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第2話

Author: 南のさかな
オフィスには誰もいなかった。ほっとすべきか、呆れるべきか、優里の心は痺れきったかのように、なんの感情も湧かなかった。

見回すと、純一のデスクはいつも通り綺麗に片付いていた。そして、デスクの上には、去年海外旅行に行った時の二人の写真が飾ってあった。

優里はゆっくりと奥へ進んだ。部屋の中を見回す視線が、やがてトイレのドアで止まった。

ドアは閉まっていたが、中からかすかな声が漏れ聞こえてきた。

それは甘えたようでありながら、得意げな女の笑い声だった。

優里は一歩、また一歩とドアに近づいていく。やがて、中の会話がはっきりと聞こえるようになった。

「で、優里さんってほんとにおバカさんね。まんまと信じちゃったの?」そう言う若くて、甘ったるい媚びるような声がそこから漏れて聞こえた。「少しは疑うかと思ったけど」

「あいつは、いつも俺を信じているからな」

続いて聞こえてきたのは、慣れ親しんだ純一の低く、魅力的な声だった。

「付き合い始めた時から、あいつは一度も俺を疑ったことがない」

「それはあなたの演技が上手だからよ」

女は笑った。「でも正直な話、いつ彼女に本当のことを言うつもり?私、いつまでも日陰の女でいるのは嫌よ」

「焦るなよ」純一の声は、優しくなだめるようでありながら、有無を言わさない響きがあった。「まだその時じゃないんだ。会社は今、大事なプロジェクトをいくつか抱えてる。あいつは株主だから、下手に離婚すれば会社のイメージや株価に影響する」

「結局、あなたは自分の利益が惜しいだけでしょ」

「これも、全部俺たちの将来のためだろ?」

そう言って、純一の声はさらに和らいだ。「あいつの体がもう少し回復したら、ゆっくり話をする。心配するな。お前との約束を、俺が破ったことがあるか?」

「それはそうね」女はくすくす笑い、急に色っぽい声になった。「あなたもひどい人よね……優里さんは今頃、病院で一人ぼっち。可哀想にあなたを待ってるのに、あなたはここで……あっ、やだ、やめてったら」

男は低く笑った。「お前がしがみついてくるからだろ?わざとやってるくせに」

「そんなことないもん。ただ……こうしていると、なんだか秘密の恋人みたいで、すごくドキドキするなって」

「お前も物好きだな」

そして、衣擦れの音が続いた。

女の忍び笑いと、男の次第に荒くなる息遣いが混じり合う中、優里の顔から血の気が引いた。

爪を掌に食い込ませながら、彼女は見えない手に心臓を鷲掴みにされたようで、息をするたびに鋭い痛みが走った。

けれど不思議なことに、涙は一粒も出なかった。

怒り、悲しみ、裏切り、あらゆる感情が、この瞬間、凍りついたかのようだった。

頭の中は異常なほど冴えわたり、トイレのドアの木目の一つ一つまで数えられそうだった。

こうして優里はぼうっとしたまま振り返り、一歩、また一歩と部屋を後にした。

その間彼女は物音ひとつ、立てなかった。

そして背後でオフィスのドアが静かに閉まり、中の耳を覆いたくなるようなすべてを遮断したかのようだった。

それからエレベーターホールまで来ると、優里はスマホを取り出し、秘書の安藤葵(あんどう あおい)に電話をかけ、かすれた声で言った。「安藤さん、腕のいい弁護士を探して。離婚協議書を作ってもらって」

「今、ですか?」

すると自分でも驚くほど落ち着いた声で、優里は答えた。「ええ、今すぐお願い。

財産分与は法律で定められた通りに。多くは望まないけど、1円だって少なく受け取るつもりはないわ。できたら直接私に持ってきて。純一には知らせないで」

こうして電話を切ると、彼女はエレベーターに乗り込んだ。

エレベーターの金属製のドアが閉まると、そこには一人の女の顔が映っていた――

血の気なくやつれてはいるが、その瞳には、今までにない冷たい光が宿っていた。

……

そして、夕方になって、純一はようやく病室に姿を現した。

大きなピンクのバラの花束を抱え、もう片方の手にはしゃれた重箱を提げていた彼の顔には、心配と疲労の色が絶妙に浮かんでいた。

「優里、待たせたな」

純一は手慣れた様子で、持ってきた花を花瓶に生けた。

「会社で急用ができてしまってな。どうしても手が離せなかったんだ」

優里はベッドに体を起こしたまま、静かに彼の芝居を眺めていた。

「頼まれていた書類だ」純一はカバンからファイルを取り出し、ベッドサイドのテーブルにそっと置いた。「電話してくれれば、俺が持ってきたのに。わざわざお前が来る必要なかっただろう?先生もおとなしくしてろって言ってたはずだ。無茶するなよ」

