LOGIN「お、お兄ちゃん、私はただ……」胡桃は勢いに任せて叫んだ。「凛さんとお兄ちゃんに別れて欲しかったの!凛さんなんてお兄ちゃんに全然釣り合わないんだもん。それに、お兄ちゃんだって柚葉さんが好きなんでしょ?なのに、どうして離婚しないの?どうして柚葉さんと結婚しないの?私たち家族はみんな凛さんのことが大嫌いなんだから、早く追い出してよ!」梨花は胡桃を必死に制した。もし、智也が怒り狂えば、誰にも止められない。「胡桃、誰がそんなことをしろって言った?」智也は胡桃を引っ張り出し、その首元をぐっと掴んだ。胡桃は全身を震わせる。「お、お兄ちゃん、ご、ごめんなさい。謝るから許して!」「胡桃、もし本当に凛に何かあったらどうするんだ?」「なら離婚すればいいじゃない」「あいつの人生はどうなるんだ!」智也は怒りで唇を震わせた。健吾が止めに入ろうとしたが、智也の鋭い眼差しに制された。胡桃は負けじと言い返す。「もう4年も結婚生活を続けたんだから、十分でしょ?それに、元々問題があるんだし、今更あの人の評判なんてどうでもいいじゃん」「胡桃」健吾が胡桃を嗜める。確かに、胡桃は少し言い過ぎだった。智也は胡桃に平手打ちを一発叩き込みたかったが、結局できなかった。ついさっきまで凛に「胡桃を許してくれ」と言っていた自分自身が、どれほど無様だったか思い知る。昨晩の凛の様子を思い出すだけで、体が震え、恐ろしさが込み上げてきた。もし本当に凛が、何処の馬の骨とも知れない男に体を汚されていたら……想像もしたくない。そして自分は、一生後悔しても後悔しきれないだろう。健吾の背後に隠れた胡桃がまた口を開いた。「結局無事だったんでしょ?今こうして平気なんだから、私を訴えるなんてやりすぎだと思わない?」智也はテーブルの上の温かい料理と、どこか他人事のような胡桃を見つめて言った。「凛が起訴した件、もう俺は何も口出ししない」「何よ!」胡桃が目を剥く。「え?お兄ちゃん、まだあの女を説得できてないの?あんなに、お兄ちゃんのことが好きだったのに?」「黙れ」必死に怒りを抑え込んでいる智也の首には、青筋が浮かんでいた。「凛が家に戻りたくないわけだ」「戻りたくないなら、それでいいじゃない。もともと、あの子は私たちの家族じゃないんだから」梨花も余裕綽々だった。心
谷口家。胡桃の厄を払うため、梨花は神社で特別に清めてもらった塩を胡桃の身体に撒いていた。「凛ったら、本当に恩知らずなんだから。最後の最後になってまで、胡桃を巻き込んで困らせるなんて。まったく良心ってものがないのかしら」「凛さん、まだ告訴を取り下げてくれてないの?タケウチ・ホテルですら、怖がって私を訴えられないのに、どっからその自信が来るんだろ?」胡桃は鼻で笑った。「まっ、お兄ちゃんが許すはずがないんだけどね。だって、お兄ちゃんは私を信じてるから、凛さんに謝らせるって言ってたもん。私の前で、しっかり頭下げてもらわないと!」「いい加減にしろ」健吾が口を開いた。「凛はもう他人同然だ。謝罪させるだけでいいだろ?もうこれ以上深入りはするな」今朝、凛の本心を聞かされた健吾は、内心穏やかではなかった。凛がこのままこの家にしがみつき、いつまでも離婚に応じないのではないか……そうなれば、息子の将来まで台無しになりかねないと危惧していたのだ。胡桃は唇を尖らせたが、健吾が「もう家族じゃない」と言ったことで、満足げに表情を緩める。「ねえ、お父さんとお母さんも思うでしょ?凛さんなんて私たちの家族に相応しくない。柚葉さんこそ、お兄ちゃんのお嫁さんにぴったり。そうだよね?」健吾は頷いた。「ああ。柚葉は家柄も経歴も申し分なく、上品な振る舞いも身につけている」梨花も嬉しそうに笑う。「ええ。智也に相応しい相手だわ。これまで4年も凛のような格下の女に身の程知らずな夢を見させたんだから、もう終わりにしていいのよ」「でも、お兄ちゃんがなかなか離婚しようとしなくて。柚葉さんが戻ってきてもう1ヶ月も経つのに、ちっとも動きがないんだよ」胡桃は腕を組んでソファに深く腰かけた。「何もしないお兄ちゃんがいけないから、私が手を打つしかなかったの。もう!本当、腹が立つ。強力な薬を盛ったのに、凛さんのやつ、気絶するふりするなんて。おまけにバスルームに鍵をかけて立てこもったせいで、こっちが手配した男はただ水浸しの床を見て、帰ってっちゃったんだから」胡桃はひどく悔しかった。「柚葉さんにお兄ちゃんを現場へ連れて行ってもらったんだから、尻軽な凛さんだと思えば、離婚なんて一瞬で決まるはずだったのに。それなのにさ……」バンッ。玄関のドアが乱暴に押し開けられた。三人が
