All Chapters of 遅れてきた春と、開けないままの手紙: Chapter 1 - Chapter 10

19 Chapters

第1話

その日、中絶手術を受けた葛城優里(かつらぎ ゆり)なのだが、手術が終わっても夫である葛城純一(かつらぎ じゅんいち)は姿を見せなかった。優里はベッドに横たわったまま、スマホを見たが純一からの連絡はない。ちょうど彼にどういうことか聞いてみようと思った、その時だった。ネット記事のタイトルが、ふと目に飛び込んできたのだ。【男の愛にも、差別はあるものなのか?】その記事で、1万以上の「いいね」がついてトップに上がってきたコメントは、衝撃的な内容だった。【もちろんよ。私の彼は私のことも、彼の妻のことも愛してる。でも、その愛情の深さは、ぜんぜん違うの】このコメントには、非難する内容の返信がたくさんついていた。けれど、コメント主はまったく気にしていない様子で、非難に勝ち誇ったように返信していた。【いつも祝日や記念日にはそばにいてくれて、私が欲しいものはいくら高くても、真っ先に買ってくれるの。去年、私が病気になった時、彼は、私を心配して付きっ切りで看病してくれたの。そのせいで彼は帰ってから何日も高熱を出してたわ。まあ、結局彼を看病したのは彼の妻みたいだけどね。それに何より、私が、『私たちの子どもに会社を継がせたい』って言ったら、彼はすぐにあの女の子どもをおろさせたのよ。ウケるよね……彼ったらわざわざ妻が流産するようにいろいろ目論んだらしい。それで彼の妻は、お腹の子に問題があるんだって本気で思い込んでたみたいよ。まあ、当然だけどね。あの女は彼と同じくらいの年でしょ?昔、彼が会社を立ち上げた時は一緒に苦労したみたいだけど、もう若くないし。20代前半の私と比べられるわけないじゃない?】この返信には、ツーショット写真が添えられていた。鏡に映った姿を撮ったもので、二人の顔は見えなかった。ただ、男性は上半身裸で、彼の前にはキャミソール姿の女性が立っていて、その日に焼けた肌と引き締まった筋肉で、前に立つ女性の華奢で白い肌が一層際立って見えた。写真の中で男性は女性の腰を抱き寄せていて、なんとも艶めかしい姿が写っていたのだった。【ね?ベッドの中でも外でも、彼にお似合いなのは私だけでしょ】これにはネット上の非難が一層激しくなった。でも、優里だけは、スマホを握りつぶしてしまいそうな勢いで、そのツーショット写真を食い入るように見つめていた。
Read more

第2話

オフィスには誰もいなかった。ほっとすべきか、呆れるべきか、優里の心は痺れきったかのように、なんの感情も湧かなかった。見回すと、純一のデスクはいつも通り綺麗に片付いていた。そして、デスクの上には、去年海外旅行に行った時の二人の写真が飾ってあった。優里はゆっくりと奥へ進んだ。部屋の中を見回す視線が、やがてトイレのドアで止まった。ドアは閉まっていたが、中からかすかな声が漏れ聞こえてきた。それは甘えたようでありながら、得意げな女の笑い声だった。優里は一歩、また一歩とドアに近づいていく。やがて、中の会話がはっきりと聞こえるようになった。「で、優里さんってほんとにおバカさんね。まんまと信じちゃったの?」そう言う若くて、甘ったるい媚びるような声がそこから漏れて聞こえた。「少しは疑うかと思ったけど」「あいつは、いつも俺を信じているからな」続いて聞こえてきたのは、慣れ親しんだ純一の低く、魅力的な声だった。「付き合い始めた時から、あいつは一度も俺を疑ったことがない」「それはあなたの演技が上手だからよ」女は笑った。「でも正直な話、いつ彼女に本当のことを言うつもり?私、いつまでも日陰の女でいるのは嫌よ」「焦るなよ」純一の声は、優しくなだめるようでありながら、有無を言わさない響きがあった。「まだその時じゃないんだ。会社は今、大事なプロジェクトをいくつか抱えてる。あいつは株主だから、下手に離婚すれば会社のイメージや株価に影響する」「結局、あなたは自分の利益が惜しいだけでしょ」「これも、全部俺たちの将来のためだろ?」そう言って、純一の声はさらに和らいだ。「あいつの体がもう少し回復したら、ゆっくり話をする。心配するな。お前との約束を、俺が破ったことがあるか?」「それはそうね」女はくすくす笑い、急に色っぽい声になった。「あなたもひどい人よね……優里さんは今頃、病院で一人ぼっち。可哀想にあなたを待ってるのに、あなたはここで……あっ、やだ、やめてったら」男は低く笑った。「お前がしがみついてくるからだろ?わざとやってるくせに」「そんなことないもん。ただ……こうしていると、なんだか秘密の恋人みたいで、すごくドキドキするなって」「お前も物好きだな」そして、衣擦れの音が続いた。女の忍び笑いと、男の次第に荒くなる息遣いが混じり合う
Read more

