《元夫の後悔をよそに、天才妻は御曹司と溺愛婚》全部章節:第 141 章 - 第 150 章

442 章節

第141話

海斗に誘うような視線を向けていた凛。そして、木桶の中で大粒の汗を流し、唇を噛みしめて涙をこらえる凛の姿。力いっぱい桶を掴む両手には、美しい筋肉の筋が浮かび上がっていた。彼女は、あんなに華奢に見えるのに。とりわけ、ゆったりとした白い服に身を包み、籐椅子に腰掛ける姿は印象的だった。今にも風にさらわれてしまいそうなほど華奢なのに、瞳の奥には強い意志の光が宿り、決して屈しない芯の強さを感じさせた。どんな凛の姿も、彼の頭の中から一晩中消えることはなかった。冷水のシャワーを何度も浴びても、体の火照りはずっと引かず、結局、一睡もできなかったのだ。だから今、あんな減らず口ばかり叩く智也なんかに会うのは、面倒臭い以外の何ものでもない。拓海はくるりと向きを変え、社長室を後にした。デスクでは、理央が昨夜の詳細を恵に語っていた。熱の入った口ぶりで、特に海斗がいかにして凛の窮地を救ったかという英雄的なエピソードを強調している。恵も凛の施設から送られてきた特産品を食べながら、その話を面白そうに聞いていた。そして、時折理央の手も伸びてきて、一緒につまんでいる。拓海が通りかかると、恵は彼にもその特産品を差し出した。「食べてみてよ。あ、でも全部食べちゃ駄目だからね。てか、凛さんはいつ帰ってくるの?」「午後からは出社するはずだよ」と拓海は答えた。すると恵が心配そうに「もう少しゆっくり休めばいいのにね」と呟く。「凛さんはあと2週間で退職するんだから、休みなんていくらでもとれるよ」と理央が言った。「それもそっか」と恵が頷く。そして、好奇心に目を輝かせながら小声で聞いた。「凛さんが辞めちゃったら、竹内社長はどうなっちゃうんだろうね?」理央は唇をきゅっと結ぶ。「分からない」社長室から海斗が立ち上がる気配を感じた拓海は、二人に警告した。「おしゃべりは終わりだ。昼食にしよう」会話を続けながら、二人は食堂へと移動していった。一方、拓海も社員食堂で海斗の横に座り、無言で食事を済ませた。食べ終える頃、海斗が不意に尋ねてきた。「凛さんは何時に着くんだ?」「午後の始業時間なので、2時半にはくると思いますよ」海斗は一瞬だけ眉を寄せたが、すぐに表情を緩めて「そうか」とだけ呟いた。真意は読み取れない。食事を終えてオフィスに戻る。拓
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第142話

「ああ」電話を切った海斗が顔をあげると、ちょうど凛がオフィスへ出勤してきたのが見えた。ベージュの柔らかな長袖のブラウス。ゆるやかに垂れた襟元が柔らかな陰影を描き、その下からはくっきりとした鎖骨がのぞいている。同系色のリネンのロングスカートは歩くたびに裾がゆるやかに揺れ、腰に結ばれた細いダークブラウンのベルトが、すらりとした長身を引き立てていた。片腕にオリーブ色のコートを掛け、もう片方の手には二つの茶封筒。耳にかけた髪の間から覗く整った顔立ちと銀縁眼鏡が、彼女特有の知的な魅力を際立たせている。凛が前かがみになり、拓海と恵の机へ差し入れを置いた時、絹のような黒髪がさらりと流れた。午後2時半の柔らかい日差しが、彼女の髪を黄金色に輝かせる。不意に、凛が視線を上げて彼を見た。海斗は、自分の鼓動が速まるのを感じた。鼓動が太鼓のように胸に響く。思わず息を呑んだ。凛を見つめる瞳に、次第に抑えきれない情熱が宿っていく。「辛いものが苦手かもしれないって心配だったから、少ししか持ってきてなかったの。もし気に入ったら、言ってね。今度実家に帰る時に、また持ってくるから」と、凛が理央に言う。「ありがとう!」理央が愛らしいエクボを見せて笑った。凛は自分のデスクに戻ると、コートを椅子に掛けて腰を下ろした。パソコンを開いた途端、海斗からメッセージが届く。【社長室へ来い】【すぐに行きます】凛は書き終えていた反省文を手に、ノックをして入室した。「竹内社長、約束の反省文をお持ちしました」海斗は、書かれた内容を見て一瞬動きを止めた。その美しい字には、彼女の強い芯を感じさせる強さがある。読み込むと、ちょうど800字の誠実な文章だった。やはり凛は、どんなことにも真摯に取り組む人のようだ。「ああ」海斗は書類を傍らに置き、手を組んで彼女を見つめた。「昨夜の件だが、タケウチ・ホテル側からケジメをつける」「昨夜の件は、タケウチ・ホテルとは無関係です」「お前はタケウチ・ホテルでひどい目に遭ったんだ」自分の父が胡桃を釈放したことを、海斗は口にできなかったので、現状、彼自身にできる精一杯の償いを提案する。「谷口グループからの賠償金と、タケウチ・ホテルからの見舞金を今日中に振り込むよ」ペンと真っ白な紙を凛の方へ差し出した。「
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第143話

