LOGINその日、中絶手術を受けた葛城優里(かつらぎ ゆり)なのだが、手術が終わっても夫である葛城純一(かつらぎ じゅんいち)は姿を見せなかった。 優里はベッドに横たわったまま、スマホを見たが純一からの連絡はない。ちょうど彼にどういうことか聞いてみようと思った、その時だった。ネット記事のタイトルが、ふと目に飛び込んできたのだ。 【男の愛にも、差別はあるものなのか?】 その記事で、1万以上の「いいね」がついてトップに上がってきたコメントは、衝撃的な内容だった。 【もちろんよ。私の彼は私のことも、彼の妻のことも愛してる。でも、その愛情の深さは、ぜんぜん違うの】 このコメントには、非難する内容の返信がたくさんついていた。 けれど、コメント主はまったく気にしていない様子で、非難に勝ち誇ったように返信していた。 【去年、私が病気になった時、彼は、私を心配して付きっ切りで看病してくれたの。そのせいで彼は帰ってから何日も高熱を出してたわ。まあ、結局彼を看病したのは彼の妻みたいだけどね。 それに何より、私が、『私たちの子どもに会社を継がせたい』って言ったら、彼はすぐにあの女の子どもをおろさせたのよ】
View More純一の亡き後の事を整理し終えると、優里は残りの学業を修めるためにF国へ戻った。そして翌年の春、彼女は無事に卒業し、帰国した。空港には大輔が迎えに来ていた。その手には、大きなヒマワリの花束が抱えられている。大勢の人が行き交う中でも、彼はすぐに見つかった。すらりとした長身に、完璧な体型を引き立てる仕立ての良いスーツ。そこに立っているだけで、ひときわ輝いて見えたからだ。「おかえり」大輔は優しく微笑んだ。優里も微笑み返した。F国での1年は、彼女を大きく変えた。以前よりも落ち着き、自信に満ちている。その瞳には、再び輝きが戻っていた。大輔のマンションはリフォームされていて、半分が優里のスペースとして用意されていた。同棲をしようというわけではない。ただ彼はこう言ったのだ。「君だけの空間が欲しくなったら、いつでも戻れるようにね。でも、ここがいつだって君の居場所ということ、忘れないでほしい」優里は自分のアトリエを立ち上げる準備を始め、アートの企画を手がけるようになった。大輔は自分の人脈を使って優里に仕事を紹介してくれた。でも、彼女のやることに決して口出しはしなかった。「これは君の仕事だ、君自身で決めるんだ」大輔は言った。「俺は、いつでも君の味方でいるだけさ」アトリエのオープニングパーティーには、たくさんの人が駆けつけた。元の同僚たちも来てくれたし、文恵もわざわざ江見市から駆けつけてくれた。優里はシンプルな白いパンツスーツを着こなしていた。すっきりと後ろでまとめた髪からは、整った輪郭がのぞいている。彼女は落ち着いた様子で客をもてなし、自信に満ちて輝いていた。大輔は少し離れた場所から、ずっと優里を見つめていた。その眼差しは、とても優しかった。夜、打ち上げが終わったあと、大輔は優里を家まで送った。彼女のマンションの前で車は停まったが、大輔はすぐにはドアを開けなかった。「優里さん」彼は少し緊張した様子で手をこすり合わせながら言った。「君に相談したいことがあるんだ」「うん?」「穂波市で2年間のプロジェクトを任されることになったんだ。それで……君も一緒に来てくれないか?」優里は大輔を見つめて尋ねた。「どういう立場で?」大輔はポケットから小さな箱を取り出した。今度こそ、本物の指輪のケースだった。「俺の婚
大輔はスマホを拾い、電話の向こうの声を聞いた。「葛城さんは交通事故で亡くなりました。ある寺へ向かう道中のことでした。彼は『あの時、果たせなかった約束を遂げるため、そして——生まれることのなかったあの子供の冥福を祈るために向かうのだ』と申しておりまして……」優里は呆然と座り、顔からは何の表情も読み取れなかった。泣くことも、悲しむこともなく、ただ心が空っぽだった。純一が死んだ。10年愛し、憎みもして、最後には許すことができた、あの男。死んでしまった。純一には身寄りがなかったため、優里が国内に戻って彼の亡き後の事を引き受けた。葬儀はごくささやかなもので、弔問客も数人の親しい友人だけだった。そんな中、玲奈は姿を見せなかった。聞くところによると、彼女はとっくに子供を堕ろし、純一から大金を受け取って海外に渡ったらしい。優里は郊外の静かな霊園に墓地を買い、純一の墓をそこに建てた。墓石には立派な戒名すら刻まれず、生前の名前と生没年月日がぽつんと彫られているだけだ。弁護士が優里に一つの鉄の箱を渡した。純一が生前に託したもので、必ず彼女に手渡すようにと頼まれていたそうだ。優里は一日中動き回って疲れ果てており、その心境は言葉では言い表せないものだった。まるで長い夢を見ているようだった。もしかしたら夢から覚めれば、あの男がまた平然と目の前に現れるのではないだろうか?江見市のマンションに戻り、優里はしばらくためらった末に、その箱を開けた。中に入っていたのは、お金でも、書類でもなかった。分厚い手紙の束だった。一番上には一枚のメモが置かれていた。純一の字は、少し震えているように見えた。【優里へ:お前がこれを読んでいるということは、俺はもうこの世にいないということだ。悲しまないでくれ。これが俺にふさわしい結末なんだ。この手紙は、俺たちが一緒にいた間に書くべきだったのに書けなかったものだ。とても、とても遅くなってしまったけど、今、その埋め合わせをするよ。お前は俺を許さないかもしれない。でも俺は……お前なら許してくれるとも思うんだ。死に際のわがままと言うんだろうけど、最後に一度だけ、お前の優しさに甘えさせてほしい。優里、ごめん。そして、ありがとう。純一】優里の目から、涙が知らず知らずのうちに