第3話

片や優里は、黙って純一の後ろ姿を見つめていた。窓の外は日が落ちかけていて、夕暮れの光が彼の輪郭を金色に縁取る。それなのに、純一の姿はなぜか、どんどん知らない人のように見えてくるのだった。電話は1分もかからずに終わった。純一は振り返ると、申し訳なさそうに困った顔をしていた。「優里、すまない。会社で急用ができてしまった。取引先の担当者が急にフライトを変更して、今夜会わないといけなくなったんだ。家の使用人に来てもらうように頼んでおくから、それでもいいかな?」優里はすぐには返事をしなかった。彼女は純一の目を見て、かすかな声で尋ねた。「行かなきゃだめなの?」純一は、引き留められるとは思っていなかったのか、一瞬、表情をこわばらせた。「この提携は……本当に大事なんだ。下半期の大きな契約がいくつか、これにかかってる」「私よりも大事なの?」優里は、落ち着いた声で、そう重ねて聞いた。すると純一はそばに歩み寄ると、優里の顔を両手で包み込み、額にキスをした。「バカだな。もちろん、お前が一番大事に決まってるだろ。でも仕事で稼がないと、お前にいい暮らしをさせてやれないだろ?だから、わかってくれよ。話が終わったら、どんなに遅くなっても必ず戻ってくるから」優里は、潤んで赤くなった目で純一を見つめると、彼の手を掴んだ。「もし私が、今日はどうしても、ここにいてほしいって言ったら、どうする?」純一は掴まれた自分の手に目を落とした。そして、優しく、しかし有無を言わせぬ強さでその手を振り払った。「優里、困らせないでくれ。本当に行かないといけないんだ。ゆっくり休んでて。明日の朝一番で、また来るから」そう言って彼は財布からクレジットカードを一枚抜き取って、ベッドサイドのテーブルに置いた。「欲しいものがあったら、これで何でも買うといい。遠慮はいらないから……じゃあ、行ってくる」病室のドアの前まで来ると、純一はもう一度振り返った。そして、優里に優しい笑顔を向けて、「愛してるよ」とつぶやいた。だが、ドアが閉まった瞬間、二人はまるで二つの世界が完全に隔てられてしまったかのようだった。優里はベッドの縁に座ったまま、身じろぎ一つしなかった。窓の外はすっかり暗くなっていた。病室の明かりは消えていて、医療機器のランプだけが、かすかな赤い光を放っていた。
Read more