一分後、返信があった。【タケウチ・ホテルは示談金を支払うだけで、それ以上の追及はしないとのことだ】なるほど、そういうことか。凛はすぐにピンときた。結局は、自分と谷口家の身内の揉め事なのだ。凛は一言だけ返信する。【分かりました】海斗はその返事を凝視していた。どう読んでも納得がいかず、じわじわと苛立ちが募る。終業時刻になり、上着を着て足早に去っていく凛の姿が目に入った。それを見て、彼の心境はますます複雑になった。結局、その【分かりました】という部分のみをスクリーンショットし、日和に送る。【これはどういう意味だ?不満があるのか?】日和は兄に呆れ返った。意味を理解するのには、文脈を読まなければいけないのに、たった一言だけを送ってくるなんて。無理難題もいいところだ。そもそも、意味なんていくらでも推測できる。日和から送られてきた白目をむいたスタンプを見て、海斗はそれ以上聞くのを諦めた。続けて日和からメッセージが届いた。【お父さんが今日、帰ってきて一緒にご飯を食べようって言ってたよ】【忙しい】と、海斗は即答で断った。日和はさらに続ける。【二人とも何なの?お父さんが何かお兄ちゃんのことを怒らせたの?】【忙しいんだ。帰って片付けもあるから】凛の荷物の中にあった、濡れてしまったスケッチブックと手紙を乾かさなければならない。海斗は立ち上がり、下へ降りて行った。地下駐車場から車を出そうとした時、智也が凛の手を無理やり引いて車に乗せるのが見えた。凛の手首は赤く腫れあがっている。海斗が車の窓を下ろした時には、もう凛が強引に乗せられ、そのまま車は走り去ってしまっていた。海斗の顔から表情が消えた。車内の温度も、数度下がったような張り詰めた空気に変わる。「追え」「承知しました」と、運転手は思わず身震いをした。時を同じくして、凛は智也を問い詰めていた。「一体、何がしたいの?」「それはこっちの台詞だ」と、疲れ切った顔で智也は言い返した。「調査の結果だって、胡桃は無関係ということになったし、タケウチ・ホテルも追及をやめたのに、どうしてお前だけ胡桃を許してやれないんだ?お前が訴えを取り下げない限り、胡桃は傷害事件の犯人扱いされたままなんだぞ?」「胡桃とは関係ない?じゃあ、お酒に薬を入れた犯人はどこに行った
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第144話