今回、純一はついに振り返った。でも、自分はもうそこにはいなかった。――F国の春は、とても美しい。優里がここへ来て、もう8ヶ月。外国語はめきめき上達し、学業も順調だった。彼女は小さなマンションを借りて、毎日学校まで歩いて通っている。通学路のパン屋では、優しい老人がいつもクロワッサンを一つおまけしてくれた。大輔は毎月優里に会いに来て、週末だけ滞在したり、数日いたりした。彼は優里の勉強の邪魔をすることなく、ただ静かにそばにいてくれる。一緒に博物館を巡ったり、カフェで読書をする彼女に付き合ったり、あるいは並んで川沿いをのんびり歩いたりして……優里の誕生日は4月。大輔はわざわざ1週間の休みを取って、「ラベンダーを見に行こう」とF国まで会いに来てくれた。「今はラベンダーの季節じゃないわ」と優里は笑った。「それなら、まだ咲いていないラベンダー畑を見に行こう」大輔はさも当然のように言うと、その瞳を優しく輝かせた。「君と一緒に行くのが大事なんだ」「わかったわ」もちろん、行ってもまだ何も咲いてはいなかった。それでも、景色は素晴らしかったから、無駄足ではなかった。優里は、こんなに心が落ち着いたのは久しぶりだった。彼女は運転席で真剣にハンドルを握る男の横顔を見つめる。すっきりとした綺麗な横顔に淡い光が落ちていて、その姿はどこかいつも以上に優しげな雰囲気を纏っていた。これは、神様がくれた贈り物なのかもしれない、と優里はふと思った。彼女はそっと視線を戻したが、口元に浮かんだ微笑みはしばらく消えなかった。誕生日の当日、大輔はマンションでご馳走を作ってくれた。味はまあまあだったけれど、心のこもった料理だった。優里はお腹をさすりながら、少し大げさに言った。「あと2日もいたら、太っちゃうわ。大輔さん、あなたは本当に料理の才能があるのね」「じゃあご褒美に、皿洗いをさせてもらおうかな」大輔はため息交じりに立ち上がると、優里の頭を自然にぽんと撫でた。「ゆっくり休んでて。これからは全部俺がやるから、手出しは禁止ね」その後ろ姿を見つめる優里の胸に、不思議な感覚がこみ上げてきた。後片付けが終わり、二人はソファに座ってテレビを見ていた。大輔が、小さなベルベットの箱を取り出した。「プロポーズじゃないから」彼は先回り
一方、優里は江見市を離れることにした。逃げるわけじゃない。申請していた海外研修プログラムに合格して、1年間、F国でアートマネジメントを学ぶことになったのだ。そのことを知った大輔は、長いこと黙り込んでいた。「どのくらい行くんだ?」と、彼が尋ねた。「1年……もしかしたら、もっと長くなるかも」優里は言った。「大輔さん、ごめん、私……」「謝ることないよ」大輔は笑った。「すごく良いチャンスじゃないか。行くべきだよ。ただ……」彼は優しい眼差しで、優里を見つめた。「待っててもいいかな?」優里は目頭が熱くなった。「私なんて、待ってもらう価値はないわ。離婚もしてるし、心にはたくさんの傷がある……いつ治るかもわからないし、もしかしたら一生治らないかもしれないのに」だって自分が過去に縛られているうちは、新しい恋なんて始められないと彼女は思ったからだ。「優里さん」大輔は彼女の手を握りしめた。「誰にだって過去はある。君の過去が、今の君を作ったんだ。そして今の君は、俺が会った中で一番勇敢で素敵な女性だよ。1年なんてすぐだ。ここで君の帰りを待ってる」出発の前日、優里はある神社へ向かった。何かを祈願するためではない。ただ、静かな場所で心を落ち着けたかっただけだ。しかし、入り口で、また純一に会うなんて思ってもみなかった。彼は以前よりもやつれていて、無精ひげも伸びていた。でも、その瞳は驚くほど澄んでいた。「ここを離れるんだってな」純一は静かな声で言った。「安心してくれ、引き止めに来たわけじゃない。ただ……最後に少しだけ、話がしたくて」優里はうなずいた。こうして二人は神社の外の道をゆっくりと歩いた。秋の日差しが木々の間から差し込み、まだらな影を落としている。「会社を売ったんだ」純一が不意に口を開いた。優里は驚いて彼を見上げた。「原田社長が引き継いでくれた。公正な価格でな」純一は苦笑いを浮かべた。「ここ数年、仕事ばかりでお前を蔑ろにして、あんなに傷つけて……今思うと、本当に割に合わないことばかりだった」「あなた……」「最後まで聞いてくれ」純一は優里の言葉を遮った。「俺たちが住んでた家も売った。手に入った金は三つに分けて、一つは母子福祉財団に寄付した。もう一つは信託基金にしたから、もし将来子供ができたら使ってくれ