第4話

優里はその写真を数秒見つめたあと、何事もなかったかのようにメッセージを削除した。彼女はカバンからファイルを取り出した。中には弁護士の松井正人(まつい まさと)から送られてきた離婚協議書の最終稿と、探偵に依頼して集めた資料が入っている。写真の女は野口玲奈(のぐち れな)、25歳のダンス講師。純一とはもう3年も付き合っていた。玲奈は都心の一等地にあるマンションに住んでいて、その部屋は純一の名義で契約されていた。この半年間で、純一は彼女の名義で企画会社を設立し、2000万円を出資している。さらに皮肉なことに、玲奈は現在妊娠12週だった。優里はこれらの資料をめくりながらも、心は驚くほど穏やかだった。かつては心をズタズタに引き裂かれたであろう光景や事実も、今ではただただ不快で、鬱陶しくさえ感じるようになっていた。彼女が望むのは、ただ一日でも早く、すべてを終わらせることだけ。その日の夕方、純一が珍しく家で夕食をとった。食事中、純一のスマホが何度も鳴ったが、そのたびに彼は着信を切り、少しイライラした表情を見せていた。「仕事のこと?」優里はさりげなく尋ねた。「ああ、ちょっと面倒なことになっててな」純一は彼女の皿に魚を取り分けた。「でも大丈夫、なんとかする。お前はもっと食べろ、痩せすぎだ」食後、優里はひとつのファイルを差し出した。「そうだ、これにサインしてほしいの」「何の書類だ?」純一はそれを受け取ると、無造作にページをめくった。「以前、私が持っている会社の株を信託にしたいって話したでしょ?松井先生が契約書を準備してくれたから、目を通してみて」優里の声は落ち着いていた。「来月から新しい制度が始まるから、早めにサインした方がいいって。そうしないと、手続きが面倒になるらしいわ」そう言われ純一は眉をひそめて書類に目を通した。たしかに株式信託に関する内容で、複雑な条項と法律用語がびっしりと並んでいる。彼は最後のページをめくり、署名欄にすでに優里の名前が書かれているのを確認した。「どうしてまた急に?」と純一は尋ねた。「急じゃないわよ。先月、話したじゃない」優里はお茶を一口飲んだ。「その時、あなたがいいって言って、私に任せるって言ったわ」それを聞いて純一は記憶をたどった。たしかに、そんな話があったような気もしたのだ。
Read more

第5話

一方純一が家に帰ったのは、空が白み始めた頃だった。彼の足取りはどこかおぼつかなく、体からは玲奈がいつもつけている香水の匂いがした。昨夜は玲奈がひどく駄々をこねて、健診に付き合わせたあげく、彼女の部屋で泊まっていくようせがまれたのだ。なだめるのに随分と時間がかかった。結局、来月海外旅行に連れて行くと約束して、ようやく落ち着かせることができた。そして家のドアを開けるとき、純一は無意識に物音を立てないようにした――優里は眠りが浅いから、起こしたくなかったのだ。しかし、リビングはこうこうと明かりがついていて、不自然なほど静まり返っていた。「優里?」純一は声をかけた。返事はなかった。彼は眉をひそめ、スリッパに履き替えて2階へと向かった。だが、主寝室のドアは開けっ放しになっていて、ベッドにはシワ一つなく、まるで誰も寝ていなかったかのようだった。すると、純一はなぜか嫌な胸騒ぎを感じた。彼は急いで部屋に駆け込み、ウォークインクローゼットのドアが半開きになっているのに気づいた。優里が使っていた側のクローゼットはほとんど空っぽで、純一が贈ったのに彼女が一度も着なかった高価なドレスが数着、寂しげに掛かっているだけだった。ドレッサーの上からは、優里愛用の化粧品が消えていた。残されていたのは去年純一が贈ったアクセサリーケースだけだった。そしてその他、彼が贈った宝飾品は、何一つ持ち出されていなかった。さらに、ベッドサイドのテーブルに、結婚指輪が一つ置かれていた。それは3年前、純一が自らデザインしたもので、内側には二人のイニシャルが刻まれていたのだ。指輪の下には一枚のメモが挟んであり、そこには、【これで、終わりだ】とだけ書かれていた。それを見た瞬間に純一の呼吸が、にわかに荒くなった。はっと何かを思い出し、彼は書斎へと駆け込んだ。デスクの上には案の定、茶封筒が置かれている。震える手で封を開けると、中から数枚の紙が滑り出てきた――『離婚協議書』だ。明らかに写しだったが、そこに書かれた文字は、どれもはっきりとしていた。純一は急いでその内容に目を通した。財産の分け方は分かりやすく公平なものだった。優里が求めていたのは、結婚してからの財産の半分と、彼女自身の会社の持ち株に見合う分のお金だけだ。それ以上の要求
Read more

