の顔を見た。「心春ちゃん……」その声には心配が滲んでいる。櫻羅は優しい性格だ。誰かが悲しんでいると放っておけない。昨夜も叶翔から話を聞いた後、「今すぐ行こう」と言い出したほどだった。叶翔が必死に止めて朝まで待たせたくらいである。心春はそんな櫻羅の表情を見て、小さく微笑んだ。二人が慌てた様子