「いらない」智也は名刺を受け取らなかった。自分にも、自分の車くらい買えるだけの財力はあるし、凛の前で情けない姿を見せるわけにはいかない。「凛、本当に俺と一緒に戻らないつもりか?」「告訴は取り下げないし、胡桃にも謝らない」凛は二人の男を交互に見比べた。海斗が何を耳打ちしたのかは知らないが、あれほど頑固だった智也が突然、折れたようだった。微かに眉をひそめた智也は、少し迷った末に頷いた。「分かった。とにかく、一度一緒に帰ろう」「谷口家には帰りたくない」凛はきっぱりと拒絶した。「どうしてだ?」自分がいよいよ凛の本心が読めなくなっていくのを感じて、智也は戸惑いを隠せない。「ただ帰るだけ」「うん、帰りたくないの」問い詰められそうになった凛は、もう一度強く言い切った。「嫌なものは嫌なの」その時、海斗が車のドアを開け、傍らに立ちながら自分をじっと見つめていた。凛だって恩を仇で返すような人間ではなかった。智也が海斗を警戒していることも分かっているし、自分一人では智也に太刀打ちできないことも実感している。研究所にいた時も、プロジェクトリーダーという立場にありながら、柚葉が特任研究員という身分で勝手に介入してくるのを止められなかった。自分にできた抵抗といえば、せいぜい柚葉をコアデータに近づけないようにすることくらいだった。それだけのことで、英樹から脅迫を受けることさえあった。結局、どこへ行っても同じなのだ。組織には組織の論理があり、力を持つ者の意向が優先される。どんな世界にも、逆らえない人間というものがいる。凛が車に乗り込むと、すぐ後ろから海斗が乗り込んできて、静かにドアが閉められた。バックミラーに映る智也の姿が、みるみる小さくなっていく。「竹内社長、二回も借りを作ってしまいました」凛は海斗に向かって軽く頭を下げた。「一度や二度のお食事では、感謝の意を表せないので、何か私にできることがあれば、言ってください。なんでもしますので」「辞職しないでくれ」海斗が彼女に出した要求は、それだけだった。凛は一瞬呆気に取られたが、すぐに首を振った。「それは無理です」研究員と社長秘書、どちらを選ぶべきかは最初から決まっている。さっきまで「なんでもする」と言っていたはずが、一瞬で拒絶する変わり身の早さ。海斗は無言のまま、険しい表
「そもそも、そんなこと聞いてどうするんですか?」海斗は隣の凛をちらりと見た。冷たい風に吹かれた彼女の髪は少し乱れ、鼻先がほんのりと赤くなっている。すかさず凛の反対側に回り、海斗は風を遮るように立った智也の目に、明らかな怒りの色が浮かぶ。「竹内社長。竹内グループのトップが他人の妻を強奪なんてニュースが流れてもいいんですか?たとえご自身の評判は気になさらなくても、会社の評判となれば、そうはいかないですよね?」海斗がふっと笑った。それは、何かを知っている者だけが浮かべるような意味深な笑みだった。どうやら、智也は自分たちの離婚について全く知らないらしい。女が黙って去ることを選ぶほど心を冷ましてしてしまうなんて。智也という男は、つくづく救いようがないな。「凛さんがこれからもずっと、あなたの妻でいると思っているんですか?」海斗がそう言った瞬間、凛の瞳が微かに揺れた。「竹内社長」凛は制止の意味を込めて、海斗の名前を呼んだ。「なんだ?何か間違ったことを言ったか?世間は谷口社長が既婚者だなんて知らないし、当然、君という妻の存在を知るはずもない。でも、谷口社長にパートナーがいることは、皆が知っている。なぜなら、あの交流会の日に小林という女が、ずっとそばにいたからな。それに比べて、君は私の秘書でいる方が、谷口社長の妻であることよりも、ずっと堂々としていられるんじゃないのか?谷口社長とあの女の親密ぶりを見る限り、いずれ正式なパートナーとして紹介される日が来ても不思議ではないだろ?」海斗は視線を智也へと戻した。「だからどうして、凛さんがずっと自分の奥さんでいると思っているのか不思議でしてね?」それは確信に満ちた口調だった。智也は力なく拳を握り締め、低く呟いた。「竹内社長。残念ですが、凛は一生自分の妻ですので」「そうですか?」海斗は挑戦的に笑った。「では、奥様気取りのあの方はどうするんですか?」「竹内社長!」智也は息を呑んだ。「言葉には気をつけてください。彼女はただの友人ですから。凛、そうだよな?」智也は自分自身が完璧に騙し通せていると信じているらしい。既に4年も、こうして隠し通してきたのだから。「知ってるわ」凛は力のない表情で智也に言った。「二人はただの友達なんでしょ」智也が安堵の溜め息をついた。海斗は冷やや