第6話

それからの1週間、純一は血眼になって優里を探し回った。そして優里が行きそうな場所はすべて訪れた。よく行っていた本屋や美術館, 彼女の両親が遺した古い家, そして二人が恋人時代によく通った小さなカフェも……しかし、どこにも優里の姿はなかった。彼女はまるで、忽然と姿を消したかのように、何の手がかりも残されていなかった。会社では、優里のオフィスはすでに空っぽになっていた。彼女の秘書の葵が辞表を提出しに来たとき、その目には隠そうともしない軽蔑の色が浮かんでいた。「社長から、葛城社長と野口さんが末永くお幸せになるようにとのことです」そう言う葵の声は氷のように冷たかった。「それから、社長は保有する株式をすべて原田社長に譲渡されました。これが譲渡契約書です。サインをお願いします」原田社長は、優里の会社のもう一人の創業者であり、彼女の長年の友人でもあった。純一は株式譲渡契約書を見つめながら、息が詰まるような感覚に襲われた。優里は、自分との関係をすべて断ち切るつもりなのだ。会社という最後の繋がりさえも残さずに。「いつ原田社長に連絡を?」彼はかすれた声で尋ねた。「先週、社長が退院された日です」葵は少し間を置いて付け加えた。「サインをされたのは、病院の病室でした。手術を終えたばかりで、顔を真っ青にして、手が震えてペンもろくに握れないご様子でした」そう言われ純一は胸を鷲掴みにされたような感覚に襲われた。あの日、優里を退院させようと迎えに行った時のことを思い出す。彼女は自分に笑いかけ、体を支えてくれと頼んだのに……まさか、そのすべてが演技だったなんて。優里はとっくに全てを計画していて、自分の前で最後の芝居を演じきったのだ。「葛城社長、ご用がなければこれで失礼します」葵はそう言って踵を返した。「待ってくれ」純一は彼女を呼び止めた。「安藤さん、優里は……何か言っていなかったか?俺のこととか、何か……」葵は振り返り、複雑な表情で純一を見つめた。「社長は、『一度割れてしまったものは、もう二度と元には戻らない』と一言だけ言いました」それから、彼女が出て行くとドアが静かに閉まった。葵は行ってしまった。そして純一は、だだっ広いオフィスに一人だけ取り残されてしまったのだ。すると彼は今までに感じたことのない、がらんとし
Read more

第7話

一方玲奈のマンション。彼女は鏡の前で、新しく買ったマタニティドレスを試着していた。インターホンが鳴った。純一だと思った玲奈は、嬉しそうにドアへと走った。しかし、ドアの向こうに立っていたのは純一ではなかった。制服を着た裁判所の職員が二人、立っていた。「野口さんですね。こちらは裁判所からの差押え通知です。この不動産は、夫婦の共有財産を不当に得た疑いがあるため、差し押さえます。24時間以内に立ち退いてください」「なんですって?」玲奈の顔からさっと血の気が引いた。「何かの間違いです!これは彼氏からプレゼントされたものですよ!」「もし贈与であれば、正式な贈与証明書をご提示ください。でなければ、元の所有者が返還を求める権利があります」職員は事務的に告げた。「また、あなた名義の車と銀行口座も凍結されました。今後の調査をお待ちください」職員たちが去った後、玲奈は震える手で純一に電話をかけた。でも、聞こえてきたのは、「電源が入っていません」という冷たいアナウンスだけだった。彼女はその場に崩れ落ち、ようやく何が起こったのかを悟った。その時、ドアが開いた。ドアの前には純一が立っていた。手にはファイルを抱えているのだった。その目は氷のように冷たく、いつもの優しさは微塵もなかった。「純一!」玲奈は立ち上がって彼に駆け寄った。「やっと来てくれたのね!この人たちが私を追い出そうとするの。この家はあなたがくれたって、ちゃんと言ってよ……」だが、純一は身をかわし、玲奈が触れるのを避けた。「俺の物を取りに来ただけだ」そう言って彼はまっすぐ寝室へ向かった。そしてサイドテーブルから、優里にもらった腕時計を取り出すと、丁寧に拭いて自分の腕にはめた。「そんなことしか頭にないの?」玲奈は信じられないという顔で純一を見た。「これから私はどうすればいいの?あなたの子どもを妊娠してるのよ!」純一は振り返ると、手にしたファイルを彼女の前に投げつけた。「これはお前がこの3年間で俺から受け取った全財産のリストだ。家、車、振り込み、ブランド品……合計で、1億7520万円になる」その声には感情がこもっていなかった。「優里が全額返還を求めている。刑務所に入りたくないなら、大人しく従うことだ」「気は確か?あなたが自分の意思で私にくれたものでしょ!」
Read more