「凛、どうすれば納得してくれるんだ?お前が言ってくれれば、望みはすべて叶えてやるからさ」智也の声は、昔と変わらずとても優しかった。智也は凛の手を握った。振り払おうとする凛を無視して、力強くその手を握り続ける。「唐沢先生が、なんでお前にその名前をつけてくれたか覚えてるか?唐沢院長は、お前が凛とした明るい未来を歩めるようにと願って、この名前をつけてくれたって、お前が言ってたんじゃないか。俺だって同じだ。俺が今してることは全て、お前と俺の未来のためなんだ」凛を育ててくれた院長先生は唐沢柑奈(からさわ かんな)といい、子どもたちに素敵な名前をつけてくれていた。そして、「凛」という名前には「凛とした未来を歩めるように」という願いが込められている。また、「凛」という漢字を使ったのも、一人の女性として「筋の通った、清らかな美しさがある人になってほしい」という、凛が社会で負けないようにと考えた、柑奈なりのエールだった。これらの名前の由来は、智也が凛と共に施設を訪れた際に、柑奈が智也に話していたものだった。当時、智也は微笑んで凛に言っていた。「お前の名前には、最高の願いが込められているんだな。きっと素敵な未来が待っているはずだよ」昔のことを思い返せば返すほど、今との落差が際立ち、胸の奥が重く沈む。凛は息苦しさを覚えながら黙っていたが、智也はなおも彼女を説得し続けた。「だから、もう昨日のことは水に流さないか?運よく大事にはならなかったし、俺だってそれ相応の埋め合わせはする。だから、すぐに警察への告発を取り下げて、戻ったら胡桃に謝ってくれ……」凛は勢いよく顔を上げた。この男は、今なんと言った?凛の鋭い視線に、智也は口元を歪ませた。自分の要求が身勝手だと、自分でも分かっているのだろう。「凛、今回のことは胡桃には関係ないんだから、謝るべきなのはお前の方だろ?それに、お前が頭を下げない限り、うちの両親はますますお前に悪い印象を持つだけだ。俺たちが付き合い始めて、結婚した頃から、両親はずっと反対気味だっただろ?お前の家庭環境や仕事のことも快く思っていなかったし、これまでも些細なことで不満を口にしていた。それに前、胡桃が怪我をした件もあるし、今回だって胡桃が警察沙汰になった。両親だって、いつまでも我慢できるわけじゃないんだ。俺たちはこ
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第145話

「はい」と運転手は言うや否や、アクセルを踏み込み、車が加速した。智也の車に車体を並べる。窓を開け、海斗は凛を見ると、視線で合図を送った。凛も何かを察したようだ。その瞬間、海斗の車がそのまま追い越した。凛が座り直した瞬間、智也の車が急ブレーキをかけた。バンッという硬い衝撃音が耳を打つ。二台の高級車が激しく衝突した。智也と凛は、同時に前へ投げ出された。智也は何とか踏ん張り、片手で凛を抱え込んで支える。凛も頭を抱え、身を丸めて自分を守った。幸い、怪我はなかった。ただ頭が少しふらつき、耳鳴りがしている。「一体、どういうことだ!」智也は運転手を怒鳴りつけた。「谷口社長、車がわざと突っ込んできたんです」と運転手が振り返る。智也と凛は前を見つめた。大破した車のドアを蹴り開け、海斗が出てきた。ゆっくりとこちらへ歩いてくる。それはまるで、神が地上に下りていくようだった。海斗は凛が座っていた方に回ると、車のドアを開けた。放心状態の凛を、彼は迷わず横抱きにする。驚きでしばらく固まっていた智也だったが、慌てて凛を取り戻そうと手を伸ばした。しかしそれも叶わず、海斗が凛を抱えたまま、もう片方の手で静かにドアを閉めた。車内に取り残された智也。「竹内社長!」智也は海斗の名前を叫びながら、自分の妻が道端に下ろされるのを見て、すぐさま車を降りようとした。すると、海斗の運転手がすかさず割り込んできた。「谷口社長、申し訳ありません。こちらの不注意で、ぶつかってしまい……保険にしますか?それとも示談になさいますか?」「どけっ!」「まあまあ、そうおっしゃらずに。保険だと手続きに時間がかかりますし、示談にしましょうか……」運転手はわざとらしく時間を稼いだ。海斗は地面に下ろした凛に、険しい表情で言い放つ。「なぜ、あんな無茶なことをしようとしたんだ!」「それは……」「黙れ」海斗は凛に言い訳の機会も与えなかった。その瞳は恐ろしいほど暗く澱んでいる。凛が路上を見ると、二台の高級車はどちらも無残な姿になっていた。「竹内社長、車壊れちゃいましたね」「そんなことはどうだっていい。車よりも……」君の方が大事?海斗はぐっと言葉を飲み込んだ。凛に怪我がないか、全身を念入りにチェックする。そんな
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第146話