彼の優しい瞳は心配の色で満ちている。もし、あの会話をこの耳で聞いていなければ、優里はまたその優しさに溺れてしまうところだった。

「ちょっと息抜きがしたかっただけ」優里は抑揚のない、静かな声で言った。

何かを察したのか、純一が顔を近づけてくる。彼女の頬に触れようと手を伸ばしながら、尋ねた。「どうした?手術、大変だったか?痛むのか?」

だが、優里は顔をそむけて彼の手を避けた。「大丈夫」

そのわずかな仕草に、純一はきょとんとした。

しかし、彼はすぐに表情を戻すと重箱を開いた。「ここの料理長にお前の好物を作らせたんだ。鯛の塩焼きと茶碗蒸し、それから特製のお雑炊だ。さあ、温かいうちに食べろ」

すると料理の香りがふわりと広がり、そのどれも文句のつけようがないほど、手が込んでいるように見えた。

優里は箸を手に取ると、機械的に一口、また一口と口に運んだ。

料理は美味しいはずなのに、彼女は味気なく感じていた。

「ゆっくり食べろよ」

純一はベッドのそばに腰掛け、愛おしそうに優しい眼差しを向けた。「退院したら旅行に行こうか。お前はずっと雪山を見たいって言ってたろ?元気になったら、すぐに行こう」

そう言われ、優里は顔を上げ、純一の目を見つめた。

見慣れたその瞳の中に、偽りの綻びを見つけようとした。しかし、どこにもない。彼の演技は完璧で、些細な表情の一つまで、非の打ちどころがなかった。

「純一」

優里は不意に口を開いた。「私たち、ずいぶん一緒に散歩してないわね」

楽しかった昔の記憶が、あまりに鮮やかすぎるからだろう、もうすぐ終わってしまうとわかっていても、彼女は思い出さずにはいられなかった。

純一は一瞬きょとんとして、それから笑顔で言った。「そうだな、最近忙しかったからな。お前が元気になったら、毎日散歩しよう。な?」

「今すぐは?」優里は箸を置いた。「外を歩きたいの。この病院の庭でいいから。付き合ってくれる?」

そう言われ純一は腕時計に目をやり、気づかれないほどわずかに眉をひそめた。しかし、すぐにその表情を消した。「もちろんいいさ。でも、ちゃんと暖かい格好をしないと。外は少し冷えるからな」

そう言って純一は立ち上がると、クローゼットから優里の上着を取り出し、自ら広げてみせた。

そして、彼女に着せてやった。

さらに、床にかがみこんで、靴まで履かせてあげた。

そのすべてが、あまりに自然で、思いやりに満ちていた。まるで、本当に非の打ちどころのない夫であるかのように。

一方うつむいた純一の横顔を見つめていると、優里の胸の奥が鈍く痛んだ。

まだ起業したばかりで、狭いアパートに住んでいた頃を思い出すと、自分が39度の熱を出した時も、純一はこうしてベッドのそばにかがみこんで靴を履かせてくれた。そして、病院までの2キロの道のりを、ずっとおぶって歩いてくれたのだ。

あの頃の彼の瞳には、自分しか映っていなかった。

靴を履かせ終え、純一が優里を支え起こそうとした、その時。突然、彼のスマホが鳴った。

純一はスマホを取り出して画面を一瞥すると、その表情が瞬時に変わった。

そこには、優里が今まで一度も見たことのない、焦りと緊張が浮かんでいた。

「ちょっと、電話に出てくる」

純一は優里の手を放すと、足早に窓際へ向かった。そして彼女に背を向け、声をひそめて話し始めた。「もしもし……ああ、わかってる。すぐに行くから……落ち着いて」
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