第8話

それから純一は、またあの空っぽの家に戻ってきた。誰もいない家の中は、夜の静けさに包まれていた。そこで優里がどれほど強い覚悟で出ていったのかを、改めて思い知らされた。彼女は私物だけを持ち去り、彼が贈ったものは全て、この家に残していったのだ。そう思って純一は書斎のカーペットに力なく座り込み、壁に飾られた結婚写真を見つめた。写真の中の優里はシンプルな白いドレスを着て、三日月のように目を細めて笑っていた。あの日がとても暑かったことを思い出した。優里は化粧崩れを気にして、なかなか大声で笑えずにいた。だから自分は彼女をからかって言ったんだ。「優里、笑わないならキスするぞ」と。そう言いながら優里をくすぐると、彼女はこらえきれずに笑い出した。そして、怒ったふりをして甘えた声で言った。「もう、純一!」するとカメラマンが、その瞬間を見事に切り取ってくれた。それが優里の、一番自然で可愛い笑顔だった。その瞳は、星のようにキラキラと輝いていた。いったい、いつからだろう。彼女がこんな風に笑わなくなったのは。純一は必死に思い出そうとした。しかし、恐ろしいことに気づいてしまう。優里が最後に心の底から笑ったのがいつだったか、まったく思い出せないのだ。記憶にあるのは、日に日に口数が減っていく彼女の顔と、疲れ切ったその瞳。そして、いつも繰り返された「私は平気だから、仕事に戻って」という言葉だけだった。その時、スマホが震えた。颯太からのメッセージだった。【社長、奥様の弁護士から連絡がありました。株式譲渡に関する書類に、社長のサインが必要とのことです】それを聞いて純一は、心臓を鈍器で殴られたような苦しさを感じた。彼は颯太に電話をかけた。「優里は、他に何か言ってたか?」颯太の声は、恐る恐るという感じだった。「いえ、奥様ご本人からは何もありませんでした。連絡してきたのは松井先生です。松井先生が言うには……奥様は会社に関する手続きをすべて彼に一任されたとのことです。社長にもご協力をお願いしたいと……」「彼女は今どこにいるんだ?」「それが、松井先生は何も……」「調べろ」純一の声はかすれていた。「使える手は全部使え。優里が今どこにいるのか、絶対に突き止めるんだ」「社長、それはさすがに……」颯太は思わず口を挟んだ。「奥様は今、そっとしておいてほ
Read more

