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第4話

作者: 南のさかな
優里はその写真を数秒見つめたあと、何事もなかったかのようにメッセージを削除した。

彼女はカバンからファイルを取り出した。中には弁護士の松井正人(まつい まさと)から送られてきた離婚協議書の最終稿と、探偵に依頼して集めた資料が入っている。

写真の女は野口玲奈(のぐち れな)、25歳のダンス講師。純一とはもう3年も付き合っていた。

玲奈は都心の一等地にあるマンションに住んでいて、その部屋は純一の名義で契約されていた。

この半年間で、純一は彼女の名義で企画会社を設立し、2000万円を出資している。

さらに皮肉なことに、玲奈は現在妊娠12週だった。

優里はこれらの資料をめくりながらも、心は驚くほど穏やかだった。

かつては心をズタズタに引き裂かれたであろう光景や事実も、今ではただただ不快で、鬱陶しくさえ感じるようになっていた。

彼女が望むのは、ただ一日でも早く、すべてを終わらせることだけ。

その日の夕方、純一が珍しく家で夕食をとった。

食事中、純一のスマホが何度も鳴ったが、そのたびに彼は着信を切り、少しイライラした表情を見せていた。

「仕事のこと?」優里はさりげなく尋ねた。

「ああ、ちょっと面倒なことになっててな」純一は彼女の皿に魚を取り分けた。「でも大丈夫、なんとかする。お前はもっと食べろ、痩せすぎだ」

食後、優里はひとつのファイルを差し出した。「そうだ、これにサインしてほしいの」

「何の書類だ?」純一はそれを受け取ると、無造作にページをめくった。

「以前、私が持っている会社の株を信託にしたいって話したでしょ?松井先生が契約書を準備してくれたから、目を通してみて」優里の声は落ち着いていた。「来月から新しい制度が始まるから、早めにサインした方がいいって。そうしないと、手続きが面倒になるらしいわ」

そう言われ純一は眉をひそめて書類に目を通した。たしかに株式信託に関する内容で、複雑な条項と法律用語がびっしりと並んでいる。彼は最後のページをめくり、署名欄にすでに優里の名前が書かれているのを確認した。

「どうしてまた急に?」と純一は尋ねた。

「急じゃないわよ。先月、話したじゃない」

優里はお茶を一口飲んだ。「その時、あなたがいいって言って、私に任せるって言ったわ」

それを聞いて純一は記憶をたどった。たしかに、そんな話があったような気もしたのだ。

あの頃は玲奈を産婦人科に連れて行くので忙しく、仕事すらままならなかった。だから優里が何を言っても、彼は適当に相槌を打つだけだったのだ。

そこで純一は署名欄に目をやり、また前のページに戻ってざっと条項を流し読みしたが、特に問題はなさそうだった。

「ペンを貸してくれ」彼は手を差し出した。

優里は万年筆を一本抜き、純一に手渡した。

それは何年も前に彼女が誕生日プレゼントとして贈ったもので、軸には純一のイニシャルが彫られているのだった。

純一はペンを受け取ると、優里の署名の隣にある空欄に、自分の名前を書き込んだ。

こうして静まり返ったダイニングに、ペン先が紙の上を滑る音だけがやけにはっきりと響いた。

優里は純一が最後の画を書き終えるのを見届けると、書類を受け取って署名を念入りに確認し、ファイルを閉じた。

「ありがとう」と彼女は言った。

その声には、ほっとしたような響きが、かすかに混じっていた。

「こういう細かいことは、今度から松井先生から直接俺に連絡させろ。お前が気を遣うことはないさ」純一は立ち上がり、優里の髪を優しく撫でた。「今夜はちょっと出かける。会社で処理しないといけないことが残ってるんだ」

「わかった」優里は頷いたが、彼の顔は見なかった。

純一は上着を羽織ると、玄関先で振り返った。「先に寝てろよ。待たなくていいから」

それから、優里はダイニングテーブルに座ったまま、しばらく動かなかった。

窓の外はすっかり夜の闇に包まれ、ガラス越しに庭のガーデンライトが柔らかな光を放っているのが見えた。

彼女は立ち上がって書斎に入ると、シュレッダーの電源を入れた。そして、さきほど純一がサインした『株式信託契約書』を一枚ずつ差し込んでいく。紙は細かく裁断され、もう二度と元の形には戻せない破片となった。

それから、彼女はファイルの最も下に挟まっている離婚協議書を取り出した――

そこにはすでに純一の名前が記されている。彼自身、何にサインしたのか分かっていないだろう。

優里はペンを取り、妻の署名欄に、自分の名前を丁寧に書き込んだ。

その文字はきちんとしていて、筆跡は力強く、微塵も歪まなかった。

すべてを終えると、彼女は2階へ上がり、荷造りを始めた。

持っていくものは多くない。数枚の着替え、大切な証明書類、そして思い出の品が少しだけ。

ほとんどの物は新しく買えばいい。この家にあったものは、もう何もいらないから。

すると、荷造りの途中で、スマホが鳴った。

純一からだった。

優里は画面で点滅する名前を見つめたが、電話には出なかった。

着信音は鳴りやんではまた鳴り、それを数度繰り返したあと、ようやく静かになった。

続いてメッセージが届いた。【優里、どうして電話に出ないんだ?今夜は戻れそうにない。心配しないで、先に寝てくれ】

それを見た優里はわけもなく笑みを浮かべ、スマホを置いた。

返信はしなかった。

それから、深夜2時、彼女は小さなスーツケースを引きずりながら、5年住んだこの邸宅をあとにした。

振り返ると、建物は夜の闇の中に静かにそびえ立っていた。かつては我が家だった場所も、今では裏切りと嘘に満ちた監獄のようにしか思えなかった。

タクシーはすでに家の前で待っていた。

運転手が荷物をトランクに入れてくれると。優里は車に乗り込み、空港近くのホテルの名前を告げた。

そして車は発進し、住宅街を離れていった。

優里はバックミラーで、あの邸宅がどんどん小さくなり、やがて角を曲がって見えなくなるのを、ただ見つめていた。

涙は出なかったし、振り返りもしなかった。

スマホが震え、正人からメッセージが届いた。

【葛城さん、協議書は公証役場に提出しました。手続き通りにいけば、約1ヶ月後に審理が終わります。また、野口さんと旦那さんとの間の金の流れについても、詳細なデータが揃っています】

優里は返信した。【ありがとうございます。予定通り進めてください。彼女には1円たりとも残さず返してもらいます。それと、この1ヶ月、面倒は起こしたくありません。特に、純一に居場所を知られることのないようお願いします】

【承知いたしました。手配済みです。ご安心ください】

こうして車は空港高速道路に入り、窓の外を街のネオンが流れていった。

優里は背もたれに寄りかかり、静かに目を閉じた。

純一、さようなら。
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