「そもそも、そんなこと聞いてどうするんですか?」海斗は隣の凛をちらりと見た。冷たい風に吹かれた彼女の髪は少し乱れ、鼻先がほんのりと赤くなっている。すかさず凛の反対側に回り、海斗は風を遮るように立った智也の目に、明らかな怒りの色が浮かぶ。「竹内社長。竹内グループのトップが他人の妻を強奪なんてニュースが流れてもいいんですか?たとえご自身の評判は気になさらなくても、会社の評判となれば、そうはいかないですよね?」海斗がふっと笑った。それは、何かを知っている者だけが浮かべるような意味深な笑みだった。どうやら、智也は自分たちの離婚について全く知らないらしい。女が黙って去ることを選ぶほど心を冷ましてしてしまうなんて。智也という男は、つくづく救いようがないな。「凛さんがこれからもずっと、あなたの妻でいると思っているんですか?」海斗がそう言った瞬間、凛の瞳が微かに揺れた。「竹内社長」凛は制止の意味を込めて、海斗の名前を呼んだ。「なんだ?何か間違ったことを言ったか?世間は谷口社長が既婚者だなんて知らないし、当然、君という妻の存在を知るはずもない。でも、谷口社長にパートナーがいることは、皆が知っている。なぜなら、あの交流会の日に小林という女が、ずっとそばにいたからな。それに比べて、君は私の秘書でいる方が、谷口社長の妻であることよりも、ずっと堂々としていられるんじゃないのか?谷口社長とあの女の親密ぶりを見る限り、いずれ正式なパートナーとして紹介される日が来ても不思議ではないだろ?」海斗は視線を智也へと戻した。「だからどうして、凛さんがずっと自分の奥さんでいると思っているのか不思議でしてね?」それは確信に満ちた口調だった。智也は力なく拳を握り締め、低く呟いた。「竹内社長。残念ですが、凛は一生自分の妻ですので」「そうですか?」海斗は挑戦的に笑った。「では、奥様気取りのあの方はどうするんですか?」「竹内社長!」智也は息を呑んだ。「言葉には気をつけてください。彼女はただの友人ですから。凛、そうだよな?」智也は自分自身が完璧に騙し通せていると信じているらしい。既に4年も、こうして隠し通してきたのだから。「知ってるわ」凛は力のない表情で智也に言った。「二人はただの友達なんでしょ」智也が安堵の溜め息をついた。海斗は冷やや
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第147話

「いらない」智也は名刺を受け取らなかった。自分にも、自分の車くらい買えるだけの財力はあるし、凛の前で情けない姿を見せるわけにはいかない。「凛、本当に俺と一緒に戻らないつもりか?」「告訴は取り下げないし、胡桃にも謝らない」凛は二人の男を交互に見比べた。海斗が何を耳打ちしたのかは知らないが、あれほど頑固だった智也が突然、折れたようだった。微かに眉をひそめた智也は、少し迷った末に頷いた。「分かった。とにかく、一度一緒に帰ろう」「谷口家には帰りたくない」凛はきっぱりと拒絶した。「どうしてだ?」自分がいよいよ凛の本心が読めなくなっていくのを感じて、智也は戸惑いを隠せない。「ただ帰るだけ」「うん、帰りたくないの」問い詰められそうになった凛は、もう一度強く言い切った。「嫌なものは嫌なの」その時、海斗が車のドアを開け、傍らに立ちながら自分をじっと見つめていた。凛だって恩を仇で返すような人間ではなかった。智也が海斗を警戒していることも分かっているし、自分一人では智也に太刀打ちできないことも実感している。研究所にいた時も、プロジェクトリーダーという立場にありながら、柚葉が特任研究員という身分で勝手に介入してくるのを止められなかった。自分にできた抵抗といえば、せいぜい柚葉をコアデータに近づけないようにすることくらいだった。それだけのことで、英樹から脅迫を受けることさえあった。結局、どこへ行っても同じなのだ。組織には組織の論理があり、力を持つ者の意向が優先される。どんな世界にも、逆らえない人間というものがいる。凛が車に乗り込むと、すぐ後ろから海斗が乗り込んできて、静かにドアが閉められた。バックミラーに映る智也の姿が、みるみる小さくなっていく。「竹内社長、二回も借りを作ってしまいました」凛は海斗に向かって軽く頭を下げた。「一度や二度のお食事では、感謝の意を表せないので、何か私にできることがあれば、言ってください。なんでもしますので」「辞職しないでくれ」海斗が彼女に出した要求は、それだけだった。凛は一瞬呆気に取られたが、すぐに首を振った。「それは無理です」研究員と社長秘書、どちらを選ぶべきかは最初から決まっている。さっきまで「なんでもする」と言っていたはずが、一瞬で拒絶する変わり身の早さ。海斗は無言のまま、険しい表
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第148話