第9話

それを聞いて、純一は思わずガクッとした。優里が一人でできるはずがない。誰かが手引きしているに違いない。「調査を続けろ」彼は歯を食いしばりながら言った。「江見市の高級住宅街や家具付きマンションを一つずつ当たれ。それと、江見市に友人がいるかどうかも調べるんだ」「そちらは調査済みです」颯太が言った。「奥様には確かに江見市にご友人がいました。大学の同級生の、山下美羽(やました みう)です。ですが、山下さんは去年海外に移住しており、今は国内にいません」「じゃあ、一体誰が……」純一は眉をひそめて考え込んだ。その時、スマホに着信があった。正人からだった。「もしもし?」「葛城社長」正人の声は比較的穏やかだった。「離婚協議の件で、いくつか詳細を確認させていただきたいことがあります」それを聞いて純一はスマホを握りしめて言った。「優里はどこにいますか?」「申し訳ありませんが、依頼人の所在は明かせません。詳細についてはメールでお送りしますので、ご確認ください」と、正人は丁寧だがどこかよそよそしい声で言った。数秒後、純一のスマホに一通のメールが届いた。彼がメールを開くと、離婚協議に関する意見書だけでなく、圧縮ファイルも添付されていた。解凍すると、数百枚ものスクリーンショットが出てきた。玲奈のSNSの投稿、自分とのチャット履歴、銀行の振込証明、不動産の譲渡書類まで……さらに、音声ファイルまであった。純一は震える手で再生ボタンを押した。「純一、今日も優里さんから電話あったの?」玲奈の甘ったるい声だった。「ああ。腹の調子が悪いんだと」それは、自分の声だった。「ふーん。で、放っておくの?」「たいしたことじゃない。たぶん食あたりだろう」当時の自分は、そう軽く答えていた。「それより、手の火傷は大丈夫なのか?」「痛ぁい」玲奈は甘えながら言った。「でも、あなたがフーフーしてくれたら痛くなくなっちゃう」「まったく、お前は……」その声には、彼女への愛しさが満ちていた。音声はここで途切れた。わずか十数秒。しかし、その内容に純一は刃物で突き刺されたかのように感じた。あの日だ。優里から三度もかかってきた電話を、自分は一度も出なかった。折り返した時には彼女はもう病院にいて、子供は流れてしまっていた。電話の向こうで張り
Read more

第10話

一方、その頃江見市の、鏡湖のほとりにある本屋では、優里は入荷したばかりの美術書を、優雅な手つきで丁寧に整理していた。シンプルなベージュのニットにリネンのパンツ姿。長い髪は後ろでゆるくお団子にまとめられ、すっきりとした横顔をのぞかせているのだった。純一のもとを去って1ヶ月。優里は4キロも痩せてしまったけれど、その瞳はこれまでになく澄んでいた。「優里ちゃん、ちょっと休んだら?」オーナーの石川文恵(いしかわ ふみえ)が温かいお茶を持ってきてくれた。「午前中、ずっと働きづめだったでしょ」優里はお茶を受け取ると、にっこり笑ってお礼を言った。この本屋は、優里が偶然見つけた場所だった。あの日、鏡湖のあたりを散歩していたら急な雨に降られて、このお店に駆け込んだのがきっかけだ。文恵はとても気さくな人で、仕事を探していると話すと、ちょうど人手が足りていないからと誘ってくれたのだ。「うち、お給料はあまり高くないけど、静かでいいわよ」その時、文恵はこう言った。「本が好きで、静かな場所がいいなら、一度やってみない?」優里はここの雰囲気が気に入り、働くことにした。そして文恵は優里の過去を根掘り葉掘り聞いたりせず、ただ「優里ちゃん」と呼んで、とてもよくしてくれた。「そういえば、黒崎さんがまたお花を届けてくれたわよ」そう言って、文恵はドアの方に合図した。「今度は百合。花瓶に生けておいたから」そう言われ優里が窓辺の花瓶に目をやると、たくさんの白い百合が綺麗に咲いていた。彼女は困ったように微笑んだ。「石川さん、次に彼がお花を持って来たら、私は花粉症だって言ってもらえますか?」「ええ、言ったわよ」文恵は悪戯っぽく瞬きした。「そしたら、次は多肉植物を贈るって」黒崎大輔(くろさき だいすけ)とは、隣の建築デザイン事務所の共同経営者だ。優里が引っ越してきた翌日にエレベーターで出会い、荷物を運ぶのを手伝ってくれた。隣人だと知ってからは、時々本屋に顔を出すようになった。本を買うこともあれば、ただ少し座っているだけの時もある。大輔はとても紳士的で、馴れ馴れしい態度をとったことは一度もなかった。でも、大輔が自分に好意を寄せているのは、優里にも伝わってきて、それが彼女を戸惑わせていた。彼女はまだ新しい恋を始める心の準備はできていない
Read more
PREV
12
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status