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遅れてきた春と、開けないままの手紙
遅れてきた春と、開けないままの手紙
作者: 南のさかな

第1話

作者: 南のさかな
その日、中絶手術を受けた葛城優里(かつらぎ ゆり)なのだが、手術が終わっても夫である葛城純一(かつらぎ じゅんいち)は姿を見せなかった。

優里はベッドに横たわったまま、スマホを見たが純一からの連絡はない。ちょうど彼にどういうことか聞いてみようと思った、その時だった。ネット記事のタイトルが、ふと目に飛び込んできたのだ。

【男の愛にも、差別はあるものなのか?】

その記事で、1万以上の「いいね」がついてトップに上がってきたコメントは、衝撃的な内容だった。

【もちろんよ。私の彼は私のことも、彼の妻のことも愛してる。でも、その愛情の深さは、ぜんぜん違うの】

このコメントには、非難する内容の返信がたくさんついていた。

けれど、コメント主はまったく気にしていない様子で、非難に勝ち誇ったように返信していた。

【いつも祝日や記念日にはそばにいてくれて、私が欲しいものはいくら高くても、真っ先に買ってくれるの。

去年、私が病気になった時、彼は、私を心配して付きっ切りで看病してくれたの。そのせいで彼は帰ってから何日も高熱を出してたわ。まあ、結局彼を看病したのは彼の妻みたいだけどね。

それに何より、私が、『私たちの子どもに会社を継がせたい』って言ったら、彼はすぐにあの女の子どもをおろさせたのよ。

ウケるよね……彼ったらわざわざ妻が流産するようにいろいろ目論んだらしい。それで彼の妻は、お腹の子に問題があるんだって本気で思い込んでたみたいよ。

まあ、当然だけどね。あの女は彼と同じくらいの年でしょ?昔、彼が会社を立ち上げた時は一緒に苦労したみたいだけど、もう若くないし。20代前半の私と比べられるわけないじゃない?】

この返信には、ツーショット写真が添えられていた。

鏡に映った姿を撮ったもので、二人の顔は見えなかった。

ただ、男性は上半身裸で、彼の前にはキャミソール姿の女性が立っていて、その日に焼けた肌と引き締まった筋肉で、前に立つ女性の華奢で白い肌が一層際立って見えた。

写真の中で男性は女性の腰を抱き寄せていて、なんとも艶めかしい姿が写っていたのだった。

【ね?ベッドの中でも外でも、彼にお似合いなのは私だけでしょ】

これにはネット上の非難が一層激しくなった。でも、優里だけは、スマホを握りつぶしてしまいそうな勢いで、そのツーショット写真を食い入るように見つめていた。

この男は……

左肩にははっきりと歯形が残っている。それは、純一の肩にあるものとまったく同じだった。

見間違えるはずがない。だってそれは、3年前、彼女自身がつけたものだから。

コメント欄は非難の嵐だったが、コメント主に羞恥心などまるでないようだった。

【私は自分が悪いとは思わないな。だって、先に声をかけてきたのは彼のほうだし。それに、彼はもう自分の妻のことなんて大して愛してもいないのに、贅沢な暮らしはさせてあげてるんでしょ?それだけでも十分じゃない?

そういえば3年前も、彼の妻は一度流産してるらしい。ちょうどその時が、私と彼の出会い。彼は火傷した私の手を手当てしてくれていて、彼女からの電話に出なかったの。それで病院に行くのが遅れて、赤ちゃんはダメになっちゃったんだって。

今と同じ。あの女が一人で病院で中絶してる間に、彼は私と一緒にいてくれてたの。

これが、男にとっての『好き』と『愛している』の違いってわけ】

この書き込みは、たった2分前のものだった。

それを見た優里は全身の血の気が引くのを感じ、もうそれ以上は読んでいられなかった。

スマホを閉じると、彼女はこの2週間の出来事が頭の中を駆け巡った。それは、あの女の書き込みと、すべてが一致していたのだった。

2週間前、純一はつわりがひどい優里を気遣い、わざわざ栄養がつくからと言っていろいろサプリを買ってくれていた。

おかげで、たしかにつわりは治まったが、それと同時に不正出血が始まったのだ。

何度も検査をしたが、医師からは、「少し不安定だけど、大きな問題はないから安静にしていれば大丈夫です」としか言われなかった。

しかし、出血はどんどんひどくなり、その回数も増えていった。

体を心配して、純一は悲痛な面持ちで優里を抱きしめた。「優里、この子は、諦めないか?先生にも相談したんだ。こういう場合、赤ちゃんに何か問題があることが多いらしい。お前の体が回復したら、また元気な子を産めばいい」

そう言われ優里は彼を疑うこともなく、自分の体に問題が起きたのだと信じていた。だから、中絶することに同意したのだ。

しかし手術の直前になって、純一は、「会社で急用ができたから、少し遅れて行く」と言ってきた。まさか……

他の女と一緒にいたなんて。

それに、3年前のあの子も……

あの時、純一がすぐに駆けつけてくれていたら、あの子は助かったはずなのに。

あれは二人にとって、初めての子供だったのに。

そう思って優里は手のひらを強くつねり、無理やり冷静さを保った。そして、純一に電話をかけた。

電話はすぐにつながったが、電話口で純一の息は少し乱れていた。「……優里、手術は終わったのか?」

優里は、「うん」と返事をした。「あなたはまだ仕事中?」

「ああ、まだ会社だよ」

そう言って純一は少し間を置いてから、優しく続けた。「もうすぐ終わるから。病室で少し休んでな。後で何か美味しいもの、持っていくから」

以前の優里なら、純一の優しい言葉を聞いて、それだけで舞い上がってしまいただろう。

でも、今は違う……彼女は冷たい表情で、「わかった」とだけ答え、電話を切った。

そして点滴が終わるのも待たず、優里は針を引き抜くと、タクシーに乗り込んで会社へと向かった。

会社では社員たちはそれぞれの持ち場で忙しく働いていて、彼女の存在に気づく者はいなかった。優里はふらつく体に鞭を打ち、社長室へとまっすぐ向かった。

すると純一の秘書の松尾颯太(まつお そうた)がドアの前に立っていた。彼女の姿を見ると、明らかにぎょっとした顔になった。

「奥様、どうされましたか?」

「純一はどこ?」

「社長は、その……」

彼の泳いでいる視線と、歯切れの悪い口ぶりから、明らかに何かを隠しているのは目に見えていた。

すると、優里は閉ざされたドアに冷たい視線を送った。「中にいないの?なら、入るのはやめておくわ。代わりに、あなたが企画部から書類を一部持ってきてちょうだい。ここで待ってるから」

「奥様……」

「急いでるの。今すぐよ!」

普段の優里は穏やかだが、本気になるとその迫力は誰にも劣らなかった。

そう言われ颯太は戸惑いながらも、頷くしかなかった。「かしこまりました。すぐに行ってまいります」

そして颯太が去った後、優里が目の前の固く閉ざされたドアを見つめながら、その瞳は、次第に赤く潤んでいた。

その瞬間、様々な思いが胸をよぎったが、彼女は迷った末、結局ドアを開けたのだった――
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