「はい」と運転手は言うや否や、アクセルを踏み込み、車が加速した。智也の車に車体を並べる。窓を開け、海斗は凛を見ると、視線で合図を送った。凛も何かを察したようだ。その瞬間、海斗の車がそのまま追い越した。凛が座り直した瞬間、智也の車が急ブレーキをかけた。バンッという硬い衝撃音が耳を打つ。二台の高級車が激しく衝突した。智也と凛は、同時に前へ投げ出された。智也は何とか踏ん張り、片手で凛を抱え込んで支える。凛も頭を抱え、身を丸めて自分を守った。幸い、怪我はなかった。ただ頭が少しふらつき、耳鳴りがしている。「一体、どういうことだ!」智也は運転手を怒鳴りつけた。「谷口社長、車がわざと突っ込んできたんです」と運転手が振り返る。智也と凛は前を見つめた。大破した車のドアを蹴り開け、海斗が出てきた。ゆっくりとこちらへ歩いてくる。それはまるで、神が地上に下りていくようだった。海斗は凛が座っていた方に回ると、車のドアを開けた。放心状態の凛を、彼は迷わず横抱きにする。驚きでしばらく固まっていた智也だったが、慌てて凛を取り戻そうと手を伸ばした。しかしそれも叶わず、海斗が凛を抱えたまま、もう片方の手で静かにドアを閉めた。車内に取り残された智也。「竹内社長!」智也は海斗の名前を叫びながら、自分の妻が道端に下ろされるのを見て、すぐさま車を降りようとした。すると、海斗の運転手がすかさず割り込んできた。「谷口社長、申し訳ありません。こちらの不注意で、ぶつかってしまい……保険にしますか?それとも示談になさいますか?」「どけっ!」「まあまあ、そうおっしゃらずに。保険だと手続きに時間がかかりますし、示談にしましょうか……」運転手はわざとらしく時間を稼いだ。海斗は地面に下ろした凛に、険しい表情で言い放つ。「なぜ、あんな無茶なことをしようとしたんだ!」「それは……」「黙れ」海斗は凛に言い訳の機会も与えなかった。その瞳は恐ろしいほど暗く澱んでいる。凛が路上を見ると、二台の高級車はどちらも無残な姿になっていた。「竹内社長、車壊れちゃいましたね」「そんなことはどうだっていい。車よりも……」君の方が大事?海斗はぐっと言葉を飲み込んだ。凛に怪我がないか、全身を念入りにチェックする。そんな
「凛、どうすれば納得してくれるんだ?お前が言ってくれれば、望みはすべて叶えてやるからさ」智也の声は、昔と変わらずとても優しかった。智也は凛の手を握った。振り払おうとする凛を無視して、力強くその手を握り続ける。「唐沢先生が、なんでお前にその名前をつけてくれたか覚えてるか?唐沢院長は、お前が凛とした明るい未来を歩めるようにと願って、この名前をつけてくれたって、お前が言ってたんじゃないか。俺だって同じだ。俺が今してることは全て、お前と俺の未来のためなんだ」凛を育ててくれた院長先生は唐沢柑奈(からさわ かんな)といい、子どもたちに素敵な名前をつけてくれていた。そして、「凛」という名前には「凛とした未来を歩めるように」という願いが込められている。また、「凛」という漢字を使ったのも、一人の女性として「筋の通った、清らかな美しさがある人になってほしい」という、凛が社会で負けないようにと考えた、柑奈なりのエールだった。これらの名前の由来は、智也が凛と共に施設を訪れた際に、柑奈が智也に話していたものだった。当時、智也は微笑んで凛に言っていた。「お前の名前には、最高の願いが込められているんだな。きっと素敵な未来が待っているはずだよ」昔のことを思い返せば返すほど、今との落差が際立ち、胸の奥が重く沈む。凛は息苦しさを覚えながら黙っていたが、智也はなおも彼女を説得し続けた。「だから、もう昨日のことは水に流さないか?運よく大事にはならなかったし、俺だってそれ相応の埋め合わせはする。だから、すぐに警察への告発を取り下げて、戻ったら胡桃に謝ってくれ……」凛は勢いよく顔を上げた。この男は、今なんと言った?凛の鋭い視線に、智也は口元を歪ませた。自分の要求が身勝手だと、自分でも分かっているのだろう。「凛、今回のことは胡桃には関係ないんだから、謝るべきなのはお前の方だろ?それに、お前が頭を下げない限り、うちの両親はますますお前に悪い印象を持つだけだ。俺たちが付き合い始めて、結婚した頃から、両親はずっと反対気味だっただろ?お前の家庭環境や仕事のことも快く思っていなかったし、これまでも些細なことで不満を口にしていた。それに前、胡桃が怪我をした件もあるし、今回だって胡桃が警察沙汰になった。両親だって、いつまでも我慢できるわけじゃないんだ。俺たちはこ