谷口家。胡桃の厄を払うため、梨花は神社で特別に清めてもらった塩を胡桃の身体に撒いていた。「凛ったら、本当に恩知らずなんだから。最後の最後になってまで、胡桃を巻き込んで困らせるなんて。まったく良心ってものがないのかしら」「凛さん、まだ告訴を取り下げてくれてないの?タケウチ・ホテルですら、怖がって私を訴えられないのに、どっからその自信が来るんだろ?」胡桃は鼻で笑った。「まっ、お兄ちゃんが許すはずがないんだけどね。だって、お兄ちゃんは私を信じてるから、凛さんに謝らせるって言ってたもん。私の前で、しっかり頭下げてもらわないと!」「いい加減にしろ」健吾が口を開いた。「凛はもう他人同然だ。謝罪させるだけでいいだろ?もうこれ以上深入りはするな」今朝、凛の本心を聞かされた健吾は、内心穏やかではなかった。凛がこのままこの家にしがみつき、いつまでも離婚に応じないのではないか……そうなれば、息子の将来まで台無しになりかねないと危惧していたのだ。胡桃は唇を尖らせたが、健吾が「もう家族じゃない」と言ったことで、満足げに表情を緩める。「ねえ、お父さんとお母さんも思うでしょ?凛さんなんて私たちの家族に相応しくない。柚葉さんこそ、お兄ちゃんのお嫁さんにぴったり。そうだよね?」健吾は頷いた。「ああ。柚葉は家柄も経歴も申し分なく、上品な振る舞いも身につけている」梨花も嬉しそうに笑う。「ええ。智也に相応しい相手だわ。これまで4年も凛のような格下の女に身の程知らずな夢を見させたんだから、もう終わりにしていいのよ」「でも、お兄ちゃんがなかなか離婚しようとしなくて。柚葉さんが戻ってきてもう1ヶ月も経つのに、ちっとも動きがないんだよ」胡桃は腕を組んでソファに深く腰かけた。「何もしないお兄ちゃんがいけないから、私が手を打つしかなかったの。もう!本当、腹が立つ。強力な薬を盛ったのに、凛さんのやつ、気絶するふりするなんて。おまけにバスルームに鍵をかけて立てこもったせいで、こっちが手配した男はただ水浸しの床を見て、帰ってっちゃったんだから」胡桃はひどく悔しかった。「柚葉さんにお兄ちゃんを現場へ連れて行ってもらったんだから、尻軽な凛さんだと思えば、離婚なんて一瞬で決まるはずだったのに。それなのにさ……」バンッ。玄関のドアが乱暴に押し開けられた。三人が
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第149話

「お、お兄ちゃん、私はただ……」胡桃は勢いに任せて叫んだ。「凛さんとお兄ちゃんに別れて欲しかったの!凛さんなんてお兄ちゃんに全然釣り合わないんだもん。それに、お兄ちゃんだって柚葉さんが好きなんでしょ?なのに、どうして離婚しないの?どうして柚葉さんと結婚しないの?私たち家族はみんな凛さんのことが大嫌いなんだから、早く追い出してよ!」梨花は胡桃を必死に制した。もし、智也が怒り狂えば、誰にも止められない。「胡桃、誰がそんなことをしろって言った?」智也は胡桃を引っ張り出し、その首元をぐっと掴んだ。胡桃は全身を震わせる。「お、お兄ちゃん、ご、ごめんなさい。謝るから許して!」「胡桃、もし本当に凛に何かあったらどうするんだ?」「なら離婚すればいいじゃない」「あいつの人生はどうなるんだ!」智也は怒りで唇を震わせた。健吾が止めに入ろうとしたが、智也の鋭い眼差しに制された。胡桃は負けじと言い返す。「もう4年も結婚生活を続けたんだから、十分でしょ?それに、元々問題があるんだし、今更あの人の評判なんてどうでもいいじゃん」「胡桃」健吾が胡桃を嗜める。確かに、胡桃は少し言い過ぎだった。智也は胡桃に平手打ちを一発叩き込みたかったが、結局できなかった。ついさっきまで凛に「胡桃を許してくれ」と言っていた自分自身が、どれほど無様だったか思い知る。昨晩の凛の様子を思い出すだけで、体が震え、恐ろしさが込み上げてきた。もし本当に凛が、何処の馬の骨とも知れない男に体を汚されていたら……想像もしたくない。そして自分は、一生後悔しても後悔しきれないだろう。健吾の背後に隠れた胡桃がまた口を開いた。「結局無事だったんでしょ?今こうして平気なんだから、私を訴えるなんてやりすぎだと思わない?」智也はテーブルの上の温かい料理と、どこか他人事のような胡桃を見つめて言った。「凛が起訴した件、もう俺は何も口出ししない」「何よ!」胡桃が目を剥く。「え?お兄ちゃん、まだあの女を説得できてないの?あんなに、お兄ちゃんのことが好きだったのに?」「黙れ」必死に怒りを抑え込んでいる智也の首には、青筋が浮かんでいた。「凛が家に戻りたくないわけだ」「戻りたくないなら、それでいいじゃない。もともと、あの子は私たちの家族じゃないんだから」梨花も余裕綽々だった。心
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第150話

「わかった」健吾がそう言った。智也は胡桃を睨みつけ、上着を手に取ると、そのまま出ていった。胡桃は不安げに尋ねた。「お父さん、お母さん。お兄ちゃん、凛さんの肩を持って私を追い詰めたりしないよね?」「まさか」梨花は胡桃の手をそっと握った。「お兄ちゃんはずっと家族の味方だから」「でも、お兄ちゃん。凛さんのことも『家族だ』って言ってたよね?」「それでも、あなたは智也の妹。安心しなさい。あの子だって腹が立ってるだけだから。智也の気分が落ち着いたら、少し機嫌をとりにいけばいいのよ」「どうやって機嫌を取ればいいの?さっきは殺されそうになったんだよ」胡桃がふてくされて言った。しかし、ふと目を輝かせる。「機嫌を取るのは、私じゃなくてもいいじゃん!柚葉さんが一緒なら、お兄ちゃんも機嫌を直してくれるはず」胡桃はすぐ柚葉に電話をかけた。「柚葉さん。お兄ちゃんが例のことを知っちゃって。怒って家を飛び出して、晩御飯もいらないって言ってるの。申し訳ないんだけど、お兄ちゃんの機嫌を取るのを手伝ってくれない?」でも、安心して。私は何も言ってないから」「何も言ってないって何を?」梨花が胡桃に訊ねる。胡桃は首を振って微笑んだ。「なんでもない」書斎に籠もって凛の携帯に電話をかけていた健吾だったが、その電話は全く繋がらない。おそらく智也が電話をかけているのだろう。仕方なくライン通話に切り替えた。すると、2回目でようやく凛が出た。「さっきは電話が繋がらなかったが、智也と電話をしていたのか?」健吾の冷たい尋問に、凛も同じトーンで返す。「いいえ。電話なんかしていません。彼とは離婚するんですから、もう二度と関わるつもりもありませんし。安心してください」「そうか」健吾は少しだけ安心した。「前に、慰謝料も何もいらないと言っていたよな。本当に一銭も要求していないか確認が必要だから、離婚協議書の内容を見せろ。もし何か一つでも要求していたら、離婚届の件はなかったことにするからな」「少し待ってくださいね」凛は画像を一枚送った。智也は老眼鏡をかけて拡大したが、間違いなく、財産分与など何も求めていない。「凛。お前も少しは分かっていたんだな。まあ、うちが4年も面倒を見てやったんだから、あたりまえっちゃ当たり前だがな」凛はふっと笑った。「用件はそれだけです
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